第1-2話:いつも通りの、少し違う朝
「んー、今日は良い感じに眠れたなぁ」
眠い目を擦りながらスマホのアラームを止め、半身を起こし、伸びをする。
そして速やかにベッドから出る。
これが、朝陽のいつも通りの寝起きの仕草である。
いつもと変わらないベッド、いつものように眩しい部屋の照明、毎朝聞いているアラームの音楽。
しかし、今日の彼は普段よりも幾分か気分が良かった。
「良い夢を視たからかなぁ……?」
欠伸交じりの独り言を呟きながら必要な教科書を鞄に入れ、着替えと共に抱えて食卓へと向かう。
いつも通りの、何の変哲もない朝。
「おっはよぉー朝陽ぃー! よく眠れたー?」
そして、いつもとは少し違う食卓。
「いや、何で主が当たり前のようにウチで朝ご飯を食べてるのさ……」
挨拶をするや否や、サクサクと音を立て心底美味しそうにパンを口いっぱい頬張る少女に肩を竦めつつ、向かいの席へと座る。
彼の所作や表情からは半ば諦めのような負の感情が見受けられる筈なのだが、彼女はそれを意にも解さず静かに咀嚼を繰り返す。
「……それで、今回はどうしたの」
しばらく間を置いて朝陽が問いかけると、咀嚼物をゴックンと飲み込み、少女が答える。
「んー? 特に理由は無いんだけどー……そうだなー、朝陽がちゃんと眠れてるかなって気になったから寝起き顔を見に来たっていうのは、ちょっと……ある、かも?」
「うん、理由が無いなら何よりだけどさ、何回も言ってるでしょ? 自分の体質にはすっかり慣れちゃったから大丈夫だよって」
コテンと首を傾げながら返答する相手に対し、小さく笑いながらそう言うと、自身も用意されていたパンを齧る。
やたらと酸っぱいクランベリージャムが豪快に塗られた焼き立てのパン。
酸味と苦味が特徴的な果物であるクランベリーであるが、彼の家で定番のジャムに使われているのは苦味に比べ極めて酸味が強いもので、口腔から全身へと巡っていく爽やかな酸味が朝の寝ぼけ頭にはたまらないのだ。
そして、焼き立て特有の軽やかな食感とジャムが染み込み始めたジューシーな食感の二つを楽しんでいる内に完全に覚醒していく。
朝陽の毎朝の食事であり、彼の、いや、彼だけでなく家族全員と目前の少女の大好物である。
「ああ、本当に安心したわぁ。いつもよりも早く主ちゃんが訪ねてくるからまた何かあったのかと思っちゃって」
「あはは……心配かけちゃってごめんなさい。ウチのお父さん、滅多なことじゃ体調崩さないんですけど、やっぱりそういうイメージが付いちゃいますよねぇ」
二人分のベーコンエッグとサラダを配膳しながら朝陽の母親が心底安心したように言うと、少女は困ったような表情で笑う。
「……たしかに、おじさんが体調を崩したのって十年くらい前に一回だけだね」
「あらホントね。わかってはいるけれど、昨日のことのように思い出しちゃうから……」
少女の父親、沐瑠璃 翼はとある大手携帯電話メーカーに勤務しているのだが、数年前に過労がたたり倒れたことがあった。
その際、当時はまだ小学生であった彼女が近所に住む幼馴染である朝陽の家にワンワンと大声で泣きながら頼ったことが常光地家にとって印象強い出来事なのだ。
「ちょっと恥ずかしいですけどね……あのときはかなり泣いちゃいましたから」
照れくさそうに俯く主の頭を朝陽の母が軽く撫で、豪快に笑う。
「仕方ないわよぉ! あんな状況で泣かない子どもなんているもんですか! そんなに恥ずかしがることじゃないのよ、主ちゃん!」
「えへへ……」
「あのときは僕も驚いたなぁ。おじさん、ヒーローみたいにすごく格好良かったからさ……いや、今もそう思ってるけど」
