第33話
マーシャの試験が終了する日となる金曜日の夜に外で会う約束をし、レスターは彼女との電話を遮断した。彼女との会話で気まずい沈黙や言いよどみを感じることは全くなく、今までにも彼女とは何度か会って会話もしたはずだったが、その夜の通話で、レスターは彼女と初めて話をしたような気分にさせられた。意外なほどに、彼女と気楽にしゃべっている自分がいた。
レスターは、その会話の途中まで、彼女とは二人で会おうと考えていたのだが、急遽、ケヴィンを同行させることに決めた。彼女に要らぬ期待を抱かせない為と――レスター自身が、万が一にでも“はずみ”で彼女に誤解させかねない行動をとってしまう可能性を危惧したからだ。
レスターの事後報告で金曜の夜を勝手に拘束されてしまうことを知って、イヤだね、と、ケヴィンが文句を言ったが、彼の好物のスペアリブを奢ることで彼の機嫌はあっけなく治まった。彼の単純な性格には、レスターは大いに助けられている。
勤務先のトップ・インダストリー社には、レスターの思惑を話して一定の理解を得られていた。そして、マーシャとの接触を続けることは、容認されている。
直属の上司である課長には、少し躊躇いはしたものの、レスターがテックに対して抱いた疑念についても触れておいた。考えすぎだろう、と一笑されることも予想しながら。課長はあくまで穏やかに、真摯な態度でレスターの報告に耳を傾けてくれた。
ところが、レスターの説明が終わっても課長の真面目な面持ちは変わらず、話を流されるとも思っていた彼の予想を大きく裏切った。課長の人差し指が鼻の頭を数度掻き、戸惑っているレスターを見て、おざなりとも見える微笑みを浮かべた。そのうえ、「この話は上部にも伝えておく」と、課長はレスターに告げた。
後から考えてみれば、課長がそんな態度をとる裏にはそれなりの根拠があったはずなのだ。けれど、その時のレスターには、そんな考えはまるっきり浮かびはしなかった。
会話の最後に、レスターは、(マーシャとの個人的接触を取り付けたことを)よくやった、と課長に背中をぽんぽんと叩かれて、彼のオフィスから放出された。
レスターとマーシャが待ち合わせたのは、ルーツ大学のグラウンドに面した通りにある、小さなスポーツバーだ。彼女の寮の隣室にいる学生から教えてもらった、学生たちのたまり場の一つらしい。
多少騒がしいかもしれないけれど、とマーシャは前置きした上で、テックの生徒も関係者もほとんどいないの、と、さらりと言った。
レスターとケヴィンが指定された住所に降り立ってみると、一軒の店の前で、“ルーツ大学”と入ったトレーナーを着た若い男二人が談笑していた。店のドアの上部には、マーシャから聞いた店名が遠慮がちに掲げられている。
マーシャは約束の時間より十五分遅れてやって来た。テックで再会したこの前とは、雰囲気がまた違う。髪がストレートに変わり、化粧をしている。
彼女との再会を躊躇していたというわりに、ケヴィンはあっという間にマーシャと打ち解け、会話がはずんでいる。彼女が何度テーブルを叩いて爆笑したことか。
電話上でのスムーズな会話があったおかげで、レスターは彼女との対面にそれほどの不安を持ってはいなかったが、ケヴィンを同席させて正解だった、と、つくづく思った。ケヴィンの存在は、彼女に不要な警戒心や疑問を抱かせない。
「――ブラックホールを通り抜けるって、どんな感じ?」
明るい喧騒の中でケヴィンののんきな声が響いた。不用意ともとれる彼の発言を聞き、レスターの体内に涼しい風が一気に吹きぬけていく。
マーシャが「えー?」と可笑しそうに笑い、ビールグラスに口をつけた。
「だってさ、興味あるよ。実際に通り抜けた人に会える機会なんて、ないよ? 本当のところって一体どんなだろう。ただの真っ暗闇? それとも、未来と過去の物があちこちに飛び交っていて、それを避けながら空間を“泳いで”進むの?」
ケヴィンは両手を組んで、興奮に目を輝かせている。レスターの心配をよそに、マーシャはケヴィンを見て笑うだけだ。
「ケヴィン、彼女にはその時の記憶がないんだ、どんな感じか知ってるわけないじゃないか」
レスターの助け舟のような台詞に苦笑し、マーシャが、そうなのよ、と同意した。
「そうなんだ?」
「うん、本当に覚えていないみたいなのよね」
