邂逅
魔大陸とアルメリア大陸の間に、交流はない。
しかし、それはあくまで建前であり、戦争状態にない現在、互いに貴重な品を求めて商人達による物資のやり取りが頻繁に執り行われていたらしい。
奴隷などもその一つで、お互い処分に困った犯罪奴隷などをやり取りしているんだとか。
そういった背景からか、悪魔は攫った俺達を隣国のアカリナにいた奴隷商に預けた後、すぐに姿を消してしまった。
これなら思ったより早く逃げ出せるかもと思ったが、さすがに奴隷商はそういった手合いに慣れていたようで、すぐに魔力封じの手錠で拘束された上で奴隷の首輪を付けられ、目的地に着くまで猛獣を入れる檻のようなものに詰め込まれてしまった。
そうして、結局脱出できないままに海を渡り、砂漠を超えて連れて行かれたのは、外観全て魔鉱石で作られた結晶の城。まさに魔の王を名乗る者の居城に相応しく、見ているだけで吸い込まれそうになる深い闇の色を湛えたそれは、物理的な城壁だけでなく、その周辺に広がる石造りの城下町も含めて強力な魔力結界に覆われていて、外敵の侵入を阻んでいる。
「レン君ー、そこの部屋の掃除お願いね」
「分かりました」
そんな魔王城で、俺は使用人として働いていた。今指示を出してきたのは、ここのメイド長的な存在で、ルナさんと呼ばれている。
艶やかな黒髪に、それとは対照的な真っ白な肌を持ち、大きすぎず小さすぎず、それでいて女性らしい滑らかな曲線を描いた身体は人外の美を感じさせるが、不思議と近寄りがたい雰囲気はなく、むしろその優しげな笑顔が相まって自然と心を許してしまうような、そんな魅力のある女性だ。
そんなルナさんの指示の下、俺は両開きの大きめのドアを開けて中に入る。
そこそこ広く、中央に会談用の円卓がある他、見るからに高そうな絵画などが飾られているこの部屋は、この城の応接室だ。
一人で掃除しろと言われたら半日はかかりそうな場所だが、魔法が使えるこの世界においてはその限りでもない。風を魔法で操作し、埃や塵を集めたら、円卓や美術品を一つずつ丁寧に磨き、ピカピカにする。さすがに絵画は磨くわけにいかないが、額縁など絵以外のところは徹底的に綺麗にする。多少サボったからと言って怒るような人もいないのだが、そこは個人的なこだわりというやつだ。綺麗になれば気分も良いしね。
しかし、だからと言って時間をかけ過ぎると他の部屋を掃除できずに終わって本末転倒だ。1時間以内に終わるようにテキパキとこなす。
「れ、レイラ! 離さないでよ? ぜっっったいに離さないでよ!?」
「あ、それレン兄から聞いて知ってるよ、フリってやつだよね?」
「違うから!!」
掃除していると、窓の外から声が聞こえてきた。開けて様子を見てみると、案の定、レイラがケビンを抱えて飛び、屋根のあたりまで登っていた。
大方、また魔王配下の誰かが喧嘩して屋根の一角を吹っ飛ばしたために修理依頼が来たのだろう。地上から高さ70メートルくらいあるので、いつも飛びまわって慣れているレイラでもなければかなり怖い。ケビンは泣きそうな顔で必死に崩れた屋根を創造魔法で直していた。
「おーい、頑張ってるかー?」
なんとなしに、声をかけてみる。すると、レイラがこちらに気付いて満面の笑みを浮かべ、
「あ、レン兄! うん、もうちょっとで終わるよー!」
こちらに向かって手を振って来た。もちろん、ケビンから手を離してだ。
「あっ」
「あぁぁぁぁ!!?」
やっちゃった、とでも言いたげなレイラの間の抜けた声に頭を抱えながら、俺は悲鳴を上げて落ちてくるケビンを受け止めた。
掃除が終わると、昼食の準備だ。かなり大きな城ではあるが、そこに勤めている魔人は思いのほか少ない。なので、むしろ孤児院にいた頃より作る食事の量は減ったくらいだ。
「これはもうちょっとハーブを足して……」
「はーい」
