第五章~エピローグ
第五章「フレームアウト」
その夜、僕は不思議な光景を見た。
建物が整然と並び、数多の人間が住む栄えた都。それが突如として黒い炎に包まれて地獄と化す悪夢。高台からそれを見下ろし、涙を流す少女の姿。風に乗ってくるのは人々の悲鳴。少女は、耳を塞いでその場に崩れた。
彼女はその地に触れんばかりの長髪を、血に濡れた両手で掴み、慟哭し続けた。
「……ってな夢を見たんだが。これって湧月と何か関係があるのかなぁ?」
僕はソファに横たわる御霊屋へとヒソヒソと耳打ちをした。御霊屋の身体は本人の想像よりも深く傷ついていたらしく、一夜明けると立ち上がることすらできなくなっていた。
しかし妖怪の専門家である陰陽師として、夜遅くまで色々とアドバイスをしてくれた。だから僕が見た意味深な夢についても尋ねてみたのだ。
「うむ。それは恐らく……共有夢であろう」
「きょうゆうむ?」
「ああ。魂の深く繋がった者同士が、夢を通じてお互いの過去の記憶を追体験することがある。記憶というよりはイメージの再現と言った方が正しいかな」
「へぇ……。ってことは、あれは湧月の記憶だったのかな」
なんだか酷い厄災を目の当たりにしている映像だったけど、あれが鬼との戦いだったのだろうか? それにしては湧月が泣き叫んでいたのが気になるけど。
「しかし、共有夢を見るほどに魂が深く繋がっていたとはなぁ。普通は数十年来の戦友とか永遠の愛を誓い合った仲でしか見れないものなのだが」
「それなりに仲良くなったとは思うけど、流石にそこまでは……」
「もしかしたらケータイ電話が関係あるのかもしれんな。そのケータイの所有者は福室だろう。そして湧月ちゃんはそのケータイに封印されている。福室、お前がもし陰陽師の類であれば湧月ちゃんはお前の式神になっていたかもしれんのだ」
式神……っていうと、しもべとか使い魔みたいなこと? むしろ僕の方が良いように使われているんだけど。
「つまりケータイを通して福室と湧月ちゃんは魂が深く繋がっているのかもしれんな。……湧月ちゃんとも話したが、やっぱりお前のケータイ電話は――」
「おーい、小童。風呂あがったぞー」
そこで僕と御霊屋の会話は途切れた。何故なら湧月が具現化した肉体のまま、風呂から上がってきたのだ。素っ裸で。
「うおわあああああ! お前、着物を着ろよ! バスタオル置いといただろ!?」
「ぬん? 儂ぁ風呂上りはしばらく物を身に着けぬ主義なのじゃ。それになんじゃ、こんな幼い子供の裸を見て興奮しおって」
「誰が興奮するか! 倫理的な問題なんだよ! 道徳の問題なのっ!」
「うむ。湧月ちゃん。それはイカンぞ。……ぶぶぶぼぼぼぼぼ」
「って、ああ! 御霊屋が鼻腔から大量の出血をっ!?」
僕は何とか湧月にいつもの着物を身に着けさせた。決戦前だというのにこんなバカ騒ぎをしていて良いのだろうか? 疑問に思いつつ御霊屋の鼻血を止血してやる。
――まったく。朝風呂を浴びさせろ、とかいうからお湯を焚いてやったらコレだ。
「えー、気を取り直しまして」
ともかく、結局は僕と湧月の二人で朱天を討たなければいけないようだ。御霊屋が戦えるのではないかと少しは期待していたのだが、この重傷ではしょうがない。
『それでは小童よ。作戦はこの通りで良いな』
「ああ……。上手くいくか分からないけど、やるしかない」
一夜漬けで考えた、朱天を討つための策。その結果、生まれたのがこの作戦だ。
「そういや湧月。最後の方に御霊屋と何か話し合ってたけど、あれは何だったんだ?」
『いや、ちょっと儂の電子妖怪化について色々と専門家としての意見を聞いておったのじゃ。……しかし、結局は分からずじまいじゃった。……うむ、仮説はあったのじゃが、どうも八年というのがのう……やはり考えにくい』
湧月はブツブツと独り言を呟き始めた。どうにも魂銘や霊器の話になると、意外と凝り性なところが出るようだ。僕を無視して一人で何やら新しい仮説を立て始めた。
僕は湧月を置いておいて、もう一人の仲間に話しかける。
「それで御霊屋。お前は本当に大丈夫なんだろうな?」
「うむ。鼻血は止まったぞ」
「違うっ! 今はもう真面目な話してんのっ!」
僕は一人この部屋に残ることになる彼の身を案じているのだ。本来は僕なんかよりよっぽど強いのだろうが、今の怪我を負った身体では戦うこと自体無理だろう。
「安心しろ。結界の維持くらい寝ていても出来る。引きこもっている分には問題なかろう。無論のこと朱天から攻めてくることは有り得ないだろうが」
「あぁ。奴はお前ん家でずっと待ち構えているらしいからな。――湧月のことを」
茨姫が何度か口にしていた通り、朱天という鬼はいたく湧月のことを気に入っていたらしい。僕は魂の事は良く分からないので、湧月を気に入って追い回したなんて聞くと、ただの変質者にしか思えないのだが……。
どちらにせよ朱天からすれば積極的に僕らを攻撃しにくる意味はない。夕暮れには完全に己の力が復活するのだから。そうなれば湧月ですら勝機はないのだ。
「それにしても、福室。身を案じるのは俺の方だぞ」
御霊屋は真剣な目つきで僕へと問いかける。ちなみに僕は、お昼ごはんのチャーハンを作り始めたところだった。
「お前は本当に数日前まで妖怪と無関係だったのだろう? そんなド素人のお前が身の危険を顧みずこの戦いに身を投じることになったのは成り行きに過ぎない。――相応の覚悟と理由がなければこの戦い、乗り切れるものではないぞ」
「理由……か」
改めて訊かれると、その理由を言葉にするのは難しい。
湧月をケータイに封印してしまった事がきっかけで、あとはもう――御霊屋のおっしゃるとおりに成り行きとしか言いようがないのだ。
確かに何度もこの戦いから降りるチャンスはあったはずだ。学校の屋上では湧月本人にもそう勧められた。それでも僕は彼女と一緒に戦うことを選んだ。大して悩むこともなく自然とそれを選択していた。
「……待っていたのかもしれない」
自然と口から出た言葉が、きっと正解を示すものであった。
そうだ。僕は彼女のことを待っていたのだ。
僕が心霊写真を撮ろうとしていたのも、何か日常とは違う非日常との接点が欲しかったからだ。この世界ではうだつの上がらない、特に面白味もなく平坦な自分の人生に、何か劇的な変化を欲していたからだ。
――そして、変化は訪れた。
その証拠に、湧月という劇的な存在と知り合ったおかげで、僕は心霊写真を撮らなくなった。すっかりとそのことは頭から消えていた。もう、僕の人生は虚ろではなくなったのだ。
『待っていたというのなら、儂も同じじゃ』
ケータイからの音声に、僕は料理の手を止めた。
「湧月が? 僕を待っていたのか?」
『小童よ。憶えておるか? 儂は最初、おぬしに傀儡のことを隠そうとしていた』
言われて、僕は記憶を辿る。ああ、そういえば……茨姫に襲われるまでは湧月の奴、全然傀儡や朱天たちの事について説明してくれなかったっけ。
「ああ、そうだったかも。何か知っているのはバレバレだったけど、色々と誤魔化して隠していたよな。その後は全部説明してくれたけど。……そういえば、あれはなんで隠そうとしていたんだ?」
僕が問いかけると、ケータイはしばらく無言になる。そして、やがてノイズ混じりの音声が、聞き取りづらいほど小さく流れてきた。
『うむ……。あれはな。――怖かったのじゃ』
僕はもうすっかりと昼食作りを中断し、テーブルの上にあるケータイと真剣に向き合っていた。ようやく、こいつの本音を聞けるような気がしたからだ。チャーハンを作っている場合ではない。
「怖かった……?」
『そうじゃ。儂は怖かった。儂が鬼に狙われておることを伝えたら、おぬしはきっとそんな厄災に巻き込まれるのを嫌がって、ケータイを……儂を捨ててしまうと思ったのじゃ』
「いきなりそんな事はしないけどなぁ。一応、このケータイは親父との思い出の品でもあるし。……でも、屋上の時は、僕に戦いから退くようにお前から言ってきたじゃないか」
『あれはじゃな……。その、嬉しかったからじゃ。おぬしが身を挺して儂を助けてくれたことが嬉しくて……。それで、つい……昔の仲間のことを思い出してな』
そこで彼女は言葉を区切り、どこか遠くにある故郷を想うような、切なげな声色で告げる。
『儂はもう。仲間に裏切られるのも、仲間を失うのも嫌なのじゃ』
「……湧月?」
彼女の過去に何があったのか、僕にはまだ分からない。それを聞き出すこともできない。ただ、それによって彼女が心に負った傷の深さだけは察することが出来た。
「……出会って数日だというのに、二人は随分と仲良しだな」
御霊屋の言葉に僕は少し驚いた。というのも湧月との会話中、彼の存在をすっかりと忘れていたからだ。
御霊屋はその表情こそいつものように涼しいままだが、目を瞑って背もたれの方に顔を向ける態度からは不機嫌な様子がうかがえる。どうやらこいつは、本当に湧月という人形を気に入っていたらしい。その魂を僕が横から奪い去るようにして、仲良くしているのが面白くないのだろう。
