第48話
お読みいただき、ありがとうございます。
前回の更新からしばらく経ってしまいましたが、今後も不定期に、ぼちぼちと載せていきたいと思います〜
マーシャは不満そうな顔をくずさなかった。以前は、久しぶりに会うといつも、彼女から会話を始めていた。でも今、彼女のほうからはレスターに口をきこうとしない。彼女の不機嫌さの理由は、レスターが彼女を一緒にいた男から引き離したことだけではなさそうだ。
隣のマンション側にあるベンチ前まで二人が行くと、マーシャが不意に立ち止まり、スターの手を振り払った。彼はむっとしたが、公衆の面前で喧嘩になりたくなかったので、無言で彼女を見返した。
「……ここにはいつ来た? きみは実家暮らしだろ、今朝来たのか?」
「ねえ、それって答えるべきこと? あなたには関係ないし、だいたい、どうして私を責めるふうな言い方をするの? 今までなーんにも気にかけてなかったくせに、変わった事件があると、私のことが急に気になる? ……今回の騒ぎはただの事故よ、私のせいじゃない」
だが、彼女はそう反論しながらも、自信なさそうに声が小さくなっていく。レスターが疑うのと同じ、彼女も自分が事故に影響を与えたかもしれない、とどこかで疑っているのだろう。その彼女の様子を見て、彼女に威圧的な態度をとったことを、レスターは少し反省した。
「まあ……科学救助隊はきてないね」
「 “磁気対策”をとってから、あんなこと一度も経験してないわ。――あなたのリングはもうしてないけど」
マーシャは髪を耳にかけ、銀色の“磁気”ピアスをレスターに披露した。あのリングは効果がなくなっちゃったから、と彼女はようやく無邪気な笑顔に変わる。
「磁気って、少しずつ抜けていくのよ。あなたって、頭がいいわりに少し抜けてるのよね」
レスターはほっとし、マーシャと一緒に笑った。
「――で、今日はここで何してるの?」
レスターが機嫌を直して尋ねると、マーシャがマンションの棟を見上げて言った。
「実は昨日、ここに引っ越してきたの」
「へえ、きみが?」
彼女は親元で快適に暮らしているとばかり思っていたので、その返答はレスターには意外だった。
「うん。親元じゃない方が、何かと都合がいいから」
レスターは彼女がさっき一緒にいた男の方に振り向きかけ、寸前でやめた。すると、彼女が目をすがめて、彼に言う。
「……トーラスが理由だって考えてるなら、違うわよ。彼とは、昨日会ったばかりだもの」
「え? ああ、そう」
(――だとしても、あの男の方には気があるな)
レスターがトーラスの方を見ると、マーシャがくすっと小さく笑った。
「うちは過保護だから、離れてた方がお互いのためになるの。私、一人で料理もできないし」
「ふーん。ま、できなくても困らないんじゃないか? 家事ロボットがいるだろ」
「できるとできないじゃ、違うの。私は、できた方が絶対いい」
レスターは、マンション前に集っていた住人たちがぞろぞろと歩き始めるのに気づき、マーシャから視線を外した。皆、口々にぼやきながら、マンションの入口ドアに向かっていく。エレベーターやドアの異常が修理され、安全が確保されたようだ。復帰するには少し早いような気もしたが、思うに、異常の全てが軽微な故障だったのだろう。
マーシャを促してレスターがマンション入口まで進むと、一足先に玄関ロビーにいたハイディと目が合った。友人らしき女とは離れ、彼女は誰と会話するでもなく、ぽつんと立っている。レスターが微笑むと、彼女はうろたえたように大きく顎をあげ、人の波の中にまぎれてしまった。
「――新しい恋人?」
マーシャが、小悪魔的な笑顔で見上げている。
「今のあの彼女のことなら……残念ながら、違うね」
「ふうん」
マーシャは笑みを引っ込めない。
「彼女、美人ね」
そして、マーシャはなおも、ひとりで納得したように笑い続ける。
(……まーったく、信じてないな)
レスターは彼女をロビーのドアの中に招きいれながら、ため息をつく。彼の体の前を通り過ぎるとき、マーシャの頭からは、レスターの祖母の家と同じような香りがした。
「あの彼女、会社のウッズ本部長のひとり娘で――父親が厳格で有名だ。きみもそのうちに噂を耳にするよ。彼女とはさっき、ジムで偶然に会っただけだ。俺は、まあ、面倒な関係は嫌いだから」
マーシャが、レスターを不思議そうに見上げた。これではまるで、彼女に自分の身の潔白を釈明しているかのようだ。
(なんでこんな言い訳がましく、彼女にわざわざ話したんだ?)
