第43話
ジェフリーと会った次の日、レスターはケンジントン・テックのあるセーラム・シティに急いでいた。その市内にある病院にマーシャを見舞うためだ。
レスターの住むコロンビア・シティを抜けると、しばらくは単調な田舎の風景が続く。ところが、目的地まであと数キロメートルというところで、地面がそれまでの茶色から白に移り変わっていた。少し前まで雪が降っていたのだ。
レスターが見る、今年に入って三度目の雪だ。それほど大量ではない。道路脇や家々の玄関前には除雪された雪が十センチほど積まれている。既に雪は止んでしまっていたが、彼はつい、辺りの雪景色を見渡してしまった。雪を感知した車が自動で運転速度を下げていたので、雪化粧をした風景がゆっくりとレスターの視界に入ってくる。
病院では、日曜日のせいか、面会客は比較的多かった。だが、道中の思わぬところで得をした気分になり、マーシャの入院先での面会手続きで待たされる時間も、レスターはあまり苦にならない。
受付で案内を受けたとおりにレスターがマーシャの病室に行くと、室内から複数の明るい笑い声が聞こえてきた。女性ばかりの声だ。レスターは彼女にあげようと持ってきたチョコの箱を持ち直すと、扉の前に立った。
部屋の扉が開くと、レスターの右斜め前にはマーシャが腕組みをして立っていた。女たちの笑い声がぱらぱらと止み、レスターは彼女の挑戦的な表情を目にして、一瞬だけ戸惑う。
「やあ、マーシャ」
彼は笑い、彼女の奥のベッド周辺にいる数人の人たちに目で挨拶をした。女だらけの部屋に男のレスターが入ったことで、室内の空気が微妙にこわばっている。彼がマーシャに視線を戻しても、彼女の顔に笑顔は浮かんでいない。
「マーシャ?」
「聞こえてるわよ。来てくれて嬉しいわ」
マーシャは素っ気なくそう言い、レスターの手にある白と緑色の箱に目をやった。
「そうだった、これ、見舞いだよ」
ありがとう、と彼女は受け取ったものの、彼女はそれを無造作にベッドの上にそのまま置いた。彼女はまだ、にこりともしない。
さすがに気分を害したレスターがマーシャに問おうとすると、
「来て。話があるの。外に出ましょう」
と、彼女がレスターの腕をつかんで彼を病室の外へ連れ出そうとした。が、マーシャはパジャマのような薄いTシャツと短パン姿だ。
「ちょ、ちょっと待った、マーシャ。上に何かはおった方がいい」
彼女がむっとしたように彼を見上げ、その後に自分の格好を見た。
「ちょっと待ってて」
彼女は苛ついたように短く息をつき、身をひるがえした。レスターは、彼女が意外に整った体型をしているのだと、そのときになって初めて気がついた。
マーシャはベッド横にあるクローゼットから長袖のパーカを取り出した。丈もけっこう長い。彼女はそれを乱暴に体にまとうようにして、上からはおった。
レスターはマーシャにフロアのロビーまで連れていかれ、隣の棟と繋がる形で設けられている、共同のサンルームに押し込められた。面会時間が始まったばかりでどの患者も部屋にいるのか、サンルームには二人以外、誰もいない。
「マーシャ、どうしたんだ?」
レスターが面食らって尋ねると、彼女はくるっと振り向き、噛みつきそうな勢いで言い返した。
「訊きたいのはこっちよ! あなた、私に何をしたの!? 私、あなたの言うことだからって思って、検査でも何でも協力したのよ? 私の体に何をしたのよ! あなたが・・・・・・あなたがこんなに早く私の見舞いにこなかったら、こんなことわからなかったのに! 疑いもしなかったのに・・・・・・!」
レスターが彼女の気迫にひるむと、彼女は怯えたように顔を両手で覆った。
「いや、ちょっ・・・・・・と待ってくれ、それは誤解だ」
「何が誤解よ!」
と、マーシャはレスターの顔の間近に顔を近づけて怒鳴った。
「だって、あの検査の後から私の体はどこかおかしくなったのよ! こんな異常って普通なら起こらないの、他にどんな原因があるのよ!」
「だからそれは――」
マーシャが興奮して、顔をぶるぶると左右に振っている。
「あなたの言うことなんか、聞くんじゃなかった。私・・・・・・ばかだった!」
レスターがマーシャの腕を押さえようとすると、彼女はそれを拒否して後ろに一歩下がった。
「俺は君に何もしちゃいない、本当だ、マーシャ」
レスターが一歩歩み寄ると、彼女が同じ間合いだけ後退する。彼女が悲しいほどに疑った目でレスターを見つめる。
「人を何だと思ってるの・・・・・・!」
「待て、本当に誤解だ。聞いてくれ、いいか、マーシャ――」
レスターが彼女に近づくと、後ずさったマーシャが背後にあったデッキチェアの背にぶつかった。その枠部分には赤や青のカラフルな特殊樹脂のコーティングがついていたのだが、マーシャが体勢をくずしかけてそれに手を触れると、ばちっという音とともに、明るいサンルーム内に小さな火花が散った。