なんとも彼らしい。堂々とした拗ね方だ。それに湧月が反応して、唇を尖がらせたような声色を出す。
『ふん、別に小童と仲良くしているつもりなどない。無理やりにケータイに閉じ込められ、魂の器を人質に捕られているようなものなのじゃ。そんな鬼畜と何故に仲良くせねばならん』
「そんな言い方あるか! 大体、僕からしたら巻き込まれたのはこっちだ」
『……という訳じゃ。別に仲良しではない』
と湧月が御霊屋へと釈明した。
だが彼も半分は冗談で拗ねてみたのだろう。僕らのやり取りに笑みを浮かべ、ちらりとこちらに目線をやるとこう言った。
「それより早く昼ごはんを作ってくれないか? 俺は湧月ちゃんと違って電気では回復できないからな。早くエネルギー補給の為に飯を食わせてくれ」
御霊屋の試算によれば朱天が完全復活するのは本日の夕刻。それまでに僕たちは亞麻矢神社へ向かい奴を倒さなくてはならない。
だが、昼の三時を過ぎた頃になっても、僕たちは自宅に待機していた。連戦による湧月の消耗は思いのほか大きく、回復するのに時間が掛かってしまったのだ。
「さて、準備はいいな」
『うむ。小童こそ手順は大丈夫じゃな? 一歩間違えればすぐ死に直結するのじゃぞ』
「分かってるさ。僕だって……死にたいわけじゃない」
ケータイをコートのポケットにしまい込む。ケータイを落として壊したりなんかしたら笑い話にもならないから、しっかりとボタンを止めた。あとはその場でケータイの充電が出来る急速充電器も用意した。きちんと乾電池もセットしておき懐に忍ばせる。
「準備は万全のようだな」
御霊屋が痛んだ身体を横たえ、ソファの上から見送ってくれる。
「陰陽師としては情けない話だが……。この国の命運は福室と湧月ちゃんに託すしかなくなった。頼んだぞ」
そして餞別の言葉が続く。
「安心しろ、福室。お前は自分では気付いていないだろうが。……俺は驚いたのだぞ」
「驚いたって、何にだよ?」
「お前が湧月ちゃんと話す姿だ。あんなに人と打ち解けて、楽しそうに喋っているお前を見るのは初めてだ。……友人として、少し妬けたぞ」
「そ、そうかな。まぁ、どちらにせよ、こいつは人じゃないけどな」
『うるさい。呪うぞ』
彼女が言うと冗談に聞こえないツッコミをもらいつつ、玄関に向かう。
今から始まる戦いが生か死かを分ける決戦になるという、その実感はまだ湧いてこない。ここまで、なんだかんだで茨姫との戦いを切り抜けてきているし、自分が負けてしまうことをイメージできていないのかもしれない。
でもそれは、このポケットの中にいる湧月が前線に立って僕を守ってくれたからだ。
僕一人では全く何の役にも立たない。湧月と離れ離れになれば、僕なんかあっけなく死んでしまうのだ。それを忘れてはならない。
「それじゃ、行ってくる」
リビングの御霊屋へと声を掛け、ついに玄関を出る。
「寒い……な」
曇天の空が不穏な空気を醸し出し、僕の心に暗い影を落とした。
御霊屋の結界があるとはいえ、鍵を掛けずに出ていくのは気持ちが悪い。ゆっくりと静かに戸を閉め、鍵を掛けておく。
僕は駐輪場に止めてあるマウンテンバイクに跨り、亞麻矢神社へと向かおうとペダルに足を乗せた。そこで僕は一つの異常に気付く。
――僕の背中に湧月がひっついている。つまり、おんぶさせられている。
「あの~……。湧月さん、これはどういう事でしょうか」
いくら幼い子供の体型をしているからといって、それを背中に乗せたまま自転車を漕ぐのは結構な重労働だ。
「いや……のう。茨姫の〝紫雲〟を吸い込んだ影響か、ケータイから具現化するのにちょいと時間が掛かるようになってしまったのじゃ。あり得ぬとは思うが、道中で万が一にでも朱天が不意打ちを仕掛けてきたらおぬしを守れぬ。よって常におぬしの傍に控えておることにした」
茨姫の〝紫雲〟。そういえば僕を庇った湧月は、あの煙をもろに吸い込んでしまっていた。
「そうだったのか……。 ごめんな、気付かなかったよ……」
僕の隣にいる呪いの人形は、いつもの様に涼しい顔している。
「儂も最初やられたのに気付かぬくらいの細かい、しかし魂の深いところに傷を付けられたようじゃ。ケータイから出入りするのは、意外と集中力がいる事じゃからのう。儂は見た目通りに〝でりけーと〟なのじゃよ」
「よし、僕も男だ。湧月の一人くらい背負ってやるさ」
「転ばないように、しっかりと漕ぐのじゃぞ」
湧月は髪の毛を僕の腕や腰に巻きつけて、がっちりと身体を固定してきた。
「ヘルメットはないが、大丈夫か?」
「安心せい。儂の頭はいざとなれば鉄よりも固いもので覆われておる」
「それもそうか! よっしゃ、行くぜ!」
足に力を込めて漕ぎ出せば、マウンテンバイクはあっという間に最高速度に達した。
赤く染まった太陽が在尾羽町を照らす。住宅の屋根越しに見える小山、その頂上にある亞麻矢神社へと僕らは急いだ。
大きな荷物を背負っているせいで予定より大分遅れてしまった。しかし亞麻矢神社の入り口まであと少し。
そこで、背中に引っ付いている湧月が唐突に口を開いた。
「のう、小童よ。気にはならぬのか?」
「……なっ、なにが、だよ!」
荒い呼吸を繰り返しながら、何とか応答する僕。正直な話、会話をする余裕などない。
「昨晩の夢のことじゃ」
「えっ……!」
僕が共有夢を見たことを湧月が知っていたのか? 御霊屋に相談した時には浴室にいたから聞こえなかったはずだが。
「共有夢は互いに互いの記憶を覗く現象じゃ。儂も昨晩はおぬしの記憶を覗かせてもらった。……儂の依り代となっておるケータイ電話。おぬしにとって大事なモノなのじゃな。御父上が遺された唯一の代物だったとは」
そうか。僕が湧月の記憶を見ている間に、湧月は僕の記憶を――親父が事故で死んだ時のイメージを夢の中で見ていたのか。
「……そのっ、ことか……。はぁ、まぁ、気になるといえば気になるが……お前が話したくないのなら、別に……無理に、聞こうとは、思わないが……」
「いや、儂がおぬしに話したいのじゃ。……聞いてくれるか?」
「聞くだけ、ならっ」
こちらから喋るのは無理だからな。
「ならば、聞いておくれ」
そして湧月が語り出す。
千年前の人妖大戦の後、何故に自分が封印されたのか。――鬼を狩った呪いの人形の顛末について。
それを知ることで、僕は彼女の過去を全て知ることになる。
数百年前、朱天の引き起こした人妖大戦は、湧月と仲間たちの手によって人間の勝利に終わった。
そして全ての戦いが終わったあと、戦友を全て失った湧月は一人で鬼の残党狩りを始めた。茨姫を始めとした何人かの鬼は、決着の前に戦場を離れて逃げていたからだ。
だが、湧月の身体に刻まれた呪いは重すぎた。
「儂がしゃしゃり出ると、余計に被害が大きくなってしまってのう……」
苦笑いを浮かべてそう語る湧月であったが、その苦悩は計り知れないものであったろう。
戦いの為に生まれた自分は、戦いが終わった後にどうすれば良いのか。
「しばらくは途方にくれたものじゃが……。儂らの戦いで荒れた土地を見ておるうちに、それを何とかしなければと思っての」
そして湧月は人間と同じように平和に暮らすことを選んだ。
山奥に引き籠り、自分を受け入れてくれる人間たちが作った小さな村で過ごし始めたのだ。
見た目通りに子供のように遊んだり、その小さな手で農作を手伝ったり。また歴戦の知識を活かして陰陽師にアドバイスをしたりと、穏やかに過ごしていた。
しかし、その生活は長くは続かなかった。
「かつて鬼たちすら呪い殺したという儂の力を求める者は、後を断たなかったのじゃ」
「まさか……?」
「そう。妖怪による脅威を取り除いた人間たちは、愚かにも人間同士で争い始めた。儂らが築いた平和の向こうには、妖怪すらも戦力として取り込もうとする、おぞましい血みどろの闘争が待っていたのじゃ」
裏切り。それは間違いなく裏切りだ。
鬼たちの迫害から人間を助ける為、その身に数多の呪怨を受け、生み出された彼女にとって。その人間たちが、手に入れた平和を自ら捨てるような真似は、あまりにもひどい裏切りである。
「儂はもちろん誘いを断っていた。だが、その時の儂は……もう仲間を失うことに耐えられなかったのじゃ」
戦争の道具になることを拒み続ける湧月に、人間たちは鬼のような所業を行う。
戦争に参加しなければ、彼女の住む村を焼き払うと脅しをかけたのだ。
そこで彼女の声が僅かに揺らいだ。
「儂は馬鹿じゃった……。己の、人形一つの命と、あの村の数十人の仲間たちの命を捨てさえすれば……。そうすれば、あんなことは起きなかったのに」
そこで僕の脳裏にあのイメージが再び映し出される。
共有夢で見た、炎に包まれる都と無数の悲鳴。
「……っ。あれ、は……」
あの厄災を引き起こしたのは、他でもない湧月だったのだ。
「結果。儂は人間の言うとおりに、その力を人間同士の戦いに使った。しかし、儂の身に蓄えられた呪いの醜悪さは人間たちの想像を遥かに超えていたのだ。彼らは自分たちの、人間の業の深さを理解していなかったのじゃ」
