第52話
室内をゆっくりとまわりつつ、レスターは三地点の画面が映し出す風景を順番に眺めた。
どれもこれも、マーシャがいないという非日常に対し、なんて退屈な日常風景だろう。
交通警備隊からの第一報によると、マーシャの住む社宅近辺では、交通事故やマイクロ・ブラックホールの発生はないそうだ。市内に範囲を広げてみても、通常時と特に変化は見られないという。今となっては日常的な存在となったナイトメア・ブラックホールも、いつものように、上下か左右にときどき揺れて形を変えるだけだ。マーシャやほかの何かを飲み込んだような形跡は、まったくない。
聞き分けのいい暗闇を見ながら、レスターは、マーシャと連絡が途絶える前に、彼女の電話に出た謎の男のことを考えてみる。男の正体はもちろんのこと、その言動は大いに謎だ。
あの風の音がブラックホールの発生を意味するなら、なぜ、あの男はちっとも慌てずに、そこにいられたのだろう?
なぜ、自分の名前を知っていたのだろうか?
“レスターが邪魔”とはどういう意味だろう?
山間の村を監視する画面上で、レスターは、建物をぐるりと囲んでいる生垣に目をやった。それは人工物だろうが、大ぶりの白いバラが生垣を覆いつくしている。
そこから別画面に視線を移し、トンネルに入っていく工事車両を目にしたとたん、レスターは急に思い出した。
地名は覚えていないが、それは、どこか外国の山の中だ。休暇に出かけた先でマーシャと偶然に会ったとき、レスターはこれによく似たトンネルを通り抜けた。
そこから、まるで連鎖反応のように、レスターは次々と当時の風景を思い出していく。
そのトンネルの所在地は、その際にレスターが滞在した村のすぐ近くだ。そして、その村は、レスターたちが監視を続けている山間の村に、そっくりだ。しかも当時、そのトンネルでは、マイクロ・ブラックホールが発生したはずだった。
レスターは不意に既視感を覚え、空中でゆらゆらと揺れるナイトメア・ブラックホールに目を向けた。
あの当時も今も、マーシャのいる空には巨大な暗闇が浮かんでいる。もっと正確に言えば、マーシャとレスターが近くにいる空間に、それは引き寄せられる。
これまでに何度も打ち消した可能性をあらためて追認された気がして、レスターは急に緊張する。鼓動が高まったのに気づき、レスターは手近にあった椅子に腰をおろす。
(そうなってくると、やはり、この“悪夢”の発生には、自分たちが関係しているということだろうか? じゃあ、あの移動機の紛失は――?)
三地点の映像を目で追っていたレスターは、ふと、ある考えに思い当たる。
謎の生命体が操る移動機の現れた場所のうち二つまでもが、マーシャに関係する土地だ。いや、単にレスターが知らないだけで、残る一つ、赤茶けた岩肌が続く荒野についても、そうなのかもしれない。そして、その後、あの謎の男がマーシャとの通話中に現れ、彼女は行方不明となった。
ということは、謎に満ちたどちらの事件も、何らかの形でマーシャに関わっている。マーシャにつながっている。
人間かサイボーグか、それとも別の生命体か知らないが、一連の不可解な出来事はすべて、マーシャを知る同一犯による仕業ではないのか?
レスターは画面上に映るトンネルに振り返った。
(――まさか。”そいつ”は、マーシャを探していたのか!)
それはレスターの思いつきだったが、そう信じれば信じるほど、それが核心に近い真実のように思えてくる。
アクセス通路と同じく、コクーンと呼ばれる乳白色のシールド内も静まりかえっていた。社外に通じる出口はすべて、このコクーンによって守られている。
レスターは出口に近づき、一つ、長い息をついた。
これまでのところ、アクセス通路内では、セキュリティが正常に作動しているようだ。だとすれば、マーシャが締め出されたのは、コクーンの出口に問題がある可能性が高い。
それから、右手を出口の前にかざそうとして、思わず、レスターはその手をとめた。
向こうから、人影が近づいてくる……!
