第10話
ベッドでの彼は意外に冷静だった。一方の彼女は、彼が彼女の元を去ってから誰とも異性交渉がなかったかのように、飢えていた。彼女のあげる狂おしい大声と絶え間ない要求に、彼の心は冷めていくばかりだった。彼女が数度達する間に、彼は一度も頂点まで行けない。
電気はつけていなかったので元々薄暗い室内だったのだが、窓の外もいつのまにか暗くなっていて、部屋は既に真っ暗に近かった。彼は疲れていた――彼は、もうこれで彼女との情事を終わりにしたかった。
ところが、彼女はもう一度、と甘えた声で彼にせがんだ。呼吸を整えていて返事をしかねる彼に、彼女はシーツの中を下へと泳ぎ、彼の下半身に抱きついてさらに強くせがむ。
彼女の指と舌が彼の太腿にからみつき、予期せぬ快楽の波につきあげられたレスターの腰が宙に浮いた。その快楽のせいか、彼の視界が白く眩しく変わり、体中が大きく震える。
思わず目を閉じて彼女になすがままにされていたレスターだが、体が右側に引きずられてベッドの端から落ちそうになる感触に、彼は咄嗟に目を開けた。部屋は真っ暗だったが、闇に慣れた彼の目に、窓の左側の壁に小さな亀裂が出来始めていく光景が飛び込んできた。
窓のある面とそれに続く左面の壁の角に、縦に長い裂け目ができている!
驚愕した彼は、シーツをかぶって自分の体上に乗る彼女をひきはがし、他の壁面や天井を見渡した。
不満を口にしながら起き上がった彼女は、しかし、そこに不気味な暗闇が出現しつつあることに気づき、恐怖のあまりに言葉を失くした。
「早く部屋を出ろ!早く!!」
彼女は転がり落ちるようにベッドから離れ、部屋の入口に突進した。
その頃までには入口のドアや窓が小さくビリビリと振動していたが、ドア自体は何の苦もなく開けられ、彼女は素っ裸のままに外へ飛び出した。それに引き続き、彼もドアから命からがらに抜け出した。そしてすぐに、ドアを自動から手動に切り替えた。
彼が逃げ出す瞬間に見た暗い裂け目は天井から床に届こうとするほどの長さとなり、奥深くから何か妙な物音も聞こえてきていた。妙な音ではあるが、どこかで聞いたような音・・・。
腰が抜けて廊下で体を震わせている女に、念のために部屋から離れたリビングまで行くように伝え、彼はバスルームに駆け込むとローブをまとった。異常を感知したXR-2が主人の指示を待つかのように、リビングから顔をのぞかせていた。
「ゴシュジンサマ。」
レスターは女に飲み物を与えるように彼に頼むと、自分は寝室の方に向き直った。寝室の扉が内側からの振動でガタガタと音をたてていた。この扉は室内で火事や多少の爆発があったとしても壊れない強固な造りとなっているが、その扉がガタガタと揺れている。
緊張しながらそれを見守っていたレスターはふと、さっきの物音が何なのかを思い当たって、はっとした。
あの乾いた風のような音。
鋭い発光。
――“マイクロ・ブラックホール”だ。
一瞬の間に、家中に保管してある抑制剤に思いをめぐらした彼は、目当てのブラックホール抑制剤を取りに玄関近くのクローゼットへ走った。女が呆然としてうつろな状態でリビングのソファに寄りかかっている。彼は通り際、彼女にそこから一歩も動かないようにと命令口調で言った。彼女は、走っていく彼の姿を目で追いながらも、何かを考えるまでの余裕は全くないように見えた。
レスターが寝室の扉に辿りつく直前、何か固く重い物が扉の内側にぶち当たった音がした。その部屋の内側はきっと、物という物が暴風と共にぐるぐると巻き上げられ、壁も何もかもが損傷していると予測できた。
発生したばかりで動きの激しい今は彼も手を出せないし、扉を開けられない。自分自身がその潮流に巻き込まれて永遠に現世に戻れない可能性が高いからだ。だが、マイクロ・ブラックホールも常に移動する“生き物”なので、しばらくすれば勢力が弱まる。そうなった頃に抑制剤をふりこめば、ある程度までの小さなものはほぼ消滅させられるはずだ。
彼は、その時をじっと待っていた。
彼が張り詰めた面持ちでそのタイミングを待っていると、リビングから動くなと命じたはずの女がいつのまにか彼の側にふらふらと歩いてきていた。どこから調達してきたのか、レスターのシャツまで着ている。
「・・・何やってる?あそこから動くなと言っただろ!何で来るんだ、死にたいのか!?」
「そんな、あなたが心配だっただけで・・・」
「俺は大丈夫だ、向こうへ戻れ。ここは、本当に危険だぞ!」
彼がチラッと寝室の扉に視線をやると、同じように彼女もそれにならった。
「ねえ、一体あれは何なの?私に何か手伝えることがあれば・・」
「いいから向こうへ行け!もう少しで片付く、だから早く向こうへ!」
扉の振動が収まりかけてきていた。処置のタイミングを逃したくない彼は焦りながら彼女を追いやろうとし、彼女の手を振り払って、強い口調で主張した。
「死にたくなければ俺の言うとおりにしろよ!中にいるのは、“マイクロ・ブラックホール”だ。飲み込まれれば、一瞬にして宇宙の藻屑だぞ・・・!」
「まっ・・・・・!!?」
それを知った彼女の目は大きく見開き、その場にフリーズした。と思うと、彼女はあわててその場から退散し、リビングの方へあっという間に消えていった。
それから5分ほどだろうか、彼は慎重にドアに近づくと、それに手をあてて振動具合を確認してみた。微かに揺れを感じる程度だったが、勢力は相当衰えているように判断できた。
そこで、彼は自分の体を扉に隠し右にゆっくりと引きながら、ずっと持っていた抑制剤のボトルを開け、扉とのすきまからそれを室内に放り込んだ。そして直後にドアを急いで閉じた。
室内への吸引力は大して強くは感じなかったが、ボトルはすぐに室内で壊れ、気化し始めたようだった。マイクロ・ブラックホールとの入口とも呼ばれる開口部が5m四方以内であれば、10分未満で入口を消失させる効力をもつと証明されている。
彼はバスルームの時計を見ながら、あまりにも長い10分間を静かに耐え忍んでいた。