幼い子どものように撫でられ更に恥ずかしそうにする主を横目に、彼も当時の状況を思い出していた。
日本人離れした長身、筋肉質で引き締まった体躯、相応に格好がつくオールバックの髪型と、どこを取っても幼少の朝陽にとって憧れの存在であり、当時中年太りが始まっていた自身の父親と比べて落胆することも少なくなかった。
そんな憧れの存在が疲労で倒れたのだと知ったときの衝撃は計り知れないものであった。
「主ちゃんパパ、今も若々しくて格好良いものねぇ。朝陽はその年齢でウチのパパに近づいてきちゃったけど」
「それは言わなくていいよ……はぁ」
馬鹿にするように言う母親に不服の表情を一瞬だけ見せるも、それは直ちに溜息へと変わる。
わかってはいるのだ。自分の身体が引き締まっておらずだらしないことを。
決して太りすぎだというわけではないが、間違いなく太ってはいる。
昔励んでいた水泳と剣道というスポーツや武道の影響もあってかただでさえ大きめのガタイが更に強調され、『太った』という印象になっているのだ。
そして今は特に運動もしていないので、このままでは更に悪化していくだろう。
「別に朝陽はそのままでも良いと思うけどなぁー? お腹プニらせてー」
「何か悔しいからやだ……」
「えぇー……!? いつもはプニらせてくれるじゃーん……」
しょんぼりとした様子でモシャモシャとレタスを食んでいる主を見ながら、朝陽は頬の内側を軽く噛む。
主は父親だけでなく美人な母親の顔立ちの良さも受け継いでいる、パッチリと大きな瞳とツンと尖った鼻に薄い唇が特徴的な『可愛い系美少女』である。
真っ黒な髪はまるで磨かれた一つの面のように艶めいていて、しかしそれでいて一本一本が上質な糸のように独立した美しさを放っている。
更に、スタイルも並みのモデルが目ではないほどに良く、性格も太陽のように明るくみんなの人気者という非の打ち所がない存在だ。
朝陽は自身を日陰者であると考えたことはない。
しかし、彼の知る中で一番魅力的な女性である主と共に行動する度に痛感する彼女との差に恥ずかしさを覚えているのは無理もないだろう。
「……あ、プニプニお腹を触られるのが嫌ならさ! やっぱり朝陽も一緒にジムトレしようよ! 良い感じに引き締まるよぉー?」
「うーん……」
ベーコンエッグの黄身部分をフォークで軽く刺しながら投げかけられた提案に、朝陽は難色を示す。
そう、彼女のスタイルの良さは親の遺伝だけでなく、彼女自身の弛まぬ努力の成果でもあるのだ。
彼と同じ水泳部に入っていた主は高校に入ると同じように帰宅部となった。
しかし、だからといって運動量が減ったわけではなく、地道に筋トレを続けていたため体型維持だけでなく美しいスタイルを手に入れることができたのだ。
だが、朝陽はここまでわかっているのにも関わらず、難色を示す。
何故なら、別にそうまでして体型を変えたいと思っているワケではないからである。
もちろん、痩せられるのなら痩せたいが、鬼気迫るほど痩せたいワケではない。
そのくせ先程のように体型をいじられると気分を害するという自己中心的な渦の真ん中で浮かんでいる状態なのだ。
なお、これは運動云々に関わらず、何に対しても彼はその状態に陥っている。
彼の中には現在、強い目的のようなものは存在していないのだ。
「……いや、ほら、バイトもあるし」
結局はこのような言葉で会話を終わらせてしまう。
「主ちゃんだって主ちゃんママのお店の手伝いをやってるでしょ。まったく……そんなだから痩せられないのよ」
「…………じゃあ、うん、気が向いたら僕もするよ。ジムでトレーニング」
「本当に!? 約束だからね! えへへ、楽しみだねぇ! 久しぶりの一緒にトレーニング……!」
