第1-3話:男女、交約
「あ、そういえばさ、朝陽、覚えてる?」
「覚えてるって……何を?」
ちょうど教室に入るタイミングで主から尋ねられ、朝陽はドアを開ける手を止め彼女を見、首を傾げる。
「ん、もしかしてまた忘れちゃってた? 今日って転校生が来る日でしょ?」
「いや、それは一応覚えてるけど……それがどうかしたの? もしかして、主の知り合い、とか?」
「ううん、ドキドキするなって思ってっ!」
「小学生じゃないんだから……」
呆れたような声色で扉を開けて室内へと入っていく朝陽とそれを追う主。
「むぅー、ドキドキするものはドキドキするんだから仕方ないんですぅー! それにほら、朝陽の忘れっぽさチェックを兼ねてるんだよっ!」
「いや、忘れっぽさチェックって……何回も言ってるけど、今の僕はどちらかというと記憶力には自信がある方だからね?」
今度は振り返ることもせずに先程の呆れた調子でそう言うが、当の彼女はニコニコと笑い、頷く。
「うん、もちろんそれは知ってるよっ! 朝陽って細かいこともかなり覚えられるようになったもんねっ!」
「うーん、毎度のことながら何なんだろう、このやり取り……まあ、いいけどさ」
いつものように微妙に話が噛み合っていないような違和感を感じながらも席に着き、短く息を吐く。
そう、彼にとってこの会話は初めてではなく、数年程前から時々交わされる定型会話のようなものだ。
たしかに、幼少期の朝陽は物覚えの良い方ではなかった。そのため、当初は幼馴染がこのように『忘れっぽさチェック』をしてくれることをありがたく思っていたものだ。
しかし、忘れ癖がなくなった今でもこのやり取りが継続されていることは彼にとって鬱陶しく、当時の自分が揶揄われているような羞恥心を刺激されるのだ。
そして極めつけに、会話は決まってこのように違和感のある幕引きを迎える。
もしかすると、自分が真面目に答えようと思っているだけで相手は特に何も考えずに、いや、もしかすると何か面白い返しを求めていて話をしているからそうなるのではないか?
「それにしても、高校で転校生って珍しい気がするよね!」
朝陽がそんな仮説を立てている間に、主は彼と一つ離れた自身の机に鞄を置いて再び傍にやって来る。
「ああ、たしかに。小学生の頃は年に一回か二回くらいはどこかのクラスに転校生がやってきて大騒ぎになってたけど……そもそも、高校で転校って、試験とかもあるんだったよね?」
「うんうん、あるっぽいよ! それにほら、ウチって公立高校だからさ、色々と大変なところがあると思うんだよねー……あ、勝手なイメージだけどさ」
県によっては方針により転学者選抜が数多くの高校で行われている場合もあるが、朝陽たちの住む県についてはこれに当てはまらない。
また、高校は基本的に欠員募集という形で転校生を募集することがあるのだが、これは全ての高校で行われているわけではない。
そして、仮に行われている場合であっても、転校する生徒については事情により県外から県内へと転校する、という前提があることが通常である。
大雑把な説明ではあるが、このように一筋縄でいかないところさえ伝われば主の抱くイメージも間違ってはいないことがわかるだろう。
「うん、僕もそう思う……けど、こうやって転校してくるってことはそういう諸々を通過した人ってことだよね」
「ねっ? どんな人か気になってきたでしょ? ドキドキしてきたでしょ?」
「いや、『ねっ?』じゃないよ……」
「えー、けどさー、朝陽の後ろの席に座る人なんだよー?」
「気にはなってもどうせ数十分後くらいにはわかるんだしさ……」
太陽のように眩しい満面の笑みをパァっと浮かべながら自身を見上げる主に対して、朝陽は何とも冷めた返しをする。
これについては何の偽りもなく、転校生に対して興味は抱いていても彼女の言う『ドキドキ』は感じず、寧ろ別のことが気になってばかりいたのだ。
「ところでさ、椅子は持ってこなくて大丈夫?」
「んーん! 大丈夫だよっ!」
「それじゃ、僕の椅子を……」
「それも大丈夫! 朝陽は座っててよっ!」
主は今、朝陽の机に腕を置き、中腰の体勢になっている。
せめて椅子でも持ってくればよいのだが、『邪魔になるから』と言い、それならば自分が代わろうかと提案すると先程のような返事。
転校生の話題にはそこまで興味を抱いていない彼だが、周囲の評価や体裁のようなものは人相応に気になってしまう人間であるため、ここでも幼馴染に困らされることとなる。
「けどさ、自分だけ椅子に座ってっていうのはちょっと、こう……」
「えへへー、これって実はアタシが朝陽を見上げたいからこうしてるだけなんだー! だから、やりたくてこうしてるってワケ!」
「いや、その理由はよくわからないけど……それなら、まあ、好きにすればいいよ、もう」
