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そもそも創作とはなんぞや? 〜 ド素人のおっさんが創作を考える。

作者: 黒井 陽斗

最近、数名の方と感想欄やメッセージで自身の創作について持論を訴えたり、見直して欲しいと言われて、やたらと考える機会を与えられているおっさんです。


今日はそうした他者との触れ合いから感じた事を取りまとめ、創作とか思想文という物について、私が感じている事を書いていこうと考えています。


まずは物語と小説の違いについて、ここから持論を述べてみようと思います。


文学に明るい方であるならご存知かもしれませんが、語源から言えば小説は大説の対であり、個人の哲学的、個人が持つ人生観をより分かりやすく伝える為に考えや主観を物語に乗せて、広く人様に読んでもらおうとする手法で、物語というのはあくまで偶然のつながり、つまり空想した出来事を書き連ねるものです。


この語源を純粋に考えると、小説というのは散らばった空想などではなく、作者の人間性を元にした哲学や思想、伝えたいメッセージを持って生まれてくる訳ですが、語源としての考え方は確かに古臭く、現代ではすでに過去のものという扱いを受けている上に、新しい手法や源氏物語など、物語でもそうした手法があることで矛盾があるのは知っています。


ですが、なろうで活動する前、テンプレチート好きな人にアンタの考える話は底辺以下の糞だと完全否定され、私の思いを否定したなろう小説とはなんぞや、物語とはなんのためにあると、失意の中で小説という言葉の意味を調べました。


そうして触れた小説という言葉の語源には、私の不正者だけが得をする世界は嫌だと思い、努力が報われないのは悲しいと感じ、性奴隷という考えに納得出来ないと思う私の気持ちを、心を動かすだけの十分な純粋さがありました。


偉大な先人たちの思いが己が願うことを書けと言って、己の願いを訴えるために筆を執れと背中を押された様に感じた私は、なろうへ登録して初めての作品を、人に完全否定された思いの詰まった小説、アンチチートを謳う小説を書き連ねる事になったのです。


このような形で創作の世界に足を踏み入れた私にとって、なろうでは小説は面白ければなんでも良い、細かい設定などいらないという意見について感じる事は、確かに物語であればそれも良いでしょうが、私としてはそういった考えは戯作や物語であって、自身の求める小説の形ではないと感じます。


先達の文豪達が考えた小説の本質、つまり虚構の連続性と因果律のある話の構造、必然によって伝えたいメッセージを相手に伝えるという点は、いつの時代も変わらないのではないかと感じているのです。


それでもこうした意見を押し付ける気はありませんし、空想赴くままに物語を書くのはとても楽しいと思いますし、それもまた広く人に自分の楽しさを知らしめる小説の形なのだろうとも感じています。


私の考えを訴える気はありますけど、神様ではないので全ての人にこれが正しいと押し付ける気はないし、作品を読んで下さった方が、「成る程ね、作者はそう考えているのね」と感じてくださる方が増えれば嬉しいのです。


私の心を自由に出来る神は私の中にしか居ないように、貴方の神様は貴方の中にしか居ませんから、私の意見に反対したっていい、なんなら私の書く話は糞だと罵ってもいいのです。


それでも私は訴えるのを止める気はないし、自身の小説を通して皆様へ思いを問い掛ける事が出来る様になりたい、やっぱり小説には主題があって、その上で描く世界には、そうあれかしと必然性があり、主人公の性格は答を導く鍵であって欲しいと願うのです。


と、ここまで偉そうな事をいっぱい書いてきましたが、要するに私はワナビですと自己紹介している話で、全てが出来るとは言っていない、やりたいと思っている、なんて感じの注釈がいっぱい付くので注意ですね。


それと作品を罵っても良いと言いましたが、言われた相手が反撃しないとは限りません。


他人の信じる神様を侮辱するのは、多くの場合で戦争になりますし、現になろうで色々とやかましく訴える私の感想欄だって、良く焼け野原になってますから、世に訴えることは良いのですけど、相手が全く言い返さない無いとは言いません。


貴方が他人に何かを訴える気があるのなら、ご自身も殴られる覚悟を持ってやってくださいね。


では次は思想文に移りましょう、なろうで言えばエッセイですね、これに関しても非常に考えることが多いです。


思想文と言うのを平たくいえば、小説以上に思想や考えが出るものであり、作者の思うことや考えを直接文章にした、本人の内面や人生観に迫るものです。


こうした思想文は日本では誰でも自由に書いて良く、個人の考えや思想を文章にして世界に向けて発表するのですから、書かれた文章を読んだ読者は好き嫌いと自由に考える事が出来ますので、きっと貴方が考えているよりも本人は十分に考えて文章を書いているでしょう。


極論を言えば感想の受理不受理は作者に委ねられていますし、返信の有無や、寄せられた意見に対してどのようにするのかも作者の自由と言えます。


なぜかといえば個人の思想は、何者にも縛られない事が人権を考える上で重要な部分であり、個人の思想に関して表現の自由があるとされているからです。


しかし、権利や言動と言うモノには必ずと言ってほど責任も伴いますので、持論と他者の権利でぶつかり合いが発生したら、場合によっては作者に説明責任が発生します。


事実を大きく逸脱、又は個人の名誉を著しく毀損する内容ですと社会的、倫理的に問題ですし、他者の発言を持論のために切り刻み、事実誤認を引き起こして良い訳では無いんです。


