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第50話

 ウッズの支援を受けたレスターは、危険すぎて誰からも無視されていた実験を独自に重ねた結果、八割強の確率でマイクロ・ブラックホールを発生させられるようになった。いや、発生というより、浮遊している未知の空間を呼び寄せられるようになった、と表す方が正しいだろう。実験に失敗した際の人的被害は一切なく、できそこないの黒い空間の奥に消えたのは、スタッフの飲んでいたコーヒーや紅茶だけにとどまっている。

 レスターたちの前に出現したマイクロ・ブラックホールは比較的安定しており、他の場所に勝手に移動することはあまりなかった。そのため、それが実験室に存在している間に、レスターたちは空間の性質を満足いくまで調査することができる。八ヶ月近くに及んだ苦労の末、レスターたちの手がける研究は、他社に先駆け、いまだに謎の多いマイクロ・ブラックホールの解明に貢献できるのだ。

 社会への影響をいち早く感じ取っていたのはウッズだ。彼は、レスターの研究を会社のプロジェクトとして発足させるように社内に強力に働きかけた。その結果、社内随一のプロジェクトとして誕生した、通称“MBプロジェクト”に、レスターはリーダーとして就任した。そして、実験のたびに協力を要請していたマーシャを、レスターは自分のチームに配属させた。マーシャの所属先だった部署は彼女の異動にいい顔をしなかったようだが、ここでもまた、ウッズの一声がその人事異動を決定づけたそうだ。

 新プロジェクトの注目度が上がるにつれ、レスターを個人的に後押ししたウッズの発言力とともに、レスターの社内での影響力が押し上げられていった。レスターはそれまで、出世や有名となることにまったく興味はないと認識していたのだが、社内で自分の名が広まり、自分が昇進の階段を駆け上がっていくと肌で感じるのは、意外なほど爽快なものだった。

 ただ、ウッズとの交流が始まり、レスターにとって嬉しくない誤算があったとしたら、彼の娘ハイディのことだ。彼女は美人で性格も悪くはなかったが、男に免疫のない彼女のような女とは、レスターは身近で付き合いたくなかった。相手に自分への好意があるとなると、なおさらだ。ちょっとした親切のつもりが、彼女への特別な好意と取られかねない。レスターは面倒な関係は嫌いなのだ。

 それでもレスターは、ハイディに最低限の礼は尽くしていた。彼女の父ウッズは、レスターに娘のエスコート役を依頼することがあったが、レスター自ら、彼女をパーティに誘ったことは一度もない。彼女を誤解させないよう、レスターは彼女を二人だけの食事に誘うことはせず、彼女の前で別の女性とわざわざ連れ立って歩いたこともある。

 ウッズはそんなレスターの配慮を快く思っていたようだ。レスターが娘に恋愛感情を抱いていないことを、彼はよく分かっていたようだ。そしてまた、レスターが一人の女では満足できず、遊ぶ女としてハイディを選ばない男だということも分かっていたのだろう。だからこそ、ウッズはレスターに娘のエスコート役を軽々しく頼むのだ。

 だが、レスターとハイディが公の席に連れ立って現れることで、当然、二人の仲は人々の噂となった。レスターがウッズの庇護を受けている分、娘の結婚相手として有力視されている、という噂が社内に広がっていた。だが、娘をつまらない男から遠ざけたいウッズは曖昧な態度を保ち、ハイディが照れ隠しにする赤面は皆をますます誤解させる。レスターがいくら噂を否定したところで、それはいつまでも消えはしない。



 ◇ ◇



 マーシャと恋人の喧嘩を目撃したのは、レスターがハイディの何度目かのエスコート役を担った、あるパーティ会場のロビーだ。ちょうどトイレに出たレスターの数メートル先、待合の赤いソファが並ぶ一角で二人は揉めていた。激昂している恋人の男を前に、マーシャは必死に弁解しているような様子だった。レスターは彼らに気づかない振りをしてトイレに行ったが、戻ってきたとき、男の姿は既になく、マーシャだけがそこに取り残されていた。