ところが、部外者の接近を知らせるはずの防犯アラームが、何の反応もしない。外側から自分の存在が見えないことを知ってはいても、マーシャの携帯に出た謎の男の存在がレスターの頭をよぎる。
(男か、女か、それとも、なにか別の生命体か……)
コクーンが防御の役目を果たせない可能性を考え、レスターはそっと一歩退いた。
輪郭はぼやけてよく見えないが、レスターに近づいてくる影は、大きくなかった。背はレスターの目線よりやや低いくらいで、顔ははっきりとは見えないが、女のように見えないこともない。
黒っぽい髪、青いシャツか上着を着た人影が、コクーンを挟んでレスターの正面に立ち止まった。レスターが様子をうかがっていると、その人間は左手を扉の前にゆっくりと伸ばした。そして、二回、まるでレスターに手を振っているかのように、コクーンの前で手をひらひらと動かす。
社内へのアクセスを試みているのだ。
そう分かったが、しかし、コクーンは決して外部の人間を許可なく受け入れはしない。通常の状態であれば。
レスターは半透明のコクーンの外で揺れる手を緊張しながら見ていたが、コクーンは何の反応も示さなかった。単なる固い壁として、不審人物の前に立ちふさがっている。防犯アラームはいまだ鳴ろうとしないが、コクーンは正しく機能しているようだ。
少し安心し、レスターはその人物が手を下ろすのを確認した。それがあきらめて立ち去るのを期待した。ところが、その人間は懲りもせず、再び同じ行為をすぐに繰り返そうとする。
半ばあきれながら、レスターは外でゆっくりと上げられる左手を見た。それから、それが動いて、ひらひらと揺れるのを見た瞬間、レスターは発作的に自分の手を振りあげた。
その瞬間に存在を予想していながら、でも実際に目の前にしてしまうと、それが現実だとは到底信じられなかった。レスターはただ驚き、そこに立ちつくすしかなかった。というのも、消え失せた壁の向こうから現れたのは、行方不明のはずのマーシャだったからだ。
そのマーシャも手を宙に浮かせ、唖然としていた。顔色は悪く、疲れているようだったが、着ている服に乱れもなければ、顔やどこかにけがをしている様子もなかった。昨日退社したときの彼女と、なんら変わりはなかった。
それでも、彼女が心底ほっとしたようにぎゅっと目をつぶるのを目にすると、レスターはようやく、肩に入った力を抜く。
「無事……だったのか?」
どこかで彼女の存在を少し疑いながら、レスターは尋ねる。
「うん、無事よ」
マーシャが目を開け、深い息をつく。
「よかった……やっと会えたわ」
レスターがマーシャの肩をつかむと、彼女は顔を上げて、レスターの腕に顔を押しつけた。あたりまえのことだが、彼女にはちゃんと人間の体温があった。
「ああ、無事で本当によかったよ。心配したぞ」
「ほんと? そのわりに、迎えがとっても遅かったわよ」
レスターが戸惑うと、マーシャは笑い、言った。
「いいのよ、何かあったんでしょ? 二十分後って言ったのに、いつまで待ってもあなたは来ないし、誰とも連絡がとれなかったから、きっと何か起きたんだと思って」
マーシャの肩をつかむ手に力が入り、彼女がやや戸惑ったようにレスターの手を見る。
「ちょっと待ってくれ。なんだって? マーシャ、きみはずっとここに、いた……のか?」
レスターのあまりの驚きぶりに、逆にマーシャがめんくらったようだ。
「そうよ。やっぱりドアは開かないし、かといって、不安定な自宅に戻るのも嫌だったから。あなたが指定した場所はここよね?」
「そうだ、ここだ。いや、ちがう、俺が言ってるのはそんな意味じゃなくて――」
レスターは混乱した。
(どういうことだ? マーシャはあれから二十分後に着いて、ずっと俺をここで待っていた?)