彼女の――湧月の真の武器は、髪の毛を自在に操ることではない。
生まれた原因であり、存在理由でもある、呪い。
その力が鬼を殺し、そして人間に返ってきたのだ。
「儂が魂銘を使った土地は、その後は数十年に亘り疫病や戦乱に見舞われたそうじゃ。儂のせいで人間が何万と死んだ。儂の呪いのせいでな」
お前のせいじゃない。――今の僕だったら胸を張ってそう言える。
だが湧月の事を露とも知らぬ者たちからすれば、その厄災は鬼に代わる新たな恐怖の対象としかならなかったのだろう。
そんな事をしでかした人形は、もはや鬼を倒した英雄でもなんでもない。人間に禍をもたらす呪いの人形である。
そして人間は湧月を捕まえようとする。――あまりにも身勝手に。
「儂はもう、自分の行いに失望して抜け殻のようになっていたからの。抵抗もせずに捕らえられた。晴れて、呪いの人形は封印されたというわけじゃ」
それが、彼女が封印された理由。
なんと理不尽で、無意味な封印なのだ。人間たちは自分たちの都合で湧月を生み出し、利用し、傷つけ、封印した。
身勝手な行い。善悪の判断をするのなら、どちらがどちらか、はっきりと決められる。
だが今の湧月の語り口からは、人間たちに対する恨みは全く感じられなかった。
「儂はひたすらに悔やんでおった。我が身の可愛さに、そして仲間たちを裏切りたくないという想いだけで、それらを遥かに上回る罪を犯してしまったことを」
人間の為に生み出され、人間の為に戦い、人間に裏切られ、そして封印されたまま、人間を恨むこともなく――独り悩み続けたというのか。この背に乗る、小さな少女は。
「それから数百年じゃな。儂は一人、暗い箱の中で悔恨し続けたのじゃ。出来るならやり直したい。また人間を救うために戦いたい。せめてもの罪滅ぼしがしたい」
「まさか、朱天を倒そうってのも……」
「――のう、小童。儂が最初おぬしを守ると言ったのは、儂の自己満足に過ぎん事じゃった。儂は、また人間を助けて罪滅ぼしをした気分になりたいだけだったのじゃ」
僕の身体を掴む湧月の手。それに込められている力が、一層強くなった。
「儂は嬉しかった。おぬしが儂という存在を受け入れてくれた時。茨姫との戦いで助けてくれた時。そして儂に人間を殺させなかった時。儂は……儂は本当に嬉しかった。そして、気付けば儂の中から罪滅ぼしという目的はなくなっておった。ただ、おぬしを守りたいと思えていたのじゃ」
湧月の本音を初めて、真正面から受け止める事ができた気がする。
それが僕も嬉しくて、思わずハンドルから片手を離し、脇の下から出ている小さな手を握っていた。
柔らかく暖かい、彼女の髪の毛に負けず劣らず触り心地の良い手だ。そこには彼女が気にするような血に濡れた穢れなんて微塵もない。
「わっ、小童! おぬしっ……」
振り払われかけた手をしっかりと握り、そして力は返ってくる。
「湧月。僕もお前と会えたことを嬉しく思う。この戦いの結果がどうであれ、僕はこの数日間で今までの人生では考えられないような、劇的な日々を生きることが出来た。――きっと、僕はそれを欲して心霊写真を撮り続けていたんだ」
「心霊写真……?」
あ、そういえば湧月と会ってからは撮影もしていないから、彼女はこの事を知らないのだったな。
「まぁ、ともかく。お前に会えて本当に良かった。って僕は言いたいんだ」
「うむ。だが、まるで今生の別れみたいな台詞はよすのじゃ。この戦いの結果は分かりきっておる。これから封印明けでボケておる朱天をサクッと討って、それで儂らの勝ちじゃ」
「ああ、そうだったな。それじゃあ、戦いが終わった後の事でも考えておくか。……湧月は朱天を倒した後、どうするんだ?」
どうせ一人暮らしの身だ。湧月と一緒に暮らしたって、食費と電気代くらいしか負担は増えない。僕としては――これからも彼女と居ても良いと思っている。彼女と過ごしたこの一週間は本当に楽しかった。命の危機に瀕したことも含めて、すべてが楽しかった。それがこれからも続くというなら僕は嬉しい。
「儂は……やはり、人間を守りたい。罪滅ぼしという意識はおぬしのおかげでなくなったが。……それでも儂は、人間が好きなのじゃ」
最後の一言は、独り言のように囁かれた。
「妖怪から人間を守る、っていうと陰陽師みたいものか。……御霊屋がやっている仕事。僕たちにも出来るかな」
「需要があるのか訊いてみよう。もしあったのなら、この地に潜む悪しき妖怪から人間を守る。そんな仕事を儂はしたい」
妖怪を狩る者。あくまでもそれが湧月の存在意義ならば、僕はそれがまた悲しい結末にならないように見守るだけだ。
妖怪を狩るという彼女の日常は、僕の求めた非日常。需要と供給は噛みあっているはずだ。
「……もちろん僕も一緒にだよな」
「……別に……無理にとは言わぬが」
そこで僕らは、くすりと笑った。
「それじゃあ、最後まで頼むぞ」
「任せるのじゃ。戦いは儂の仕事じゃからな」
そして僕らは赤い鳥居のそびえ立つ、亞麻矢神社の入り口に到着した。
その場にマウンテンバイクを倒しながら停止すると、湧月は僕の背中から飛び降り、身体を回転させながら綺麗に着地した。
相変わらず素人の僕でも分かるほどに、階段の上からは邪気のようなものが漂ってきている。ただし、茨姫が死んだせいか以前より弱まっている気もする。
「さぁ、ラストダンジョンってところか」
しかし目の前にある何百段という階段は、ここまで全力で自転車を漕いできた僕には苦しいものがあった。今すぐ駆けあがれと言われても流石に無理だ。
湧月もそんな僕の状態を見て、察してくれたらしい。
「……最後まで一緒が良かったのじゃが。やむを得ん、儂がケータイを持って先に行こうかの」
ああ、最後の最後まで格好がつかない。なんて情けないんだ。だが、お言葉に甘えさせてもらうしかない。
「でも僕に合わせてゆっくり階段を上っている間に、朱天が完全復活するよりはマシか」
「うむ。では先に行って朱天を倒しておく。あとからゆっくりと来るが良い。朱天の首を持って待っているぞ」
「いや……首は見せないで良い……」
「冗談じゃ」
湧月は僕からケータイを受け取ると、髪の毛を使ってあっという間に階段を駆け上がっていった。
「……よし、僕も急がないとな」
クライマックスに立ち会うことが出来ないのは悲しいが、ここは僕が出る幕ではない。
きっとこの物語の主役は湧月なのだ。僕は最終決戦直前で脱落する脇役に違いない。僕のような人間にはお似合いだ。いや、出演しただけでも上出来だ。
だけどここまで頑張ったのだから、せめてエンディングくらいには間に合いたいじゃないか。
そう思って身体に鞭を打ちつつ、僕も階段を上り始めた。
「あっ!」
中ほどまで階段を上った辺りで、人が倒れているのを発見した。同じような白装束に身を包んだ二人組の男だ。全身にはいくつもの矢が刺さり、恐らく銃創と思われるものまである。
「……派遣されてきた陰陽師、か?」
御霊屋の言っていた、返り討ちにあった陰陽師だろう。茨姫の傀儡に殺されてしまったのだ。
湧月の言っていた「霊器が優秀でも人間が脆くては勝てない」という言葉の意味が良く分かる。周りを傀儡に取り囲まれ一斉に飛び道具で攻撃されては、いくら熟練の陰陽師とはいえこの通りなのだろう。
「彼らは、魂を肉体から解放された」
!?
「なっ」
背後から唐突に湧いて出た言葉に驚き、僕は勢いよく振り返る。
するとそこには、さっきまで影も形もなかったはずの男が立っていた。
「魂という強く美しい存在が、何故肉体という弱く醜い塊に囚われなくてはならないのか……。私はこの世に生まれ落ちた時から、ずっとそう疑問に思い続けてきました。そして全ての魂を肉体から解放させる為に生きてきました」
良く意味の分からない事を口走っている男。
黒い和服を着流して、束ねた黒髪は膝の辺りまで伸ばしている。腰に一本の長刀を差していることもあって、時代劇に出てくる美形の剣士という印象だ。
なにより、そう。彼は美しかった。
男の僕でさえ惚れ惚れするような整った顔立ち。切れ長の目は、こちらの心の内すら見透かしているのでは、と思う程に鋭く妖しい光を放つ。袖から見える引き締まった腕は、その肉体が鍛え抜かれたものであると匂わせる。
どこか、湧月と同じ空気を感じさせる、完成された男だ。
「おっ、お前……! 誰だ!」
僕はようやく驚きから立ち直り、怒鳴るように問う。すると男は爽やかな笑顔でこう言った。
「おや、聞いていませんでしたか? 私が朱天です」
「……えっ」
唐突にラスボスの名を出され、頭が真っ白になる。
確かに、そう言われれば納得はいく。これほどの風格を持った男ならば、かつて妖怪を束ねた鬼の大将と言われても違和感がない。
だが、その朱天という鬼はこの先にある亞麻矢神社にいるはずではなかったのか? それが何故、こんなところにいる?
「ははは、嫌だなぁ。私が大人しく殺されるのを待つ理由がありますか。こっそりと、そこの雑木林に隠れていたのですよ」
朱天は階段の脇にある竹藪を指さした。
えっ。そんな単純な事?