 その次の日、マーシャは朝からぼんやりしていた。仕事に身が入らないといった調子で、誰かの依頼を受けても、普段のように軽快で素早い反応が見られない。

 レスターはマーシャの脱力した様子に落胆すら覚えながら、彼女の恋人の情報をデータベースで照会した。男の苗字だけは覚えている。コルテスという、ここの社員だ。レスターは過去にも彼を何度か見かけたことはあったが、昨日初めてその顔を近くで見たときに妙な既視感を覚え、なんとなく気になっていた。

 好青年といった風貌のコルテスとマーシャは、ここ半年ほど恋人関係にあった。社員の半数は知人というケヴィンが自宅で開いたパーティで、二人は知り合ったらしい。積極的にアプローチしたのはマーシャの方だったそうだ。

 ディスプレイに画像が現れた。表示されたのは、浅黒い肌に黒い髪と黒い瞳を持った、中南米系の男だ。名はタイラー・コルテス。大きな口からのぞく白い歯は健康的で、目に勢いがある。太陽の光をさんさんと浴びながらマリンスポーツでも楽しみそうな、鍛えられた体をしている。

(……さわやかな男だな)

 レスターが苦手なタイプの男だ。でも、女性には好感度が高そうだ。

 男の経歴をざっと目で追ったが、レスターとの接点はなさそうだった。

「レスター」

 誰かが隣に立ち、レスターは目を上げた。ポーラが、苛立ったように後方のマーシャを指し示す。

「あのコ、何とかして。朝からずっとヘンなのよ、仕事に支障をきたすわ」

「なんで俺が?」

 はあ、とポーラは大きなため息をつく。

「あなたは彼女の上司でしょ。彼女があんな調子なのは私だって心配だけど、私にはやらなきゃならない仕事があるのよ。とりあえず、彼女をここから連れ出してよ」

 俺にだって山ほど仕事はある、と言い返そうとし、レスターは彼女の目の下にあるくまを見つけ、反論を断念した。

「……ったく。俺はマーシャの母親じゃないぞ」

「あら、似たようなもんでしょ? どうせ、彼女に構わないではいられないんだもの」

 レスターはポーラを睨み、無言で椅子から立ちあがった。こんなエラそうな口をきく女、ケヴィンはどこが気に入ってるのだろう? ポーラは満足そうに笑い、レスターの肩を軽くたたく。


 マーシャの様子はたしかに普段とは違った。どこか上の空で、さえない顔つきだ。恋人との些細な喧嘩でマーシャがここまで影響を受けるのが、レスターはどうにも腑に落ちない。

 レスターはマーシャを実験室の隣にある小部屋に連れ出した。彼女からは、気力というものが感じられない。レスターに促されるままに部屋の隅にある椅子に腰を降ろし、差し出されたコーヒーを受け取る。レスターに受け答えはするが、彼女の意思が反映されていない。さすがに、これでは彼女が心配だ。

「いったい何があったんだ?」

 レスターはマーシャの正面にある椅子に座った。彼女は、何も、と抑揚のない声で答える。

 時計は十一時半になろうとしていた。朝食を抜いたレスターは、空腹をはっきりと感じ始めていた。少し早いが、マーシャを連れて社外でランチをとってもいい。

 そのとき、マーシャは寒気でもしたのか、大きく一度体を震わせると、両手で腕をさすり始めた。部屋はオフィスより涼しかったが、彼女はレスターより厚着だ。室温は二十三度に維持されている。

「マーシャ、具合が悪いのか?」

 レスターは心配になり、彼女の肩に触れる。その瞬間、白い発光が二人の体の間に走り、レスターの手は熱にはじかれた。

「うっ……!」

 室内環境のセンサーは何ひとつ、異常を感知していなかった。レスターの肌に触れる空気も冷たくなってはいない。マーシャの耳にぶらさがっているのは、静電気の発生予防となる青いピアスだ。もう一年以上も、彼女の体から偶然に静電気が発生したことはなかった。

 レスターは唾を飲む。

(……なぜだ?)

