第45話
決済窓口に行く途中、マーシャがレスターを止めて、言った。「やっぱり、わたしが自分で払うわ。こんなことであなたに借りを作りたくない」
彼女の口調から、それが本気なのだとレスターにも感じられる。
「君はへんなコだな。君がされてきたことを考えれば、俺からもっとふんだくってもいいぐらいだ。こんなこと、俺には大したことじゃない。でも、君がそう思うっていうなら・・・・・・むしろ、俺はそれを逆手にとって、君に恩でも売っておこうかな」
だが、レスターの真意がマーシャに伝わらなかったようで、彼女はなおも戸惑っている。
「貸し借りとか、考えないでいい。この一ヶ月間の俺の暴挙・暴言に我慢してくれたお礼だよ、俺が買う」
そうしてレスターが無事に決済を終えると、マーシャの顔には笑顔が戻っていた。すぐに身につけるから、と、品物の包装は断り、彼女の小指には買ったばかりの指輪がはめられている。彼女がうっとりとして何度も指を眺めている姿を見るのは、悪くない。
「女の人に指輪をあげるのは、何度め?」
顔を上げたマーシャがくすくすと笑う。
「そんなこと、知らなくていい」
レスターはプライベートなことに他人から首をつっこまれるのは嫌いだ。でも、何となく、マーシャにあれこれと問われても、それほど気にならなくなっている。ふうん、と、つまらなそうに返事をしたマーシャが、小指の指輪を見て笑顔を浮かべ、それにキスをした。それを目にすると、レスターは無性に彼女を抱き寄せたくなって、その気持ちをあわてて否定する。
単に、体が欲求不満なだけだ。まだ十代の彼女にそんな感情を持つなんて、ありえない。考えたくもない。
「どうしたの、何か心配ごと?」
マーシャが眉根を寄せて、レスターを見上げている。レスターははっとして、慌てて彼女に笑顔を返した。
「いや、何でもない」
「・・・・・・ふうん?」
彼女は納得していないような返事をしたが、レスターにそれ以上答える気がないと悟ったのか、くいさがってはこなかった。
「これで君の身も安心だな」
「うん、そうよね。だけど、もし、少しでもおかしな現象が起きたら、あなたに真っ先に知らせるわ」
デパートの入口で二人は別れ、別々のタクシーに乗りこんだ。レスターの乗るタクシーの前を、マーシャを載せた黄色のタクシーが交差点で右折していく。レスターはそれを目で追いながら、ふと、今までのような頻度で彼女と会うことも当分はないのだろう、と思い、漠然とした喪失感を覚えた。
こんなこと、考えたくはないのだが――。
不自然に高鳴る心臓の音が、レスターに何か大事なことを伝えようとしている。
タイプでもなく、恋愛対象と考えられない相手だからって、恋愛感情を持つことが“ありえない”なんて、言い切れない。
レスターが自分のチームのエリアを通って奥の自室に行こうとすると、ドゥセーズが一人で黙々と仕事をしている後ろ姿が見えた。ミラはテックに出向いており、ケヴィンは午後から休みをとっていた。
レスターが最後にマーシャと別れてから、彼女からの連絡は一切入らない。既に一週間だ。
『――フレッドマン?』
デスクのコンピューターが起動されたとたんに女の声に呼びかけられて、レスターは驚いて体を震わせた。
『フレッドマン、人事部のゴールドスミスです』
なおも女の声は続き、レスターは椅子に腰を掛けて、コンピューター画面に注意を向けた。画面上に一人の女の顔が映像化されていく。広い額、少し上を向いた鼻、胸の谷間を強調するような襟元が広く開いたシャツ。以前、エレベーターを出たところでレスターやケヴィンとすれ違ったことのある女性、マイラだ。
「おはよう。それから、初めまして、ミス・ゴールドスミス」
レスターは彼女に微笑んだ。彼女も微笑んで挨拶を返したが、あくまで、愛想笑いの域は出ていない。
『フレッドマン、非常に急な話で申し訳ないのですが・・・・・・チームメンバーの変更が決まりまして』
「何だって?」レスターは少しだけ身を乗り出した。「それはどういうことだ? ちょっと一方的じゃないか」
『ええ、申し訳ありません。本来なら、あなたに事前に相談すべきだったんでしょうが――』
よくよく聞いてみると、どうやら別チームで問題があったらしく、技術課全体でチーム編成の見直しをした結果、レスターがまとめるCチームが槍玉に上がったらしい。チームの一員であるドゥセーズとAチームのデイヴィスを交換したいのだと言う。レスターは怒りを通り越し、呆れて、ため息をついた。
