第32話
ケンジントン・テックのあるセーラム・シティは、レスターやマーシャが遭遇した一年前の事故と同じ、冬の季節を迎える冷気に包まれていた。レスターは共同研究の進捗確認という名目で、懐かしさなど感じないが勝手知ったる元職場テックに、三週間に一度の頻度で顔を見せていた。
テック側にマーシャと接触させてもらうよう依頼していたが、彼女が多忙を極めているとか、彼女の担当カウンセラーの都合がつかないとか――事故以降、図らずも有名人になってしまった彼女を外部から保護するためにテックが “カウンセラー”という名の専任スタッフを配備し、外部の人間と接する際には必ず彼女に付けている――そんな理由で過去二回の滞在中、彼はマーシャと顔を会わせる機会には恵まれていない。彼の代わりにケヴィンがテックに出向いていた時も、マーシャと出会うことはなかったという。
彼がテックに出向く第一の目的が彼女だというのに。
プライベートな連絡先を彼女本人に聞いておくのだったと、彼は彼女との偶然の再会を思いだしては口惜しがった。気に入った女の連絡先ならさっさと手にいれてたな、と、ケヴィンがにやにやと笑って自分を見るのも、何だか、無性に腹が立つ。
テックが期末試験期間に入る直前、レスターたちはテック側の窓口である事務局員の元に自ら出向き、マーシャとの対面を実現させてくれるよう、あらためて伝えた。
担当の男性はレスターと面識がない、新しい職員だ。男はまったく感情をのぞかせないポーカーフェイスで彼に応対し、もう少しお待ちください、と淡々と答えた。苛立った彼が待つ理由を問いただしても、調整中です、という機械じみた声しか返ってこない。男の周囲には数人の事務局員がいたが、どの顔にも若干の迷惑そうな、戸惑った表情がのせられている。
レスターは、自分とマーシャを会わせたくない何らかのテック側の理由があるのではないか、と、勘ぐり始めた。
試験期間を経てテックが冬休みに入ってしまうため、レスターたちにとって、年内にここに来るのは今日が最後の日だ。試験を控えたテックの構内はどこもかしこも静かで、どことなく緊張感が流れている。レスターたちと一緒に研究開発をしているテック職員の出入りが減り、彼らのいる実験室の並ぶフロアにも慌しさが混じった緊張が伝染していた。
部下の女性スタッフに業務の指示をした後、レスターはフロアの行き止まりにある休憩エリアに行き、天井から床までの高さとなった全面窓から階下を何気なく眺めていた。向かいには、ドーム型の建物を含め三つの棟が等間隔に建ち、彼のいる棟と各棟をつなぐ歩行者用通路が、無機質な模様のように一面の人工芝の上に菱形を浮かび上がらせている。そこを歩く生徒や職員の姿はない。
が、彼はふと真下からの視線を感じたような気がして、窓越しに地面を見下ろした。そこからレスターを見ている者は誰もいなかったが、三人の学生が棟の玄関前でしゃべっている姿があった。男子学生一人、女子学生二人、そのうちの二人には面識がある。
レスターは女子学生の顔を見てそれがマーシャだと確認できると、思わず頬を上げた。
・・・・・・今回のチャンスは逃さないぞ。
彼が彼女を見ていると、彼女の方こそ視線を感じたのか、彼女が空を見上げるように不意に顔を上げた。彼女は階上のレスターを見つけて目を丸くしたが、彼が笑うと、心底嬉しそうな笑顔に変わった。そんな彼女につられるようにして、残りの二人もレスターを見上げる。
俺が下へ行くから、と、彼女が彼を指差して階上へ向かおうとするのをさえぎり、レスターは身を翻した。運良く、エレベーターは休憩エリアに面した場所にある。彼がそれに飛び乗って一階に降りると、彼女が玄関ドアをくぐってロビーとなっている場に既に入ってきていた。彼女の数歩後ろには学生仲間二人も控えている。
「やあ」
レスターが彼女に歩み寄っていきながら声を掛けると、マーシャの顔がいっそう嬉しそうに揺れた。恋人を迎えるかのように彼女の表情は輝いていて、レスター自ら言うのも妙だが、彼女に好意をもたれているのだと思わずにいられない。
彼の前に立ち止まった彼女の頬に挨拶のキスをすると、彼女が意外そうに彼を見上げた。
「こんにちは。えっと・・・・・・フレッドマン――」
彼女が言いにくそうに自分の名を言うのを聞き、前回会った際に交わした“呼び方”についての気まずいやり取りを思い出した。
