第49話
二人はしばらく、息をひそめていた。何かの事故で停電になったかもしれない室内が、通常の明るさを取り戻すのを、絶望にも近い気持ちで待っていた。でも、照明はいつまでも復帰しない。記憶にいまだ鮮明な、風の吹き抜けるような音は現れず、アラーム音が二人に警告を発することもない。
「ねえ?」困惑したマーシャの声がして、レスターはやっと酸素が喉を通過するのを感じた。「これ、他の家でも起きているのかな?」
「どうだろう」
レスターの目が暗闇に慣れ、彼女の髪の合間に見える、耳たぶのピアスの存在を確認した。両方とも付いている。
「ちょっとここにいて」
レスターはマンションの管理会社に連絡をとろうと考え、床から立ち上がった。今朝の自動ドアの故障で、マンションの棟に今も何らかの不具合が続いていたとしても、おかしくない。思えば、住民の避難から回復までの時間が短かった。
レスターはキッチンのカウンターをまわってリビングに抜けようとし、対面にある玄関を見て、はっと足を止めた。
玄関前に、何者かが立っている。
目をこらしてその形を把握しようとして――レスターに、悪寒が走った。
家事ロボットじゃない!
黒い、明らかに人間の形体をした誰かが、向こうからレスターを見つめている。はっきりとは説明できないが、彼に対しての強い悪意が、空気のよどんだ空間を通じて伝わってくる。
レスターは一歩、退いた。そのとたん、それまで沈黙していたアラーム音が部屋中に響き渡った。
「レスター!」
マーシャが叫ぶと、黒い人型は闇にさっと溶けるようにして消えた。そして、その同じ場所から、過去に何度か耳にしたことのある、不気味な風音が。
レスターはマーシャの隣に慌てて戻った。
(何だ、今のは。あれはいったい、誰……いや、何なんだ?)
頭が混乱して、レスターは自分が目撃した光景を、マーシャにうまく表現できる自信がない。
マイクロ・ブラックホールの生まれる音が徐々に大きくなる中、マーシャがため息まじりに言った。
「……ちゃんと付けてるのに」
マーシャが不安そうに耳を触るのを目にし、レスターは彼女を腕に抱き寄せた。誰かの体温を感じていなければ、レスター自身、不安だったのだ。彼女も、レスターに抵抗しなかった。
(やっぱ、このコは面倒だ)
ため息をつきたくなるのを我慢し、レスターは腕の中のマーシャを見た。彼女は彼の視線に気づき、少し怪訝そうに顔をしかめる。
「救助された後が、いろいろと面倒そうね」
「だね」レスターは深く考えずに頷き、少し思い直して、彼女に答えた。「面倒というか、ややこしいんじゃないか」
「どっちでも同じじゃない」
「違うさ」
何が違うの、とマーシャは問い返したが、レスターにその違いを説明している心の余裕はなかった。だが、レスターにとって、その二つは全く意味が違う。「面倒」とはレスターが自分から切り離したい対象であって、「ややこしい」とは、多少の不利益を被っても切り離す気のないものを指すのだ。
「これって、あなたの嫌いな、面倒な関係なんじゃない?」
「そうじゃなくて、“ややこしい”だけだ」レスターは訂正した。
彼女は深いため息をついたが、同じ質問を二度するのはあきらめたらしい。
「あーあ。こんなめに遭うの、あなたと一緒にランチをしたイタリアン以来よ」
正確にはそうではない。レスターの独断で彼女を精査した病院で、医師が小さなマイクロ・ブラックホールに遭遇している。
マーシャは、マイクロ・ブラックホールを引き寄せる媒体になる。さっきのように、彼女が感情的になったとき、あの現象は発生する。そして、レスターの家はエレベーターに近い、つまり、マイクロ・ブラックホールが一時的に乗り移る媒体に近い。レスターがこれまでに把握している発生要件は、そんなところだった。
しかし、レスターはある点に気がついてしまったのだ。この不思議な現象が起きるとき、マーシャはいつでもレスターと一緒だ。
えたいの知れない暗闇に生命の危機にさらされるなんて、笑い事ではすまない。でも、それを作り出す条件の一つに自分が名を連ねることは――そう思うのは不謹慎かもしれないが――レスターは誇らしい気さえしていた。
