第1話 目覚め
目覚めるとそこは、屋外階段の踊り場だった。
どうしてそうなのか、どうなってこうなのか。そういう疑問がわきあがるよりも先に、僕はそれを理解した。もしも踊り場に大の字になっていたところから意識を取り戻したのならば、そこがどこなのかしばらく考える余地があっただろう。
僕はらせん状の階段の踊り場に足を投げ出し、扉に寄りかかるようにした状態で意識を取り戻した。
だから目の前には鉄格子のような手すりと下りの階段が見えたし、左手にはのぼりの階段が見えた。振り返って右側を見るとガラス張りのビルの側面、そして隣のビルが見えた。およそ5階建てのビル群から上に生えている10階建てのビルの屋上が見えている。ここはおそらく15階かそれ以上の高さに位置し、上を見上げると更に10階ほどの高さがあることが確認できた。
僕はどうやら階段の踊り場で気を失っていたのか、或いは眠ってしまったらしい。
どうしようもない疲労感が全身を覆っている。身体のあちこちに痛みもある。
どうしてこうなったのか。
僕はどうしてこんな場所で意識を失い、そして目覚めたのか。
目覚めた理由は寒さだった。日はてっぺんにあるが風は冷たく、陽は僕を照らすことができずにいる。目の前にあるビルの窓に太陽が反射し、僕の顔のすぐ横に光が射している。僕はきっとその光の眩しさと、冷たい風によって意識を回復したのだろう。
まずは起き上がらなければと身体に力を入れ、あれこれ考えるのはそれからにしようと膝を立て、腰を浮かした瞬間に僕の脳裏に強烈な不安がよぎった。
ダメだ。立ってはいけない。
立ち上がろうと身体の方に寄せた右足が震えている。それは疲労から来る痙攣のようなものかと思ったが、僕の心の奥底に沈んでいる記憶の断片が見えざる手のように僕の肩を掴み『座っていろ、頭を上げるな』と警告をした。
僕はその命令にどうしようもなく従わなければいけないような感覚に囚われ、今ある状況を理解するよりも優先的に僕を引き留めた記憶の断片について考えなければいけないと反射的に思った。そしてもう一度その記憶の断片に思いを巡らせた。
『座っていろ、頭を上げるな』
それは僕の声ではなかった。そしてそれは見えざる手ではなく、はっきりと感触を思い出せるほどの、大きく、力強く、安心感のある……いや、もっと何か違う大きな存在である誰かの手が、僕の肩をがっちりと掴んだのではなかったか。
僕はそれを確かめるように自分の左方に手を当てた。
「まったく、おせっかいな奴め」
僕はそう口にして、いったい誰のことを言っているのかを思えだせない自分の状況に愕然とした。
「こいつは参ったな。おそらくとても危険な状況なんだろうけれど、何も思い出せないや」
何と言うことはない。僕はまず、自分が誰なのかも定かではない。これだけの記憶障害を起こすような『身体の異変』が僕の身に降りかかり、そしてきっとここでこうしていることが、その時取り得た最良の方法だったのだろう。あいつにしては上出来だ。
「あいつって、だから誰なんだよ」
自分のことを思い出すよりも、まず誰だかわからないが、おそらく自分を命の危機から救ってくれた誰かを思い出すことの方が重要だと直感した。自分が誰であるのかよりも重要な誰かは、今ここにはいないのである。僕はそれをなんとかしなければいけないという確かな衝動と、その一方でその誰かに対して悪態の一つや二つを吐いてやらないと気が済まないという感情も自分の中に確認することができた。
自分は誰なのか。そして"あいつ"とは何者なのかを探るにあたって僕は自分の身体検査を始めた。
とりあえず痛みはあるものの四肢は動くし、五指も感覚はある。身体のところどころに打ち身や擦り傷があるがそれらは断片的でどこか不自然である。そのことから推測するに僕は何ものかの攻撃を受け、それを防御しつつダメージが蓄積していき、緊急性のある部位に関してはその場で手当てをしたのであろう。一部の皮膚組織が真新しい物になっているのはそのためで、通常そのような施術を行う場合は、他の皮膚と区別が着かないように"化粧"をするのだが、どうやらそういった余裕はまるでなかったようだ。
自分の手を眺める。両方の手の指には金属製の指輪のようなものが着けてある。それを見て僕は自分が何者であるかのとっかかりを掴むことができた。自分が指にはめている物はNMMRといって、高度な医療器具だ。一般的な治療に使うリングは両手にそれぞれ二つから三つあれば、大概の応急処置はできるのだが、両手首に付けているリストバンドと両手合わせて10のリングをつけているというのは、軍関係、それもかなり特殊な任務を任された特殊部隊の一員であることを意味している。