見開かれた彼女の瞳とまともに出合い、レスターは久しぶりの動揺を感じた。普段より、彼女の瞳の中にある紫色が艶やかに見える。
エレベーターは二機とも、通常運転をしていた。先に来た一機には乗らず、レスターたちは数人と一緒に後続を待つ。
「……片付けはもう終わった?」
待っている間にレスターが問うと、彼女が少し首を傾げて彼を見返す。
「引越しの? うん、そんなに大きな荷物はないし……細々したものを整理すればいいだけ」
エレベーターが滑るように一階に降りてきて、銀色のドアが開いた。
「じゃ、夕方には終わるな。今夜、うちに食べに来るか」
エレベーターに乗りかける際にレスターが言うと、マーシャが驚いたように足を止めた。レスターは足を止めず、彼女の背を両手で押しながら、囁いた。
「今夜は俺が作るんだ。料理、覚えたいんだろ?」
マーシャが目を細めて笑った。
マーシャは夜七時過ぎにやって来た。オレンジ色のノースリーブを着て、オフホワイトの薄手のパンツを穿き、両手にワインを二本抱えて。
彼女は以前とかわらず、マイペースだった。普段のレスターなら、誰かに日常生活に踏み込まれることを嫌うのに、彼女がキッチンをのぞくことにも抵抗感がない。
焼きあがったばかりのパンがカウンターの上に放置されていて、香ばしい匂いを放っている。コの字型の手狭な場所だというのに、家事ロボットが彼女を追いまわすようについていき、二人はいかにも窮屈そうだ。だが、彼女は家事ロボットを邪険にするでもなく、それさえも愉快だというように笑っている。
銀色で統一されたキッチンの中央で、マーシャが散乱した調理機材を興味深そうに眺め、旧型のオーブンを覗き込んだ。
「あなたってシェフ? すごいじゃない……!」
彼女はレスターの来期待どおりの反応を見せ、用意される食事に素直に喜んでいる。当然、レスターだって褒められるのは大好きだ、気分がいい。
二時間半があっという間に過ぎた。
こんなに時間が早く経ったと感じるのは、久しぶりだ。
自画自賛でもないが、レスターの準備した食事は完璧だった。メインのミートローフは絶品に仕上がり、鮭のパテも、アスパラのサラダも、ライ麦パンまでも、どれもこれも美味しかった。飾り付けを家事ロボットが担当したおかげで、ビジュアル的にも素晴らしかった。マーシャは全てのメニューを残さず平らげた。彼女の持参したワインも円熟していて、舌によく馴染んだ。
久々の再会とマーシャの独り立ちを祝い、二人は何回も乾杯した。今日の再会までに会わなかった時間を埋めるように、レスターはよくしゃべった。何度も言い争った過去の口げんかを笑い飛ばし、マーシャの失敗談を聞かされて、レスターは膝が痛くなるほど叩いた。彼女も同じくらい、笑い転げていた。恋愛の駆け引きをしないですむ分、レスターはマーシャといると気が楽だ。
笑い疲れたのか、マーシャが席を立ち、ソファに倒れるようにして座った。手にあったグラスを脇のテーブルに置き、思い出し笑いをするようにそっと微笑んでいる。それを見ていて、レスターはデザート用にとっておいたブラウニーを思い出した。
「ああ、まだブラウニーがあった! 手作りじゃないけど……いけるだろ?」
「食べる!」
言い終わる前にマーシャが即答し、レスターは苦笑した。
レスターがキッチンに移動すると、マーシャもその後ろをついてきた。
「そっちに持ってくから、座ってたらいい」
「でもまた、何か面白そうなことするんでしょ? 見学しようと思って」
マーシャはにこにこと笑って、レスターの横を通り過ぎる。そして、カウンターに手をついて、その上に軽々と飛び乗った。
カウンター天板に座り、自分より目線の高くなった彼女に笑いかけながら、レスターは彼女の期待をやんわりと否定する。
「なんにもないよ。さすがにもう、ネタはつきた」
それから、レスターは菓子ケースからブラウニーを数個取り出した。それを温めている間に、ブラウニーに添える生クリームの用意をする。キッチン備え付けの専用機器の中に生クリームの素を注いでいると、レスターの背後から、ふうっ、とため息がつかれた。
「生クリームって、そうやってできるのね」
今どき、ソースやドレッシング、クリーム類は、一般家庭にある専用機器を使って、小学生だって作っている。
(料理をしないって言ってたが……こんなことも、自分でやったことがないのか?)