「ちょ、待て……。お前、僕を……殺す気か!?」
やばい。湧月は先に境内に行ってしまった。ケータイもあいつが持っているから、すぐさま呼び寄せることも出来ない。
「場合によっては殺すことになるかもしれません。しかし、それは湧月次第ですね」
「なん……?」
「彼女の選択を待ちましょう。それまでは大人しくしていてくださいね」
その台詞の直後、目の前にいたはずの朱天の姿が掻き消えた。そして背後に何かの気配を感じた瞬間に、両腕を後ろに捻りあげられる。
「がっ、速っ……?」
「やれやれ。本当に全く、戦闘の心得がないのですね。それで良く茨姫を相手にし、湧月と一緒に戦って生き残れたものです」
「お、お前……力を完全に取り戻している……のか?」
相手の動きを見れば分かる。こいつは完全に復活してしまっている!
「いえ。まだ本調子ではありませんねぇ。六割くらいでしょうか」
「なっ。こ、この動きで……?」
「でも確かに魂銘はまだ使えませんとも。というより、もう魂銘を使う必要がないのですけどね。んっふっふ」
「……? 一体、お前は何を……」
何かがおかしい。こいつは――朱天は、湧月や御霊屋の想定していない何かを隠し持っている。そして、その隠し玉はとてつもなく僕たちにとって致命的な何かだ。
「それに、御覧の通りに肉体の力はこのくらいでも十分ですよ。この状態なら湧月とも互角に渡り合えそうですね。今の湧月であれば……」
「く、くそぉ……」
僕はそのまま朱天に拘束され、階段を上らされた。というよりも片腕で持ち上げられて運ばれた。
くそっ! なんて情けないんだ。こんな最後の最後まで湧月の足を引っ張ってしまうなんて。
――でもここで舌を噛んで自害、なんて潔い真似を出来る胆力もない。僕は大人しく朱天に従った。
この状態の僕に出来る事と言えば……口先で朱天に精神的ダメージを与えるとかだろうか?だが間違っても悪口で傷つくようなナイーブな奴には見えない。……でも、何かをやらなくては。
「あの……朱天、さん」
悪の親玉相手だというのにさん付けしてしまう。これは決してビビっているワケではなく、初対面の人物には敬語を使えという親の教育の賜物である。それに相手も敬語だから、こっちだけいきり立つのも変な気がしたのだ。
「はい、なんでしょう?」
「おっ、お前は……。何のためにこんな事をするんだ?」
「こんな事とは……どういう事でしょう?」
「いやだから、どうして人間の抹殺なんかしようとするんだ?」
僕の問いかけに朱天は思いのほか真面目に答えてくれるようだ。しばし悩んだあと、こう告げる。
「福室慶輔くん。君は何か勘違いをしていますね」
「勘違い……だと?」
「ええ。私は何も人間の抹殺なんて企んではいませんよ」
「嘘をつけ! 湧月から聞いたぞ。大昔にあった人妖大戦、多くの人間が死に絶えた戦争の原因はお前だっていうじゃないか!」
「確かに人妖大戦の原因は私です。しかし私はあくまでも肉体から魂を解放する運動を行っていただけなのですがね」
「そっ、それが虐殺って奴じゃないか!」
思わず声を荒げる僕に対して、朱天は呆れたように溜息をついた。
「価値観の相違ですよ。君たち人間は肉体を持って生まれてきた。だから肉体に固執するんです。一方で私のような妖怪は、魂のみの存在として生まれ、後々に肉体を得たもの。だから肉体に拘る必要がないのです。そして魂の素晴らしさに気付くのです」
なんだか頭が痛くなってくる主張だ。価値観の相違? そんな事で片付けられる話じゃない。
「意味の分からない御託を並べたって、結局は人間を殺したんだろ!」
「殺すという事は命を奪うということ。ならば私は人間を殺してなどいません。肉体から解放された彼らの魂は龍脈に取り込まれずに、私の魂銘で逆に永遠に朽ち果てることなく、この世に存在し続けるのですから。そこには意志もある。そして私に逆らおうとする魂はない」
「さっ、逆らわないのは当たり前だろ! お前が死んだら、自分たちが龍脈に取り込まれるんだから!」
朱天と討論をしていてもしょうがない。だが僕はどうしてもこいつの言い分を否定してやりたくてしょうがなかった。どうしても打ち負かしてやりたかった。
それだけ朱天は分かり易く人間の命を軽んじていた。
「人間は愚かです。それは肉体に固執しているからだ。私の魂銘によって具現化された魂たちは身内で争ったりはしません。――そうであれば、湧月が傷つくこともなかった」
まるで我が子を労わるようなその台詞に、僕は胸がチクリと痛んだ。
さきほど湧月から明かされた封印の真実。人間同士の争いに巻き込まれて、取り返しのつかないことをしてしまった彼女。
確かに朱天の言うとおりに、人間は愚かかもしれない。
しかし、こいつのやっている事は百パーセント悪なのだ。自分の考えを他人に押し付け、その自由な命を奪い、自分の鎖に縛り付けているだけだ。
「少年よ。私の考えを否定したいのならば――」
まるで僕の心の声を読んだかのように、朱天が堂々と言い切る。
「私を倒すことです。そして私よりも優れた手法で、優れた世界を作ればいい」
最初から分かっていたことだ。
僕たちと朱天は戦うしかない。僕はそれを皮肉にも相手から言葉にして教えられてしまった。
階段を上り切り境内に到着すると、ちょうど湧月がこちらに歩いてくるところだった。恐らく朱天が見つからないので、とりあえず僕と合流しようとしていたのだろう。
僕が朱天に首根っこ掴まれて登場したのを見て、彼女は驚きのあまりにケータイを取り落しそうになっていた。
「……なっ! しゅっ、朱天!?」
「やっ、お久しぶりです。湧月」
「す、すまない。湧月。御覧の通り……捕まってしまった」
僕よりも頭二つ分ほど背の高い朱天は、きっと僕の頭越しに爽やかな笑顔を見せているのだろう。
「ふふ。本当にお久しぶりですね、湧月。貴方との再会を心待ちにしていましたよ。うっかり茨姫に討ち取られるのではないかと、ひやひやしていました」
だが朱天の挨拶も湧月の耳には入っていない。彼女は唇を噛んで己の不明を恥じていた。
「……すまぬ、小童。儂が焦り過ぎた。階段は既に敵地、離れるべきではなかった」
「いや、僕も同意したことだ。気にするな。っていうか、あっさり捕まった僕が悪い」
そう。気にしなくて良い。最悪、僕が殺されてもケータイは湧月の手にある。湧月だけでも朱天とは戦えるのだ。
だが朱天が言っていた「湧月の判断次第で助かる」という発言の意味が気になる。奴はこれから何をしようとしているんだ?
すると、その答えはすぐさま彼の口から告げられた。
「さて、折角人質を手に入れたのです。ここは交換条件といきましょう」
まるでゲームでも楽しむかのような、軽薄な口調で朱天はそのように切り出した。
「なんじゃ? 儂の命を寄越せ、というのなら断るぞ。小童ではおぬしを殺せぬからの」
ひどく冷淡な言葉だが、それは湧月お得意のハッタリだろう。心中では、どうやって僕を助けるか算段を立てているはずだ。きっと、そのはずだ……。
しかし、湧月の言葉に朱天は心外だと言わんばかりに首を振る。
「何を馬鹿な。私は貴方との再戦を心待ちにしていたのですよ。それが何故、この少年と引き換えに勝利することを望みますか」
「なら、何と引き換えにするのじゃ。……さっさと言わぬか!」
そこで朱天は僕を左手一本に持ち替え、続いて右手で己の懐をまさぐった。
「復活してから数日間、暇でしたからねぇ。守りは茨姫がやってくれていましたし。――そこで私はこの寺の中を探索し、非常に面白いものを見つけました」
「そ、それは……!」
彼の右手に握られている物を見て、僕は全身の血の気が引いた。
――彼が取り出したのは、一つの人形であった。
僕も見覚えのある、一度見たらそう簡単には忘れられない、あまりにも美しい人形。
「おぬし、まさか……!」
「そう。貴方の本体ですよ。湧月」
「……ぅ」
言葉にならない声が、湧月の口から漏れ出た。
何てことだ。まさか、湧月の〝本体〟が人質に取られるなんて……!
