第17話
マーシャは彼に柔らかい表情が戻ってくるのを見て、さらに安心した。
「今も何も思い出さない?」
「うん。残念ながらね」
彼女が笑うと、彼もつられて笑った。彼の目じりにできた笑い皺が視界に入った彼女の頭にふと、黄色い石の壁に囲まれた部屋がぱっと出現して消えた。
・・・ん?今のは何だったんだろう?
隣の実験室でレスターの名が呼ばれ、彼が返事をした。マーシャの隣から立ち上がり際、彼が言った。
「まあ、思い出すと都合が悪いことばかりなんじゃないの?」
からかうように笑った彼の目がキラキラと光っていた。わざと責めるような表情を作って彼女が彼を見ると、彼は彼女の肩をぽんと軽くたたいた。
「行ってくる」
「がんばって」
彼女がガッツポーズを作るのを見て、彼は気が抜けたように笑う。
「わかったよ、がんばってくる。君は少しそこで休んでたら?」
彼はそう言い、それまで飲んでいたコーヒーの残りを一息で飲み干して、カップを専用のボックスに落としこんた。そして、コーヒーの味が残る唇を舌で舐めた。
不意に、マーシャは目の前の視界が大きく揺れたような気がして、思わず自分の椅子を両手で押さえた。周囲を見てみるが、何の変化もない。隣室の捜査官たちはしゃべりながら作業を続行している。
――今のは何?あの光景、どこかで見たような・・・?
彼女の目の前が白く光り、指で顔をはじかれたような衝撃が走った。
「・・・オブライエン?どうかしたか?」
隣室に行きかけたレスターは、彼女の顔が強張っているのに気づいて足を止めた。唇を手の甲でぬぐい、乾燥していた下唇を無意識に舐める。
「あ・・・!?」
彼女の視界の中央が大きく上下に振動した。だが、それは目の前のレスターには見えないらしい。
「おい?」
目の前がぐるぐると回りはじめている。顔を不審そうにしかめて自分に近寄ってくるレスターが彼女に見えた。後頭部が急に熱くなってきた。
「助けて・・・」
彼女が体を支えなおそうと動かした右手は椅子をつかめず、彼女の体はぐらりと右に傾いて床に落ちていく。
「おいっ!?オブライエン!!」
レスターの叫び声を聞いた捜査官たちが隣室から走り寄ってくる。レスターの手は彼女の落下には間に合わず、彼女は固く白い床に倒れた。彼は急いで床に横たわった彼女を抱き起こす。そのとたん、彼女が頭を抱えて悲鳴をあげた。
「キャアァァ!!」
「オブライエン!おい、どうしたんだ!?」
レスターの目の前で彼女は叫び、体を振り回した。
「オブライエン!」
「フレッドマンさん、何が・・・!」
駆け寄ってきた3人の捜査官が二人の元にひざまずき、こわばった顔でレスターを見る。
「わからん、急に・・・」
彼女がまた悲鳴をあげた。レスターの腕の中で、頭を抱えて体を右に左にとよじって苦しがる。
「おい、聞こえるか!?」
「痛い!頭が・・・痛い・・・痛い!ああ、頭が割れそう・・・!!」
彼女は呼吸をひきつらせ、何度も叫んだ。
レスターと目が合った捜査官は、隣の男に急いで何かの指示を出していた。病院へ、とレスターが囁くと、彼は承知しているというように扉の方を目で示した。
「痛い・・・助けて、何とかして・・・!!」
彼女は何回もあえぎ、レスターはあわててその動きを封じ込めようと自分の体に引き寄せた。隣の男が彼女の足を持って、彼女の体を一緒に運ぶ。
一刻も早く彼女を病院へ搬送しようと急いで部屋を出た彼らだったのに、先に車を準備しようと出ていた捜査官がエレベーター前で立ち尽くしていた。階数表示のディスプレイを見て、イライラしたように待っている。
「おいっ?そこで何やってるんだ!」
マーシャを運んできた捜査官が彼の姿を見つけて叫ぶと、彼は不機嫌な表情も隠さず、彼らに振り返った。
「何って、エレベーターが来るのを待ってるんですよ!!1階から全然動きゃしない!いったい、何やってるんだか・・・!」
レスターは扉上にあるディスプレイを見た。1の数字が緑色に点灯したままで動かない。この時間に来客が多いとも思えないが、と事務局のある1階の様子を思い浮かべた。彼の胸の下でマーシャの呻き声がする。