重苦しくなりかけた場の空気は朝陽の返答と主の満面の笑みで再び軽やかなものになる。
「まあ、そう言われると本当に、近い内に行きたいなって思えてくるかな……って、主! 口の端に色んなものが付いてるよ!」
「え、ホント!? 取って取ってっ! ついでに食べてもいいよっ!」
「いや、コレは流石にいらないよ……ほら、ジッとしてて」
パン屑にジャム、そして卵黄の融合体をティッシュで拭き取りながら朝陽はクスリと笑った。
「ん、ここの引っ越し作業、終わったみたいだねぇ……! あ、えっと、それよりも、朝陽の夢のことなんだけどさ……」
高校へと向かう通学路の途中、新築の家を感慨深そうな表情で見ていた主であったが、思い出したかのように朝陽の方へと向き直す。
「僕の夢のこと……っていうのは、体質の話? さっきも言ったけど、僕は」
「夢の中にだけ現れる化け物の話、学校で聞くだけじゃなくて、テレビでも話されるようになってるでしょ?」
朝陽が話し終える前に主が割り込む。
これは滅多にない事であり、そしてそれ故に驚いた彼は口を閉じ、二、三度ほど頷く。
「その化け物に殺されると現実世界でも殺されるって……ただの噂とか思い込みなのかもしれないけど、けどね、心配なんだよ? だってそれって、朝陽の体質とはとっても相性が悪いでしょ……?」
「……たしかに、誰かが視た化け物の夢の中に入ってしまう可能性はあるね」
主の言う彼の体質というのは、夢の中で他人が視た夢と同じ夢を視る、というものである。
その夢の中で朝陽はいつも通りその相手と会話をすることができ、多少は自分の意思で動くことができる。そして、その他人も夢で出会ったことを程度の差はあれど記憶している。
これを彼は『他人の夢の中に入る』と言っているのだ。
この体質になったのは何時なのか、それは本人すら覚えていないが、現在も彼がその体質であることは変えようのない事実である。
「そうでしょ? だからほら、心配でさ……けど、今朝の朝陽はすっごく元気そうで、良かったなぁって思ったよ!」
「……ははっ! なるほど。心配してたのは主の方だったってことだね」
今朝、朝陽はいつもより訪ねるのが早い主とその家族の心配をしていたのだが、実のところは彼女の方が彼を心配して早く訪れていた、ということだったのだ。
「もうっ! 笑い事じゃないんだよっ!? 朝陽が死んじゃったらアタシ、すっごく悲しいんだから……!」
つい笑いを零してしまった朝陽の両肩を掴み、訴えかけるように主は言う。
「いや、大丈夫だよ、主」
彼は、怒りのせいかじんわりと紅く染まっていく彼女の顔を真っすぐ見つめ返す。
「……っ! 大丈夫って、何でそんなこと言えるの!?」
「僕が化け物の夢で死ぬことはない……はずだよ。きっとね」
微かに目を逸らされながら投げかけられた質問に、朝陽はからかうようにそう返し、再び歩みを進めた。
「きっとって、もう……っ! けど、うん、そうだよね。どれだけ注意しても防ぎようがないことだし……あっ! そうだ! そのときはアタシの名前を呼んでよっ! そうしたらすぐに朝陽の夢の中に行って化け物なんてケチョンケチョンにしてあげるから! この鍛えられた腕でっ!」
グッと力こぶをつくりながら朝陽の後を付いて行く主。
「いや、それじゃ絶対無理だから……」
「何だとー! アタシの本気は凄いんだからね! きっと朝陽も惚れちゃうレベルっ!」
「いや何ソレ……」
ペロッと舌を出す主と困惑するようにその表情を見る朝陽。
物騒な会話はあったものの、いつものように賑やかな登校の時間。
彼はひっそりと、現在も生きている幸せを噛み締めていた。