第42話
慌しい数日が過ぎ、あっという間に土曜日がやってきた。レスターはその日を休養日に充てたかったのだが、前日の突然の電話によって、その計画はあっけなく崩れ去ることになる。レスターの予定を狂わせるのは、例によって、彼の身勝手な母親だ。
母親は、金曜午後からレスターの住む市に週末の間だけ滞在する、と告げた。夫がそこに出張するから、どうせなら週末にあんたにも顔をあわせようと思って、と、当日の正午少し前、彼女はさらりと言ってのけた。そして、いつもどおりに彼が突然の訪問を断ろうとすると、
「じゃあ、週末に都合が悪いんなら、あんたの勤務先に寄らせてもらおうかしら。夜まで時間が空くのよね。彼が言うには、あんたの会社ってけっこう有名らしいじゃないの。一度、そういう会社って見てみたかったし」
と、母親はのんきにそう答えてくれた。
この女ならやりかねない、とレスターは焦った。世間知らずでわがままな母親に、自分の社会生活まで引っ掻きまわされてはたまらない。
レスターは自ら、土曜の予定を調整することを彼女に申し出た。
彼が母親たちとの待ち合わせ場所に行くと、そこには義父が独りで彼を待っていた。
「すぐ来るよ」
と、これが二度目の再会となる義父が、母親を目で探す素振りをしたレスターに笑いかける。
お久しぶりです、と彼と挨拶を交わしたレスターは、その彼に非常に好意をもった瞳を向けられて、少し面食らった。前回の初対面の際から、彼は一貫した好意的な態度で彼に接する。
過去に母親の相手となった男たち――結婚しようがしまいが――に愛想よく対応することにレスターは慣れていたから、その礼儀正しさに好意を持ったのかと最初の時に思ったのだが、そうではないらしい。義父は、見た目も似てはいるけれど、君は母親にそっくりで愛らしい、と笑いながら言ったのだ。
母親との類似性を指摘され、レスターは反発心をつい覗かせてしまったというのに、義父はその悪感情さえも包み込むような笑顔で、レスターに嬉しそうに接した。レスターを見る彼の目は、レスターの母親、つまり、彼の妻を見つめる目に似て、愛情がたっぷりこもっている。それに気づくと、母親が彼に誠実に愛されている事実がわかって、レスターはますます反発と違和感を覚えるのだ。
レスターの父親を含む母親の歴代の男たちは、彼女の容姿を愛し、その勝手きままさを一時的に楽しんだとはいえ、彼女の丸ごとを愛したとはいえない。男たちは彼女がそんな対象に値するとは考えていなかっただろうし、レスターにしても、母親がそういった愛を得るに値しない、とずっと考えていた。それなのに、義父はレスターの母親にちゃんとした愛情を持っているようなのだ。
初対面の時に義父を苦手人物として分類してしまって以来、レスターは電話でも彼とほとんどしゃべったことがない。そんなわけで、彼と二人だけでいると、非常に気詰まりだ。
レスターが待ち合わせ場所の向かいにある劇場を何気なく眺めると、その入口付近で四人の男女がいるのが見えた。一人の中年男性の顔に見覚えがある。彼の名前を思い出そうとしていると、レスターに気づいたその男が振り向き、レスターに向かって片手をあげた。
「レスターじゃないか!」
男の名前は思い出せなかったが、レスターは義父の側から離れたくて、男に手を振り返した。
「知り合いかい?」
「ええ」
母親が来そうにもなかったので、レスターは義父に断りを入れ、男の方へ歩いていった。男の方もにこにことしながら、彼の方へ近寄ってくる。レスターは、男が電話口で言い争いをしている姿をふと思い出した。男性は、マーシャの父親だった。
「久しぶりですね、オブライエンさん」
握手をしながらレスターがそう言うと、彼は肩をすくめて笑った。
「うーん、苗字で呼ばれるのは苦手だな。ジェフリーでいいよ」
まるでマーシャが言っているかのようなセリフだ。この父と娘はよく似ている。
レスターは、義父の「見た目も似てはいるけれど、君は母親にそっくりだ」という言葉を思い出した。
ジェフリーは、一週間後に開催する音楽イベント会場の最終チェックに来たのだとレスターに話した。これだけはどうしても自分の目で確認しないと気がすまない、と、彼は照れたように笑う。
笑い方まで娘にそっくりだ、とレスターは思った。というより、マーシャの方が彼に似ている、ということになる。
「ところで、レスター、最近、うちの娘と会ったんだって?」