「・・・・・・マーシャ!」
レスターは手を伸ばし、逃げようとする彼女を強引に引き寄せた。彼女を抱き寄せながら、素早く周囲に視線をめぐらせたレスターの視界に、反対側の棟に繋がる入口の正面に、エレベーターの白い扉が飛び込んできた。
「何するのよ!?」
「マーシャ、落ち着いて!」
マーシャの涙のにじんだ瞳をのぞきこむと、レスターは叫んだ。反対側の棟の明るさが一瞬だけ暗くなり、そこの廊下を歩いていた人たちが動揺した様子が見てとれた。
「レスター、やめてったら!」
彼女が腕の中で暴れたが、レスターは彼女の体をしっかりと抱き締めて離さなかった。
「わかった、全部話す! 何が君の身に起きているか、全部説明する! だから、落ち着いてくれ!」
そう言うと、マーシャが言葉を失って、彼を見つめた。
「悪かった、マーシャ」
彼女はとても困惑した表情で彼を見続けていた。レスターはその視線に耐えられなかった。
「・・・・・・俺が知っていることを、君に全て教えるから」
彼女の反抗は止み、体からは力が抜けた。レスターが、本気だ、と頷くと、マーシャは口を結び、彼から視線をそらした。
とりあえず、近くにエレベーターらしきものはない。わざわざ場所まで移動させたことで彼女はじらされたと思い、レスターに苛ついているようだ。病院の中庭に移動し、開口一番、「どういうことなの?」と、マーシャは半分怒ったように言った。
「あなたが調べたかったのは、私の記憶じゃなかったの? あなたも、それに、もしかしたらテックも、私の体の何かに特別な興味があったから、私に執着してたってこと? それと、あなたが私に説明してくれた話、あれはぜーんぶウソだったの? あの、単身移動の概念さえも?」
レスターは情緒不安定な母親を持っているせいで、女性の怒りや感情の爆発に対してある程度は免疫ができていて平気なのだが、マーシャに詰め寄られるのは、なぜだかとても苦手だ。
レスターがすぐに返答しなかったため、彼女がさらにむっとした表情をした。
「嘘、だったのね?」
「いや・・・・・・全部が全部、ウソじゃない。でも、言わなかったことは、ある」
あのとき、マーシャはただ黙ってレスターの話に耳を傾けていた。彼女から、「何を知りたくて自分をそこまで追うのか」といった類の質問をされ、「テックの事情は知らない」と前置きして、レスターは彼女に事情を説明したのだ。
「とはいっても、俺たちの見解と似ているのかもしれないがね」
レスターの言葉に、マーシャは、そんなことはわかっている、というような顔をした。
「ただ、俺たちの場合でいえば――君がマイクロ・ブラックホールを通じて時空移動をした点に注目してる。君が、君がいたどこかの過去の時点とつながっていたマイクロ・ブラックホールを経由し、現代に通じた出口に体一つで無事にたどり着いた事実、だよ。――君も知っているとおり、通常、何かがマイクロ・ブラックホールの類に一度呑み込まれてしまえば、永遠に異次元空間を彷徨うか、まれに、どこかに気まぐれに放出されるとされている。その“出口”がどの時代のどこに繋がっているかでその放出先は決まり、空間は常に不安定に移動するせいで、出口がいつも同じ場所だとは限らない」
「ええ、そうね」
レスターは彼女が話を追ってきているかを確認できると、先を続けた。
「だが、マイクロ・ブラックホールはそれ自体が時空移動を行っている空間だ。空間そのものがとても危険なのは認めるが・・・・・・時空移動用の“媒体”になり得る、と、なぜ言えない? マイクロ・ブラックホールの空間にある一つの出口から別の出口へ瞬間移動することも、理論上はできない話じゃないだろ? 出口部分は抑制剤を使って、つまり、科学的な技術で消滅させられるんだ、人工的なコントロールが可能だという意味だ。ってことは――何らかの因子が揃う一定の環境下であれば、人工的に、例えば出入口をフリーズさせた状態にするとか、もしかしたら、出入口を新しく造ることだって可能なのかもしれない。そして、それができるのだとしたら――」
自分の話を理解しているのかどうか、レスターがうかがうようにマーシャを見ると、彼女は、続けて、と一言だけ言った。
「マーシャ、俺たちは君がその瞬間移動の成功例だと思っていて、だからこそ、君の体験した状況を知りたいんだ。どんな些細な事でもいい。君は記憶がないと言っているが・・・・・・だが、君の脳も、体も、無意識下ではその経験を必ず覚えているはずだ。そのうち、何かの拍子に思い出しもするかもしれないが、俺たちはその不確かな偶然を待ちたくない」
レスターはそうやってマーシャを説得した。ただし、その時点でのレスターは、“マーシャ”がどうやって人工的に出入口を造るのかを探りたい、という本音は一言ももらさず、彼女の体質に興味を持っていると、ほのめかしもしなかった。