そして魔大陸の食材は、孤児院にいた時と打って変わって魔物の食材が多く、香辛料や野菜も知っている何かに似てはいるが全く別物だ。そのせいで、以前は使えた前世での料理知識がほとんど意味をなさなくなってしまったが、ルナさんに教えられたおかげで上達し、今ではちょっとした特技になっている。
「きゃあ!?」
「わっ、フィオナ、大丈夫か!?」
隣で、栗色の髪をショートボブにした少女が持ち上げようとした鍋をひっくり返してしまう。慌てて確認すると、腕に熱々のスープがかかって少し赤くなっていた。
「だ、大丈夫です、レンお兄さん、これくらい治せますから……」
そう言って、フィオナは赤くなった自分の腕に手を翳し、魔法をかける。すると、瞬く間に火傷が治り、皮膚から赤みが引いて行った。
フィオナはいわゆるドジっ子で、孤児院にいた時もよく転んでは怪我をしていたのだが、そのせいか治癒魔法がやたら上手で、自分だけでなく他人すらほぼ変わらない精度で治癒できる。難点は、まだ小さいせいで魔力量が少なく、大きな怪我は治せないことだが、それは成長するにつれて改善されることなので、些細な問題だろう。
「それより、ごめんなさい、せっかく作ったのに……」
「大丈夫ですよ、失敗は誰にでもあります。これくらいまた作ればいいんです」
しょぼんと項垂れてしまったフィオナに視線を合わせるように屈んで、ルナさんが優しく微笑みかける。それだけで、フィオナもふっと表情を柔らげ、いくばか元気を取り戻したように見えた。
「さ、それでは作り直しましょうか」
ぽんっと手を叩きながら促すルナさんを見て敵わないなぁと思いつつ、俺はもう一度スープ作りに戻って行った。
料理が終わり、午後になると、魔王城の警備長をしている獅子の獣人、ゴルドさんから剣の手解きを受ける時間になる。
獣人であるゴルドさんの見た目は一言で言うならば筋骨隆々の偉丈夫と言った具合で、顔を包むように這えたライオンのような鬣と無口な性格もあって近寄りがたい雰囲気があるが、こうして訓練に誘ってくれたりなど案外気さくな面もある。
ちなみに、獣人と亜人は見た目が似ていることが多いためよく混同されるが、実際には全く別の存在だ。
亜人は、魔物の前世を持ってしまったためにその特徴が体に現れてしまった“人間”を祖とし、魔物の力を行使する者達を総称する言葉だが、獣人はあくまで獣の特徴を持った魔人を指す。
亜人はその力の大半を前世の記憶に頼っているため、子供が生まれても親ほどの力を発揮することはあまりなく、同種の亜人と子を成し続けたとしても徐々にその血は薄れやがて完全な人間に戻ると言われているが、獣人はれっきとした種族であるためにきちんとその力が親から子へ遺伝し、別の種族と子を成してもそう簡単に血は薄れないのだ。
もっとも、そうは言ってもやはり見た目が似ているがゆえに亜人は迫害の対象になってしまうのだが……閑話休題。
ゴルドさん曰く、「魔王様に不敬を働く輩も少なくはない、ただの使用人と言えどもいざという時自分の身くらいは守れるようにしておけ」とのことだが、俺自身、家族を守れるくらいには強くありたいので願ったりかなったりだ。
訓練用の木剣を構え、ゴルドさんに相対する。
ゴルドさんはいつも、木剣を構えたりはしない。ぶらりと下げたまま、こちらの準備が整うのを待っている。
大きく息を吸い、ゆっくり吐き出しながら余計な力を抜く。
ゴルドさんの動きを見逃さないようにじっと目を凝らし、いつでも来いと気合を入れ――その心が一瞬でへし折られる。
「っ!!!」
ゴルドさんが特別な何かをしたわけではない。ただ、その“殺気”を俺に向けただけ。それだけで、俺の身体中から嫌な汗が噴き出し、恐怖で膝が震えだす。ゴルドさんの一撃をどう対処しようとしていたか、その思考も全てが真っ白になり……
気づけば、俺の首元に木剣が添えられていた。
「…………はぁ」
向けられていた殺気が収まり、俺はその場で腰を抜かして座り込む。
