第36話 ご令嬢は勇ましき者(後編)
「何ですの……あれは」
前線から少し離れた仮設指揮所にて、令嬢は異変に気付いた。
極彩色の壁、もしくはオーロラのような朧げな何かが、遠く前線の更に向こうで輝いていた。
深く重い光のようなナニカが、酷く不気味に映る。
「……嫌な予感がしますわ」
あれは何か良くないものである。
そして何より、何故だかアレに覚えがあるのだ。
まるで歪んだ鏡の前に立った時のような、不可思議な感覚だ。
「――白色竜ちゃん!」
彼女は咄嗟に護衛兼従者として連れ回している少年の名を呼ぶ。
その声に応じて、相変わらずメイド服を着せられている、この世界で最も不幸な龍族の少年が指揮所に姿を見せた。
「は〜い。何でふか?」
戦場に似合わぬ服装の少年に微笑みつつ、令嬢は何気ない口調で要件を伝える。
「飛ぶ準備をしてくださいまし。あそこに行きますわよ?」
何も大したことではないという口調の言葉に、周囲の者達が一瞬遅れて慌てふためいた。
「お、おお、お待ちくだされ! 急に何を言い出すでござるか!」
「問題への対応方針を述べたまでですわ」
「いやいやいやいや……訳が分からないでござるよ!」
「訳なら分かるはずですわ。方向からして斬首戦術に問題が発生した可能性が大です。今、何らかの対応を取らなければ、作戦が瓦解する恐れがありましてよ」
「理由は理解いたしまするが、対応方針が理解不能でござる。何ゆえに奥方殿が行くなどという結論に至るでござるか」
蜥人族族長は、1+1が何故か−1になったような気分を抱いた。
「追加で龍族を向かわせるなりが、真っ当でございましょう」
痛む頭をなだめながら、彼は無難な提言を口にする。
それは無論、令嬢を心配する意図もあるのだが、明らかにそれ以前の問題であった。
仮に令嬢の言葉通り作戦に問題が発生したのだとしても、彼女を行かせたところで事態は何も変わらない。むしろ、確実に悪化するだけだろう。
「殿のことはご心配でしょうが、ここは我らにお任せを――」
しかし、蜥人族族長の言葉を遮るように、令嬢は首を横に振る。
「……何ゆえでござりますか?」
「時間が残されていません。それに、龍族をいくら送ったところで解決いたしませんわ」
「根拠を伺っても?」
「女の勘ですわ」
蜥人族族長は、人間とは違う向きに閉じる瞼を、一瞬だが深く強く閉じた。
それは人間でいうところの苦悶の表情である。
「奥方殿……我らは、概ねの無茶には付き合ってきました。少なくとも納得のできる要素が少しでもあれば、常に従ってきたでござる」
「えぇ……感謝していますわ。本当に。心の底から感謝していますのよ?」
「それでも、聞き入れては頂けぬでござるか?」
「無茶苦茶なことを言っているのは、理解していますわ。けど、今行かなければ、きっと後悔します」
「我らでは、駄目でござるか? この命を賭してでも殿を救ってみせますぞ?」
「恐らく……魔族では難しい――いえ、わたくしで無ければ、きっと駄目ですわ」
「勘でござるか?」
「推論……いえ、結局は勘ですわね」
「――承知したでござるよ」
蜥人族族長は、大きくため息を吐いた。
何かを諦めたような表情まで浮かべている。
「それでは?」
「無論、そのようなもので納得はできかねまする。かくなる上は、力ずくでも止めさせて頂くでござる!」
突如として、蜥人族族長は令嬢に襲いかかった。
その襲撃には一分の隙もなく、素人目に見たとしても勝利は確実に思える一撃であった。
無論、怪我一つなく制圧することを目的としているため、決して全力という訳ではない。精々が意識を刈り取る程度だ。
しかし、それで十二分だった。
彼我の戦力差は、赤子と大人ほどにも離れているのだから。
蜥人族族長は、魔王や地母龍達のような真に人外の領域に立つ者を除けば、魔王軍においても五指に入る実力者である。
魔族の中でも比較的大柄な体躯を持ちながらも俊敏で、更には各種体術に忍術や隠形を極めた生粋の戦士に勝てる者は、そうは居ない。
彼の日頃の振る舞いからは想像もつかないだろうが、時代が時代であれば魔王軍四天王などと名乗っていたかもしれないほどの逸材なのだ。