「そのうち、救助が到着してくれるだろ」
レスターがマーシャを見て微笑むと、彼女は呆れたように彼を見た。
「あなた、こんな状況でどうしてそんなに落ち着いてるの? あれがどんなに怖いものか、よく知ってるくせに」
「でも、きみと一緒だと怖くはない」
マーシャはじっとレスターを見つめ、軽く首を振ると、大きく息をついた。
◇ ◇
レスターが見た人影の謎は、彼が発見したマイクロ・ブラックホール発生要件の重要さのせいで、彼の頭からはきれいさっぱりと拭い去られていた。レスターは、これまでのような偶然の発生ではなく、意図的な発生を試みて、自分の考えの正当性を実証してみたかった。それにはもちろん、マーシャや他に数人の手助けが必要となる。
マーシャにはまだ、そのことを話していない。ブラックホール反応検査のあとにマーシャと別れてから、彼女とは連絡もとっていない。ひとたびマイクロ・ブラックホールの件を口にすれば、彼女が興味を示すことはレスターにも分かっていたが、彼女は彼に怒っているらしく、職場のフロアでたまにすれ違っても、彼に近づこうともしない。ケヴィンはそんな彼らを見て、またか、と呆れ顔だ。
既に夜の七時を過ぎようという頃だったが、フロアには半数以上のスタッフが残っていた。レスターやケヴィンもそうだ。ケヴィンは早く帰宅したがっていたが、レスターが持ちかけた話が長引き、今もむずかしい顔をして椅子に座っている。
レスターは彼に、マイクロ・ブラックホール発生「実験」の協力を依頼したのだ。実験のはらむ危険性から、会社の協力は得られない。自分たちだけでなく周囲を危険にさらす可能性があるため、会社は反対するだろう。いや、会社どころか、協力者を探すのだってひと苦労だ。現に、ある程度の事情を知っているケヴィンは、レスターの要請を拒否したばかりか、彼に無謀な行為を止めさせようと必死になっている。
ケヴィンとの話が平行線になってしばらくたったとき、レスターは営業部から呼び出しを受けた。
「営業調整部じゃなくて? 営業部があなたに何の用事かしらね」
心当たりはない。
「さあね」レスターは時計を確認した。「とにかく、行ってくる。ケヴィン、この話は明日でいいよな」
「いいけど、考えを変えるのはあんたの方だってのは、忘れないでくれ」
レスターは硬い顔を崩さない彼を見て、やれやれ、と首を振った。
「明日になれば、そっちの気持ちの方が変わるさ。――じゃ、行ってくる」
ポーラが小さく手を振った。その横で、ケヴィンが不機嫌そうに椅子から立ち上がる。
レスターが営業部のある棟に移動し、フロントに取次ぎを頼むと、彼はその場で待つように指示された。その数分後に奥のエレベーターが開き、中から、レスターとは面識のない壮年の男性が颯爽と現れた。背が高く、以前はブロンドだっただろうグレーの髪はきれいに後ろになでつけられ、年齢のわりに贅肉のない体を高価そうなスーツに包んでいる。目を引く鷲鼻の上にある目は鋭く、愛嬌のある顔つきではないが、若い頃はおそらく、女性にもてたタイプだろう。
軽快な足取りで近づいてくるその男が、まさか自分を呼び出した本人だとは思わなかったので、レスターは彼からさりげなく目をそらした。
「レスター・フレッドマン?」
足音が後ろで止まり、レスターはびっくりして振り返った。さっきの男が、レスターを吟味するように見たあと、愛想笑いを口にのせた。
「はい、そうですが……あなたが?」
「ウッズだ。グラント・ウッズ」
営業本部長だ。この会社の取締役の一人。
ウッズはレスターの驚きを予想していたらしく、彼が握手しようとして途中でとめた手を自分から握った。
「急に呼び出して悪かったね。まだ仕事中だったろう」
「ええ。でも、ちょうど休憩しようとしてたところなんで、構いませんよ」
ウッズがにっこりと笑った。が、彼の瞳までは笑ってはいない。
「それはよかった。きみ、夕飯はまだだろう? ちょっとだけ付き合わないか」
レスターの都合を尊重した言い方ではあるが、拒否は許されない雰囲気だった。なぜ初対面の自分を誘うのかという疑問はあったが、会社の取締役の誘いを断れるはずもなく、レスターは、ウッズの言うまま、あとについていった。