剣の手解きとは言ったが、実際にやっているのは基本的にはこれだけのこと。ゴルドさんの殺気に耐え、木剣の初撃を防ぐ、ただそれだけだ。
木剣を振る速度はそこまで速いものではなく、何もなければ俺だって防げる程度に加減してくれているが、それでも俺は何度やってもその一撃を防ぐどころか、指の一本も動かすことが出来ていない。「戦うのに必要なのは、技術や才能よりもまず、臆せず立ち向かう覚悟だ」との理由からこればかりやっているが、何度やっても達成できる気がしない。
悪魔に立ち向かえたのは、あいつが俺達を殺すつもりなどなく手加減されていたからなんだと、嫌というほど実感させられた。
「……もう一度やるか?」
「はい、お願いします」
呼吸を落ち着け、なんとか動けるようになると、俺は頭を下げて教えを乞う。
これで強くなれているかは分からないが、少なくとも、またあの悪魔のような存在と戦うようになった時、今度こそ家族を守れるようにならなければ。
そう思い、俺は再びゴルドさんに対峙した。
そうして訓練を終えれば、また夕食を作って食べ、後は眠るだけとなる。
部屋は個人部屋。そう、使用人なのに個人部屋だ。ルナさん曰く部屋が余ってるからだそうだが、一応奴隷の身分に大して全く好待遇だ。むしろ孤児院に居た時より生活がよくなったくらいで――
「っておかしいだろぉぉぉぉぉ!!!」
「わわっ、レン兄いきなりどうしたの?」
突然大声を上げた俺に驚きながら、レイラが首を傾げる。レイラ以外にも、フィオナやケビンまで俺に怪訝な顔を向けてきた。
個人部屋とは言うものの、今までずっと大人数で雑魚寝していたからか、みんな一人は寂しいと、なんだかんだで俺の部屋に集まることが多いのだが、今はそれはどうでもいい。
「なんで普通に魔王城の生活に馴染んでるんだ俺ら……」
「えっ、師匠が普通に過ごしておけって言ったんでしょ?」
「そうだけどね、そうだけどね!」
ケビンの言葉に、またしても頭を抱える。
俺の予想に反し、あの悪魔はレイラだけでなく、ケビンとフィオナまで攫ってきた。そこまではまぁ、いい。良くはないがひとまず置いておく。上質な魂云々と大層な言い回しをしたくせに結局ある程度魔法が使えるなら誰でもよかったのかよと叫びたいがいいったらいいのだ。
ともあれ、そうして攫われて、魔王城に来た。しかし、そこで俺達と魔王城の人達の間に認識の祖語があった。
あの悪魔は、俺達を魔王復活の生贄だと言っていた。なので、着いたらすぐにでも怪しげな儀式を始めるのかと思いきや、手渡されたのは箒、雑巾、バケツ、はたきの掃除道具一式。
困惑する俺達をよそに、それを手渡した張本人であるルナさんは一言、「これで掃除も楽になるわね」と笑顔で言っていたのを覚えている。
その後、俺達は本当に使用人として働かされた。まるで、最初からそのつもりで奴隷として買い取ったかのように。
なので、ひとまずは大人しくして様子を見ようと言うことにしたのだが、そのまま本当に何事もないまま半年の月日が流れてしまっていた。
働かされたとは言うが、別に馬車馬の如く働かされているわけでもなく、休みの日はないが休憩は十分に取らせてもらえるし、自由時間もある程度は用意されている。
もちろん、許可なく城を出ることは禁止されているので気持ちよく飛べないとレイラはやや不満そうだったが、気づけば「お城の外の窓ふきは私がやる!」と言って城の周りを飛びまわり、窓ふきついでに明らかにいらない動きを交えて遊ぶようになったし、ケビンなどは魔王城の魔力結界を見て大興奮し、最近など刻印魔法の研究をしているという魔王配下の悪魔、ディバインにあれこれ質問しているのを見かけるなど、割と魔王城ライフをエンジョイしていた。
「攫われて来たのに、一言言っただけで馴染むなんて、お前ら適応力高いよなぁ」
「レンお兄さんも大概馴染んでると思いますが……」
ぼやくと、フィオナから控えめな声で突っ込みを入れられた。
