第35話 ご令嬢は勇ましき者(前編)
この世界は予め配役の決まった、安定した……停滞した――いや、狂った世界である。
そこに神の意志は存在しない。
どれだけ狂気じみていようと、その全てが偶然の産物である。
しかし、誰の意志も反映されていないのかと問われれば、そうとも言い切れない。
かつて、この世界において魔王という配役は、世界を統べるべき最強の王として存在していた。少なくとも、そう望まれていた。
端的に解釈するのであれば、この世界の根源たる世界樹より魂――存在するための力を排出するための出口。それこそが魔王の正体である。
万物のいづる座標が容易く壊れてはならないからこそ、魔王は誰にも傷付けられない存在なのだ。
生きとし生けるもの全ての通過点であるからこそ、かつてはあらゆる生命に影響を与えられる存在だった。
この世界は、正しく魔王という役割を中心に廻っていた。
概ねの総意として、そのような世界が望まれたのだ。
安定した生存のために。
だが、それを拒絶した者達も僅かに存在した。
最も弱く虐げられた者――人間である。
彼らは何よりも自由を求めた。
生存に適した――安定した世界の理を壊し、新しい法則を生み出した。
それが魔王という独裁者への抑止力であり、生命の根幹を刈り取る殺し屋、人間のためだけの英雄――勇者である。
勇者は魔王とは真逆に、根源たる世界樹への入口として生じた。
あらゆる魂の力――魔力を喰らう這い寄る影。世界に開いた暴食の風穴。ただ人間だけを救う死神。それこそが勇者という存在なのだ。
彼らは互いに自身の守護すべきもののため、全てを喰らい、全てを産み出し――そして、繰り返している。
その根幹にあるものは、純然たる生存欲求に過ぎない。
これらに神なる存在の意図は、介在する余地など無い。
ただただ、この世界の生存戦略として生み出された。
主権者たる全ての生命の総意――滅びたくない――による偶然の現象。
なんとも皮肉な話だろう。
滅びたくないという願いの縺れこそが、何度も滅ぶ運命を作り出したのだから。
だからこそ――
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ただの配役から外れた男――魔王アルヴェルト・シュナイダーは十騎の龍族を引き連れ、戦場奥深くの高度三〇〇〇付近を全力で飛行していた。
本当であれば敵射程圏外から魔法攻撃でも加えてしまいたい場面なのだが、この距離から届く魔法は存外少ない。
選択肢の幅を広げようとすると、敵の攻城用弩の射程圏内に入ってしまい、槍のような矢が雨あられと飛んでくることになるだろう。
それに何より、三〇〇万もの大軍を相手に真っ当な攻撃をしても、徒労に終わるであろうことは流石の魔王にも理解できていた。
ともすれば、友軍を援護したい気持ちを抑え、今は当初目標――敵司令官の撃破を完遂することに集中している。
幸いにして、と表現すべきかは悩むところではあるが、前線で両軍が接触して半日を待ってから出撃したお蔭か、状況的に敵は空にまで気を回せていない。
少なくとも敵に発見されずに敵司令部上空付近にまで辿り着けたのは、幸運と評しても差支えがないように思えた。
「魔王様……如何なさいますか? 今突撃すれば奇襲としては最高のタイミングかと思われますが」
龍族の一人の進言に、魔王は頷きを返す。
彼も同じ考えを弄んでいたのだ。
しかし高度を下げ、仮に途中で気付かれたなら護衛の龍族は全滅するだろう。
敵司令部周辺は前線と同様――いや、むしろそれ以上に攻城用弩が配置されていた。
ならばどうするか。
最大奥義であれば、難なく敵司令部を排除できるだろう。
しかし、一発で魔力が枯渇する魔法はリスクが高すぎた。
龍族達に回収を任せようにも、攻撃範囲が制御できないため龍族をも巻き込む可能性が高い。
むしろ、救うはずの耳長族や世界樹すら巻き込みかねない位置関係にあるのも問題だ。
「……一旦、肉薄は避けるぞ。俺がこの距離でも届く魔法を撃ちまくる。敵司令部をそれで叩ければ良いが、念のため攻城用弩が概ね潰れた段階で急降下、撃ち漏らしを撃破する」
「承知いたしました」
反対意見が出ないことを確認し、魔王は地表に視線を向ける。
距離があるため無数の小さい点にしか見えないが、司令部と思しき天幕や攻城用弩が配置されている位置を確認できた。
『我が内なる精霊よ――』
魔王は威力は低いが長射程の狙撃系魔法を選択する。
この距離から届くという点は勿論だが、この魔法は複数の光弾を同時発射することができる利点があった。
相手に気付かれていない初撃で、可能な限り敵を減らそうという考えだ。
『――脆く輝かしく結実せよ』
端的に評価するなら、アルヴェルトのこの選択に瑕疵は見当たらない。
強いて問題点をあげるのであれば、面白味のない極々常識的な判断であることだろうか。
無難であるがゆえ、堅実でもある、と評価しても構わない。
それはつまるところ、
【――聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな】
――簡単に予見し得るということでもある。
【慈悲深く強大なものよ 祝福を与え給へ】
「……ッ!?」
極彩色の闇が、歪み欠けた七芒星を大地に描く。
禍々しい極光じみたベールが空を覆い、空間そのものが濃密な呪いに満たされる。
蕩けた飴細工のように絡みつくナニカが、急激に魔力を奪っていくのを、あらゆる生命が本能的に理解した。
これは明らかに良くないもの――道理の外側にある代物だと、全てのものが嫌悪した。
「ぐッ……これは……何だ!?」
小鬼族王なる存在は脆弱である。
その肉体的な強さは人間の平均的な戦士にすら劣り、強力な魔法を使えるほどの魔力も才能も持ち合わせていない。
だからこそ彼は、何度も試行錯誤を繰り返し、失敗し、工夫し、計画を立てた。
貧弱で矮小な自身が、世界を――魔王を敵に回して勝てるだけの策を弄したのだ。
何度も似たような歴史を経験し、彼は空の脅威を知っている。
だから龍族すら殺し得るほどの攻城用弩を開発し、偏執的なまでに大量配備した。
少なくとも碌な航空支援が行なえず、高々度からの奇襲くらいしか選択できないように配置した。
何度も無駄死にを経て、彼は魔王という存在の強さを知っている。魔族の力を知っている。魔力というものの恐ろしさを熟知している。
だから彼は、優先目標を一点に狙わず、遠回りでも人間の国を攻め落とし聖女達を集めた。
長い時間をかけ、聖女が誕生しやすいパターンの歴史に誘導もした。
彼は――魔法も使えない何の才能も持たない男は、七人の生きた聖女を媒体にする、とある魔法陣を開発した。
脆弱な自身の能力に依存せず、強力な効果を発揮する舞台装置を用意したのだ。
無尽蔵に魔力を吸い上げる――対魔王用結界である。
より正確には、魔力に大きく依存する種族にとっては致命的な罠となり得るため、対魔族用結界と表現したほうが適切だろうか。
勿論、どう呼んだところで結論は変わらない。
つまるところ、これこそが勇者の能力の再現である。
つまるところ……この状況こそが、小鬼族王の張り巡らした策の結果である。
「何だと……!? お、墜ちる!」
龍族は膨大な魔力によって、人型形態から龍へと変貌している。
物理法則を無視して空を飛ぶ巨大な龍が、魔力を失うとどうなるか。
答えは簡単だ。
翼の無い人間に空は飛べない。
それは龍族も……魔王も、同じである。




