第35話
微かな振動でテーブルが震え、二人の頼んだ料理がそこに現れた。レスターは湯気の立つ皿に注意を向ける。
マーシャが嘆くように短く息を吐いてフォークに指を伸ばした。とたん、ぱちっ、と空気が弾けて光り、マーシャが顔をしかめて指を素早く引っ込めた。
「レスター、聞いて」
彼女が静電気に襲われた人差し指を振りながら、レスターに言う。
「テックは、あの人たちは・・・・・・寮の私の部屋に監視システムをつけてたのよ? それも、犯罪者並のレベル三。そうよ、PCでの外部とのやり取りはもちろん、室内で何をしていても全部、シャワールームの中も、昼寝姿も、私が着替えてる姿も、彼らには筒抜けだったってことよ? 私、嫌な教授のクラスから帰ると、部屋の中で大声でよく罵ってたの、それも全部、見られてたのよ!」
怒るポイントがずれてるとは思うが、と、彼女が鼻をふくらませて怒る様子に吹きだしそうになるのを、レスターは理性で何とか抑えた。
「クリスが見つけてくれなければ、システムが作動してるなんてわからなかった。昨日、彼が部屋のPCを使った時に異変に気がついたんだけど」
「クリスって誰?」
「クリスチャン・マックブライトよ。この間、あなたも会った」
レスターは肩で息をついた。
テックも彼と同様、マーシャが単身移動に関する何らかの鍵となる情報を持っていると考えているらしい。
漠然と、レスターにも全容が掴めてきた。
彼女に監視モニターでもつけている、というケヴィンのあてずっぽうな想像が現実に起こっていて、テックはどうやら、レスターの勤務先もマーシャに目をつけて水面下で動いていると勘付いたようだ。つまり、彼らは苦情という形をとって、「マーシャはテックの財産だから手を出すな」とレスターたちに警告したということだ。
レスターがふとテーブルに投げ出された彼女の右手を見ると、無意識だろうが、彼女が両手を握り締めていて、指の関節部が一様に白くなっていた。
彼が視線を上げると、こめかみ辺りを左手で押さえながら、彼女が口を開いた。
「ねえ、私のプライベートなんて、どうでもいいことじゃない? 私の何をそんなに知りたがってるの? 一体、何が起こってるの? 私の、何にそこまで興味があるのよ? ――あなたも・・・・・・同じ?」
マーシャは彼から目をそらそうとしなかった。視線はまっすぐで、レスターの脳の奥に食い込んでくる紫色の目。
彼の耳の近くで何かが砕けるような破壊音がした。
――突如、ピーッという甲高い音が室内に響き渡り、二人の間の気まずい沈黙を切り裂いた。
レスターは天井の警告灯が室内を赤く点滅させているのに気づき、はっと我に返る。
現実に、音が鳴っている。
二人が声をひそめていると、壁面の通信機からほんの一分もしないうちに店のスタッフからの通信が入ったが、女の声が「お客様・・・・・・」と言ったきり、ぷっつりと音が断絶されてしまった。スタッフの声の後ろには、風の音のような雑音が混じっていた。
やがて、耳をつんざくほどの警告音に奇妙なノイズが何回か入り、音が切れ切れになってついに途切れる。
――また、“あれ”がやって来たんだろう。
彼は確信に似た予感と興奮とで恐怖を感じなかった。
マーシャが怯えたようにレスターを見る。
「レスター・・・・・・」
「心配ないよ」
彼がマーシャに向かって微笑むと、彼女は一瞬、面食らったような表情をした。
わずかだったが、上方から体が押されるような感覚があった。室内の気圧が微妙に変わっている。黄色っぽい照明がちらつく。
もう、絶対に偶然の発生なんかではない。彼女が、マイクロ・ブラックホールを引き寄せたんだ。
耳をすましていたレスターに、ガラスが壊れるような音と人々の叫び声が遠くの方から聞こえてきた。
マーシャを見ると、ドアや壁に視線をめぐらせ、脱出策を考えているようにも見えた。
そんな必要はないのに。彼女があの中に呑み込まれることはないはずだ。
彼は基本的に科学的に説明できないものを信じない性質だが、この根拠のない考えには、なぜか、自信がある。自分ながら不思議だが。
「レスター・・・・・・?」
なのに、君はなんて情けない顔をしてるんだ。
簡素な造りのドアが外側にたわみ、マーシャが青ざめてレスターの方に駆け寄ってきた。
「大丈夫だから」
「――あれを見てよ! なんでそんなに冷静でいられるの!」
ドアが継続的に音を鳴らしながら振動している。荒野に吹く風のような音がさっきより近づき、室内は酸素が薄くなりつつあって、空気に体を締め付けられるようだ。
マーシャはその現象が何を示しているか、やっと気づいたらしい。
レスターの服の裾にしがみつく彼女の手が、恐怖のためか、あまりに大きく震えている。
「嫌よ、まだ死にたくない・・・・・・!」
「大丈夫。まだまだ死なないさ」
「レスター!」
彼女が怒って目を見開いた。目の下には涙がにじんでいたが、それをこぼすのが口惜しいとでもいうように、彼女が必死に耐えているのがわかる。
レスターは彼女の腕を引いた。
マーシャの唇に自分のそれを乗せると、紫色の瞳がさらに広がった。開いていた瞳を静かに閉じていくと、完全に視界がなくなる直前、彼女のまぶたも降りてくるのが見えた。
マーシャの腕から力が萎え、唇がレスターに応えると、風の音がどんどん遠のいていくのが彼にもわかった。