「――そうだな、俺にもそれはしっくりこない。レスター、でいいよ」
「いいの!?」
「いいよ」
それまでの困惑ぶりはどこへやら、マーシャは目を輝かせて笑い、レスターの瞳を見返す。彼女を苦手なはずのレスターだが、その率直な彼女の反応は彼を笑顔に変えてくれた。
「あ、そういえば、レスター?」
彼女はあまりに自然に彼の名を呼んだ。自然過ぎて、彼もすんなりとそれを受け入れる。
「後ろにいる彼・・・・・・覚えてるかな?」
レスターの注意を得た男子学生が人のよい笑顔に変わり、彼らの方へと足を踏み出した。もう一人の女子学生も彼の半歩後ろをついてくる。
「覚えてるさ、君と同じクラスにいた――」マーシャの隣に並んだ彼がレスターに握手を求めて手を伸ばした。「お久しぶりです、ミスター・フレッドマン」
「久しぶりだね、マックブライト。元気だった?」
「元気です! 僕を・・・・・・覚えてくれてるんだ!」
「もちろん。君も“マーシャ”と同じで優秀だった、受け持った生徒は忘れないよ」
以前のように名字でなく名前でマーシャをさりげなく呼んでみたが、彼女は何も気づかない様子だ。マックブライトと顔を見合わせて笑っている。マックブライトの左手が親しげにマーシャの肩にまわされたが、この二人が以前から友人関係らしいのをレスターは知っている。
女子学生はマックブライトの一つ年下の妹だった。レスターは初対面の相手にはいつもそうであるように、穏やかな態度で挨拶をした。マーシャも随分と若いと思っていたが、彼女と比べると、マーシャは大人びた印象に変わった。
一通りの挨拶が済むと、彼らは玄関脇にあるソファのあるスペースへ移動した。
「ねえ、レスター、あなた、いつからテックに来てるの? あなたが来るって知ってたから事務局にも訊ねていたんだけど、あの人たちは何も教えてくれなくて。募集してた研究補助メンバーにも申し込んだのよ? 競争相手が多かったらしくて、残念ながら私は漏れちゃったけど」
「――補助メンバーに申し込んでたって? 本当に?」
「本当よ」
不満そうに彼女が口を尖らすのを目にして、レスターは漠然とした不安と疑問が胸に広がっていくのを感じた。研究の当初から、レスター側がマーシャと接触したがっていたのをテックは知っている。マーシャと外部との接触に神経質になっているとしても、相手は提携先の企業だ、それほど心配する必要もないはずだ。
不思議そうに彼を見返すマーシャの瞳に出会い、レスターはあわてて微笑みを口に戻した。
「それは、俺たちとしても本当に残念だ。君には是非にでも手伝ってもらいたかったね。君なら強力な手助けになっただろうし、君の専攻分野の研究でもあるから、君にとってもせっかくのいい機会だったのにね」
テック側担当者の能面のような白い顔を思い浮かべると、冷たく鈍い怒りがゆっくりと込みあがってくる。何の確固たる証拠もないが、テックが意図的にレスター側と彼女との接触を阻んでいるのだと思えた。
「もう、募集はしていないのよね?」
「人数自体は充分に足りているよ」
テックがマーシャを共同研究に参画させるとは思えない。
マーシャが彼をじっと見返した。レスターの残念そうな口調に隠した行間の意味を、どうやら感じ取ったらしい。
「じゃあ・・・・・・自主的に手伝ったとしたら、何か問題がありそう?」
「テック側にはあるかもしれないが、こちらとしては大歓迎だ」
「・・・・・・ふうん。大人社会って面倒なのね」
レスターは彼女の物分りの良さに驚き、少し感心した。
彼が彼女の腕にはまる通信機器に視線を走らせると、彼女がそれを彼の前に差し出した。彼も腕を上げ、情報漏えいロックを解除する。二人は連絡先を交換した。
「近いうちに外で会える? 君のプライベート関係で何か問題ありそう?」
妙なことに、彼女をデートに誘い出しているような気にもなってきた。彼女の熱を帯びた視線につい応えそうになり、レスターはかろうじて冷静を保つ。
「ううん、何も」
マーシャが即答する横ではマックブライトが笑顔を消して彼女を見つめていた。
授業の終了を示す音楽が構内に響き渡り、それを合図にしてレスターは業務に戻ることにした。
「もう戻らないと。今夜にでも連絡するよ、マーシャ」
今度は、彼女は名前を呼ばれたことに気づいたらしく、嬉しそうに微笑んで彼に頷いた。