 ところが驚いたことに、俯いているマーシャは、たった今起こった現象に気づいていない。

「マーシャ、きみ……どうした?」

 レスターは彼女の顔をのぞきこむ。

 レスターの問いには答えず、「ねえ?」と、マーシャが顔を上げた。

 マーシャの顔に接近しすぎて、レスターは思わず、のけぞった。だが、彼女はそんなことにはまったくお構いなしだ。瞳をレスターに寄せるようにして、彼女は言う。

「レスター、ずいぶん前に、あなたが私の記憶を勝手に調べたことがあったじゃない?」

「……ああ、あったな」

 レスターはほんの少しの罪悪感を声ににじませてみたが、マーシャはやはり気づかなかった。それまでの気の抜けたような表情は去り、今は何かを思案しているような顔つきだ。

「あのときの記録、また見せてほしいのよ。ちょっと確認したいことがあるの」

「いいよ。なんだったら、ここでもすぐ見せられる。でも、今ごろ確認したいことって何?」

「うん、まあ、ちょっとしたことよ。すぐに済むから」

 マーシャの顔をかすめた動揺の色には気づいたが、彼女はどうやらレスターにそれを言いたくないらしい。レスターは理由を問おうとして、なんとなく、口をつぐんだ。

「ちょっと待ってて」

 部屋に備え付けられたコンピューターから、レスターは一連の研究に関するデータにアクセスする。レスターを認識したコンピューターは、瞬時に必要なデータを用意し、データ名のリストをディスプレイ上に並べて表示した。


 落ち着きをなくしたマーシャに気づき、レスターは再び、室内環境センサーに目をやった。さっきから特に変化はない。室内の状態は平常に維持されている。

「それで、何が見たいんだ?」レスターはマーシャを招き寄せる。「見たい項目が特定できるなら言ってくれた方がいい。全データを見ようとすると四十分以上はかかる」

 マーシャが身を乗り出し、ディスプレイの文字を目で追い始めた。

「見たいのははっきりしてる。一瞬だけど、人間が出てきたでしょ? それが見たいの」

 “男性”という表示に彼女が指をのせるのを見て、あっ、とレスターは声をあげた。

「なに?」

「マーシャ、あの男……!」

 二人の前のディスプレイが、一人の若い男の画像を映す。日に焼けた肌、黒い髪、黒曜石のように輝く瞳、たくましい体躯。男の存在はレスターの記憶の端に残ってはいたが、今の今まで忘れていた。男は、マーシャの恋人コルテスに似ている。

 画面から視線をあげたマーシャが、下唇を噛んで、レスターを見た。

「私が見たかったのはこの人よ」

 マーシャが画面に映った男を指でゆっくりとなぞり、呟いた。「カレブよ」

「誰?」

「この人はカレブっていうの。……私が行方不明の間に、たぶん……会ってる」

 レスターは驚きに瞠目する。

「何だって?」

 だが、レスターも思い出した。彼女の記憶を探っているとき、彼女が“カレブ”と呟いていたことを。それが男の名前とは思わず、レスターも他のスタッフも、彼女の呟きを少しも重要視しなかったが。