「ええ。ちょうど用事があって、今週の半ばに会ったばかりですよ。あいかわらず、元気そうでした」
「“元気”? そうか・・・・・・」
ジェフリーの物言いに、レスターは不審な点を感じた。
「どうしたんです? マーシャが何か?」
「え? ああ、いや、ちょっとね」
ジェフリーは急に周囲を気にする素振りを見せ、レスターの肩に手をまわすと、そのまま歩き出した。レスターが見る彼の横顔は、何かを考えこんでいるようにも見える。
「オブライエンさん、彼女に何か気になることでも?」
「ジェフリーだ」
と、彼はレスターの呼び方を正した上で、劇場の案内板の前で立ち止まった。一緒に立ち止まったレスターが「ジェフリー」と彼の名を呼んで話の続きを催促すると、彼は神妙な顔をしてレスターに向き直る。
「昨夜、娘が緊急入院した」
彼の言葉にレスターは耳を疑った。
「・・・・・・えっ?」
ジェフリーが彼の驚きに納得するように、硬い笑みを見せて頷いた。
「実はここ数日間、彼女は何となく具合が悪かったようでね。かかりつけ医に診療してもらったところ、気になる点があるってことで、総合病院で検査をしてもらったんだよ。その結果、ちょっと妙な異常が見つかって・・・・・・急遽だが、入院することになってね」
ジェフリーが“ちょっと妙な”という部分を強調して、レスターに言う。レスターの背には何とも不気味な汗が流れていった。
「・・・・・・大丈夫、なんですか、彼女は?」
「ああ、まあ、治療をすればすぐに治るらしいがね。医者の話によれば、彼女の体の一部で、生存寿命は大きく違うが同じ細胞が混在している状態が起きているそうだ。中には、通常ありえない長さを生きている細胞もあるらしい。彼女の不調はそれからきているんだ。ただ、通常の環境下でそういった状態が起こることは、あまりないそうだよ。・・・・・・と、そう言われても僕にはよくわからないんだが。問題は、そうなった原因がはっきりとわからないってところでね」
レスターの頭には、数日前にマーシャに実施した検査の日のことが瞬時に甦ってきた。しかし同時に、彼女の体には一時的に増大した磁気濃度の異常はあったにしても、あの後のブラックホール反応検査でも、他の異常の一切がみとめられなかったことも思い出す。
「その手の症状は・・・・・・考えられる原因とすれば、異次元空間に接したとか――例えばブラックホールみたいな類に接すると、細胞異常が起こる場合があると聞いたことはあるが・・・・・・」
「医師はその可能性も指摘していたよ。ただ、マーシャが言うには、最近はそういったものに遭遇していないそうだから」
レスターは、あの日、マイクロ・ブラックホールが出現しかけた事実をマーシャに教えてはいない。だが、彼女の異常の原因は、本当にそれだろうか?
彼がため息をついて考えこむと、ジェフリーが明るい声で言った。
「君がそんなに考えることはないよ。だけど、よかったら、マーシャを見舞ってやってもらえないか? 原因どうこうについて、彼女は彼女なりにずっと考えているみたいでね、君だったら同じ目線で話ができるんじゃないか」
そのとき、レスター、と彼を呼ぶ女の高い声がした。レスターとジェフリーが振り返ると、レスターの母親が彼に向かって大きく手を振っている。彼女にしては珍しい、くすんだ紅色のスーツ姿だ。
「・・・・・・あれは母親です」
レスターはジェフリーから問われる前に、彼にそう告げた。ジェフリーは少し目を細めて彼女を眺めた後、レスターをじっと見つめる。
「魅力的なお母さんだ。君は、母親似なんだな」
何だか、彼に怒る気はしなかった。美人だ、と言われたら、もしかしたら怒っていたのかもしれない。
「ここで君に会えてよかったよ。君にも連絡してみようかと思っていたところだったんだ。さっきの話、悪いけど、考えておいてもらえないかな」
レスターは彼に肩をぽんと叩かれて、反射的に、いいですよ、と頷いてしまった。
「ありがとう。娘の入院先はね――」
ジェフリーはマーシャが入院する病院名と面会時間をレスターに告げた。
その後、ジェフリーとレスターの母親夫妻は初めて挨拶を交わした。ジェフリーが大人だったせいか、それとも、母親が初対面の男の前で品よく振舞いたかったのか、三人の顔合わせは、あくまで常識的な和やかな会話の中で終了した。
レスターは手を振って戻っていくジェフリーを見送りながら、どうやら自分は、マーシャだけでなく、この親子には弱いらしい、と、じわじわと感じていた。