感情慟哭・前 二千十八年・七月二十八日-10
「……バカだな、スミレは」
「え……?」
「お姉ちゃんが、スミレを嫌いになったって、本気で思ってたの?」
「だって、急にいなくなって……視えなくなって……きっと、私の事、嫌いになったんだって……っ」
「違うよ。それが、スミレにとって、幸せだったから……だから、アタシ……スミレの元から、消えるしか、なくて……でも、でもね?
ずっと、遠くから見てた。
スミレが大きくなっていく所を。
スミレに友達が出来る所を。
スミレが、段々と強くなっていく所を……アタシは、ずっと、遠くから」
フレイアの右手が、ゆっくりと、スミレの頬を撫でた。
――ああ、この手の温もりだ。
この手があったから、スミレは寂しさを感じる事がなかった。
この手があったから、スミレは笑顔を浮かべる事が出来た。
もっと、もっと感じていたい。
――フレイアと共に、何時までも居たい。
「でも、もう……ダメだ、アタシ」
「……え?」
「アイツ、マモンって言うんだけど、アタシは、アイツに一度、消されてるの。何とか塵だけ集めて、辛うじて存在出来てるって感じかな。
……悔しいなぁ。スミレを、最後まで、守る事が、出来なくて……!」
ボロボロと、涙を流すフレイアの姿。
彼女の姿は、神霊識別の魔技眼を持つスミレの瞳にも、段々と、朧げにしか視えなくなって来た。
消滅が近づいていると言う事なのだろう。温もりも薄れ、そしてそれまで、消えていくのだろう。
「そんなの……そんなのって、無いよ……っ」
「……でも、大丈夫だよ、スミレ……」
「大丈夫って何がッ!? フレイアが消えちゃうんだ……私を守って、フレイアが消えるなんて、そんなのって……そんなのって、無いッ!」
普段のスミレらしからぬ、声高らかに叫ばれる奇声。
怒る彼女を見据えて――フレイアは少しだけ、寂し気な表情を浮かべた。
「まだ……スミレは、泣けないんだね」
「え」
自分の頬を擦る。自分のまぶたに触れる。
「あ、あれ……?」
乾ききったまぶた。哀しい筈なのに――スミレの頬には、一筋の涙すら、浮かばぬのだ。
なぜ、なぜ私は――!
「でも、いいんだ。スミレを泣かすのは、アタシじゃない……きっと、もっと大切な人が、スミレをこれから、ボロボロに泣かしてくれるんだろうね」
「私……私……っ」
「大丈夫……スミレは、アタシが……アタシの力が、守るから」
最後の力を振り絞って。
フレイアは、両手でスミレの頬を取り。
自身の唇と、スミレの唇を、重ね合わせた。
スミレが感じた、初めてのキスは。
ただ虚ろな感触が、しただけだった。
『……ずっと、一緒にいるよ。スミレ』
そんな言葉を最後に。
フレイアという存在は、この世界から完全に、消え去っていった。
**
頭が焼け焦げる様に熱い。
男――マモンは自身の頭部に手を当てながら、うめき声をあげていた。
「フレイアめ……最後の最後に、俺の邪魔を……!」
彼の表情は憤怒に塗れ、苛立ちを隠せぬように、大股の歩を進めながら、元居た場所へ。
彼にとって感じた痛みなどは、些末な事に過ぎない。
だが所詮格下の神霊である筈のフレイアにしてやられたという結果こそが、彼の心を酷く乱している。
「奴の全てを否定してやる、奴が愛した全てを凌辱してやる、あの娘の心を食いちぎり、身体をも無事で居させてやるものかよ……!」
彼が腕を振ると、周りの影という影から、災いが湧いて出る。
その数、一、十――百は優に超える大群が、住宅街の路地を漆黒に染めていた。
「そうだな、まずは奴が愛したこの世界を、全て壊してやろう。どうせ俺の所有物だ、壊しても問題はあるまいっ」
ハンッ、と鼻で笑いながら呟き続けるマモンの眼には、たった一つの道しか見えぬ。
彼が求める娘の居る場所に続く道。それが自分の歩む道だと、彼は傲慢な高笑いを浮かべながら、歩を進めた。
その先に――人影一つ。
ゆらりと。覚束ない足取りで、マモンへと至る道を歩む、一人の少女。
黒のブイネックシャツ、グレーのジンズ。
髪色は黒、長さは肩まで。
所々煤で汚れ、しかしそれで尚美しいと思える、端麗な顔立ち。
――マモンと同じく、怒りに塗れた視線を向ける女は。
中村スミレ。彼女は、ナイフのように鋭い眼光を宿しながら、今しっかりと、マモンを見据えた。
「……ふ、はははっ。まさかお前から来てくれるとはな、小娘……っ!」
「ああ。来てやったよ」
「フレイアとはお別れか!? 残念だ、最後の最後は俺の手で、奴の存在全てを否定してやりたかったのになぁ!」
「いいや。いる」
「……何?」
「私の中に、フレイア、居る」