彼女は首を傾げて言い、ケヴィンとレスターを見た。
「催眠療法とか科学薬法とか、テックの方でも私にその時の事を何とか思い出させようとしてたのよ。だけど、結局、だめだった」
テックが彼女にしていた処置の話を聞き、自分の顎が固まっているような感覚に陥るレスター。
「自分でも、本当に私が体験したのかって疑問に思うけど・・・・・・私がそこから出てきたって、あなたが知ってるのよね、レスター? 私だって思い出したいけど――ほんと、歯がゆい」
彼女が自嘲的に微笑んだ。
「覚えていれば、テックや・・・・・・あなた達の役に立つ情報になりえるかもしれないのに。でしょ?」
彼女に返事をするまでの一秒間に、レスターの頭には打算的な考えが怒涛のように駆け巡った。厳密に言えば、彼はその情報だけを求めているのではないが、彼女の言わんとする意味は同じだ。
利用するつもりではない、と彼女の身を心配する振りもできた。しかし、彼女相手に偽装はできないと感じた。一種の勘のようなものだ。レスターは、彼女の瞳に素直に頷いた。
「そうだな。俺たちは単身時空移動を研究してるからな、君の体験は大いに有益な情報だ。――まったく、ほんの少しも覚えていないんだね?」
彼女の表情がわずかに翳った。が、すぐに笑顔を取り戻してレスターに向けられる。
「時空移動に関する事は何も。ただ、時々・・・・・・見たこともないような風景が急に頭に浮かんでくることがあるわ」
「同じ風景?」
「たぶん、同じだと思う。殺風景な場所よ」
「それが頭に浮かぶのはどんな時?」
「どんな時って――あまり意識してないから、覚えてないな。それ、何か関係があるの?」
「無関係ってわけでもないだろう。今度その風景が思い浮かんだら、その時の状況をしっかり覚えておいて。それで、後で俺に教えてくれ」
レスターは、戸惑ったようにマーシャに見つめられた。
「何だか・・・・・・私、研究材料みたいね?」
「そうでもあるし、違うとも言えるよ。君にだって、研究にはちゃんと関わってもらう。それだと、不満? 役に立ちたいって、言ってただろう?」
「ええ、それは、その通りよ」
「じゃ、あれこれ言わずに手伝って。君がいると助かる、嘘じゃないよ」
レスターがにっこりと笑うと、マーシャが何とも納得しかねる様子で尋ねた。
「テックには知られずに、でしょ? 私が見る風景の事も言わず? 情報提供も、しないのね?」
それには答えず、レスターはあくまで微笑みを絶やさないで彼女に言った。
「君の頭にある風景の話をテックは知ってるの?」
「いいえ、言ってないわ」
レスターが肩をすくめてみせると、彼女がむっとしたように口をとがらせた。
「私、テックの生徒なのよ? そこまであなた側に――」
「だけど、君はこの研究には加わりたいんだろ? テックは君を参加させてはくれないよ。それに君は、俺が関わってさえいれば、どんなプロジェクトでも参加したいんだろう?」
「――何よ、それは!」
彼女が顔をふくらめ、むっとしてレスターを強く見つめ返す。
「あなたって――ずいぶんと傲慢なのね?」
「何を怒ってる? 本当のことだろう?」
「本当のことって! そんな、あなたねぇ・・・・・・!」
マーシャの顔がだんだんと赤らんでいき、瞳の色までが赤みを帯びてきた。
「あきれた! あなたは、物分りのいい、穏やかな人を装ってただけなのね・・・・・・!」
「それも、俺の一部だろ? 俺がどんな人だと思ってたんだ、勝手に俺のイメージを作ってたのは君の方じゃないか。俺が責められる理由なんか、ひとつもない」
「あなた、絶対に性格に問題があるわよ・・・・・・」
「ああ、だから? 君は、人格に問題がある人間と一緒の研究には関わらないと言い出すタイプじゃないんだろ?」
彼が突き放すように言うと、虚をつかれたようにマーシャの口撃が止まった。
ケヴィンは口を挟むタイミングを逃しているようだ。
レスターからケヴィンにマーシャの視線が転じたが、困惑した表情をたたえたまま、彼にまた戻ってきた。彼女が口を開く前に、レスターは、彼女の肯定的な答えを既に予想していた。
なんで彼女の前だとそんなに性格が悪いわけ、と後になってケヴィンに言われたが、レスターにだって、どうしようもない。
嫌悪している母親に、少しだけ、似ているからかもしれない。