「茨姫からの報告を聞いて私は失望しました。貴方は妖怪としての格を落とし、ひどく弱体化してしまったと……。しかし、この本体に帰れば元の力を取り戻せます」
「……ああ、そうかもしれぬな」
「私とて、それを望んでいる。全盛期の貴方と再戦し、勝ち、それから私は自分の目的を果たすのです」
「おぬしの目的……? また、どうせ下らない『魂の解放』という奴か。あれは、ただの虐殺に過ぎぬと――」
「いいえ! そのような事を思っていた私も、かつては確かにいました。しかし、今は違う!」
そこで朱天は両手を広げ、天を仰ぐ。
まるで神様に祈りを捧げる信徒のように、その顔は清らかで、その瞳は真っ直ぐなものだった。気でも触れているほどに。
「湧月、私を殺してくれた貴方に感謝します。そして、この場所に魂を封印してくれた陰陽師たちにも。――そう。私は、この土地と一体になり神になる!」
「……正気か? いや、今更問うこともないか」
うんざりとした態度を隠さず、湧月はその髪の毛を揺らめかせる。しかし朱天の演説は止まらない。
「この神社の地下には龍脈があります。それすなわち、死者たちの魂の通り道。この国全てを網羅する魂のネットワーク! ……そこに私はアクセスするのです。魂となった私が、己の魂銘を使い、この龍脈全体を完全に掌握する!」
その台詞を聞いた途端、湧月の表情が一変した。
「……まさか。そんな事が可能だというのか?」
「出来ますとも」
言うと朱天は右足で、境内に敷き詰められた玉砂利を叩いた。軽く、足踏みといった感じで。
「……三、二、一」
そして、おもむろに始めたカウントダウン。それが終わると同時に――
突如として大地が揺れ始めた。
「なっ、うわ、うわあ!」
「こっ、これは!」
まるで地面の下に眠る巨大な龍が封印から解かれ、動き出したかのように。足元が全て崩れ去るような強烈な揺れが大地を襲う。僕と湧月は思わず悲鳴を上げた。
「なっ、まさ……や、やめろ! 朱天!」
焦りを隠さずに叫んだ湧月を見て、朱天は満足げに笑みを浮かべる。すると揺れはピタリと収まり、大地は何事もなかったかのように鎮まった。
地震。それが、このタイミングで偶然にも発生したと考えるほど僕は能天気ではない。今の現象は朱天が引き起こしたのだ。彼の言う〝龍脈の支配〟によって。
「これは序の口に過ぎません。まだほんの一部しか接続はしていませんからね。ですが〝ハッキング〟が完了すれば、私はもはや一介の鬼ではなく、この龍脈の通る土地――すなわちこの国の全てを支配する神となる」
もはや魂銘も必要ない、と言っていたのはそういう事か。
ヤバい。ヤバすぎるぞ、こいつ。天変地異すら自在に操れるとか、本当に神のレベルじゃないか。悪の親玉とか古典的魔王とかの騒ぎじゃない!
「ただ……その大望を果たす前に清算しておかねばならない遺恨、それこそが湧月。貴方に負けたという過去なのです」
龍脈を支配し、神に匹敵する力を得る。――だが、その前に湧月を倒さなければ気が済まない。朱天はそう言っている。
「そのような姿に成り下がった貴方に勝っても意味がない。だから別にこの本体を渡すことには抵抗がないのですがね。しかし……せっかく人質を手に入れたのだから、貴方に選択肢を与えたいのですよ」
「……貴様! 小童の命を道具のように扱うなど……!」
声を荒げる湧月を無視し、朱天は僕と湧月の本体を身体の前に掲げる。
「さぁ、選びなさい! この少年の命か、貴方の本体。どちらか一つだけお返ししましょう。選ばれなかった方は、この場で真っ二つに引き裂きます」
「なっ……」
絶望だ。湧月は絶対に本体を選ぶに決まっている。
奴の目的が超弩級にヤバいものだと分かった今、湧月は絶対に朱天を討たなければと考えているはずだ。そして彼女は本体さえ取り返せば全盛期の力を取り戻せる。
仮に僕を選んだとしたら本体は破壊され、電子妖怪のままで戦わなければならない。
どっちが良いかは明白だ。
それに僕は湧月と出会って、たった数日の仲。
そして彼女の本体は、かつて人妖大戦を共に生き抜いてきた思い出もあり、さらに千年もの間一緒だったものだ。
そもそも本体というのは人間でいうならば肉体である。僕だって魂だけが他のところに移されて、出会って数日の他人と今の肉体を天秤に掛けられたら、絶対に肉体を選択する。
この選択肢は迷うべくもない。いや、迷ってはならないのだ。湧月は本体を取り戻し、朱天を討たなければいけない。そうしなければ、この日本という国がこの優男の手中に収まってしまう。魂の解放という名の虐殺行為が、いともたやすく行われてしまう。
結論。……残念ながら僕は今日ここで、朱天の手で真っ二つに引き裂かれて十七年の短い生涯を終える。ああ、なんて味気なく無意味な人生だったのだろう。ただ、最後の数日間だけは湧月のおかげで本当に劇的で、楽しくって、最高の――
「慶輔を返せ」
「……へ?」
時間にすれば即答と言っても差し支えない。そんな早さで湧月は告げた。
「ゆ、湧月……?」
「朱天、聞こえなかったかの? 儂は小童を選んだ。そやつを離せ」
僕は信じられないという気持ちで湧月の顔をまじまじと見た。彼女お得意のブラフやハッタリでも何でもない。それが今の僕には分かる。
彼女は真剣に僕を選んだ。自分の本来の肉体、本体の人形よりも僕を選んだ。
一方で朱天は僕よりも、よほど彼女の選択を信じられないという気持ちだったのだろう。完全に言葉を失っていた。
「……この人形を、見捨てるのですか?」
ようやく、絞り出すように出てきた問いに、湧月は首を横に振った。
「見捨てたくはない。儂とて、その慣れ親しんだ箱の中に帰ることを……ずっと心待ちにしておった。――じゃが」
そこで湧月は一呼吸置いた。
「儂にとっては今や、小童の方が大事になってしまった、それだけなのじゃ。慣れ親しんだ本体よりも、かつて振るった絶大な力よりも……。儂はそこの無力で情けない、ただこの世に一人しかいない福室慶輔という男を選ぶ」
「ゆづ……」
言葉が詰まる。
彼女は、僕が大切だと言ってくれたのか。
ずっと独りだった僕に。御霊屋以外には友達なんて出来ないと思っていた僕に、ここまで想ってくれる人が――いや、妖怪がいたのか。
誰かに大切に想ってもらえること。それは、どんな物語よりも劇的な現実だ。僕はそれを今、知った。
「失望しましたよ。しかし貴方が選択するのならば、仕方がありません。私は脆弱なる貴方に勝利し、そして神になりましょう」
一瞬、身体がふわりと浮いた。僕が空中に投げ出されたのだ。
突然のことに受け身など取れるはずもなく、僕は無様に背中から地面に転がる。
そして視界に入ってきたのは、湧月の本体を頭の上に放り投げる朱天の姿。
「や、やめっ――」
思わず手を伸ばした僕の目の前で、刀を抜いた朱天の腕が振るわれる。
目にも留まらぬ速さで繰り出された一刀は、あの美しい人形を無残にも両断した。
「う、うわああああぁぁぁ!」
まるで湧月本人が切り裂かれたような、激しい悲しみが僕を襲う。
――これは、もしや湧月自身の心の痛みなのか。魂の繋がりを通して伝わる、彼女の慟哭か。
ただ彼女の方を見れば、地面に転がった自分の本体を眺めながら、辛そうに目を伏せる静かな姿。その心中を知るのは、彼女の他には僕だけだ。
「……さて。それでは始めましょうか。神に敵はいない。いてはならない。――つまりこれが、私の最後の戦いです」
朱天の肉体を、凄まじい気が覆う。茨姫のものと比べても、遥かに上回る魂の迸りだ。
「うむ。これで儂も踏ん切りがついたわ。失うものは何もない。あとは朱天、貴様をもう一度狩るだけじゃ」
湧月は髪の毛で僕を立ち上がらせると、その右手にケータイ電話を握らせた。
「小童。まだ仕事は終わっておらぬ。バッテリーも三本あるし、〝ぶーすと〟のタイミングは重要じゃぞ」
明るく、笑顔すら浮かべている湧月。
しかし、僕は彼女の心の内を知ってしまっている。この場で泣き崩れてもおかしくないほどの悲しみを、その胸に抱いていることを知っている。
「湧月……。僕のせいで、お前の本体――」
「野暮な事を抜かすな。二度もあんな恥ずかしいことを儂に言わせる気か?」
「……勝機は、あるのか?」
「馬鹿な事を抜かすな。おぬしの前で儂が勝てぬ、と言った事があったかの?」
「分かった。ならば湧月。僕も一緒に戦う」
「それで良い」
彼女は表情を変えずに、そう言い切った。
悲しむのなら後でいくらでも出来る。今はその時ではない。
千年越しの因縁。在尾羽の未来を守るため。本体の仇。色々と理由はあるが、とにもかくにも朱天を倒せば、全ては丸く収まるのだ。
この数日間、僕が巻き込まれてきたこの戦いに、この非日常に終止符を打つ。
「だから、今は……その力を振るえ! 湧月!」
僕の掛け声と同時、湧月が飛び出す。朱天の姿も残像を残して消える。
かつて最強だった妖怪同士の決闘が、今始まった。
今まで、湧月の戦いぶりを僕は理解できていなかった。その動作全てが速すぎて、僕の動体視力では目視不能だったのだ。
だが、これが高まりきった魂の繋がりということなのだろうか。僕と湧月の絆というものなのだろうか。
今はその動きが全て理解できる。
彼女がどうやって朱天と渡り合っているのか、彼女の目に映っているのと同じように見えている。
「〝玄翁の槌〟!」
二つの髪束が、朱天に向けて放たれた。
鬼は半身でそれを躱すと、刀を振り上げて一気に間合いを詰めてくる。