レスターがマーシャを見つめると、彼女もますます困惑したように見つめ返した。
「どうしたの?」
マーシャの冷たい手がレスターの腕に触れて、レスターは我に返る。
「マーシャ、教えてくれ。俺と電話している間にヘンな男に会わなかったか?」
ううん、と彼女は顔を左右に振った。
「誰にも会ってないわ。ここに来るまでも、ここに来てからも、誰も会わなかったわ。警備パトロールだって見かけなかったぐらいよ」
レスターは再び驚き、口をつぐむはめになった。
ますます、おかしな話だ。警備パトロールはマーシャを捜し、アクセス通路の出入口付近を何度も往復したはずだ。マーシャと落ち合う場所だと、レスターが警備隊に情報を与えたのだから。
「本当か? 本当にずっとここにいたのか?」
「うん。そのうち、あなたが来ると思ったから」
暗い迷路に足を踏み入れたような気分になって、レスターはますます混乱する。
「ねえ、どうかした?」
心配そうにレスターを覗き込むマーシャが、嘘をつくことはないだろう。彼女はその言葉どおりに、あの謎の男にも誰にも会わず、問題なくこの場所に着いたのだ。
しかし、とにかく、今は答えの出ない問いに煩わされている時ではない。マーシャと一緒に社内に早く戻る方が先だ。
レスターがマーシャを招き入れようとすると、彼女の後ろに伸びる地下道路のはるか後方から、目もくらむようなピンク色の光が差し込んできた。その突然の明るさに気づいたらしく、マーシャも後ろを振り返る。
「パトロールのライト?」
「さあ。あんな色だったか」
そのとき、レスターの携帯から木枯らしが吹くような小さな音が、一回だけ響いた。
「何の音?」
マーシャがレスターの携帯をのぞきこむ。
レスターは謎の男のことを思い出して、なんとなく不愉快ではあったが、彼女と同じように耳をすましてみた。けれども、音はそれっきりだ。
二人がそれに注意をとられている間にも、ピンク色の光はさらにまぶしさを増していった。光はだんだんと近づき、道路の天井や壁がピンク色に染まっていく。やがて、まるで水が染み広がっていくかのように、その光の中心が外側に向かって白く変わっていく。
レスターは、迫りくる光のまぶしさに目を細めたときになって初めて、道路のまわりの壁がかすかに共鳴していることに気がついた。小さなうなり声をたてるその壁面には、薄いピンク色の光がじわじわと満ちてくる。静かに打ち寄せる波のような光を見ていると、なぜか、それにともなって、レスターの鼓動も次第に高まってくる。
“向こうに光が見える”
光の中からレスターの心に呼びかけてきたのは、マーシャと連絡が途絶える直前の彼女の声だ。そして、レスターの携帯が、道路の壁と反響しあうかのように、木々がざわめくような音をたて始める。
それは咄嗟の判断だった。
「早く入れ!」
レスターはマーシャの腕をつかみ、彼女をコクーン内に素早く引きずりこんだ。
床にひざをついたマーシャを助けおこす間も惜しみ、レスターはコクーンの出口に振り返った。一瞬にして現れた半透明の膜は、明るい光こそ通すものの、二人を完全に外部から遮断している。
真夏の昼間のような明るさの中、レスターは完全に閉じた壁を見て、一度、ゆっくりと目を閉じた。一息つき、すぐにまた目を開いてみるが、壁は消えずにそこに存在していた。レスターが手荒にシールド内に引き入れたマーシャも、無事だ。
それらすべてを確認すると、レスターはほっと安堵の息をつこうとした。が、次の瞬間、レスターはそこにいきなり現れた影に衝撃を受け、思わず瞠目した。ほぼそれと同じタイミングで、マーシャが叫んだ。
「何かいるわ!」
レスターは床に膝を落としたままのマーシャに振り返った。彼女も血の気を失った顔で、レスターを見返す。
驚きすぎて言葉すら交わせないが、マーシャの心の内はきっとレスターと同じだ。彼女が顔にのぼらせたのと同じ恐怖を、彼女もレスターの表情に見ているにちがいない。
「逃げるぞ、マーシャ!」
レスターは彼女の手を強引に引っぱりあげた。
そのとたん、それまで反応していなかった防犯アラームが大音量で騒ぎはじめた。
二人の入場を許すと、アクセス通路に続くドアはまたすぐに頑丈な壁と化した。通路内でも赤い警告ライトが点滅し、防犯アラームは今も鳴り続けている。レスターの視界には、あのこうこうとした光はもう見えず、伸びてくる光もない。追っ手らしきものは、何もない。けれども、本来ならすぐに出動するはずの社内の警備隊が、なぜかまだ到着していない。
レスターは自分の体の感覚を確かめようと唇をかみしめてから、マーシャを見た。レスターより少し遅れて走る彼女の顔には、恐怖がにじんでいる。
それも無理はない。レスターとマーシャがさっき目にした、あの恐怖の根源を思えば。
レスターは、まるで視線の先を阻むかのように、かたくなに閉じるコクーンを力まかせにたたいている影を思い出して身震いした。
あの半透明の壁から透けて見えたものは、誰かの手だ。体の輪郭は見えなかったが、そこにあったのは、たしかに、人間の片手だった。音や振動がない代わりに、伝わるはずのない怒りのような感情がレスターにまで届き、胸を圧迫していた。
