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第30話

 マーシャの両親が離婚したと知ったのは、レスターが転職を果たしてから二ヶ月が過ぎた頃だ。

 それは、スポーツジムのロビーで偶然に目にしたエンターテイメント系雑誌の片隅に、小さな扱いで掲載されていた。普段ならばそんな雑誌を手に取ることもないのに、何か、虫が知らせたのだろうか。

 小さな記事とはいえプライベートな事情がニュースになるのだから、マーシャの父親はやはり有名人だったのだ。そう改めて知っても、レスターが一度会った人物と雑誌上に書かれた彼の名前がどうにもうまく結びつかない。レスターが出会った彼はまるっきり普通の穏やかな中年男性で、彼が籍を置く華やかな音楽業界やエンターテイメントの世界とはおよそ無縁そうだった。

 とはいえ、彼がピアニストの妻と離婚したと聞いても、彼らが電話越しに険悪すぎる諍いを展開していた事もあり、レスターは格段に驚きはしなかった。世界的統計からいけば、結婚した夫婦の半数が離婚を経験するという。そのうちの一組になっただけだ。レスターの母親など、今までに三度の離婚を果たしている例だってある。

 レスターは、しばらく顔を見ることもなかったマーシャを思い出した。心配というほどでもないが、彼女の様子はレスターにも少しだけ、気にはなる。

 レスターが新しい職に着任して以来ほぼ毎日、研究について思いめぐらせる度にマーシャに関する疑問を思い浮かべてきたために、彼女の存在をわりと身近に感じられるようになってきている。

 頭に浮かんだのは、彼が最後に見たマーシャの哀しそうな顔だ。彼女の面影までを思い起こしたのは久しぶりだった。

 マーシャに会って直接に調査したいのは山々だったが、彼女への接触を含め、彼はその周囲での直接的な動きを避け続けている。ケンジントン・テックに対する訴訟が決着をみていないためだ。

 ただ、彼とロバートソン教授の二名は、途中で訴訟対象から名前を外されている。彼らの責任を問うことに無駄な労力を使うよりもテック一本に対象を絞る、という原告側の方針変更に因るものらしい。テックの顧問弁護士の見立てどおりにレスターは訴訟の影から逃れられたが、事態が収拾に向かうまでは静かに息をひそめているつもりだった。

 それでも、彼女と実際に会う機会は作れなかったが、彼女の身辺で発生する不審な出来事にはできるだけ目を配ってきていたつもりだ。 

 彼は、手に取った雑誌を近くのテーブルの上へ無造作に置いた。

 マーシャの両親の離婚は、訴訟の展開にも少なからず影響を落とすのではないだろうか。 


 五月中旬のある日、レスターは技術一課課長に呼ばれ、彼のオフィスに出向いた。

 彼は、レスターが一任されているチームを含む全部で四つの技術チームを管轄するトップではあるが、各チームはそれぞれに独立したテーマを掲げて研究・開発を進めているため、実際には彼は部署のメンバーとそれほどの関わりを持っていない。

 チームの進捗状況でも確認したいのだろうと、レスターは自チームを構成する四人のメンバーの顔を順番に思い浮かべ、気軽な気持ちで彼のオフィスに入った。

「フレッドマン!」

 室内にいたのは、課長一人ではなかった。

課長の声とともに、彼の左右に立っていた男女二人がレスターに視線を投げかける。

 女性の方は、レスターも何度か見かけたことのある広報課のスタッフでメディアにも度々登場している。健康的なオリーブ色の肌に光沢のあるグレーのパンツスーツを着こなし、知的で明るい雰囲気を持った、小柄な中年女性だ。

 課長の左側にいるのはレスターとは初対面の男性。シャツの長袖の裾を肘近くまでまくり上げ、細かいストライプの入った濃紺のパンツを穿いているが、高価そうなパンツは彼のせり出したお腹に引っ掛かって止まっている、という感じだ。薄くなりかけた頭髪と腹まわりの余分なぜい肉のせいで男は四十代を越えているようにも見えたが、肌は艶っぽくて若い。多分、レスターと十歳も違わない。レスターを見据える男の視線は、広報課の女性よりも幾分かの冷ややかさを含んでいた。