レスターは、著名人や高名な政治家の前でも、比較的、緊張しないでいられる方だ。それがときには生意気な態度とみなされることもあるが、今回、ウッズの前でも、レスターは過度に緊張することもへりくだることもなく、ごく自然に会話を交わせたように思う。
「きみのような技術畑の人間は、専門分野外の話など、ろくにできないと思っていたよ」
科学や物理の話を、女の子は喜ばない。レスターには、彼女たちとの会話の話題となる知識が必要だっただけだ。
「単にミーハーなだけですよ」
多少のアルコールが入っているせいか、ウッズは面白そうに笑った。
「きみは営業課にいてもよかったかもしれないな。もっとも、きみはすこぶる優秀らしいから、技術課は放出したがらないだろうがね」
ウッズは別の酒を注文しながら、レスターに笑いかけた。そのときもやはり、彼の瞳は笑わない。
レスターは入店してから三十分も経過したのに気づき、だんだんと焦りを感じてきた。ウッズがレスターを呼び出した目的は、まだ明かされていない。彼は、レスターの方からそれを尋ねないよう、無言の圧力をかけてもいる。緊急の業務がないとはいえ、呼び出された理由を曖昧にされたまま、レスターはここに何時間も座っていたくはない。
レスターが手元の携帯を盗み見ると、二通のメールが入っていた。一通は一分前に届いたばかり。まったく、気づかなかった。
レスターが目を上げると、ウッズの声音が変わった。「ところで」
とうとう、本題だ。
レスターはソフトドリンクのグラスを置き、彼の言葉を待った。
「先日の事故では、娘が大変お世話になったそうだね。きみに、娘はずっと感謝しているよ」
「先日の事故?」
レスターは何のことかわからず、ウッズをうっかり見返してしまった。ウッズは笑顔だったが、瞳はさらに冷たくて、鋭い。隙あらば攻撃する、ともいえる視線だ。
人助けなんて自分がやるわけがない。そう思いながら記憶をさかのぼっていると、一週間前に住居のエレベーターが故障して住民が避難させられたとき、レスターはハイディと非常階段を下っていったことに思い当たった。
そうだ、彼女はこのウッズのひとり娘だ。
そして、娘を大事に思うあまり、父親が彼女に近寄る男たちを撃退している、とケヴィンが話していたことも同時に思い出した。ウッズの今の視線は敵意あるもので、レスターをそういった対象の男とみなしているように思える。だが、彼の娘を助けたともいえる自分に対し、その目はないだろう、とレスターは思う。
「ああ……、マンションでの事故のことですね」
レスターが不満をしっかりと隠して言うと、ウッズは同意した。「そうだ。当初は、マイクロ・ブラックホールの疑いもあったそうじゃないか。娘は命拾いをしたと言っていたよ」
“命拾い”だなんて、大げさだ。
舌まで出かかった言葉を、レスターは必死に飲み込む。
「そんな、たいしたことはしてませんよ。ジムには彼女と俺しかいなくて、二人で下まで避難しただけですから」
ウッズは疑いを含んだ目でレスターを見る。彼は、自分の知らないうちに娘と知り合っていたレスターに、彼女には手を出すな、と釘をさしているつもりなのだ。レスターはほとんど彼女を知らないのだが、彼女が思わせぶりな話し方をしたか、話が下手で誤解して伝わったのだろう。
思ったとおり、面倒なコだ。そして、面倒な父親だ。娘の会う男全員が彼女に気があると思うのは、親側の都合のいい解釈だ。彼女は美人だが、親が思うほど、魅力的には映らないのに。
「とにかく、娘は助かったと言っている。私からも礼を言わないとな」
「気にしないでください。あんなことぐらいで俺に感謝を表そうと呼び出したんなら、それこそ、本部長の時間がもったいない」
ウッズがむっとしたように眼力を強めた。
ちょうどそのとき、レスターの携帯が小さな呼び出し音を奏でた。ウッズの目もレスターの手元にひきつけられる。画面を見ると、いつもいつも、なぜかタイミングよくかかってくる、マーシャだ。彼女と話したい気分ではなかったが、渡りに船とはこういうことだ。