何を言うか、俺は常に警戒心Maxだぞ。ルナさんと新作料理の開発したり、より素早く綺麗に掃除するための手法を考案したり、そもそもケビンにディバインのことを紹介したのは俺だし、最近肩凝ってきたと嘆いている魔王配下の方々のマッサージをして感謝されたりしているが、まだ馴染んでなどいない。いないったらいないのだ。
「まぁそれはともかく、せめてミラ先生達に俺達が無事なことを伝えたいところだな」
話題を逸らすように言うと、3人とも一段と表情を引き締めて、真面目に話を聞く体勢になる。
最初こそ、まだ生贄の数が足りていないからそれまでの間は適当に働かせておこう、的な考えで使用人とされているのかと思っていたが、どうにも俺達以外の使用人が増える気配もなく、気付けばこれだけの日々が過ぎていた。
魔王城のみんなの考えは分からないが、少なくともこれだけの間音沙汰なしでは、ミラ先生達には俺達はもう死んだものと思われていても不思議じゃない。あの時一緒に戦ったティオが無事なのはレイラ達に聞いたので分かっているが、なんとか脱出ないし、生存報告くらいはしたいところだ。
「明日ルナさんにお願いして、お手紙書いてみるとか?」
レイラがそう提案するが、実際のところ難しいと思う。ただでさえ、魔大陸とアルメリア大陸の物流は表向き存在しないことになっているのだから、例え手紙の一通だろうと密輸という形になる。誰に頼むか分からないが、一体いくら取られるか分かったもんじゃない。
とはいえ、それくらいしか現時点では思いつかないのも事実だ。
「そうだな、明日ダメ元で聞いてみるとして、今日は寝るとするか」
「うん」
「分かった!」
「分かりました」
レイラ、ケビン、フィオナがそれぞれ頷き、その場は解散となった。
その日の夜、俺は誰一人出歩いていない魔王城の廊下を歩いていた。
《創造:静寂》はもちろん、ここ半年練習して覚えた《創造:隠蔽》――周囲の光を屈折させて、自分の姿が周りから透けて見えるようになる創造魔法を重ね掛けた上で、だ。
その理由はもちろん、この城から、引いては魔大陸から脱出する手段を見つけるため。しかし、俺達だけでの脱出が現実的でないことはここ半年調べただけでも十分わかっている。
まず大前提として、魔大陸からアルメリア大陸に向かう足がない。船で運んでもらうにも金がかかるし、当然そんなものは持ち合わせていない。密航するにしても、魔物の生息域を慎重に避けながらになるために最低でも2週間は超える長旅だ。とてもじゃないがバレずに済むとも思えないし、もし見つかって海の上に放り出されでもしたら、もれなく全員海上で遭難するハメになってしまう。
ならばドワル大砂漠を超えてランバルトまで行くかと言われたら、ロクな知識も装備もなしに子供4人の歩き旅で超えられるわけがない。ただの砂漠にしてもそうなのに、ドワル大砂漠にはケルベロスなんて目じゃないくらい凶悪な魔物がうようよしているのだ。賭けるにしても分が悪いどころの話ではない。
ついでに、魔王城自体がドワル大砂漠の真っただ中にあるオアシス周辺に出来た城であるがゆえに、海を越えるにしても結局は砂漠越え必須だ。もう自力ではどうしようもない。
しかし逆に言えば、金さえどうにかなれば運んでくれる輩はどこかにいるということでもある。
こんな城だ、それなりに宝なりなんなり溜め込んでいるだろうし、宝物庫のある場所は既に分かっている。取り出す方法についても、この城は純魔鉱石製であるために創造魔法による改変を受けやすい。俺なら簡単に侵入できるだろう。
最後に、この魔王城のある街から抜け出す方法だが……これは、魔力結界をどうにかする必要がある。
この魔力結界は出入り両方に制限がかかり、特殊な刻印魔法の施された通行証がなければ通り抜けられないようになっている。そして、結界そのものもまた刻印魔法で維持されている。