 マーシャが画面に顔を近づけ、“カレブ”をじっと見つめていた。その様子はまるで、彼に魅入っているかのよう。レスターは落ち着かなかった。

「思い出したんだ?」

「名前だけね」

 レスターはマーシャの隣で、男の画像を拡大していく。

「この男はコルテスに似てるな」

 レスターが言うと、マーシャが気まずそうに顔をしかめた。

「……やっぱりそう思う?」

「ああ、似てる」

 うーん、と唸りながら、マーシャはディスプレイ上の男に振り返る。

「いいオトコだな」

 レスターがそう言うと、ますます、マーシャが唸った。

「……この人、誰なんだろう」

 マーシャは呟いたが、回答が欲しいのではなさそうだ。わずかに眉を寄せて画面の男をのぞきこみ、ディスプレイにつけた人差し指を気ぜわしそうに動かす。

「ね、このデータは外部に漏出されてないのよね?」

「それはないね。機密データとして保護されてて、誰かがここにアクセスすると全部俺に知らせが来ることになってるが、今まで一度もそういったことはない」

 マーシャはレスターの返答に頷くが、納得しきった顔ではない。

「彼のこと、調べられると思う?」

「調べるって? この映像しか参考資料はないんだろ? おっそろしく時間がかかるわりに、何も分からない可能性大だぞ。なんでまた急に? こいつに何かあるのか?」

 レスターが驚くと、マーシャは無言でレスターの瞳を見つめた。瞳の紫がいっそう深い色に変わり、レスターは急にどぎまぎとする。マーシャが躊躇いがちに口を開いた。

「何かあるかもしれないし、何もないのかもしれない。でも昨日の朝、ちょっと不思議なことがあったのよ。このデータが厳重に保管されてるとしたら……ああ、それって……」

 歯切れの悪いマーシャをレスターは不審に思って見つめた。

「不思議なことって何だよ?」

 彼女が画像をちらりと見る。レスターは、彼女が実際にはここにいない男を気に掛けるような素振りを見て、嫉妬に似た気持ちを覚えた。

「それがね――家のPC画面に、彼が映ったのよ。見間違いじゃないわ、タイラーも見たから。それも、この彼にも私が見えてるみたいで……すごく驚いてた」

 コルテスより野性的で精悍な雰囲気を漂わせる男は、ほぼ間違いなく、マーシャが恋愛感情を持っていた男だ。なんとなく、面白くない。レスターは拡大された男の顔を元のサイズに戻した。

 それから、「彼の名前を思い出したのはその数時間後」と、それが恋人との喧嘩が勃発する原因となったことを、マーシャは他人事のように語った。


 レスターはマーシャの話を全面的に信用することはなかったが――人間は、自分の思いたいように物事を都合よく解釈する生き物だからだ――好奇心にかられ、彼女の家にあるPCの前で男の登場を二度待った。ちなみに、彼女の自宅に入ったのはそれが初めてだ。レスターのマンションより一室少ないがほぼ同じ間取りの彼女の家で、レスターが待機した二回ともが空振りに終わった。

 だが、何の収穫もなかったわけではない。レスターは最初の訪問で、マーシャのPCが異常に帯電しているのに気づいた。しかもそれは、レスターが触ると静電気が起きるのに、マーシャが触れても放電することはない。

 不思議だった。静電気は彼女以外の手を容赦なくはねつけ、PCを守っているかのようだ。マーシャが操作すれば、PCはまったく問題なく機能する。

 その現象の原因は、マーシャの特異体質が機械類にまで影響を及ぼしているせいでは?

 ふと、そんな考えがレスターの頭をよぎる。彼女の記憶にしか存在しない男の出現もそれに関係している。非科学的だが、そう考えられなくもない。



 それからほぼ二週間経過したある日の午後、セーラム・シティの上空に直径五十メートルのマイクロ・ブラックホールが突如として現れた。市の中心部に建つ高層マンションの真上だ。環境システムで制御されているはずの空で、周りの人工雲を次々と吸い込むその姿は、巨大な黒い風穴のようだった。市民は恐怖と混乱に陥ったが、そのマイクロ・ブラックホールは吸引力が弱いのか、人工雲のほかに何も飲み込みはしなかった。

 数時間で自然消失する、と事態を楽観視していた専門家たちだったが、それが形を変えながらも何日も同じ場所にどっかりと居座り続けると、次第に焦り始めた。政府機関が消失剤をロケットで打ち込んでも、空の黒い穴は一時的に縮まるだけで、数十分もすれば元の規模に戻ってしまう。

 それは、二週間近く経っても一向に消える様子がなかった。規模も変わらない。大きな被害こそ報告されないものの、不気味な暗闇を晒すその姿は“ナイトメア・ダークホール”と呼ばれ、人々は毎日空を見上げてはため息をつくようになった。

 その頃だ、レスターの勤務する会社を含め、公共・民間の機関がこぞって対策に乗り出すことになったのは。怖いもの知らずだったレスターは、目の前に現れた、願ってもないチャンスに興奮した。

う~、す、すみません。前回の更新から数ヶ月も経ってしまいました。

時間って、あっという間に過ぎてしまいますね。1日が24時間以上欲しいです。


次回の更新はもう一つの連載作品が完了した頃、たぶん、5-6月になりそうです…。

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