自分はメディックかヒーラーであり、身体の負傷をから考えると100パーセント、ヒーラーであると断言できる。
メディックは主に前線から下がって兵士の治療にあたる。大きな戦場では野戦病院で任務を遂行する。対してヒーラーは実戦部隊に同行し、戦闘員のダメージコントロールを主に行う。通常部隊編成の中の一人だが、極めて稀なケースとして専属で一人の戦闘員のバックアップをすることがある。自分はおそらくそういうことを生業としている職業軍人なのか、傭兵なのか、私兵なのか。つまりはそのバックアップ対象の誰かによって、自分はこの場所に寝かされていたのだと推測できる。
「しばらくここで休んでいろ。ヒーラーがやられちまったら、敵に勝っても、無事に生還はできないからな」
大きな影、それは自分が担当している戦闘員なのだろう。特殊部隊のことをコマンドーと呼ぶがその中でも単独で作戦行動を行う特務曹長をハンターと呼ぶ。そういうことはすらすらと思い出せるのに、どういうわけだかいまだに自分の名前も自分をこんなところに置き去りにした奴のことがまるで思い出せないのはなぜなのだろう。知識は引き出せるが記憶が引き出せない。
なるほど。あまり想像はしたくない事だが、おそらく思い出すのを身体が拒絶をしているのだろう。それを思い出した途端に、きっと冷静ではいられないようなこれまでの境遇や自分がしてきたこと、奴がしでかしたことの重圧に耐えられるだけの体力の回復ができていないということなのだろう。
「そうなるとやることは一つだな」
腰に巻いたベルトのバックルに手を当てる。ヴァーチャルコンソールを起動させ身体チェックを始める。すでにNMMが体内で破壊された細胞の修復を始めているが、通常の自然治癒モードでは完治するまでに日は暮れてしまうだろう。特に左の足首、膝に大きなダメージを抱えていることがわる。
「ディーノ・カンナヴァーロ……それが僕の名前か」
目の前に現れたヴァーチャルスクリーンに、自分の身体の立体モデルが映し出される。画面の右上にその名前が書かれているがどうも自分の名前であることを実感できないでいた。
「なんだか、どこかの料理人みたいな名前だな……」
そうつぶやいた瞬間、大きな笑い声が頭の中で響きわたり、その男は僕をからかうようにこう言った。
「お前さんの包丁さばきはいつみてもほれぼれするね。世が世なら料理の鉄人として讃えられただろうな。アイアン・シェフ――ディーノ・カンナヴァーロとかな」
僕は無性に腹が立って言い返した。
「うるさい、黙れ! この死にぞこないが」
奴は皮肉を込めて答える。
「随分と罰当たりなことを言うようになったじゃないか。お前さん、日に日に口が悪くなってないか? 人の身体を治すよりも、自分の口の悪さをどうにかしないと、また女に振られるぜ」
犬の鳴き声がする。
「見ろ、JJも心配しているぜ」
その犬は声の主と同様にとても大きな犬だった。いや、ただの犬ではない。見た目はビーグル犬だがその大きさは家庭で買うような小型犬とはサイズが倍近く違っている。そして奴と同じように体中に武装をしている――軍用アンドロイド犬である。
この軍用アンドロイド犬の正式な名前はBSA TYPE Dカスタム ビーグル (犬型戦闘支援アンドロイド=Dog type battle support android)である。太古の時代からウサギ狩りの猟犬として親しまれてきた嗅覚の優れたワーキングドッグであり、有名なキャラクターのモデルでもあるビーグルがプロトタイプのデザインとして選ばれたのにはもっともポピュラーな犬であることと、シェパードやドーベルマンは警察犬や軍用犬として有名だが、あえて一般家庭で買われることが多い犬種を選ぶことで、時と場合によって軍用であることをカムフラージュする目的もあったとされるが、そのあたりは定かではない。
おそらく理由はもっと別のところにある。それはあいつの顔を観ればすぐにわかった。
「ジョバンニ……」
軍はあいつが飼っていた犬をモチーフにしたに違いなかった。犬としてのしぐさや反応はあいつの愛犬に対する記憶データーをもとに構築されている。軍としては支援兵器としてのBSAの能力が最大限に活かされるために、支援対象者とのシンクロ率をなるべく高めたかったのだろう。まったく悪い冗談である。
しかしどんなに似ていてもそれは、死んでしまった愛犬とは違う。つい、昔の名前で呼んでしまうが、アンドロイドはアンドロイドである。だが、どういうわけかあいつはそれを受け入れ、最初はジョバンニと呼び、次にはジョバンニJrと呼び、今ではJJと呼ぶようになった。二人はいいコンビである。
