異様時間 二千十八年・六月六日-01
中村スミレは夢を見た。
一人の女性と笑い合う夢。
美しい顔、体、そしてニッコリと微笑んでスミレの名を呼ぶ、着物姿の女性の夢を。
スミレも笑顔だ。女性と手を繋ぎ、共に歩き、そして視線を合わせて笑い合う。
しかし、女性は段々とスミレから離れていく。スミレは、そんな女性の姿を追おうとするが、走っても走っても、追いつく事は出来ない。
次第にスミレは、一人ぼっちになっていた。
流れる涙など無い。そんなものはとうの昔に枯れ果てていて、スミレはただ俯いて、静かに佇んでいるだけだ。
――そんなスミレの眼前に、薄紫のツインテールをなびかせながら、スミレに手を差し伸べる少女が現れた。
スミレは、差し出された手を、掴むか否かを決めかねていた。
また消えてしまうんじゃないか。
また一人ぼっちになってしまうんじゃないか。
考えるだけで、恐ろしくなったのだ。
そんなスミレの姿を見て、痺れを切らしたかのように、少女は無理矢理スミレの手を取って、歩き出した。
最初は戸惑いながら、オズオズと言った様子で小さく歩を進めていたスミレは。
しかし小さな笑顔を浮かべて。
また笑いながら歩くが出来たと、小さく誇るのだ。
**
中村スミレは目を醒ます。
ゆっくりと開かれたまぶた、段々と見えてくる天井のシミを数える事無く、ゆっくりと体を起こした。
彼女は朝が苦手だ。起きたばかりの身体が悲鳴を上げているように感じて、再び布団に身体全体を預けたい衝動を覚えるから。
しかし衝動を振り払いながら立ち上がり、まずは着ているパジャマを脱ぎ捨てる。
布団の上にパジャマを放り投げ、窓際のフックにかけていた秋音高校の制服に手を伸ばす。
ワイシャツを着込み、スカートを履き、そして最後に緑色のジャージをスカートの下に履いて、鏡で身なりを確認した。
少しだけ寝ぐせがあったので、手クシで軽く整えて、良しと頷く。
そうしていると、自宅のチャイムを押された事を知らせる鐘が、部屋全体に鳴り響いた。
スミレは、八畳間の小さな部屋を歩き、玄関の扉を開け放つ。
「やっほースミレ」
「ミズホ。今日は早いな」
「なに寝ぼけてんのさ? もう昼の一時。どうせ今起きたばっかりなんでしょ?」
彼女――鳴海ミズホの言葉を聞いて、スミレはスマートフォンのスリープモードを解除し、時間を確認した。
ミズホの言う通り、現時刻は昼の一時。スミレが苦手と思っていた現時刻は昼であって、朝などとっくに通り越していたのだと知り、彼女は何だか不思議な気分になった。
「お昼ご飯の材料買ってあるけど、食べれる?」
「食べる。お腹ぺこぺこ」
「オッケー。じゃあキッチン借りるね」
勝手知ったると言わんばかりに1Kマンションの廊下を歩くミズホの後ろについていく。彼女は手に持っていた買い物袋の中から野菜や肉などを取り出し、それをキッチンの上に置いた。
「スミレ、顔洗いなさい。寝起きなんでしょ?」
「そうする」
「ああ、そう言えば昨日シャンプー切れてたから買ってきたよ。後で入れ直してね」
「分かった」
廊下の近くにある洗面所に入って、まずは寝起きの顔を洗ったスミレ。続いて目を大きく見開いた彼女は、扉一枚を隔てた先に居る、料理に勤しむミズホへ声をかけた。
「ミズホ」
『何ー?』
「絆創膏は棚の上から三段目に入っているからな」
『いきなりなにさ』
「良いから覚えておけ」
備えていたフェイスタオルで顔を拭き、料理をしているミズホの後ろを通って自室へと入る。
先ほど袋から出していた野菜で、ミズホが作っている料理がカレーである事を悟ったスミレは、大皿二枚を棚から取り出した。
「今日もキャトルさんに呼ばれてるの?」
「呼ばれている。どうやらまた仕事だな」
「あーあー、そうじゃなきゃデートでもしようと思ってたのに」
「デートか。ん」
「ありがと。……デート、したくない?」
皿を手渡されたミズホが礼を言いながらスミレへと問いかけると、スミレは何かを考えるように手を顎に当て、そっと言い放つ。
「キャトルの所まで行くのは、デートじゃないのか」
「え」
「デートとは、必ずしもデートスポットに行かなければならないものでは無いだろう。お前と出かけるのなら、それはデートじゃないか」
「あ、う、その」
「ミズホ」
「スミレ、そういう不意打ちは、アタシ何だか恥ずかしい」
「包丁、危ない」
「え」
野菜の皮を切っていたミズホの手が震えていて、右手に持っていた包丁の切先が左手の人差し指を軽く切ったのだ。
少しだけ痛みで表情をしかめた後、まぶたに涙を溜めたミズホに、スミレが駆け寄る。
「全く」
怪我をした左手首をギュッと握り、その切り傷をよく観察する。浅く切っただけなので、消毒をすれば問題は無いだろうと、考えたその時には。
「あむ」
「ん……っ」
ミズホの指を、口に含んだスミレの姿がそこにはあった。
切り傷から僅かに出ている血を舐め取ってミズホの指を離したスミレは、キッチンの蛇口でミズホの指を洗い、そして言うのだ。
「だから確認しただろう。絆創膏は棚の上から三段目だと」
「……さては、また『視た』ね?」
「さて、どうだかな」
フッと小さく微笑んだスミレは、自室にある棚を開いて、絆創膏を一つ取り出した。