第37話
レスターがマーシャに一通りの説明をし終わると、彼女は頬杖をついて長いこと黙っていた。彼の話を理解できなかったというより、彼の掲げた理論への信憑性に疑いを抱いている、といった表情だ。彼女が無言になったことで場が気詰まりになり、レスターは手持ち無沙汰になって、空になったコーヒーカップの底を見つめた。
彼がカップをいじっていると、マーシャが若干の失望感をにじませた顔をあげた。
「ねえ、じゃあ、あなたも・・・・・・催眠療法か何かで私の記憶を探ってみたいってこと?」
事の真偽には触れず、彼女が半信半疑な調子でレスターにそう訊ねる。彼は彼女に説明しなかった事情を伏せ、彼女に慎重に頷いた。
「ああ。君が嫌でないならね」
「・・・・・・ふうん? 本気なのね」
マーシャがやるせなさそうに小さく息をつき、彼をじっと見つめた。
「テックが既に試したって知ってるわよね? 結果にはあまり期待できないと思うけど」
「わかってるよ。だけど、もしかしたら、ってこともあるかもしれない」
彼が微笑むと、やれやれ、というようにマーシャが肩をすくめた。
「わかった、じゃあ、もう一回だけやってみる。あなたの言うように、まさかってこともあるものね。でも、いい結果が出なくたってがっかりしないでね」
その翌週から、マーシャが共同研究の補助メンバーに加わった。レスターは会社を通じてそのニュースを聞かされたが、彼女が参加となった経緯を知っているだけに、手放しで喜ぶ心境でもない。
マーシャの参加は、レスターを主とするトップ・インダストリーと彼女の接触をテック側が堂々と監視するという意味合いもあるのだろう。そう思うと、何だか色々と面倒だ。テック側と社とのせっかくの新規協力関係にヒビが入りかねないという懸念と、レスターがいなくても進められる研究プロジェクトだったせいもあり、レスターは社と相談し、当分の期間は彼がテックに顔を出さないことに決めた。
レスターのチームからは女性スタッフのミラが当初から参画していて、状況次第でケヴィンが様子を見に行く。途中合流したマーシャは、現場や彼ら二人ともうまくやっているらしいことが、彼らの会話からうかがえた。
あの時以来、レスターからはマーシャと連絡をとっていない。彼女からは、プロジェクトに参加する前日と初日に一度ずつ短いメールが来たが、それっきりだ。彼女も忙しいに違いない。
レスターは、マーシャの記憶をたどるための催眠療法と称して彼女の体を検査しようとしている事を、まだ誰にも話せてはいなかった。
ある火曜日の午後二時前、レスターのオフィスにケヴィンが訪れた。
「レスター! 打合せに誰も現れないんだけど――あれ?」
レスターが身支度を整えているのを見て、彼が首を傾げる。
「なに、どこかに出かけんの? 急用?」
「違う。予定どおり、打合せさ。君も来るんだ、外で打合せする」
「えっ? なんだよ、そんなの聞いてないぞ。他の奴らだって――」
「君にしか言ってなかったから、他の奴らは来ない」
「何だよ、おい、それって――」
「いいから早く準備してくれ。約束の時間に間に合わなくなる」
レスターはケヴィンの不満そうな顔を無視して、にっこりと笑う。
「君の気に入ってるマーシャが俺たちを待ってるはずだ」
「またそうやって、黙って物事をすすめる! 何なんだよ、それって! 大体、マーシャと会うってさあ・・・・・・」
ケヴィンが大げさにため息をついてぶつぶつと文句を言ったが、レスターは彼がその頼みを断らないことをとっくに承知している。案の定、ケヴィンは、降伏したというように両手をあげ、レスターを恨めしく見つめた。
「あんたって、ほんとに勝手だよな」
「ああ、何とでも言ってくれ。行くぞ」
二人がオフィスを出てエレベーターに向かっていると、同じフロアの別チームのセクションから、男女の言い争っている声が大きく聞こえてきた。男の言葉にはどこかの国の強い訛りがある。
「あああー、あの二人、また派手にやってるなあ」
レスターが少しだけ興味を引かれてその方角を見ると、ケヴィンがしたり顔で言った。
「なに?」
「Aチームのポーラと営業調整のサミールだよ。ヤツら、本当にそりが合わないみたいでさ、サミールがチームに寄る度に、ああやって喧嘩してるんだ。どちらかを異動してやればいいのに」
「へえ、大変だな」
レスターは白いパーテーション越しに男に怒鳴っているポーラという女性を見た。茶色の髪を後ろで一つに束ね、怒っているせいか、かなりの鋭い眼差しをしている。知的な雰囲気の女性、と呼ぶべきか。
二人は言い争いを続ける彼らをやり過ごし、エレベーターにたどり着いた。二機ともが使用中だったが、そのうちの一つが彼らの階で止まった。すぐに扉が開く。スライドして開いた扉の奥には、レスターが見知らぬ二人の女性が乗っていた。
「あら、失礼」
レスターたちが両側に分かれて待機する、その間を彼女たちがすり抜けていく。レスターは、ケヴィン側を通った女性が、伏し目がちながらもレスターを非常に気に掛けていたのに気づいた。彼と同年代で、痩せていて臆病そうに見えなくもないが、美人の部類だ。
「あれって、誰?」
エレベーターの密室でケヴィンと二人だけになってから、レスターはおもむろに彼に尋ねた。
「あれって――胸が大きい方は、人事部のマイラだよ」
「そうじゃなくて、もう一人の方」
ケヴィンが意外そうにレスターに振り返った。
「ああいうコ、趣味だっけ? ――ああ、だけど、彼女はやめといた方が無難だよ。彼女は広報のハイディ・ウッズ、ここの営業本部長で取締役の一人娘だ。父親は彼女を猫可愛がりしてて、近寄る男を片っ端からつぶすって噂だ。やり手で有名な幹部だよ。そりゃあ、彼女はそれなりに美人だけど・・・・・・そんな状況なんで、男たちは皆、敬遠してるんだよな」
「それはたしかに面倒そうだ」
「まあね。それも、超保守的で強硬な父親を持ってしまった娘の宿命ってやつだね」
「へえ。でも、何だか彼女、かわいそうだな」
「・・・・・・おいおい」
同情したからって間違っても手を出すな、とケヴィンにはクギをさされる。だが、そんな事は心配無用だ。自分の身を危うくするような、しかも肉体的にそそられない女性と身近で関わる気など、レスターにはまったくないのだから。