湧月が大きく後ろに飛びのいて距離を稼ぎつつ、髪の剣で横薙ぎに払う。
朱天の刀がそれを弾くと、追い打ちを掛けるように髪の毛の武装が次々に鬼に襲いかかった。
「甘いですね!」
しかし、その全てが悉く朱天の脇を掠めて地面に突き刺さる。いや、外れているのではなく、最低限の動きで躱されているのだ。
そして朱天の刀が、湧月の身体を捉える距離に迫った。回避が、間に合わない――
「バッテリーブースト! 一個!」
この時しかない。僕は咄嗟にケータイを湧月へ向けて叫んだ。瞬間、湧月の身体を覆う魂が増大する。
髪の毛の動きがより一層鋭くなり、朱天の刀に絡みついた。その刃はぎりぎりのところで止まる。まさに危機一髪だ。
「ほう……! おもしろい」
朱天が目を丸くしてこちらの出方を窺う。
これが僕らの昨日開発したテクノロジー〝バッテリーブースト〟である。
湧月はバッテリー残量表示の一個につき、丸一日の活動が可能と言った。ならば逆にバッテリーを一瞬で無理やり一個分消費したらどうなるのか? 僕のそんな発想に、御霊屋が仮説を加えて生まれたのがこのテクノロジーだ。
これは僕がケータイを湧月に向け、気合の咆哮を放つことによる発動する。すると彼女は過剰に与えられたバッテリーにより、一時的に魂を強化されるのだ。その力は十秒ほどとはいえ全盛期に近いものになる。
御霊屋曰くケータイの所有権は僕にあるので、それに内蔵してあるバッテリーを過剰摂取するのは僕の許可がなくてはいけないらしい。つまり、これが戦闘において僕が唯一、湧月の役に立てる方法なのだ。
そしてやはり、バッテリーブーストによる湧月の能力強化は、相手にとっては不意打ちに近いものがある。朱天はこちらを警戒して攻めの手を緩めた。
しかし、湧月は僕のブースト使用の判断に不満のようだ。
「小童、余計な事を……!」
「うるせぇ、死ぬところだったじゃないか!」
僕と怒鳴り合った後、湧月はまた朱天との距離を開いた。
「……まずい」
僕はひとりごちる。
彼女の動きが自分でも分かるようになった今、自分自身で感じ取れてしまうのだ。
――このまま戦えば、湧月は朱天に負ける。
ブーストを使えば互角の状態に持ち込めるが、その効果が切れれば圧倒される。
携帯式の急速充電器を用意してきたから、あと三回はブーストが使えるが、それはジリ貧というもの。全てのバッテリーを使い切ったら僕たちの負けだ。
「湧月。どうやら私が想像以上の強さで困っているようですね。申し訳ない」
「はっ、戯言を……!」
言いながらも朱天の刀を防ぐので手一杯、伸ばした髪の毛もすぐに斬られ、徐々に追い込まれていく。
身体を独楽のように回しながら必死に技を繰り出し続ける湧月とは違い、朱天は片手で刀を振るうだけでその全てを防いでいるのだ。どちらが押しているかは一目瞭然。
「冥土の土産に教えてあげましょう。貴方がケータイ電話から電力を得てパワーアップするように、私も龍脈から力を得ているのですよ。それも、無尽蔵に」
「……っ。そういう事か……。これは、ちと……きついかのう」
戦いの最中に、湧月の口元が歪むのを初めてみた。だが無理もない。
朱天は龍脈のエネルギーで肉体を強化していた。だから完全復活をまたずして、あれほどの体技を見せていたのだ。
こちらはあと数回の猶予しかないのに対し、相手は無制限に常時ブースト状態。はっきりいって勝てるわけがない。
そうだ。こんな時こそ僕の出番だ。
茨姫との戦いでも、僕の微力な横槍が勝敗を分けたじゃないか。
……だが、何をすれば良い?
こんな超高速戦闘に、何の力も持たない僕が割って入ることなど不可能だ。
「こ、わっぱ!」
「……ぁ! バッテリー一個、行け!」
危なかった。ちょっと考えごとをしていた間に、湧月が追い込まれていた。
急加速した髪の毛が伸び、寸前まで迫っていた刀を受け止める。同時に次々と反撃の黒き槍が朱天を襲うが、それは地面を抉るだけで敵の黒衣を捉えることはない。
何とか持ち直したとはいえ、十秒ほどであのブースト効果は切れる。早く次のバッテリーを用意しなければ。
僕は素早くポケットから充電器を取り出し――
「えっ!?」
……ない。ない、ない、ない!?
取り出した充電器には、装着しておいたはずの乾電池がなかった。これでは無用の長物だ。
「そんな……! 僕は確かに……」
家に出る前に装備を確認したハズだったのに。と思った時に、僕は朱天に捕まっていたことを思い出した。――捕まえた敵の武装解除をしないはずがない。僕が気付かない間に、朱天はこの急速充電器から電池だけを抜き取っていたのだ。
くそっ! 丸ごと奪わずに中身だけ抜くなんて、底意地の悪い奴め……!
とにかくもう、ブーストに使えるバッテリーはない。これで打ち止めだ。
「少し……上げていきます」
朱天が呟くと同時、奴の身体を覆う魂の迸りが激しくなる。恐らく、龍脈からのエネルギー供給を大きくしたのだ。
くそ、いともたやすくパワーアップしやがって! こちとら限りあるバッテリーを消費しなきゃいけないってのに!
「このくらいは、防げますか?」
「うっ、ぐっ」
刀に魂を込めた、ただの横薙ぎ。それすらも髪の毛では弾き切れず、着物の裾が切り裂かれた。あと少しで湧月の肉体が無残にも血に染まるところであった。
いけない。ブースト状態でも押されているっ!
いよいよ、時間の問題だ。湧月の身体が先ほどの本体と同じ目に遭うのは、次の瞬間かもしれない。
打つ手なし。詰みの状態。どうしようもない。
「誰か……。助けてくれ。湧月を助けてくれ……!」
ついには僕の口からそんな言葉が漏れ出した。
だが助けを求めても、今度は誰も助けてはくれない。
何故だ。湧月はずっと人間を助けてきたというのに。湧月を助ける人は、誰かいないのか? いや、頼ることが出来る人など、いるはずもない。いるはずも……ない……。
――え。
「……え?」
幻聴? か?
何か今、僕の脳内に聞こえたような。
だが、この場面で湧月が骨振動会話をするはずもないし、頭蓋骨に髪の毛が刺さっている様子もない。
やはり、空耳?
いや、確かに……。
――使え。
「……聞こえた。空耳じゃ、ない!」
僕は自分の右手を目の前に持ってきた。
そこにあるのは八年前に購入した愛用のケータイ。
親父の形見である、そして古臭くてボロボロのケータイ。
湧月が封印されている仮初の本体。
そして僕と湧月を繋ぐ絆。
「お前、まさか」
僕はその時、湧月が以前教えてくれた〝ある種類の妖怪〟について思い出していた。
「なんと言ったか。そう、あれは――」
付喪神。
道具が長年人間に使われ続けた結果、意志を持ち妖怪と化した存在。湧月もその一種だったという。人の想いによって生み出された妖怪。
僕はこのケータイを八年間使い続けた。心霊写真を撮るという目的で、ひたすら写真を撮り続けた。日常の中に劇的な何かを求め、写真を撮り続けた。
その想いが、このケータイに伝わっていたとしたら?
その想いが、このケータイを……付喪神にしていたとしたら?
「……間違いない」
僕は確かにさっき聞いた。右手から伝わってくる意志。
これは紛れもなく、僕のケータイが放った意志だ!
――私を使え。
そんな言葉が聞こえたのだ。確かに僕の耳に届いたのだ。
「もし、お前が妖怪だったとしたら」
妖怪たるものは、意志を持つ。
そして、その魂の在り方を。――魂銘を持つ。
「お前の魂銘は……お前の存在理由は……」
そうか。そうだったのか。
スタート地点の、最初の疑問。そしてまだ解決していなかった疑問。――何故、湧月が僕のケータイに封じ込められてしまったのか。
何故、写真に撮っただけで封印すら解いて、魂だけをケータイに移し替えられたのか。
それは、 〝それ〟がこいつの――僕のケータイの魂銘だったからだ。
「うっ、ぐぁ!」
うめき声に反応し、上空を見上げる。目を離した隙に、戦場は僕の頭の上に移っていた。
湧月の必殺技ともいえる〝武双乱舞〟ですら朱天には通用しなかったようだ。剣や槍の形をした髪の毛が断ち切られ、力を失って地上に舞い落ちてくる。
そして湧月は朱天に接近を許し、その首元を鷲掴みにされた。そのまま躊躇なく刀が腹部に突き立てられる。――寸前に、僕は叫んだ。
「戻れ!」
一瞬だけ湧月の驚くような顔が見えたが、僕の言葉により彼女は身体にノイズを走らせ、強制的にケータイの中へと帰還する。
このケータイの所有権は僕にある。その気になれば、それを依り代とする湧月の行動を強制できるかもしれない。――昨日、御霊屋がそんな仮説を立てていた。
もちろん僕は湧月の行動を強制する必要などないし、する気もない。だから軽く流して聞いていたのだが、この土壇場でその知識が活きたのだ。
「……ほう」
貫くべき目標を失った朱天の刀は空を切り、そして眉目秀麗な鬼は僕の方へと視線を移す。敵意はなく、ただ脆弱な人間の為した意外な一手に賞賛を送る、それこそ神のような遥か高みから見下ろす表情で。
「良いタイミングで撤退させましたね。間一髪でした」
『おい、小童! 早く具現化させろ!』
僕はここぞとばかりに所有者権限で、湧月にバッテリー消費を制限させた。つまり彼女は肉体を具現化することが出来ない。
『何をしておる!? 朱天の奴が……来るぞ!』
いや、いいんだ。あいつが僕の方へ襲ってくるのが良い。
むしろ、真っ直ぐに僕へ向けて突っ込んで来てくれなければ困るのだ。
