第6話 ご令嬢は婚約を破棄するもの
魔王城のきらびやか廊下を、優雅な足取りで歩く令嬢。
その堂々とした後ろ姿を見れば、彼女が人質である事実を認識していないことが窺える。
最早、魔王城の誰しもが忘れている話でもあるが。
「おや! これはこれは、奥方殿ではござら――んなあぁ!?」
見知った顔を見かけ、気軽な様子で声をかけた蜥人族が唐突に宙を舞う――いや、舞わされた。
蜥人族は細長い体躯ゆえに軽いと思われがちだが、他種族に比べると実は非常に重い。
理由は単純だ。
その引き締まった筋肉と頑丈な骨、そして何よりも全身を覆う矢も通さない鱗。蜥人族は生まれながらにして、鎧を身に纏った戦士なのだ。
そんな蜥人族の族長が――全高ニ〇〇cm、重量一七〇kgの物体が、今まさに宙を舞っている。
三分の一以下の重量しかない令嬢の手によって。
「んげっ!」
潰れた蛙のような声と共に、蜥人族族長は地面に叩き伏せられる。
あとの顛末など想像するまでもない。
「痛っ! 痛いでござる!」
足蹴である。
「――念のため確認ですが、奥方とは何のことですの?」
「こ、婚約されたと聞き及び!」
「……誰が、誰とですの?」
「令嬢殿と魔王殿が、と聞いているでござる!」
「誰から聞きましたの?」
「それは――」
「あぁ、一つご忠告いたしますと、嘘を吐くと後悔なさいますわよ?」
産まれたことを、と続く言葉とその笑顔に、蜥人族族長は人生の中で二番目に恐ろしい体験だったと後々語る。
令嬢は不可解に思いながらも、目的地を目指して廊下を歩く。
すると視界に大きな影が入った。
「オオ、コレハ奥方様。コノ度ハ、ゴ婚約オメデ――ッ!?」
豚人族はその体躯の通り重い。
最早誰でも分かるだろう、と言わんばかりに重い。以下省略。
「――グゥッ!」
「お、令嬢さんじゃねぇ――げぇ!?」
鬼人族は、以下省略。
「なんでだよー!」
彼らの末路も省略する。
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扉を叩き壊さんばかりの勢いで、令嬢は魔王の執務室に乱入した。
「一体全体どういうことですの!」
開口一番で主語不在の文句に、全魔族の二大巨頭とでも言うべき二人は『それはこちらの台詞です』という言葉を、ぐっと飲み込む。
この数カ月の間に、そのような言葉に何の意味も無いことを彼らは学んでいた。
「――レディ、如何なさいましたか?」
あくまでも紳士的な態度で以って、獣人宰相は状況を把握しようと努める。
この世界に爆弾など存在しないが、必要とされる慎重さは爆弾処理班のそれに匹敵するだろう。
「如何もタコもありませんわ! この城で陰謀が企てられていますの!」
「陰謀……? どのような内容でしょう?」
「この私と、そこの唐変木の朴念仁の色黒悪魔が婚約したという妄言ですわ!」
顔を真っ赤にしながら叫ぶ令嬢の言葉を、魔王は一瞬理解できなかった。
ビシッと突き出された指が自分に向いていることで、辛うじて自分のことだと察する。
そしてやや間を置いて、言葉の意味を咀嚼した。
「――何だと!? 誰が、こんな貧相な身体の暴力女――」
魔王は軽い。
その戦闘力の殆どを魔力で補うスタイル故に、その自重は人間と大差が無かった。
そして何より、致命的に口が軽かった。思ったことをそのまま口にしてしまうタイプである。
「――ぐあぁッ!」
地響きが鳴り渡るほどの勢いを以って、魔王が叩き伏せられる。
その光景に獣人宰相は、目頭を抑えることで堪える。
流石に自業自得であろう、と。
――閑話休題。
「ほれで……うわふぁのでほころは……?
顔を腫らした魔王が、真っ先に思い付く疑問を口にする。
「目下不明ですわ。もし分かっていたら、既に公開処刑を終えている頃合ですわね……」
まさに暴君と言うべき発想の令嬢に、魔王は『でしょうね』と口にすることは出来なかった。
「犯人探しは後にして、まずは皆に噂は嘘であると伝えるべきだろうな」
常時回復の能力により傷が癒えた魔王は、ひどく真面目な顔で提案する。
「珍しく建設的な意見ですのね。頭を回せる程にお嫌でしたかしら?」
「俺は男ゆえに別に何とも無いが、貴様には問題があろう」
「あら……お気遣い頂いたのかしら?」
「……俺にも選ぶ権利というものが――痛っ! 蹴るな!」
「ふん……」
「まぁ、何にせよだ。誤解を解くには早い方が被害も少なかろう……奴らのことだ、放っておくと披露宴の準備を始めかねんぞ」
「――それは由々しき事態ですわね。行きますわよ!」
「おう!」
誰も居なくなった執務室で、獣人宰相は一人ため息を吐く。
「少し急いてしまいましたか……」
何を隠そう噂の出処は獣人宰相その人だった。
「――家柄、知恵どれをとっても申し分無いのですが」
人間国家の要人との繋がり、魔族連合国軍の強化、そのどれもが講和への楔として十二分に機能する代物だった。
「……そして、何よりあの性質」
しかし獣人宰相はそのどれをも差し置いて、常日頃から叩きのめされている魔王の姿を思い出す。
誰にも傷付けられない魔王という存在を、傷付けられるただ一つの存在に想いを巡らせる。
「もし……これが実現できれば、この終わらない戦争を終わらせられるかもしれない」
かつて、この世界には神に反旗を翻した巨大な狼が居た。
数千年前の魔王であったその獣は、大陸をも飲み込むと称される史上最強の魔王であったが、その企ては勇者という存在により失敗している。
そして……そんな伝説ですら、この何度も滅亡を繰り返す盤上の世界において、誰も知る者は残っていない。
別作の方ばかり進めて、こちらの更新が疎かになっておりました。
お待ち頂いておりました皆様にお詫び申し上げます。
また、ここ2話ほど令嬢が足蹴にしていないと気付き、怒涛の足蹴ラッシュといたしました。
如何でしたでしょうか?
ご感想やご意見、評価等、割と何でも幅広くお待ちしております。