第4話 アレス渓谷の塔
ランドシップに乗った3人と一匹、宇宙猫ハンターのアルフレッド・ローゼンベルガー、ヒーラーの自分ディーノ・カンナヴァーロ、マーズ大学 宇宙猫対策研究室 客員研究員であり、アレスコーポレーションの現CEOの娘、ノーラ・マッカーシー、そして犬型戦闘支援アンドロイド ジョバンニJrは、メインスクリーンに映し出されたアレス・バレー・シティを眺めていた。
火星の大気は地球とは異なる。人が住みやすいようにテラ・フォーミングを勧めるべきだという意見もあるが、現在のところ局地的な地域での検証は勧められ、火星の衛星フォボス、ダイモスにおける実験では一定以上の成果を上げているが、火星という規模でこれを行うまでは、まだ相当量の研究が必要であるのと同時に、そのようなことに予算をかけることに反対する意見も多い。
"火星は誰のものでもない"
火星への有人着陸は、一国家のプロジェクトとして行われたのではない。これには火星の歴史を紐解く重要な歴史的な事件があるのだが、今はそれに触れまい。人類はひとつの命題を突きつけられる。により国家間の利益よりも、人類が未来永劫発展できるためにどうするべきなのかと。その答えは宇宙という未開のフロンティアにある。地球圏を超え、火星を目指して人類社会はひとつになり、ついに国家の枠を超えた巨大なプロジェクトを誕生させ、火星というフロンティアを手に入れたのである。
しかし、火星というフロンティアも、人類を次の階層に引き上げるだけの神秘性は持ち合わせていなかった。当然である。これは現実の物語なのだ。どこに行こうと、人の営みは変わることはないのだ。
火星には現在大小31のベースが存在する。基本的には居住、エネルギー開発、食料プラント、鉱物資源の発掘など、それぞれのベースの中で自給自足が原則であるが、生産能力が向上すれば、余剰生産物を別のベースに輸出する代わりに、パイプラインをつないで安価で高性能なエネルギー資源の提供を受けるなど、ベース間での取引が始まる。
そしてそこには独自の政治、経済、官僚、司法が生まれ、一つ一つのベースがひとつの国家のような役割を果たすようになる。ただ、ここには民族や宗教による衝突は存在しない。強いて言えば、そのベースにおいてどの多国籍企業の色が強いかということくらいでは在るが、結局とのところ、ベースの発展は産業ありきということになり、都市国家というべき社会体制は、イデオロギーのきわめて薄い、ロジカルで無慈悲で、技術至上主義でリアリズムの仮面を被った商人の都となったのである。
「あれがアレスタワーね。かつて火星でもっとも高い建物。数十年にわたり、火星の象徴だったのよね」
ノーラはスクリーンに映し出された直径20キロのドーム型都市の中心にある塔を指差しながら言った。高さ300メートル。地上から150メートルまでが居住可能な高層ビルになっており、その上にさらに150メートルほどの塔がそびえ立っている。
「人類が最初にオゾンレイヤー発生装置を立てた場所なのよね。確か50メートルだったかしら」
外部意識がすぐに参考データを提示する。
「当初の予定では30メートルだったそうです。それによってカバーできる範囲は当時の技術では半径30メートル。そして実験的にあと20メートルを増設して、半径45メートルまで居住可能エリアを拡大したと記録には残っていますね。どうやら許可を取らずに現場の判断でやったそうです」
「当時、地球との連絡はいくつかの中継ポイントを介して行われていたからな。慎重にことを進めたい地球のやりようは、火星での活動に慣れ始めた開拓民にとっては、家出した先で親に電話で指示をされるような気分だったに違いないと、俺は思っているがね」
ローゼンベルガーは、実はこの手の話が好きだった。もしも奴が今の職業――一応軍の所属ではあるが、組織に属しているというよりもハンターとして雇われている形に近い――についていなかったら、火星を隅々まで探検して歩きたいともらしたことを思い出した。
「そうよね。火星はあのときから、地球とは独立した歴史を刻み始めたのかも知れないわね。その場所を、人間から宇宙猫が奪い取ろうとしているのよね。まさかそんなことになるとは、夢にも思わなかったでしょうね。当時の開拓民たちは」
「飼い犬に噛まれるならまだしも、相手は猫だからな」
あいつはJJの頭をなでながら応えた。
ランドシップはタワーの上空に近づいていく。
「さぁ、あと10分で着陸だ。各自装備を確認。自己診断プログラムに頼らず、マニュアルで行うんだ」