そう、真っ直ぐに。
「かかってこい、朱天。――僕は湧月の持ち主だ! お前の敵なんだぞ!」
「……ふむ」
朱天は何より湧月との決着を望んでいた。だから茨姫のように僕を狙ってくることはなかった。だが、それは僕があくまでもブースト宣言のみに徹する裏方だったからだ。
しかし湧月をケータイの中に撤退させ、己と対峙するとなれば話は違う。
そう。僕は朱天に敵と認められた。舞台装置から一介の役者へと階級を上げた。
「それでは、湧月と運命を共にしようする人間。福室慶輔よ。敬意をもって、貴方を仕留める」
敵意は目に見えないプレッシャーとなり、僕の魂を削る。湧月と修羅場を潜り抜けてきた僕でなければ――以前のままの僕であったら気絶していただろう。
朱天が刀を構えつつ着地した瞬間、僕はケータイを目の前に掲げた。既に画面はカメラ撮影モードになっている。
僕は一切の手ブレすら許さないように、ぴったりとレンズを正面に構えた。……こんなところで心霊写真撮影の趣味が役立つとは思わなかった。あれは被写体が暗がりにあることが多くて、結構撮影に技術がいるものなのだ。
『小童! 何をして――』
湧月の声が僕の耳に届いた時、それがまさに勝負の瞬間だった。
僕の親指が決定ボタンを押す。
カメラモードにおいては〝撮影〟を意味する、そのボタンを。
「これが……こいつの魂銘だ!」
電子音で作られた、チープなシャッター音が境内に響く。
僕の心臓を貫くはずであった刀は、その瞬間に消えた。
いや、刀だけではない。
地面を力強く蹴り、風のような速さで僕に突っ込んできた朱天の姿は、その音を最後に境内から跡形もなく消え失せたのだ。
残ったのは、彼の身体が引き起こした疾風だけで、それもすぐに自然の風と混じりあって消滅する。
亞麻矢神社の境内には、僕一人がケータイを片手に立っていた。
――上手くいった。安心すると共に全身の力が抜け、失禁するかと思った。いや、下手したらちょっとチビったかも。
『……ど、どういう事じゃ。朱天の奴は、どこに消えた?』
当然のことながら、湧月が疑問の声を上げる。
「あいつなら、ここ……いや、そこさ」
僕は湧月の声が響いてくるケータイのボディを、こつりと指でつついた。
『説明しろ。何が何やらさっぱりじゃ』
今までさんざん彼女に説明を受けていた僕からすれば、こっちが説明をするというのは何だか新鮮で顔がにやける。
それでは満を持して解説しよう。
「ふふ。僕のケータイはな、付喪神だったんだよ」
『つく……なんじゃとぉ?』
「そして、その魂銘は撮影した妖怪の魂をデータ化し、封印する力」
呆気にとられたのだろう。しばし、湧月は無言になる。そして魔術師に種明かしをされた観客のような、たっぷりの感心とちょっぴりの憤慨が入り混じった表情になる。
『……合点がいった。それであの時、儂は小童の意志とは無関係に、そのケータイの魂銘により封印を解かれたというわけか。おまけに電子化された上……』
そこで彼女の声色が怪訝そうなものに変わる。
『いや、ちょっと待て。確かに儂が封印された原因として、そのケータイに何らかの霊的な力があるというのは予想しておった。しかし御霊屋とも話したのじゃが、たった八年間の使用でケータイという電子機器に強力な魂銘が宿ることは……あり得ぬのじゃ。付喪神というのは通常、百年単位で使い続けられた道具に宿る魂のことじゃからな』
そういえば御霊屋も湧月もそんな事をコソコソと話していたな。
『もしそうならば、慶輔。おぬしがそのケータイに八年間込めた想いが異常に強いのか。もしくは日常的に霊験あらたかな場所でその想いを祈っていたか。――いや、その両方が必要となるのじゃが……』
霊験あらたかな場所……と言われると、心当たりはある。あの通学路にある林の祠であろうか?
それに、このケータイに注がれ続けた自分の想いというのは、確かに強力なものではある。
湧月には散々馬鹿にされていたが、もしかして僕にも結構霊的な才能ってあるんじゃないのか?
「あぁ、話すと長くなるんだけど。実は僕、心霊写真撮影を趣味にしていて――」
と。得意気に紡ぎ出した僕の言葉は、そこで止まってしまった。
何も「心霊写真撮影が趣味だった」というのを教えるのが急に恥ずかしくなったわけじゃない。
喋れなくなったのだ。
いや、喋っているどころではなくなったのだ。
「が……ぐが、あがああああああァァァァァ!」
絶叫しながら胸を掻き毟る。
まるで心臓が癇癪を起こし暴れだして、この身体から飛び出そうとしているようだ。
『ど、どうした小童!? 大丈夫か!?』
「おぉぉぉお! ごぁぁぁぁ! アアアああぁぁぁッ!?」
なんだ、これは。一体、僕の身に何が起きたのだ?
全身を流れる血液が溶けた鉄になったような熱さと苦痛。何故、まだ意識を保っていられるのか不思議なくらいの混濁。
『しまった! 朱天の奴め……!』
……しゅ、てん……?
そうか、奴が暴れているのか。
我がケータイの魂銘は、妖怪を封印するだけではなく、封印したその魂を僕の魂と結びつける力。つまり僕は今、湧月と朱天の二人と魂が繋がっている。
その片方が、新入りが、繋がった部分を辿って、僕の魂をぶっ壊そうとしている。これはきっと、そんな状況なのだろう。
「う、ごあああああアアアアアアアアアアア!」
身体の全てが痛みという感覚に支配される。他のものは全て何処かへ吹っ飛んだ。
死ぬ。魂がバラバラに引き裂かれて、死んでしまう。
『……やってくれましたね』
心の中に朱天の声が響いてくる。
冷静なようで、しかし背筋が凍るような憤怒に満ちた声色。
『私の魂を、神となるべき至高の魂を、このような0と1の羅列に変換するなど……。死ですら償え切れぬ大罪です』
「ご、ああああ! うおあああああ!」
た、助けてくれ。僕が死んだら、朱天、お前だって……。
『ご安心を。私はこのケータイが壊れても、自分の能力で具現化するから大丈夫です。この電子化した状態でも、魂銘の使用に問題はない事は湧月が実証済みですからね』
く、くそ。こいつの死者を操るという魂銘、便利過ぎるだろ! 不死身か!
「うごあああああぁぁ! あがががあああああ!」
『やかましいですね。そろそろ、こと切れてください』
死ぬ。
死ぬのは、嫌だ。
僕は劇的な人生を望んだが、それは悲劇的なバッドエンドを望んでいたわけではなかったはずだ。
こんな、苦しみの中で死ぬことなど……僕は……。
せっかく、見つけたのに。
僕の事を大切に思ってくれる人を。僕が大切に思える人を。
ようやく、見つけたのに。
「た、助けて、くれ……。湧月」
もはや身体が覚えていたのだろう。僕は最後にそんな事を呟いていた。この数日間で幾度となく口にした、ひどく情けない台詞。
最期まで僕は、湧月に頼ってしまった。
「言われんでも、助けてやる」
そんな言葉が耳元で聞こえた気がした。
僕の意識はそこで消失する。
目を覚ますと、僕は暖かくて柔らかいベッドの上で寝ていた。
いや、これはベッドではない。何故なら目の前には星空が広がっている。屋外に寝具が置いてあるはずなどない。
身を起こして辺りを見渡せば、そこは亞麻矢神社の境内であった。そして自分が乗っているものがベッドではなく、真っ黒な髪の毛で作られた揺りかごだと気付く。
「うわっ!」
「目が覚めたか。寝心地は良かったであろう?」
髪の毛で僕を包んでいた湧月は、正座したその膝を枕代わりにしてくれていた。
「ど、どうなった? 僕は朱天に魂をぶっ壊されそうになって……それで……」
「死んではおらぬ。こうして生きておる」
「う、うん。でも、なんで……」
そこで湧月は僕に向かって、ぺこりと頭を下げた。
「は?」
「先に謝っておかねばならぬ。――おぬしの大切なケータイ。御父上の形見だというのに」
そこまで言われて、僕は気付いた。僕の右手が握っている愛用のケータイ電話、その小さなディスプレイの真ん中に、大きな穴が開いていることに。
「儂が壊した」
「……なん、で……」
彼女を責める意味で言ったのではない。
僕のケータイを壊したということは、それを依り代としている彼女はどうなってしまうのか。まして、彼女は戻るべき本体も僕のせいで失ってしまったのだ。彼女がケータイを壊すということは、自殺に等しいことだ。
なのに、彼女は壊した。――僕を助けるために。
「朱天の奴は、ケータイが壊れると同時に龍脈に呑みこまれた。肉体を具現化させようとしておったようじゃが、魂銘を使うにはバッテリーが必要だとは知らなかったようじゃな」
ケータイを壊す為に具現化する際、湧月が全てのバッテリーを持ち出したのだろう。
「今頃は何兆もの魂が流れる龍脈の中で、自我も何もかも失っておる頃じゃろうな」
だが、はっきり言って朱天がどうなったかなんて、どうでもいい。
「……湧月。……湧月! なんで、だよ。なんでお前はそうやって……」
僕を包んでいた髪の毛たちが、次第に短くなっていく。
彼女の魂銘は髪の毛を伸ばすことが出来ても、短くすることは出来ないはずだというのに。
そして、目の前にいる少女の肉体が霞み始める。その身体が次第に闇の中に溶け込むように消えていく。――たまらず、僕は声を震わせていた。
「お前は……何度も僕を助けてくれた。そして僕に教えてくれた。一人は寂しいものだって。でも誰かに想ってもらえるだけで、人生はどんな物語よりも劇的になるんだって……!」