毎回何かしらの理由を付けられ、結局はこのままになる。
実を言うと、体裁という点を除けば朝陽もこの状態を気に入っているので、彼女の言う理由に甘えてしまうのだ。
「そういえば、前から言うつもりだったんだけどさ、そのヘアピン、もうだいぶ古いでしょ……? そろそろ新しいのに変えた方がいいと思うけど」
現在の体勢で彼が主と話そうとするとどうしても視界に入るプラスチック製のヘアピン。
それは幼少期になけなしの小遣いを貯めて彼女へとプレゼントしたものであった。
今朝の話に出ていた主の父親云々の出来事以前から使っているものであるので、その使用年数は十年以上経っている代物であり、長持ちしているという年数は遥かに超えているはずである。
「んーん! まだ十分使えるから大丈夫だよっ! ……あ! けど、うん! 必要になったらまた朝陽にプレゼントしてもらおうかなー、なんてー……っ!」
大丈夫、と言った次の瞬間、主はハッと何かを思いついたように、いたずらっ子が悪さをする前兆のようなさぞかし愉快な声色で言う。
「うん、いいよ。僕も気になってたことだし」
「ほんとにぃ!? 約束だからね!?」
「そんな食い気味にならなくても約束するよ……必要になったら言ってね」
「うんっ! うん……っ!」
「……ふふ」
早くも宝物を貰った子供のようなキラキラとした表情を見せる主を見てたまらず笑みが漏れる。
朝陽としても自身が渡した贈り物がここまで大事に扱われているのは嬉しい。
そのため、ヘアピンが見えやすい現在の彼女の体勢は内心では気に入っているし、そうでなくとも、ただでさえ美しくも可愛らしい彼女の顔に小動物的な庇護感も宿る上目遣いは格別な可愛さを誇っている。
朝陽の身長は平均程度で断じて低くはないのだが、主の身長が女子平均に比べてかなり高いため、二人の身長差は殆どなくこのような機会は少ないのだ。
「えへへー、今からすっごく楽しみだよぉーっ! あ、もちろん! このヘアピンもすっごく大事だから、まだまだ使うけどねっ!」
「いや、別に極限まで使い倒さなくてもいいと思うけど……」
「ね、今度はアタシも一緒に選んでいいっ!? 二人でこれが似合うとかこれが可愛いとか言いながら選ぶの、絶対楽しいよっ!」
「ああ、うん、別にいいけど……」
何だか頬辺りがむず痒くなったので軽く掻いて視線を逸らす朝陽と、勢いが止まらない主。
「えへへっ! ジムトレに続いて楽しみなイベントが増えたねっ! 他にも――」
「うん、そうだね……そういえば、転校生のことだけどさ、主はどんな人が来ると思う?」
まるでデートの予定を立てる恋人同士のような雰囲気に耐えられず、朝陽は自分が切り捨てた筈の話題を再び拾い繋げる。
「えぇー!? このタイミングで言うかなーっ!? さっきは『数十分後にはわかること』だって言ってたじゃんっ! ……あっ! もしかして、照れちゃった?」
これには流石の主も頬をプックリと膨らませるが、一転してまた先程の子供のような笑みを浮かべる。
「……うん、そうだよ。流れをいきなり変えてしまったのは謝るよ。ごめんね」
「えっへっへー! そういうことなら仕方ないなぁ! 恥ずかしがり屋の朝陽に免じて許してあげよぉーっ!」
朝陽の言葉を聞き更に上機嫌になった主は先程のように饒舌に語る。
「アタシ的にはねー、女の子が来ると思うなー! そっちの方が話しやすくて嬉しいしっ!」
「そっちの方が嬉しいから来ると思うって考え方、すごいね……」
「……あっ、でもでもっ! すっごい美人な女の子が来て朝陽がその子にデレデレになったらどうしよう!?」
「別に僕がその人にデレデレしたところで何も影響はないと思うけど……」
「むっ! そんなことないよっ! 朝陽がその子の追っかけを始めたらこんな風に話す機会が減っちゃうじゃんっ!」
「僕は追っかけなんてするタイプじゃないでしょ……」
そもそも転校生の性別が女性だと確定しているわけでもないのに段々と熱がこもっていく主の弁に苦笑を浮かべながらも、彼は彼女の言う『転校生』を思い浮かべてみた。
しかし、どうしてもそれは思い浮かばず、イメージが霧散した状態となる。
正確に言うと、『美人』と聞いて主以外を思い描こうとすると霧散してしまうのだ。
「えー、そうかなー? さっきも話題がアタシから転校生の子に持っていかれちゃったしー……どうする朝陽ー? めっちゃくちゃカッコ良い銀髪美人の女の子とかが来ちゃったら!」
「いや、公立高校に銀髪美人の女の子が転校してきたら大事件だよ……」
「あははっ、流石に冗談だよーっ!」
「というか、何でただの美人じゃなくて銀髪美人なのさ……ははっ」
発言した本人すらたまらず笑い、その様子を見た朝陽もつられて笑う。
いつものように平和で楽しい朝のホームルーム前の時間が過ぎていく。