何故こうした行動が問題なのかといえば、言論の自由は人権相互の元に成り立ってますから、他者の権利も同等に尊重するという基本の上に、自身の権利が成り立つからです。


こうした観点からエッセイで感想欄を塞いでしまうのは、ある意味で責任逃れとも言えますが、それすらも実は親告罪な部分が多く、殆どが見逃され許されてしまっているので、あの極論に行き着いたごく一部の方が、なろうで好き勝手な事を言って、自己の権利を最大限主張することで、やりたい放題している現状もあったりします。


ですが読んだ側の権利はないのかと言えばそうではなく、読者側は自らの感性で自由に思想文を評価出来ると言う自由を与えられているんですよ。


さらに言えば、感想で反論を書く自由はある、もし感想欄が閉じているならメッセージを書くなり、きちんと順序を踏んで反論エッセイを書けば良い、なろうだとジャンルや場合によっては結構難しいですが、作者の文章を読まないという自由もあります。


貴方と同様に考える方が多くなれば、勝手な作者へ反論を書く方の数も増えていくでしょうし、批判の意味を込めた1・1評価はなろうの特性を考えると、人によってはご褒美になる可能性もありますが、より多くの人が付けるなら制裁になり得ます。


そして、事実を逸脱していたりよっぽど差別が酷い内容なら、運営や司法に訴える方法もあるでしょう。


こうして真面目に考えると、なろうのエッセイというジャンルは読・作に関わる双方が、互いに結構な権利を有しながら動いていますので、相手が間違っていると感じても、相手も同じ権利を有しており、その言動に最低限の敬意を払わねば、いくら口で正しいことを言ったとしても思いや精神はなかなか届きませんし、場合によっては届かない事の方が多いです。


ここまで書いたことを振り返ればわかるとは思いますが、批判と言うのは自分の言葉で相手の考え方や、その人生の一部を変えようとする行為ですから、貴方自身が他人に人生観を変えろと言われても、即時に「分かりました」と言えないと思いますし、相手も同じなんです。


だからこそ、意見や要望をするのであれば言葉を正し、相手に伝わるように精一杯の誠意で持って、語らなければならないのです。


私自身も思想文を書く時は自分の出来る範囲で調べ、きちんと言葉を正し、読者が感じた事を自由に書ける様に感想欄を開いて、相手の寄せられた意見の正当性を自身の人生観から吟味し、出来る限りのお返ししていますが、それでも通じない時は結構あります。


こうしたすれ違いの多くは互いの知識や考え方、経験や性格など、人それぞれに様々な事柄が違うから起こるものであり、世界の全てが自分の思い通りになる事など無い証明で、人の身の限界を示していると考えます。


だからこそ他人に全てを押し付けず、私はこう思うけど貴方はこうなのねと、一歩引いて考える事が大事なのだと感じます。


例えば1+1の答が2であるのは常識ですから、1+1は2だと皆さんは思うでしょうし、私自身もそう信じていますが、こうした常識や共通認識はあくまで共通認識なので、世界というのは本当に広く、時には違うことだって有るのです。


そう、時として常識や共通認識は、己と違う人にとって真理では無い時だってあるんです。


実は現代の日本プロレスラーの方で、相棒とご自身が力を合わせる1+1の答は200と答える方が、通常の選手の100倍の力を出せると信じる方が居るんですよ。


私がいくら常識と違うから可怪しいと言ったとしても、恐らくプロレスラーの方も共通認識の答はご存知でしょうし、100倍と言う答はご本人の思想や理念などから導き出された答ですからご本人には真なのです。


その方の答えに対し、私が2ではないですかと問い掛ける事や、2だと思うと意見を述べるのは良いでしょうが、どう考えても2だから小学校から算数やり直せ馬鹿野郎と罵るのは、少しばかり違うし、それこそ傲慢でしょう。


全ての人が信じる神が違っても良いように、世の中の共通認識とはかけ離れた思想でも、場合によっては個人の神聖な部分かも知れませんので、相手の柔らかい部分に踏み入れるかもしれないと考える事で、随分と優しい気持ちになれたりもしますから、貴方が反論を書く時、反論を書かれた時に思い出して頂けると嬉しく思います。


最後になりますが、感想を書く場合は貴方が書いた感想の作者となります、それに対して貴方自身も感想を送る相手である作者と同様の責任が生じる事を、しっかりと自覚して書いてくださると、より良い感想になると思います。


意見が通るか通らないかは相手次第、だからこそ人は思いを言葉にのせて言葉を重ねていくのだと、私はそう貴方にお伝えしたいと思います。

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[一言] 度々来る若輩者なり……。 小説は寧ろ、自分の思いを入れないと成り立たないと思ってます。短編ならまだしも、長編だともう……色々沢山(´-ω-`) 社会問題やよくある犯罪、更には自分自身の苦悩や…
2018/09/19 13:11 退会済み
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