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第36話

 あれは単なる事故だ、と、彼は三日間にわたるあまりにひどい落ち込みから復活して以来、そう自分に言い聞かせるようにしていた。

 失恋したの、と仕事場でケヴィンがからかうように言う言葉も、受け流すことが難しい。

「だから、失恋じゃないって言っただろ」

「へーえ、じゃあ、恋わずらい?」

「違うって」

 彼が露骨に嫌そうな表情を作っても、ケヴィンはにやけた表情を崩さない。

「オモシロイ。君をそこまでにさせた女って、どんな? 見てみたい」

 ・・・・・・もう会ってるじゃないか。

 レスターは彼のペースにはまりそうな自分に気づき、頭に浮かんだマーシャの像を慌ててかき消した。

 決して、恋愛沙汰じゃない。

 その証拠に、彼女に会いたいとは思いもしないし、寝たいとも思わない。

 しかし四日前、彼の状況は現在とは著しく異なっていた。彼はマーシャにキスをした後、衝動が止まらなくなってしまった。それから彼が気づいた時、彼女の体はイタリア料理店のテーブルと彼の間にあった。

 彼は、彼女と一線を越える手前で危うく、我に返ったのだ。自分のした行為があまりにショックで、彼はしばらく口がきけなかった。

 非現実の環境下では予想外の事が起こりえると言うが、彼の世界では、そんな事は有り得ない。直接の仕事仲間・近すぎる周囲の女には手を出さない、というポリシーの基にこれまでの人生を送ってきたというのに、レスターはそれに相反する事を仕出かしてしまったことで、かなりの自己嫌悪を感じている。

 しかも、あんな子供相手に。

 ケヴィンがレスターのオフィスに寄り、また軽口をたたいた。

 うるさい、と怒鳴ると、彼は笑いながら走り去っていく。ケヴィンの子供ぶりには本当に呆れる。

 携帯にはまた同じ番号から着信があった。見ると、MASHAと表示が出ている。

 気まずい別れをした次の日の朝以来、三度目の電話だ。昨夜にはPCの方にもメールが入っていたが、レスターからは彼女に一切の連絡をしていない。自分の面倒をみることに手一杯で、彼女を構う余裕などなかったからだ。

 早く切れてくれ、と祈りにも似た気持ちで、レスターは鳴り続ける携帯を見つめる。やがて、音は消えた。

 ・・・・・・俺も子供か。

 レスターはため息をつき、つきっぱなしになっていたTVに目をやった。


 昼食から戻ってすぐ、総合受付がレスター宛の来客を知らせてきた。アンドレア・カーという女性だ。来客がケンジントン・テックの生徒と聞いて怪訝に思ったが、その名前には、彼は何となく聞き覚えがあった。

 投げやりな気分になっていた彼は受付のカメラから送信された映像をろくに確認せず、来客の女子生徒に会うことを決め、受付棟へ向かった。

 彼女は、受付ロボットの示した待合ロビーで、社の製品である移動機の立体サンプルを起動させて、宙に浮かんだ機体の周囲をまわりながら各部位を眺めていた。

「――アンドレア・カー?」

 彼女の背後から声をかけると、彼女は体を震わせて動きを止め、くるりと振り返った。

「こんにちは、レスター」

 彼が絶句すると、アンドレアならぬ、“マーシャ”が笑顔でそう言った。


 レスターが渋々ながら入ったハンバーガー店で、マーシャはアイスクリームを食べている。このコはやっぱり苦手だ、と、レスターは向かいの席に座るマーシャを見ながら、心の中でずっと思っていた。

 彼女は俺にとっての“魔性”の女だ。近づき過ぎちゃいけない。

 不意に頭によぎった数日前の出来事を振り捨て、彼はその思いを新たにする。

 しかし、実際のところ、彼女に近づく目的が何であろうと、彼女に接しているだけで自分のペースが乱され、いつのまにか彼女に取り込まれてしまう。それをわかっているだけに、彼は頭が痛い。

 彼は、マーシャと二人きりになって予期せぬ事態に陥ってしまうことを怖れていた。大手のチェーン店ケーシーズは手ごろな価格帯のメニューが豊富なので、食事時でなかったとしても、一日を通してずっと混雑している。人はひっきりなしに入れ替わり、人目を避ける意味でも、うってつけの場所だ。

