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第46話

 冬季休暇の直前、ボッシュ社の単体移動方法論に倣って研究を続けていたある競合会社が、その単体移動を繰返した生物の体に恐ろしい副作用がもたらされることを発見し、世間に発表した。その副作用とは、同じ生命体が平均して七回以上の移動を重ねると筋肉の機能が著しく衰え始め、筋肉補助剤や増強剤を処方してもその衰退スピードに対応できず、いずれは死に至ってしまうという内容だ。これは移動回数の問題だけで、移動する年数や滞在時間も関係なければ、生物の種類も限定しない。

 既に人体実験の段階にまで開発が進んでいた企業もあったようだが、この衝撃的な報告は単体移動成功のニュースが世界を駆け巡ったのと同じかそれ以上のスピードで業界の隅々までに知れ渡り、それまでの熱心な開発から人々の手を一斉に引きあげさせた。世紀の発見かと騒がれ名誉を回復していたボッシュ社の評判は再び落ちることとなり、各社の開発部門はまたもや独自の方法へと方向転換した。当然、レスターの所属するトップ・インダストリーも同じ道をたどった。

 ただし、ボッシュ社が一度火をつけた業界内部の単体移動に関する争いは、それが予期せぬ暗礁に乗り上げても鎮火することはなく、各社はどこも他社を出し抜こうと激しいしのぎを削る心積もりのようだ。

 社内で今後の方針展開について調整を行った後、レスターが自分の仕事の整理をつけて帰途についたのは、夜九時をまわっていた。社の技術棟以外の棟からは明かりが既に消えている。レスターの単体移動論に基づく研究プロジェクトは、その移動法がはらむ危険性から、諸手を挙げて賛成というわけではなかったが、とにかく、続けていくことだけは承認された。

 慢性的な疲れは体に残ってはいるが、意に染まない研究開発を堂々と中止できたおかげで、レスターはいつもより疲れてはいなかった。それに、明日からは久しぶりの休暇で、最近になって知り合った女の子と小旅行に行く計画をたてている。それも彼の気分を良くしてくれている。

 以前の研究に戻ることが決まったせいで、レスターにはマーシャに連絡を取る必要性が出てきた。研究のためという大義名分ができたため、彼女にも連絡を入れやすい。

 かれこれ九ヶ月間もマーシャとは顔を会わせておらず、レスターが個人的に連絡を交わすこともほとんどなかったが、彼女が友人や知人に近況をメールで知らせる一斉送信の宛先にはレスターの名が含まれていたので、彼女の現状は知っていた。学生である彼女はレスターよりひと足早く冬の休暇に入っていて、父親の滞在先である日本にいた。添付された写真では、枝から葉が全て落ちた街路樹をバックに、マーシャは父親と腕を組んで笑っていた。その姿を見る限り、彼女は元気そうだ。父の手をつかむマーシャの手の指に、レスターがあげたピンキーリングは光っていなかった。


 年が明けてまもなく、今後の人事採用について話がある、と人事部から呼び出され、レスターは技術一課課長と共に人事部を訪れた。レスターは一介のチーフである自分がなぜ人事関連の件で呼ばれるのかわからなかったし、課長も話の内容には心当たりがないそうだ。

 二人が人事部を訪ねると、レスターの入社時にも調整に入ってくれた人事部部長が彼らを直々に迎えた。やり手と噂の彼女は他の部長たちからも一目置かれる存在だそうだが、レスターと目が合うと、ふくやかな頬を押し上げ、人のよさそうな大きな笑顔を向けた。

 彼女は二人にソファに座るように勧めながら、お二人に協力を頼みたいことがあるのよ、と言った。レスターが返事を控えていると、どういったことでしょう、と、課長が彼女に問い返した。しかし、彼女はその問いには答えず、代わりに、レスターを見つめて言った。

「来年、マーシャ・オブライエンがテックを卒業したら、うちに来て欲しいのよ」

 マーシャが自分と同じ会社で働くということは、レスターには考えつきもしなかった。

 そういえば、今頃の時期から、来年卒業予定の優秀な生徒を一人でも多く獲得しようと、企業間では非公式な競争が始まる。工学系生徒をめぐる競争は特に熾烈だ。 

 彼がびっくりして無言でいると、彼女は彼の反応に納得済みといった調子で、課長やレスターがマーシャの獲得に協力するという一方的な前提のもとで、マーシャの入社を希望する理由を並べ立てた。どれもこれも、レスターに反論の余地を与えないものばかりだった。

「あなたという切り札がいてよかったわ。オブライエンはあなたに師事したいようじゃない? 彼女、けっこう競争率が高いのよ」

 そして最後に、彼女は、マーシャが最近提出したという論文のコピーをレスターに送っておくと告げた。

 マーシャが見込みのある優秀な生徒だということは、レスターがテックに在籍していた頃から既に知っていた事実だ。彼女が好奇心旺盛で吸収力がある点も、彼はよく知っている。

 レスターがテックを離れてからの期間も彼女は相当に勉強を重ねたのだろう、その軌跡が、彼女の作成した論文にも如実に表れていた。



 レスターがテックに出向いた日、彼とマーシャ、ケヴィンはテック近くのダイニング・バーで夕食をとる予定でいた。レスターは部下のミラも誘ったが先約があるらしく、二人は、店の入るビル内に設けられた公園で、どこかに寄ってから来るというケヴィンの到着を待っていた。