「コンビ……相棒」
ヴァーチャルモニターで赤く点灯していた部位が黄色に変わった。80パーセントまで回復したことを示す。こうしてはいられない。早くあいつと合流しなければ。
「しかし、それにはこの状況を打破しないといけないな」
僕はようやく自分が置かれている状況を把握した。ここは人類が火星に降り立ち、最初に都市を建設したアレス・バレー・シティ。一部建物の老朽化が進み、スラム化しているこの地域は恰好の奴らのねぐらとなっている。
奴ら……、それは僕のことを"相棒"と呼ぶ、僕らの敵、奴の仇――JJのモチーフとなった奴が飼っていたビーグル犬を惨殺した相手――宇宙猫である。
今回の任務はある人物の護衛が目的だった。ここは宇宙猫のねぐらであるが故、奴らの生態を研究するにはうってつけの場所でもあった。無人探査機やアンドロイドによる観察が行われるのだが、奴らは警戒心が強く、姿を捉えてもすぐに迎撃されてしまい、なかなか十分な研究データをなかなか得られないでいた。そこで軍は宇宙猫研究チームの護衛を僕らに命じたのであった。
当初それは難しい任務だと奴も僕も考えていなかった。しかしそれは大きな間違いであった。
彼女――ノーラ・マッカーシー マーズ大学 宇宙猫対策研究室 客員研究員は、代々軍官僚の名家の娘で、火星開発事業で名をはせているアレスコーポレーションの重要ポストにあり、現在軍が出資している研究所に客室研究員として迎えられているエリート中のエリートだ。僕らのような稼業とはまるで違う世界に生きていながら、宇宙猫を撲滅するという共通目的を持っている。本来協力し合える者同士の組み合わせは、最初の挨拶の時からきな臭いムードに包まれていた。
「BSAの調子はどう? プロトタイプにあなたのかつて買っていた犬の生態情報をインプットすることを提案したのは私なのよ。シンクロ率はとてもいいと報告は受けているわ」
もともと女には縁遠いあいつの顔色は、いよいようんざりとなっていることに最初に気付いたのは僕だったのか、それともJJだったのか。三人……いや、二人と一匹は、とんでもないお荷物を背負わされたとほぼ同時に感じたに違いない。
「アルフレッド・ローゼンベルガー特務曹長、それにディーノ・カンナヴァーロ准尉、二人にはこれから私の護衛を命じます。堅苦しい呼び方は好きじゃないの。私のことはノーラと呼んでちょうだいね。私もアルフレッド、ディーノと呼ばせてもらうわね。それはもちろんこの任務の間だけのことよ。別にずっと仲良くやっていこうってわけじゃないから、勘違いしないでね」
アルフレッド・ローゼンベルガーは今朝から不機嫌だった。
出撃前、いつもは冗談を言いながらまるでキャンプに行く準備でもしているかのように陽気に振舞うあいつは、一言もしゃべらずに入念に装備の点検をしていた。本来当たり前のことが、妙に違和感を覚えた。
「どうしたんだい。らしくもない」
たまらず僕から話しかけた。
「嫌な予感しか、しねぇんだ」
ローゼンベルガーの顔は真剣そのものだった。
「危ないと思ったら逃げればいい。基本的な作戦は隠密行動だ。何も心配することはないだろう」
いつもとは役割が逆で、どうにも調子が狂う。
「相棒、この年齢の嫌な予感っていうのはなぁ……」
ローゼンベルガーは一度チェックが終わった武装をもう一度手に取って確認をし始めた。
「大概当たるもんなのさ。特に女が絡むと的中率は格段に上がる」
ローゼンベルガーは手を止め、僕を見据えて意外なことを言い始めた。
「お前さん、ああいうタイプ、好きだろう?」
それからの3分余り、僕はそんなことはないという言葉を何十回も繰り返し、理屈に合わない言葉を並べて奴の言葉を否定した。
「図星じゃないか。興味のない女について、お前さんがそこまで口を開くことを、この方聞いたことがないぜ、相棒」
それはもう、最高の笑顔といったさわやかな笑みを浮かべ、ローゼンベルガーは席を立つ。
「おい、待てよ、アルフレッド、なんでそうなるんだよ。おい!」
ローゼンベルガーの後をJJがついて歩く。その後ろを僕は追いかけて行ったがその先にノーラの姿を見たとき――いや、彼女のブロンズの髪が朝日に輝くのを見たときに僕は彼女に一目ぼれをしてしまったことを、認めざるを得なかった。
なぜ、"目覚めるとそこは、屋外階段の踊り場だった"のかといえば、それは、"僕が彼女に一目ぼれをしてしまったから"と言うしかないのだ。
すべては、僕が招いた凶事だった。