レスターは彼女に振り返ろうとして機器から目をあげ、彼の前にある鏡面仕上げの扉の中で、マーシャと目が行き合った。
銀色の背景の中、彼女はたじろぎもせず、何かを切なく訴えるようにレスターを見つめている。
彼女は一言の言葉も発しなかった。レスターは彼女の様子を怪訝に思い、そこから視線を落とす。皿に温まったブラウニーを並べ、できたばかりのぽってりとした白い泡を上からかけた。だが、彼女の視線が自分の背に注がれているのを、ひしひしと感じる。
(彼女は案外酔っていて、目が据わってるだけか?)
レスターはさりげなく、顔を上げた。マーシャも続けて目を上げ、山頂から見える星空のような瞳でレスターをじっと見る。二人の空けたワインはけっこう強かったから、マーシャが酔っている可能性は十分にある。
でも、そうだったとしても――果てのない夜空に、体が吸い込まれそうだ。
レスターは、意図しない展開を急に危ぶんで、彼女から視線を逸らした。生クリームがゆるゆると溶け出すブラウニーに、心を集中させる。
もう二度と、鏡面の扉は怖くて見られなかった。
「できた?」
いつもと全くかわらないマーシャの口ぶりに安心し、レスターは皿を手に持って、振り返った。「できた――」
彼女は、キッチンの扉に映っていたのと同じ姿勢で、カウンターの上に腰掛けていた。子どものように、両足を交互に揺らす仕草も変わらない。
それが、どうしてかは謎だが――後になっても、明確な理由を見出せなかったが――レスターはマーシャの肘に手を伸ばし、それが最初からの約束だとでもいうように、彼女の唇を自分の唇で覆った。皿とブラウニーの飾りにかけられた生クリームが、別々の種類の音をたて、床に落ちた。
最初、マーシャは抵抗するように肘を引いたが、レスターが軽く口を離し、別の角度から唇を乗せると、彼女の腕はだらりと力をなくした。口にひろがるワインの甘みが、レスターの理性を奪う。レスターは彼女の首に腕をまわし、彼女の唇に深く押し入った。
当惑していたマーシャの唇が彼に応え始めると、レスターは彼女の息づかいに興奮した。
彼女のもらす息を逃したくない。その一息ごとの甘さを、余すことなく自分の中に引き入れてしまいたい。
ため息だけで官能を刺激されるのは、レスターにはあまりない経験だ。レスターが彼女の息を独占しようとその体を腕に抱えると、彼女がレスターの顔を両手で支え、唇を離した。
「レスター……」
返事をするのももどかしく、レスターがキスを続行しようと彼女に顔を近づけると、彼女は顎を後ろに引いて抵抗した。
「……?」
「……ねえ、ブラウニーはどうするの……?」
せっかく気分が盛り上がっているのに、どうでもいい話題を持ち出して男をじらす、または、自分への気持ちを確かめようとする女心を、レスターは歓迎しない。
レスターは彼女の頭に手をまわし、耳に唇を寄せた。
「まだ残ってる。そんなのより、きみを味わう方が、先だ」
レスターは、彼女が嬉しそうに微笑もうとする唇に自分の唇を重ねた。
レスターは、理解しにくい女の行動を歓迎はしないが、それをわざわざ表明して、せっかくのチャンスをふいにはしない。
二人がキッチンの床に倒れてから、かなりの時間が流れたように感じる。
長く甘いキスが終わり、レスターがマーシャの首筋に口をあてると、彼女が彼に寄り添うように、そっと顔を傾けた。彼女が二十歳そこそこと若いせいで、肌はずいぶんと張りがあり、そのくせ、触れると柔らかい。
(吸血鬼は、首筋のフェチだと思う)
歯をたてたくなる衝動を抑えながら、レスターはマーシャの白く浮き出た首筋にゆっくりと唇を置いた。人肌が、唇に心地よい。
