私怨巫女 二千十八年・五月十一日-01
少女には【視】えてはいけない人物が見えた。
少女以外の者は皆、口を揃えてこう言う。
――それは幻だよ、と。
少女に視えていた人物は、長い黒髪と透き通るように白い肌、そしてニッコリと笑みを浮かべて語り掛ける美女の姿。
それを誰かに伝えようとしても、誰も視る事が出来ない。
次第に周りの者達は、少女を【異常者】と捉え、彼女を市民病身の心療内科へと連れて行った。
――ねぇ、スミレちゃん。フレイアって誰?
「先生も見えないの? フレイア、私の隣にいるよ」
――うん、先生には見えないな。どんな人なの?
「綺麗な女の人。着物を着てて、いつもニコニコ笑ってて、私と遊んでくれるんだよ」
――そうなんだ、優しいんだね。フレイアさんは。
「うん、だって神さまだもん」
――そっか。じゃあ今お薬持ってくるから、待っててくれる?
「お薬? 私、どこも悪くないよ?」
――スミレちゃんはどこも悪くないんだけど、最近風邪が流行ってるからね。予防って奴だ。分かるかい?
「あ、知ってるよ! お風邪を引かないようにするの!」
――そうだよ、風邪になる前にしとかないとね。
言って、看護師に顎で指示を出しながら笑う医者の姿を、少女は訝しむ事も無く見据えていた。
だが、少女が訝しむようになるまでに、そう長い日数は掛からなかった。
「ねぇ、先生。お風邪の予防、もういいんじゃないかな。私、注射も薬もキライ」
――最近の風邪はすっごく強いからね。ところで、フレイアさんはまだ隣にいるの?
「うん。『もう予防の注射は止めときなさい』って言われたよ。『これ以上はおかしくなる』って」
――そうなんだ。でも先生はお医者さんだから、フレイアさんより風邪とお薬に詳しいんだよ。
「でもでも、フレイアって神さまなんだよ。神さまって何でも知ってるんでしょ?」
――最近は神さまよりお医者さんの方が、お薬に詳しいんだよ。はい、手を出して。
何度も。
何度も何度も。
何度も何度も何度も。
少女は薬を打たれ続けた。
「ねぇ、先生。私、変なの」
――どこか調子が悪いのかな? なんでも言ってほしい。先生はお医者さんだからね。
「先生の隣に居る看護婦さん、これからあっちのお部屋にある引き出しの、上から五番目にあるお薬と、その隣にある外国語の書かれたお薬を、注射するんでしょ?」
――今、なんて?
「視えるの。昨日も学校の友達が、ケガするのが視えた。頭の中にバーッて流れて……すぐ消えるんだけど、視えたものがほとんど、ホントに起こるの。たまに違う時もあるけど、それは私がイヤだから、そうならないようにした時だけなの」
――おい君。
――わ、私にも分かりません。でも場所は。
医者と看護師が何やら騒がしいと感じて、少女は自分が座らされている椅子からどいて、部屋を出た。
――ま、待ちなさいスミレちゃん!
「待たない!」
言って、走り出す少女。だがしかし、大人の足を振り切る事も出来ず、少女はすぐに捕まって、ベッドの上に組み伏せられた。
――マズいぞ、抗不安剤、早く!
――で、でも先生、それって今この子が言った。
――いいから早く!
次第に少女は、心を閉ざしていった。
もう注射は嫌だ。もう無理矢理刺されるのは嫌なのだと、彼女は何時も項垂れていた。
病院に住むようになって、どれだけの時間が経過したかも分からない。
少女は検診に来た医者から放たれた言葉を、ただ聞いた。
――スミレちゃん。フレイアさん、いる?
一日に一回、会話のどこかで必ず訊ねられる質問。
少女はこの日から、その質問に対しての答えを、統一する事にした。
「……フレイアって、誰ですか?」
**
『美紀子、貴女はこれから【災い】と戦っていくのよ』
灰色の髪を、頭頂部で二つ結びにした幼子は、純白の着物を着込んだ女性へとそう言葉をかけられて、首を傾げた。
『わざわい?』
『そう。美紀子が居るこの世界を、壊そうとする悪い幽霊たちを、貴女が倒すの。それは大切な事なのよ』
『お母さんも、そのわざわいといっぱいたたかったの?』
そうね……、と。縁側の先にある遠い遠い景色を眺めながら、女性はまるで深いため息をつく様に、少女の言葉に頷いた。
『でも私には、もうそんな力が無いの。美紀子、貴女が代わりに成しなさい。――この世に、災いが無い、平穏な時代を、私達が、築き上げるの』
幼い少女が聞き取りやすいようにか、それともそれが、女性の切なる願いであるからか、言葉を区切りながら語る言葉を聞いて。
少女は、ニパッと笑いながら、しっかりと頷いて、言い放つ。
『うんっ! ミキコ、わざわいとたたかうよ。だってそうすれば、ミキコは一番になれるんでしょ?』
『そう、そうよ美紀子。貴女は一番となりなさい』
しばしの時を、俯いてギリギリと歯ぎしりをした女性は、聞こえぬように小さく、言葉を続けた。
『一番じゃ無ければダメ。一番以外は、いらない』
言葉は、少女の耳に、届いてしまっていた。