「お二人とも、彼がチームCのチーフ、レスター・フレッドマンです」

 課長が三人の間に割って入ってきて二人にレスターを紹介すると、女性はさりげない笑顔をレスターに向け、男性もおざなりの笑顔を彼に返してきた。

「どうも、フレッドマンです」

 レスターは二人に悪い印象を与えないようにと、なるべく自然な態度を心がける。

「フレッドマン、二人を紹介しよう。こちらは広報課のキンスキー、彼は営業調整課のバウアーだ。彼は今後、ケンジントン・テックを担当することになっている」

 キンスキーの次にバウアーと握手を交わしたレスターは、テックとの折衝を担当するという彼を見た。

「テックを担当される?」

「そう、君がついこの間までいた母校だよ。今度から僕が担当することになってね。ま、色々と協力よろしく」

「え? ええ、こちらこそ」

 バウアーがレスターの目を正視しながら、握手する手にぎゅうと力を込めた。なぜか、彼はレスターにあまり好意的でない感情を持っているようだった。


「――課長? 何か話があると伺ってきたんですが?」

「ああ、そうなんだ。君に聞かせたい話があるんだよ。君にも、社にとっても、いい話だ」

 課長がキンスキーを意味ありげに見た。

 つられてレスターも彼女を見ると、彼女は心得たようににっこりと感じのよい笑顔を浮かべ、課長の言葉を引き継ぐ形でレスターに言った。

「フレッドマン、ケンジントン・テックの件で話があるのよ。その前に、あなたに耳に入れておきたいニュースがあるわ、テックを相手取って損害賠償を求めていた訴訟の事よ。当然、あなたも覚えていると思うけれど・・・・・・。その原告側の学生が――」

「マーシャ・オブライエン?」

「そういう名前だったかしらね」キンスキーは大きな興味を示さず、曖昧に頷いた。

「何か展開があったんですか?」

「ええ、急展開よ。昨日になって突然、そのオブライエン? 事故の被害者だった学生側が、以前からテックが提示していた和解に一転して応じたそうなのよ。今まではずっと強固にはねつけていたみたいなんだけど、心境の変化でもあったのかしらねえ。まあ、ともかく、彼女は今後もテックに在籍する希望でいるようだし、テックの提示条件も決して悪くはないのよ、下手に争いを長引かせるよりは彼女にとって妥当な選択でしょう」

 淡々と説明していたキンスキーがレスターを見て、ちょっと怪訝そうに眉を上げた。

 コホンと小さな咳をする。

「つまりね、フレッドマン。そういう経緯だから、テックへの訴訟は近日中に取り下げられるはずなの。そうなれば・・・・・・あなたにも、気兼ねなく、テックに接触してもらえるわね? ――これはまだ正式に発表されていないんだけどね、フレッドマン、当社は近々、テックと開発提携契約を結ぶ予定なのよ」

「テックと? ・・・・・・それはまた急な話だ、あそこの技術開発関連はボッシュ社の独占と認識してました」

「そうね、テックの考えが変わったのよ。それに先立って、今月初めから、テック内にあるボッシュ社製移動機を順次、社の物と交換しているわ。来月末迄には全てが当社製に入れ替わる予定よ」

「それはまた、すごい方針転換だな」

 保守的なテックの信頼を勝ち得て、事実上、競合先ボッシュ社はテックを八年ほど独占してきた。レスターがテックに入学した当時から、学院内で彼が見た移動機器はどれもこれもボッシュ社製、共同研究の名目で訪れていた技術者も同社の社員だった。

 レスターが半信半疑で呻きに似た声をもらすと、彼女が尊大な笑みをのぞかせた。

「ボッシュ社製は悪くないわ。最近になって世の中で騒がれているような不具合は、高品質を誇るあの会社にはないと個人的には思うわよ。そうは言ってもね、まあ、テックにはテックの、“込み入った”事情があるんでしょう」

 彼女は明言しなかったが、事故の訴訟騒ぎでダメージを受けているテックが、まるでとかげの尻尾切りのように事故機を製造したボッシュ社を切り離し、問題は自分たちではないかのように責任転嫁をし、名誉回復を図っているからだ、と行間で言っているようにレスターには聞こえた。

 彼女の向かいでバウアーが薄笑いを浮かべてキンスキーを見ている。

「フレッドマン、そういうわけで、テックとの提携が正式に締結されたら、技術対応の窓口をあなたにお願いしたいと考えているの。いえ、何も、学院内に出向して共同研究をしろと言っている訳じゃないわ、別の者が行けばいい話よ。あなたにここでの業務を抜けられたら困るもの。あなたにはただ、“窓口”として居てもらいたいだけなの。私たちは、双方にとって安心できる人が必要なの。ほら、あそこは、あなたの古巣で勝手知ったる環境でしょう? あなたが窓口にいれば、何かとやりやすくなると思うわ。それに、たまには、あなたもテックに出入りしたいんじゃないかしら? あそこには、あなたの研究したい題材に役立つ人がいる、と、課長からも聞いているわよ?」

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