そのとき、レスターはひんやりとした冷気を感じて、壁であるはずのドアに再び振り返った。そこに何かあるはずもないし、見えるはずもない。
レスターとマーシャは無言で必死に走った。ただ、たった今ある恐怖から逃れるためだけに。
社内に通じる最後のドアが見えてきて、マーシャが少し嬉しそうにレスターに振り向いたときだ。突然、水蒸気が噴き出すような大きな音が、二人の間近で鳴り響いた。二人は驚いて急停止し、照明や電気系統の破裂を疑って、反射的に天井や壁を見まわした。
グレーの壁はどこも無傷だし、異常や異変はなさそうだ。音はまだ上の方から小さく聞こえていたが、天井近くにある照明も正常な光を放っている。レスターの携帯にしても、音ひとつたててはいない。
マーシャは不安そうにあたりを見回していたが、レスターは後方のドアをもう一度振り返った。もちろん、そこには何もいないし見えないが、得体の知れない“あの男”が自分たちの行く手を阻んでいるのだ、とレスターは直感で判断した。
「止まるんじゃない。とにかく急ごう」
そうだ、行かなくては。あの男につかまってしまう前に。
それから間もなく、それは、突然に聞こえてきた。
『ジャマヲスルナ、レスター』
いきなり沈黙を切るように伝わってきた男の低い声に、レスターはその場に凍りついた。それは、マーシャと通話していたときに聞こえた、あの謎の男の声だ。
マーシャがこわばった顔で自分を見上げ、レスターはマーシャの手を必死に握りしめる。
ドアはもうすぐだ。男を振り切るまで、あと三十メートルもない。
レスターが視線だけでマーシャに社内への最後のドアを指し示すと、彼女は納得したように小さく頷いた。
「行け! 全速力で走れ!」
ただただ、助かりたい一心で、レスターはひたすら走る。マーシャも走る。
『ジャマヲスルナ、レスター』
さらに怒りを帯びた声に追いかけられ、レスターは歯をくいしばる。背中が温かくなりはじめ、気づくと、二人は背後から淡いピンク色の光に照らされていた。
「追いつかれるぞ、もっと早く走れ!」
その不可思議な光に加え、後方からは何かの気配を感じたが、レスターはあえて無視することに決めた。マーシャが振り返ることも許さなかった。振り返ればきっと、それが一瞬だったとしても、彼女はそれに絡めとられてしまう。おそらくは、永遠に。
社内へ通じる最後のドアが二人を認識する一瞬すら、もどかしかった。ドアが開くと、レスターはマーシャの腕をつかみ、廊下のなるべく遠くを目指して飛び込んだ。
『イクナ、マダ――』
追いすがる男の声は、レスターたちが床に転がったと同時に、ぴったりと閉じたドアの向こうに消えていく。それとともに不思議な光は消え、まとわりついて離れなかった不快な気配や熱は、まったく感じられなくなった。
全力疾走したせいでレスターの足には力が入らず、冷たい床から起き上がる気力すらない。レスターの見上げる天井には警告ライトが赤く点滅し、機械音声が繰り返し、たぶん、この異常事態のことを訴えている。
たぶん、と言うのは、耳がしびれているせいで、音がはっきりと聞こえないからだ。でも、レスターの見聞きする光や音、感じる床の冷たさは、つまり、自分が正常な世界に帰ってきて、不気味な男から逃げ切ったということだ。
レスターはしみじみとそう実感し、隣に倒れたマーシャに振り向いた。彼女も無事に見えたが、恐怖から解放されて安心したせいか、声を押し殺して泣いている。唇を震わせながら泣いているマーシャの姿に、レスターは同情した。
「もう大丈夫だ」
レスターが伸ばした手にマーシャが気づき、顔を上げる。彼女の瞳が涙に揺れる。
星の瞬く夜空に似た彼女の瞳をずっと覗いていると、彼女に引き寄せられるマイクロ・ブラックホールがそうであるように、別世界に引きずりこまれそうな気がしてくる。二人がこんな状況に陥ったのも、実はいつのまにか別次元に迷いこんでいたせいではないか、と錯覚しそうになる。
その後、マーシャを胸に抱きしめたのは、彼女を安心させるためというより、レスター自身が彼女の未知なる世界に連れていかれそうになるのを防ぎたかったからだ。
レスターが顔を近づけると、マーシャが持つ夜空は消えた。首にのびてきた彼女の手は冷たかったが、レスターの唇に触れる彼女のそれは温かい。レスターの肌を通して伝わってくるマーシャの体温は、二人ともが、この三次元の世界に今もなお存在しているのだ、と教えてくれる。
「大丈夫だ。終わったんだ」
レスターが自分に言い聞かせるように言うと、マーシャが頷いた。
「終わったのよね」
だが、マーシャのつぶやきを耳にしたとたん、レスターは自分の思い違いに気づかされた。
あの男が、目的の彼女を目の前にして、ここでそう簡単にあきらめるはずはない。これは終わりではなく、むしろ、すべての始まりだ。
まだ閉じられたままのマーシャの瞼を見て、レスターはそう確信する。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
これくらいのペースで掲載を続けたいと思っています(希望)。
気のせいか、ビミョーに怖い展開になっているような……