「――今後はどうなるの、レスター?」

 彼女は何気なくそう言い、口をあけてアイスクリームの載ったスプーンを口に入れる。彼女の口の中に見えた舌が黄色く変わっていた。

「ん? 何? 黄色くなってる?」

「ああ。アイスの色がついてる」

「そう。――うふふ、そそられる?」

「・・・・・・何だって?」

 彼があきれてため息をつくと、マーシャが肩をすくめた。

「冗談よ。クリスはそうみたいだから、言ってみただけ」

「へえ、変わった嗜好だな。――クリス・・・・・・クリスチャンって、君の彼氏だった?」

「違うわよ。たまに、寝たりはするけど」

 レスターと目が合い、彼女がにっこりと笑う。

「・・・・・・は、驚いたな。君が――君たちは割り切った間柄、なのか」

「彼には色々と助けてもらってるの。今回の監視システムの事も、見つけたのは彼だし――」

 彼女とクリスとの関係は意外だったが、彼女がそういった類の関係を持てると知り、レスターから肩の力が抜けた。

「その事でもちょっと進展があったの。他にも聞きたかったことがあって。そっちの状況を確認したかったんだけど、あなた、私からの連絡を無視してくれるから」

「ああ・・・・・・悪かった」

 マーシャはレスターの口から言葉が続くと思ったらしく、待っているようだったが、彼は何と言っていいかわからず、黙った。

「――へんなの。あなたって、クラスや学会だとあんなに雄弁なのに――あの後、私とどうしゃべったらいいか困ってたから連絡を拒否したのね。私、レスターは怒っているんだなって、もう私は切られちゃうんだって、色々考えて」

「・・・・・・なんでそう考えるんだ、そうじゃない。ただ・・・・・・ちょっと気まずくて、君もそれは同じだと思ってただけだ」

 彼がそう言うと、マーシャは嬉しそうに微笑んだ。

「たしかに、行為の途中で止められたのは気まずかったけど」と、そう言う彼女の瞳が笑っていたので、それが冗談なのだとレスターにもわかった。「私はあなたという人間そのものよりも、あなたの考え方に賛同しているし興味があるの。だから、尊敬するレスター・フレッドマンの研究にせっかく関われるようになったのに、その機会を失う方が私は嫌なの。私があなたを“師匠”って崇拝していること、あなたも知ってるのに」

 あっけらかんと語るマーシャに、レスターは少しの落胆と大きな安心感を覚えた。

「そのわりに、君の態度は俺を尊敬しているふうでもないな」

「そんなことないわ、尊敬してますよ」

 マーシャが鼻にしわを寄せ、歯を見せて笑い、レスターは苦笑する。

「わかったよ、そういうことにしておこう。――じゃあ、君がさっき言っていた、ちょっとした進展とやらを聞かせてくれないか」

「うん。――おととい、私の部屋につけられていた監視システムの証拠をテックにつきつけて、訴えるつもりって言ってやったのよ。あの人たち、システムの存在が生徒にバレるとは思っていなかったみたいで――自校の工学科生徒たちがどんなに優秀なのか、認識が甘いと思うんだけど――、とにかく、すごーくあわててた。すぐにシステムは解除されたわ。だからね、今はもう、“カウンセラー”のお守からも解放されたの。一年ぶりの自由!」

「それはよかった」

 マーシャが笑顔で頷き、皿に残ったアイスクリームにスプーンを入れた。それを口に運ぶ彼女の仕草を見ながら、レスターはぬるくなったコーヒーをごくりと飲む。

「だけどね・・・・・・テックから、トップ・インダストリー社との共同開発の補助メンバーに私を入れるから、外であまり会わないようにしてほしいって要望を出されたのよ」

「何だって? それはまた勝手な都合を――」

 マーシャがさっきとは全然違う真面目な瞳でレスターを見返した。

「テックとあなたの会社は、私の事で牽制し合ってるみたいよね? その争いに私が巻き込まれてる感じ。でも、どうして? 当人の私が理由を知らないって、すごくおかしい話よ。この前も言ったけど、事故の事以外に私が提供できる情報なんか本当に何もないし、私の記憶が戻らないのは、双方も知っていることじゃない。テックは的を射ない説明しかしないし、何をそんなに知りたいのか、私にもちゃんと教えてほしい」

「――ああ、そうだな。君には知る権利がある」

 レスターがマーシャを見返すと、彼女の頬から顎にかけての輪郭が少し強張っていた。


 ――前々から、彼女に質問される日の為に準備しておいた理由。

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