そんな魔族の男が――身長ニ〇〇cm、体重一七〇kgの巨漢が、本気で人間の小娘一人を取り押さえようと思えば、それこそ比喩表現などではなく、文字通り赤子の手をひねる程度に容易い。
対する令嬢とてゴトフリード王国魔法学園の元主席であり、剣も魔法も人並み以上に使える。
人間の戦士階級と比較したとしても、それなりに優秀な戦闘能力を持ち合わせているといっても過言ではない。
だが、根本的に種族としての――生物としての強さが違いすぎた。
自身より大きく、重く、素早く、力の強い相手が、自身よりも武芸に精通していれば、そこに勝てる道理などは微塵にも存在する訳がないのだ。
「――な……」
故に、その結果は道理の外にある力学が作用している。
「……ごめんなさい」
蜥人族族長は意識が落ちる寸前に、そんな声が背後から聞こえた気がした。
「――力ずくで、通らせて貰いますわ」
倒れた本人はおろか、周囲の者にすら何が起きたか理解できぬまま、魔王軍屈指の戦士が沈んだ。
幾人かの者には、尋常ではない速度で令嬢が背後に回り込み、手刀を首筋に当てたのだと見えはした。だが、ただの人間がそれをなし得る理屈だけは理解できなかった。
ただ一人を除いて。
「ふむ……お主、自分が勇者じゃと知っておったのか?」
「当然ですわ。初見の時――魔王に蹴りが通じた段階で気付いておりましたわよ」
「なるほどの……まぁ、それもそうじゃな」
勇者とは人間の守護者であり、その危機を救う者である。
その性質上、勇者は人間が危機的状況にあればあるほど、その性能を発揮する。
人間という種族が壮健な時には、精々が魔王を足蹴に――防御を無効化――できる程度だが、人間が半数程度にまで減ればどうなるか。
特に想像に難しくはないだろう。
それこそ物語の勇者の如く、圧倒的な魔王軍の猛攻を退け、強大な魔王軍幹部を単独で討ち取るほどにまで戦闘能力が上昇する。
令嬢の現状こそが、まさにそれであった。
「行くのか?」
「今更、行かないなんて選択肢がございまして?」
その回答に、地母龍は遠く極彩色の壁を見詰める。
「わたくしを、止めますの?」
「いいや……止める理由が見当たらんよ。それに何より、今のワシには止められぬ。それこそ人間の童女程度にしか力が出んからの」
地母龍は苦々しい想いを抱く。
本来は、今この時にこそ自身の力を使うべきだったのに、と。
「仮に共に行ったとしても、無駄死にするだけじゃろうしのぉ」
無論、そうさせないために小鬼族王は魔王城に少なくない戦力を差し向けたのだ。規格外共の力を削ぐために。
今、この瞬間において、全ての状況は小鬼族王の想定範囲内にある。
例外は何一つ無く、予想される脅威は全てが対処済みだった。
ただ一つを除いて。
「恐らく、誰であれ魔族は同じはずですわ……」
令嬢は申し訳なさで一杯になりながら、蜥人族族長をちらりと見る。
怪我は無いはずだが、暫く目を覚ますことはないだろう。
「地母龍殿……後はお任せして宜しいかしら?」
「おう。任せておくが良いのじゃ。お主がどうにかするまでの間くらいは、指揮もどうにかしておこう」
「お願い申し上げますわよ」
「それに、何ぞあれば、皆で仲良くお陀仏じゃろうて」
呵呵と笑う様は、如何に力を失おうとも最後の最後まで彼女らしいものだった。
令嬢は感謝と共に強く頷き、その身を翻す。
「白色竜ちゃん、準備はよろしくて?」
「ほ、本当に、行くのでふか?」
「ええ、行きますわ。必要がそれを求めますの」
「ボ、ボクのこと、守ってくださいでふよ?」
「一人くらいなら、多分どうにかなりますわ」
「多分はイヤでふよー!?」
小鬼族王にとっての最大のイレギュラーが、白き竜の背に跨る。
その姿は物語に出てくる姫――などではなく、まるで勇者のようだった。
いや、勿論『まるで』等ではない。
彼女こそが、公爵令嬢という配役から外れた者――セレスティーナ・レイバン・ティル・ラ・ハイゼル――この世界における勇者である。
何故か一人ないし少人数で出立する。
そんなところも、勇者。