レスターが問う前に、ウッズは彼に電話に出るように示した。いそいそと、レスターは電話を取る。声に嬉しさがにじんだが、ウッズは気づいただろうか? マーシャにはすぐにわかったようだ。
『なんだかテンション高いわね。今、どこにいるの? 話したいことがあるんだけど……直接』
「話? じゃあ、家に来る?」
マーシャの怒りが伝わってきたが、レスターの返答は、ウッズに聞かせるためのものだ。ウッズは態度の変化を見せなかったが、彼が会話を逐一聞いているものと意識して、レスターはマーシャと話した。マーシャとは、明日の昼休みに会う約束をした。
マーシャとの通話を終え、話の途中ですみません、とレスターが謝ると、ウッズの表情が明るく変わった。
「いや、いいんだ。きみこそ、彼女は怒っていなかったかね? せっかくの夜の時間を割いてもらって悪かったね」
「いいえ。彼女とは明日会えますし」
せっかくなので、マーシャは恋人ということにしておこう。
レスターが微笑むと、ウッズが少しだけ照れたように笑った。頬が赤らむと彼の鷲鼻まで赤くなり、人の良いサンタクロースのように面変わりする。さっきの表情とは大違いだ。娘に近づいただけの男にさえ父親がここまで熱くなるのだから、ハイディと結婚しようなんて男は、一生出てこないかもしれない。
ウッズの専用車で会社まで送ってもらう車内は、行きとは違って、リラックスしたムードだった。ウッズは、レスターと会っていた間にたまっていたらしいメールをチェックしていた。彼ぐらいの立場だと連絡件数も多いらしく、彼は携帯から目を外さず、レスターと会話を続けていた。
会社まで目と鼻の先の距離にまで近づいたとき、あいかわらず携帯を見ていたウッズが、「ちょっとした噂を聞いたんだが」と、レスターに切り出した。
「ええ」
レスターが返事をすると、彼は携帯から目を上げて、レスターに微笑んだ。
「きみは、何やら試したいことがあるそうじゃないか。聞いたところによると、危険すぎて誰の協力も得られないらしいね」
マイクロ・ブラックホールを発生させる実験のことが、レスターの頭にすぐに浮かんだ。実証されていない発生要件については、事情に通じている数人に話した。だが、実際の実験依頼は、会社にはしていない。反対されることが最初から分かっているからだ。
「おや、きみがそんなふうに顔色を変えるとは――噂は本当だってことか」
レスターが動揺すると、彼はなおも微笑みを深くした。
「詳細は知らんがね、会社は大反対だろう。仮に失敗でもして大惨事が起きたら、きみを首にするぐらいじゃ――もっとも、きみの体がこの世に存在していれば、の話だが、社は責任をとれんからな。きみに協力するという奇特な者は、きみの元教え子ぐらいしかいないんじゃないか?」
レスターは初めて、ウッズという目の前の男が怖くなった。彼は、会社に不利益をもたらしかねないレスターを首にしたいのかもしれない。
「……どこまでの話を知ってるんです?」
「言ったじゃないか、詳しいことは何も知らんよ」とウッズは肩をすくめ、レスターに言った。「ただ、きみはそれでも実験を敢行したいようだ」
レスターは黙っていたが、彼は話を続けた。
「成功の確率はどれぐらいだね? 想定される被害状況は?」
レスターは再び、言葉をなくしてウッズを見つめた。彼の質問の意図が分からなかったからだ。
だが、ウッズが笑いもせずに自分の返答を待っているのを見て、レスターは、ケヴィンとポーラ以外に話さなかった実験計画の詳細を彼に話した。もしかしたら、二人に対してより、もっと詳しくしゃべったかもしれない。ウッズはレスターの計画を笑い飛ばしはしなかった。そして、会社の前で三十分以上停車された車内から出たとき、レスターは、ウッズの個人管理下にある実験場を一週間後に使用できる約束をもらっていた。
前回の更新から数ヶ月がたってしまいましたが(汗)
今後ものんびりペースで執筆を進めていく予定です。
気が向いたときに、どどーっと数話まとめて読んでくだされば、それで嬉しいです。
今後ともどうぞ、よろしく〜〜〜。