(俺の祖先はきっと、吸血鬼だ)
レスターが唇を下に移動させると、マーシャの首筋が時々震えた。
「……あなたって、面倒な関係は嫌じゃなかったの……?」
「――面倒な関係?」
レスターが囁くように問いかけると、彼女の顔が動いた。
「……うん。今朝、下でそう話してたじゃない」
レスターはハイディの顔を思い出し、ああ、と彼女の質問の意味を理解した。
「彼女はおエライさんの娘だから――下手なことはできないさ。俺は、面倒なことに巻き込まれるのはなるべく避けたい主義」
握っていたマーシャの手に唇をつけ、レスターは彼女の顔を覗き込む。こんな最中に普通の会話をするのは好まなかったが、ふと、レスターはマーシャに質問した。
「きみ――今、彼氏は?」
マーシャが、戸惑ったふうにレスターを見返す。
「今は、いないわ」
「そう」
レスターが頷くと、なぜか、彼女の態度が少し不機嫌に変わった。
「……あなたは? 今は、付き合ってる子はいないの?」
「いない」レスターは即答した。
マーシャが疑うように眉を寄せたので、レスターは答えを補足した。
「決まった子はいない」
その返答の何かが気に入らなかったのか、マーシャが、レスターの体の下で身を浮かせようとする。レスターは体重をかけてそれを阻止し、マーシャの耳の下に口をつけた。レスターの唇の上を彼女のピアスがかすめ、彼女は息をもらして身を縮めた。レスターはそこに唇を残したまま、彼女に囁く。
「マーシャ、俺たち――面倒か? きみはもう俺の生徒じゃないし……俺の部下でも、同じ部署にいるんでもない。きみにも、俺にも恋人はいない。面倒な関係になるような理由なんか、何もないだろ。たまに、クリスみたいに、会うぐらいなら――」
「どいて」
どこから――そんな冷え冷えとした声が出せたのか。
レスターが唖然としてマーシャを見つめると、彼女は、彼の顔など見たくもないというように、そっぽを向いた。
「……おい?」
「どいてって言ったのよ!」
彼女の叫び声で耳鳴りがし、レスターは咄嗟に彼女の体から降りた。
彼女の紫色の瞳が暗く濁っていた。何がそんなに彼女を怒らせたのか、よくわからない。
「マーシャ、何をそんなに――」
「触らないでよ!」
彼女が怒鳴ると、キッチンの扉が共鳴して振動した。それさえも腹が立つというように、マーシャはキッチンの揺れる扉を、バン、と片手ではたいた。
「クリスみたいに……クリスみたいに会うって何よ……」
マーシャはそんなに激怒しているのに、興奮した彼女の瞳が熱っぽく、レスターはその瞳にかぶりつきたくなる。だが、彼の体にわきあがった欲望を察知したのか、マーシャの怒りが倍増したようだ。
「……あなたって、ひどい人だとは前からずっと思ってたけど……!」
レスターは、彼女の目尻に盛り上がった涙の光を見て、驚いた。過去の二人の言い争いで、彼女は今のように怒ることが多々あったが、それで泣いたことは一度もない。
ところが、レスターが、彼女の涙が膨れ上がるのを見終える前、二人の視界を照らす電気の光が、いきなり、一斉に落ちた。
「……えっ!?」
マーシャが床から跳ね起きてレスターの腕にしがみつき、レスターと間近で瞳が合って、ぱっと腕を離した。暗闇でも彼女の瞳が光って見えたが、彼女がどんな表情をしているかまで、レスターには見えやしない。
(……“また”停電だ)
マーシャは何を考えているのだろう?
彼女の瞳はあちこちを彷徨っているようだったが、彼女の指がレスターの手の甲に頼りなく触れ、彼はその手を握り締めた。迫ってくる鼓動を聞きながら、レスターは、空間に響いてくるだろう別の音を待って、自分の耳を頼った。