ちなみに刻印魔法というのは、人が自分の魔力を操作して魔法を使うのに対し、魔石に特殊な文字を刻み、それに蓄えられた魔力を使って刻印で記された魔法を誰でも発動できるようにした物を言う。
そう聞くと、誰でも手軽に魔法が使える便利な物と思われがちだが、実際は魔石が蓄えられる魔力に限度があるので、軍事用のバカでかい魔石を使った戦略級魔法でもない限り、そう強力な魔法は使えないというのが一般的だ。
単に光ったり、ちょっとした火を起こしたりする程度なら、持続時間にもよるが掌サイズの魔石で十分なので問題ない。しかし、強力な魔法を放とうとすればするほど巨大な魔石が必要になり、例えば俺が悪魔と戦った時に使った《創造:岩巨人》を刻印魔法で発動させようとすれば、直径50㎝ほどの巨大な魔石が必要になる。とてもじゃないが、戦闘時を想定して持ち歩くなど出来ない。
では、《創造:岩巨人》どころか、街一つをすっぽり覆いつくすほど大規模な結界魔法をどうやって刻印魔法で発動させているのかと言えば、答えは一つしかない。
この魔王城――純魔鉱石製のこれ自体が媒体となって、結界を発動・維持しているのだ。
通行証さえ手に入れば話は早いが、それは基本的に門番しかもっていないらしいし、どのような見た目なのかも知らないので手に入れようがない。
となれば必然、この城のどこかにある刻印を崩し、結界そのものを破壊するしかないわけだが……
「どこにもないなぁ」
夜中にこうしてひっそりと、あるいは掃除しながらに、マッサージだとかなんとか理由を付けては探し回ったが、ついぞそれらしいものは発見できないまま半年も経ってしまっている。これだけ探してないのだから、これまで立ち入った部屋にはもうないと見たほうがいいかもしれない。
「となると、まだ行ったことのない部屋は……」
半年間、一度も立ち入ったことのない部屋。そう考えると、俺の頭には一つしか浮かばなかった。
「魔王の部屋か……」
魔王城の、3つある塔の中央に位置する、最も高い塔の最上階に、その部屋はあると聞いている。まだ新入りの俺達には早いと言われて入る機会がなかったのだが、今思えば近づかれると困る何かがあるのかもしれない。
「いや、封印されたっていう魔王がいるのか?」
キリストのように、十字架に張り付けにされ眠る大柄の男をイメージしながら螺旋階段を登っていくと、やがてその部屋の前に到着する。
魔王の部屋というと、よくあるゲームのように、両開きの大きな扉の先に、勇者と戦う広い空間があったりするイメージだが、ここではさすがにそんなことはなく、普通の扉だった。
まぁ、普通に考えて魔王がわざわざ勇者と戦うための部屋を私室として用意するわけがないし、そもそも招かれざる客なのだから考慮しないのは当然だろう。もっとも、今回の俺もまた招かれざる客なので、堂々と扉を開けるようなことはしない。
「……《創造》」
扉の脇に掌を添えて、創造魔法で俺一人が通れるだけの穴を作る。それを潜り抜け、穴を塞ぐと、改めて中の様子を見た。
予想外と言うべきか、それとも扉のことを考えれば予想通りと言うべきか、そこは至って普通の部屋だった。応接室のような美術品もなく、過度な装飾も存在しない。代わりに、部屋の右手側にある少し大きめのクローゼットと姿見。そして中央あたりに少人数用の小さなテーブルと、奥にはベッドが一つ置いてある。
そんな部屋の窓際に、月光を浴びて佇む一人の少女がいた。
薄暗い中でもなお際立つほどの漆黒の髪を持ち、褐色の肌を白いネグリジェで包み込んでいる。華奢な体付きだが、愉快そうに笑う無邪気な表情と、好奇心に彩られた金色の瞳も相まってか不思議とひ弱な印象は受けない。身長は俺よりやや低く、ティオと同じくらいか。年齢は分からないが、魔人は見た目と年齢が比例しないので見た目通りというわけではないだろう。
「こんな夜更けにどうした、人間? 妾に何か用か?」
それが、俺と魔王――エミリア・ダークネスとの、初めての邂逅だった。