デスクの席次表にドゥセーズの不在を示すランプが灯る。レスターはそれに目を留めてから、マイラに視線を戻した。すると、彼女はたたみかけるように、レスターに言った。
『来週初めからスタートということで、いかがでしょう?』
彼は会社の勝手なやり方に腹が立ってはいたが、マイラが指摘するように、ドゥセーズがチームから外れたとしても大した影響は出ないし、困りはしない。
「――そのデイヴィス、優秀だろうね?」
レスターが口を開くとマイラに笑顔が戻った。
『ええ、それは。彼女は連邦立宇宙工学院を卒業した後にボッシュ社で三年勤務し、その後に当社に入社して、ただ今五年目になるところです。――今すぐに彼女の経歴を送りますよ』
彼女のデータはすぐに送られてきた。
『Cチームにはご迷惑をおかけします』
「もういいよ。ドゥセーズは個人単位で仕事をしているから、チームにも彼にも大きな影響はないだろう。勤務開始も、本人の都合がつくならいつでもいい」
『ありがとうございます。それでは、こちらで日程を調整し、日付が決まり次第ご連絡いたします』
マイラが事務的にそう告げると、彼女の画像がさっと画面から消えた。代わりに、レスターが開いたデータ上のデイヴィスの顔が映し出される。つい最近、彼が見たばかりの顔だ。顔写真の下に、“ポーラ・S・デイヴィス”という名前が書かれている。レスターは、彼女とインド系の男が大声で怒鳴りあっていた場面を思い起した。
「ちょっとした不都合、ねえ」
大方、派手な喧嘩をやりすぎて、彼女をもてあましたってところだろう。
あのキツそうな彼女にケヴィンはどんな態度をとるんだろう、と想像すると、彼女に言い負かされた彼しか思いつかず、レスターの口が勝手に笑い出した。
「がんばれよ、ケヴィン」
そんなある日、事件は起きた。レスターのCチームが新メンバーのポーラを迎えて一週間も経たないその日、競合先ボッシュ社が衝撃的な内容を世間に発表し、時空移動機器業界全体を揺るがした。
移動機を使わず、生物だけによる時空移動の動物実験を成功させたというニュースは、業界にいる数々の会社に、ボッシュ社と同じアプローチによる開発にと向かわせた。レスターの社も例外ではなく、それに伴い、彼を取り囲む環境も一変した。レスターが取り組んでいた単体移動方法は社の命令によって百八十度の方向転換を余儀なくされ、彼もボッシュ社が先行した方法に追随させられるはめとなってしまった。
ボッシュ社の発表が出されたその日遅くなって、レスターは、日中にマーシャから連絡がきていたことに気がついた。メールの内容を急いで確認すると、ニュースのことが書かれていただけだった。彼女の身に危険が降りかかったのではないとわかり、レスターはほっとした。そして、多忙な業務の中で返事を先延ばしにしていると、そのうち、その事をすっかり忘れてしまった。
彼女からの連絡は、それからしばらくは来なかった。返事をし忘れていたとレスターが思い出したのは、それから二週間後にマーシャから来たパーティの案内状を見た時だ。せっかくの機会だったので彼女と会いたかったが、当然、パーティに行けるような時間的余裕は、その時のレスターにはない。あれこれと返事の仕方を考えた末に、行けない、と短い返事を送ると、わかった、と、これまた短い返事が彼女から返ってきた。そして、それ以降の数ヶ月、レスターはマーシャとは会うこともない日々を送った。
次に再会、というより、彼女の姿を見かけたのは、レスターがケヴィンに教えられてチェックしたニュースの写真だ。彼女の母親が早々に再婚する相手として有力視されている男が経済界での有名人らしく、その二人が撮影された写真の後ろにマーシャも写っていたのだ。マーシャの隣には若い男がいた。男は横顔だったので顔はわからなかったが、マーシャの兄ではないし、クリスチャン・マックブライトでもない。髪の色が違う。母親と恋人の後ろで、彼女たちは手をつないでいた。
「あんたたち、いい組み合わせだと思ったのにな」
ケヴィンは残念そうに言ったが、レスターは肩をすくめ、笑うしかない。淋しいような、悲しいような、それでいて、口惜しいような、はっきりとしない複数の感情が織り交ざってレスターの心の中を行き交う。
そして、レスターの心の内に最後に残ったのは、不思議にすっきりとした諦めだけだった。