ぴりぴりとした空気が流れる。どうもいつもと勝手が違う。あいつは何をそんなにイラついているのか。
「見えてきたぞ、最上階から侵入する。一応無人ということになっているが、それはあまり宛にするな。人でも獣でも、あそこにいるものはろくなものじゃない。油断は禁物だ」
ノーラが装備を点検しながら異をトラなえる。
「一応、監視システムに異常は見られないわ。老朽化しているとはいえ、アレスコーポレーションの歴史的な建造物よ。そうやすやすと宇宙猫の侵入を許したりはしないでしょう」
ノーラが言うとおり、事前のチェックでもアレスタワーの警備システムに異常は見られなかった。このタワーが完全無人化されたのは、今から10年ほど前のことである。タワーそのものは安全だが、地上では宇宙猫がいつどこから襲ってくるかわからない。タワーの役割はアレス・バレー・シティ全体を覆う人工的なオゾン層を形成し、制御することにある。
火星上のベースはすべて人工的なオゾン層によって地球とそれほど代わらない生活環境を維持する。もちろん完全に同じというわけにはいかない。人類が火星で生活するためには、まず人口オゾン層で環境を安定させ、その中で人間そのものが火星の環境に対応できるよう、ナノテクノロジーや磁場コントロールなどを駆使して火星で不自由なく生活できるように適応してきたのである。
"火星にも変わってもらい、人もまた変わることで、どちらにも負担のない共存を実現する"
火星開拓のある種のスローガンであるが、とどのつまりは、テクノロジーなくして、火星と人の共存はありえない――高度な技術開発ができる企業が中心にあることで、火星開拓は成り立っているということである。
宇宙猫に襲われるリスクを最大限に下げる方法――宇宙猫の生態がわからず駆逐できないのであれば、人間がその地域から立ち退けばいい。これがもし、地球上での出来事であれば、おそらくはそのような発想にはならないのだろう。火星にはまたまだ居住可能な地域が広大に残っている。
宇宙猫の直接的な被害にあっているベースは火星でもっとも古い都市、アレス・バレー・シティをはじめ、13の都市が顕著であり、残りの中堅から新しい都市は水際対策で、宇宙猫が街の中に住み着かないようにしている。これはある程度の成果を得ているが、そこで新たな問題が起きている。
宇宙猫には大きく分けて二種類おり、アレス・バレー・シティのように都市に住み着き、人間と縄張りを争う都市猫と、火星の大地で野生化し、地球のライオンやトラのような肉食獣のように、ある程度群れで行動し、外部から都市に侵入して人を捕食したり、プラントを荒らしたりする野生猫である。
野生宇宙猫は身体我が大きく、力が強い。まさに猛獣であり、力ずくで襲撃されると簡単に侵入を許してしまう。そもそも人類にとって火星は天敵のいないテリトリーであったので、外部からの攻撃にそもそも備えていないのである。これについては、センサーと自動防衛システムの導入により一定の成果を上げているが、まったく死角がないというわけではない。また宇宙猫も知恵をつけ、簡単に罠にかかることも少なくなり、時として数十頭単位の群れで行動することがある。
このときはもはや戦争である。群れは大概、非常に強く、賢いリーダーによって率いられている。こいつを倒すのが、僕とあいつの仕事ということになる。スペシャリストには、スペシャリストを当てるしかないのである。
「スラム化した場所では、生き残るためのルールというのができる。そのルールの中では敵も見方も同じ。場合によっては人と宇宙猫が共存しているということも、俺はあるんじゃないかと考えている」
装備のチェックを終えたローゼンベルガーは、ランドシップの操縦をオートからマニュアルに切り替え、舵をとる。
「興味深い話ね。それでこそ、あの場所に行く意味というものがあるわ。さあ、空中庭園が見えてきたわよ」
空中庭園――それはアレスタワーが観光名所だった頃の展望台の呼び名だ。
「かつて火星で一番にぎやかだった場所よ。不気味よね。誰も利用していないのに。ちゃんと手入れはされている。システムが正常に動いているってことかしらね」
「さぁ、ピクニックの時間だ。自分たちがランチにならないように、気を引き締めていくぞ」
アルフレッド・ローゼンベルガーの冗談で、女性が笑うところを僕はこれまで見たことがなかった。
「なにそれ、アルフレッド、あなたって、面白いこと言える人だったのね」
ノーラ・マッカーシーは、奴の冗談で始めて笑った女性として、僕のメモリーに記録された。