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異端の百合園  作者: 音無ミュウト
第三章
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感情慟哭・前 二千十八年・七月二十八日-01

 深夜二時半。既に回送列車も通過しない地下鉄・秋音駅の六番線ホーム。


背骨程度まで伸びた黒髪、整い過ぎているとも言える顔立ち、そして朱色の着物は、恐らく目に映した男性全ての心を鷲掴みにする程の、美貌に満ちていた。


女性の耳に、ポタリ、ポタリと。雨粒の滴る音が聞こえて来た。


どうやら雨漏りでもしているようだ。秋音駅がある三川線は戦前からある鉄道の線路を利用している為、一部の駅は老朽化が激しいとも聞く――女性はそんな事を考えながら、線路を挿んだ先にある、三番線のホームを見据えた。


三番線ホームに、一人の男性が立ち尽くしていた。黒と赤の派手なシャツに、ダメージの入ったデニムを着込んでいて、緑色の髪は降ろせば耳元までは伸びているのだろうが、それを全て逆立てている。



「よぉ。久しぶりだな、フレイア」



 男性が、向かい側のホームで自身を睨み付ける女性へと語り掛けると、名を呼ばれた彼女――フレイアも、彼の名を呼んだ。



「……マモン」


「そう警戒するな。俺はお前と交渉に来ただけだ」



 ニヤリと、不敵な笑みを浮かべた男性――マモンと呼ばれた彼は、ポケットの中に入れていた右手を腰に当て、左手を彼女へと差し出した。



「中村スミレを、俺に寄越してくれないか」



 フレイアの頬が、ピクリと動いた。


どうしてその名を、と言いたげな視線をマモンへと向けながら、しかし口を閉ざしている。



「あの娘は実に良い。儚げで、しかし根強い精神を持ち、数多の力を持つ。神霊である俺がこの世に顕現するなら、あの娘の身体を使わなければ、それは嘘となるだろう」


「アンタはこの社会に人間として顕現して、何を成そうと言うのよ。【災い】なんてモンを振りまいて、人間を災厄の恐怖に陥れようとする、強欲の神霊が、なぜ」


「それは今の言葉で全て回答されてる。――それは、俺が強欲だから。人間社会は全て俺の物と人間に認知させる為には、人間に認識される肉体が無ければならないじゃないか」



 寝ぼけてるのか? と嘲笑したマモンの言葉に、フレイアはフンッと鼻を鳴らした。



「スミレの何が特別というの? あの程度の娘、他にいくらでもいるわ」


「居ないな。少なくとも【神霊識別】の目だけは、如何に最優の魔技師と言えど、実現不可能な技能だ。


 オマケに未来を予測する眼と……まぁ千里眼は拙い力にしても、小賢しい錬金術師としての回路も持ち、更には十七歳の生娘だと? 最高じゃないか。


 ――俺が有する肉体に、相応しい」

 


舌なめずりを一回。唾液が零れた唇を舌で拭いながら、マモンはしかし力強く語る。



「どうせお前は、あの娘にお役御免とされた身だ。なら、俺が身体を守ってやろうじゃないか。……心は、俺が食い尽くしてやるが」


「させないよ」



 豪炎が、フレイアの周り一帯を覆った。


轟々と燃え盛る炎と、熱により溶けかかる、駅構内の柱とコンクリートの地面。


近くで滴っていた水滴は全て蒸発し、今近くに生身の人間がいれば、肉体をじわじわと焼かれ、死していく事が確定しているような、そんな熱気が蔓延していた。


だが、眼前の男は尚も、余裕綽々と言わんばかりの表情で、三番線ホームの床を右足の踵で軽く蹴った。


瞬間、彼の身体がふわりと浮いた。


浮いただけでは無い。ゆらりゆらりと空中を漂いながら、今一度口を開く。



「お前程度に殺される俺じゃないぞ」


「やってみなくちゃ分かんないでしょ」


「いいや、分かる。――愛だぁ? そんな不確かな感情をしっかりと信仰する者なんて、この世界にどれほど存在する?」


「この世で一番必要な感情は、愛だ」


「違うな。人は――いや、この世の万物が抱き、最も信仰すべき感情は、強欲に他ならん。人間とてそうして欲に塗れるからこそ、ここまでの繁栄を築いたと言っても過言じゃ無いだろうに」


「愚かしい奴。愛があるから、全てを育めるんだ。愛が無ければ、人は、世界は、全てを破壊し続けるだけ」


「はっ。二の次の感情に過ぎんだろう?」



 まぁ良い、と。小さく笑いながら呟いたマモンは、右手の親指と中指を用いて、パチンと乾いた音を奏でた。



音が駅構内に響き渡った時には。


ホームにある柱から、ノソリと人影のような容貌をした『何か』が、姿を現した。


髪の毛も、目も鼻も口も、ましてや骨格なども無い。


ただ人の形を模しただけの影。そう形容する事が一番の存在だ。



「交渉は決裂したんだ。――後は力ずくで奪うまでだな」


「分かりやすいわね」



 しばしの時。


二人はその場を動かず、ジッと佇んでいるだけであったが。



フレイアの周囲で渦巻いていた炎が、柱の一つを焼き崩し、ガラガラと瓦礫の音が鳴り響いた瞬間。


二人は、それぞれの右手を相手に向け、互いに「行け」と命じる。



豪炎と、無数の影が衝突すると。


生誕七十年近い地下鉄秋音駅の構内は、無残にも崩れ去っていった。

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