 人工公園は日本式庭園だそうで、華やかな花は見られず、背の低い木々の緑を基調とした、全体的にすっきりとした造りだ。北側には細長い池があって、対岸の二箇所には灯篭が立っている。白く細かい砂利に囲まれた楕円形の池の真ん中に小さな赤い橋が架けられ、池を縁取る様々な大きさの石は半分以上に緑の苔が生えていた。公園には二人のように時間つぶしをしているらしい数人が、ぶらぶらと歩いている。

「こんな公園、東京で見なかったけど」と、マーシャが公園をぐるりと見渡して言う。「どこもかしこもビルばっかりだった気がする」

 レスターは、過去に数回、国際会議で訪問したことのある東京の風景を思い出した。「そう? どこかでは目にしてるけど、覚えてないだけだろ。神社には似たような庭があった覚えがあるな」

「そうかな」

 マーシャが池の方へ歩き出したので、レスターは彼女の後をついていく。歩きながら、何気なく自分の腕にある時計を見ると、ケヴィンとの待ち合わせ時間より既に十分過ぎていた。それこそ日本人並に時間を厳守する彼らしくない、と、レスターがビルの入口の方にふと目をやると、男と腕をからませて媚びた笑い声をあげながら歩いてくる若い女の姿に目が留まった。どこかで見たような風貌で、どこかで聞いたことのある声だ。レスターは歩みを止めた。それは、付き合い始めたばかりのレスターの恋人だった。

「レスター?」

 マーシャが彼を呼び、レスターは彼女に振り返ろうとして、女と目が合った。彼女は驚愕して目を見開き、動揺したように視線をそらしたが、すぐに非難するような目つきでレスターを見返した。彼女はレスターの隣にいるマーシャの存在に気づき、“彼も”浮気をしていると誤解したようだった。

「どうしたの?」マーシャが腕をたたき、レスターはやっと彼女に振り返った。「――ああ、ごめん。何でもない」

 だが、レスターは横目で女と男が歩いていくのを追っていた。女に二股をかけられたと知ったわけだが、特に怒りも嫉妬も感じない。ただ、それならそうと、最初から割り切った関係ということにすればよかったのに、と、女への落胆を感じた。それと同時に、彼女との付き合いの終焉も予感していた。

「・・・・・・あの人、誰?」

 マーシャの遠慮がちな声がし、レスターはマーシャに視線を戻した。レスターの恋人と浮気相手は、公園の南側を通り過ぎていくところだ。マーシャはその二人を見ていた。

「ああ、あれ? ・・・・・・俺の、付き合っていると思ってた子」

「えっ?」マーシャは驚いてレスターを見つめ、そして再び二人に注意を戻した。「え、だって――」

「浮気現場を直接見ちゃったな――いや、俺の方が浮気相手だったのかも」

 レスターが苦笑すると、マーシャが怪訝そうに彼を見返した。

「いいの、レスター?」

「いいのって、何が?」

「あなたの彼女なんでしょ? 彼女を好きなんじゃないの? 追いかけて、奪い返さなくていいの?」

 レスターはマーシャの熱気のこもった口調に面食らい、それをごまかすために笑った。

「なんで? もう結果はそこに見えてるじゃないか、そんな必要はないだろ」

 マーシャが口をあんぐりと開け、レスターの後ろにまわって背中を強く押した。

「何言ってるの、早く行って! 結果なんか、聞いてみなきゃわかんないじゃない? 行って、男をぶんなぐってでも彼女を連れてきなさいよ!」

「おい? 何するんだよ――」

「早く行かなきゃ!」

 レスターは彼女の手を振り払い、あきれて、彼女を見返した。

「きみはまた、乱暴だな。どっちにしろ、遅かれ早かれこうなったはずなんだ、放っておけばいい。どうせ、こっちも向こうも本気じゃなかったんだ。それに、向こうだって俺たちの仲を誤解してるさ」

 再びレスターの前に戻ってきたマーシャは、ますます怒ったように顔を赤くしていた。

「なんて――レスター、あなた、自分がどんなひどいことを言ってるか、わかってる?」

「きみこそ、人の恋愛問題に首をつっこんで、あれこれ指図するのはやめてくれ。きみみたいな子供に人間関係の何がわかる? 知ったかぶりの説教をされるのは、こっちだって大迷惑だ!」

 マーシャが非難するように顔をしかめ、「サイテー」と呟いた。「ああ、サイテーで結構だね」と売り言葉に買い言葉のようになってレスターが苦々しく答えると、彼女のジーパンに包まれた足がまわり、レスターの膝の横をどんっと強く蹴った。

「いてっ! 何だよ!?」

「よかった、心の痛みはわからないみたいだけど、体の痛みは感じるのね。・・・・・・あなたは、研究者としては一流かもしれないけど、男としてはサイテーよ」

 今度はレスターが口をあんぐりと開けて、彼女を見つめた。彼女の瞳にはなぜか、涙がにじんでいる。

「なんできみが怒るんだ?」

 マーシャは返事をしなかった。彼女はそれ以上レスターと一緒の空間にいるのも嫌そうだったが、間髪入れずにケヴィンが二人を呼びながら走ってきたので、彼女は、帰るとは言い出さなかった。ケヴィンは、同僚のポーラも伴ってやって来ていた。

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