僕の言葉にうんうんと頷き、湧月は柔和な笑みを浮かべた。八歳児だなんてからかっていた相手とは思えない、まるで子供をその胸に抱く母のような温かい表情。
「分かったのならば、良いではないか。おぬしの人生はまだまだ、これからじゃ。頑張って良い仲間をたくさん作るのじゃぞ。きっと、おぬしを想ってくれる人は、おぬしが思っているよりも、ずっとたくさんこの世にはいるはずじゃ」
「馬鹿……。僕はお前と一緒だったから、それを知る事が出来たんだよ。それなのに、お前がいなくなったら……」
湧月の手が、僕の頭を撫でた。
「儂がいなくても、おぬしは大丈夫じゃ。もう大丈夫」
「おいちょっと待てよ。朱天の奴を倒したら、お前は僕と一緒に、この町の人間を守る為に戦いたいって――」
僕の言葉を彼女の両手が遮った。小さな手が僕の両頬を抓ったのだ。
「……小童よ。儂はようやく千年前の贖罪を果たせた気がする。いや、もしかしたら贖罪というのは言い訳に過ぎぬものだったのかもしれぬな」
手が離れた。いや、彼女の手はもはや、この世に存在しなくなっていた。
「ただ儂は、もう一度仲間が欲しかっただけなのかもしれぬ。――人の恨みによって生み出された儂を受け入れてくれる、一緒に戦ってくれる、そして守ろうとしてくれる。そんな優しい人間を」
彼女の身体に残されたバッテリーが尽きようとしている。そして、既に帰る場所のない彼女の魂は、この神社の地下にある龍脈へと還る。幾千の魂と一緒に、この大地を守る血の一滴となるのだ。
その運命はもはや覆らないと、僕は理解してしまった。
「……のう」
じっと、僕を見つめる。
白い肌は雪のよう。黒い瞳は濁りなく綺麗で。形の良い唇は、笑みを零した。
短い刹那のような時間。とてもじゃないが足りない。
まだまだ彼女と一緒にいたかった。色々と教えて欲しいこともある。あちこち連れて行ってやりたかった。あれこれ着せてやりたかった。たくさん食べさせてやりたかった。
そして一緒に人間を守り、今度こそ彼女の願いを遂げさせてやりたかった。
――これからじゃないか。全てはこれから始まるんじゃなかったのかよ。
「慶輔」
「……なんだよ?」
「――ありがとう」
僕の両腕が空を切る。蛍が舞い踊るように光の粒子が宙に昇る。
この胸の内に残ったのは、魂の残滓。淡く光る彼女の名残だけだった。
それすらもなくなると、この世に湧月という存在がいたという証明を失ってしまう。だから必死になって空を掻いたのだけれども、僕の手のひらの中には結局、何も残ってはいなかった。
「湧月。……ごめん」
最後まで、情けない僕で。
結局、何もしてやれないで。
「ごめん」
こうして、僕が出会った電子妖怪は消滅した。
一週間にも満たない、しかし僕の人生でもっとも価値のあった時間。それを共に過ごしてくれたかけがえのない仲間を、僕は失ったのである。
エピローグ「機種変更」
あれから一か月が過ぎた。
朱天という強大な妖怪によって、この在尾羽町が滅亡の危機に瀕していたことなど誰も知らない。街は何事もなかったかのように、今日も回り続けている。
そんな中で僕だけは、いまだにそのサイクルに入りこめていなかった。
身体は何ともない。魂に負ったダメージというのも、一週間ほど寝込んだら治った。だが、どうしようもない無力感だけが重く圧し掛かっているのだ。
「……暇だ」
独りでいると何もやる事がない。暇つぶしにテレビの電源を入れる。
ニュースでは「女性集団失踪事件」の解決について報じられている。数日間で実に百人以上の女性が行方不明になり、その全てが記憶喪失の状態で発見された怪奇的な事件だ。
真相を知っている僕からすれば納得はいくが、世間の一般人からすれば意味の分からない事件だろう。何か裏があるんじゃないか、と週刊誌やネットで色々と憶測がなされている。
その他にも学校で非常階段が破損し血痕が見つかった事件。屋根の上を飛ぶ黒い獣の都市伝説。亞麻矢神社の階段で見つかった身元不明の遺体。震源地不明の地震。それらの大小さまざまな出来事は、それぞれ別個の問題として片付けられた。
陰陽師労働組合というのは、こういう事については手際が良いらしい。
「全く、馬鹿げているよな。ゆづ――」
言いかけて口を噤む。
僕は一人暮らしの学生だ。この部屋には他に誰もいないのだ。――今は。
流石にご飯を二人分作ることもなくなったが、今もこうして口が滑ることはある。手元にはないはずの古びたケータイ電話の感触や、我が物顔でソファに寝ころぶ美しい人形の姿があるような気もしてしまう。
数日間の出来事だったにも関わらず、その日々は僕の心に深く刻み込まれている証拠だろう。
と、その時だ。部屋のチャイムが鳴った。
僕はインターフォンに出ることもなく、玄関へと向かう。
僕の家を訪ねてくるのはセールスか管理人か、もしくは唯一の友人だけだ。
「なぁ、福室よ。ちょっと出かけないか」
御霊屋は休日になると、僕の様子を見にこうして我が家を訪ねてくれる。
僕はつくづく良い友達を持ったものだ。――だが、そんな彼でも、この心に開いた穴は埋められない。彼女の代わりなどいないのだ。
「ケータイがないまま、というのも不便だろう。新しいものを買いに行こうではないか」
「……ああ。そうだな」
彼もあの大怪我から回復したばかり。それに陰組へ今回の件を報告するとかで忙しいらしい。だというのに、こうして僕を気にかけてくれる。
本当に感謝したい。感謝したいのだが……埋まらないものは、埋まらない。
僕は部屋の片隅に置かれた、女の子用の服が入った紙袋を一瞥してから玄関へ向かった。
在尾羽駅前は、やはり人通りが多く活気に溢れている。そんな中で男二人が並んで歩きながら、ケータイ電話のショップを目指しているなんて色気がない。
「なぁ、福室よ」
さっきから話を振ってくれるのは御霊屋で、僕は適当に相槌を返すのみだ。
「なんだ」
「あれから、人妖大戦の資料を読み返したのだがな。当時、人間に味方した妖怪というのは、ほとんどが付喪神だったらしい」
「ふぅん」
「人間に大切に使われ妖怪と化した彼らは、その恩を返そうとする傾向が強いらしくてな。それで人妖大戦では張り切って人間の為に戦ったらしいぞ」
「そうか」
「……だから、きっと。お前のケータイ電話も、お前の役に立とうとしたのだろうな。八年も使ってもらえた恩を返す為に、お前が望み続けたものを最後に与えてくれたのだ」
「そうかも、な」
湧月のように喋ったりはしなかったものの、確かに僕のケータイは意志を持っていた。
僕の為に魂銘を持ち、そして実はずっと一緒に戦ってくれていたのは、湧月と僕を引き合わせ、そして最期は湧月の手によって散ったのは、あいつだったのだ。
つまり僕は……かけがえのないものを二つ同時に失った。
「二人とも、お前に何を望んでいたと思う?」
御霊屋の言いたいことは痛いほどに分かる。
でも、言われただけで立ち直れるほど僕は強くない。僕は昔っから杏仁豆腐メンタルだから。
「御霊屋。僕はお前ほど強くない」
「……俺とて、強いわけじゃない。ただ友人として言いたいことを言う、図々しさがあるだけだ」
それは実にありがたい。でも、それを受け止められない僕の弱さが、やはり全て悪いのだ。
「さて、ショップに着いたぞ」
ふと気付けばアーケード街の一角、僕の契約しているケータイキャリアの専門店が目の前にあった。
新しいケータイ電話を手に入れれば、僕の気持ちも切り替わるのだろうか。
そんな淡い期待を寄せながら、御霊屋と一緒に店内へと入る。
「いらっしゃいませー」
やけに元気の良い店員の声が、なんだか癇に障る。駄目だと分かっていても、僕の心は人を拒絶してしまう。
僕はディスプレイに並ぶ色とりどりのケータイ電話をぼーっと眺めながら、御霊屋に手を引かれて店内を回った。
「いやぁ、今のケータイはすごいなぁ。俺も買い換えてしまおうかな? おっ、これなんかどうだ? カメラの性能がすごいらしいぞ。お前ならカメラの性能は気になるよな」
「……ああ、うん」
「いやー。しかし、やっぱり……このスマートフォンっていう奴が良いかな。今時の若者はこういうのを買うらしいぞ! あぁ、我々も若者だったな!」
「おぉ、それで良いよ」
必死に僕を元気づけようとしてくれている。そんな御霊屋に応えることが出来ない自分が嫌で、早くこの買い物を済ませて一人になりたくなった。
「……はぁ」
なぁ、湧月。
やっぱり僕は僕のままだ。あの数日間の事は本当に劇みたいなものだったようで、小物な役者は舞台を降りたらこんなもんらしい。
お前のおかげで少しは変われたと思ったけど、自分の役に酔って、本当に変わったと思い込んでいただけなんだ。
でも、今でもお前が目の前にいてくれるのなら。
あの時みたいに、僕は舞台上の脇役くらいにはなれる気がする。
お前さえいてくれれば。お前さえいてくれれば、それだけで俺は救われるのに。
――なぁ、助けてくれよ。湧月。
「では、こちらの書類にサインをお願いします」
「……はい」
適当に相槌を打ちつつ、ショップ店員の言うとおりに契約を交わしていく。
結局、僕の新しいケータイ電話はタッチパネル式の最新機種になった。店員が最後に動作確認ということで、箱を開けてケータイを操作しだす。
「……あら?」
そこで店員は怪訝そうな顔をして、こちらへと頭を下げた。
口を開く気が起きない僕に代わり、御霊屋が何事かと尋ねる。
「む、どうかしましたか?」
「あ、いえ。すみません。不具合がありまして……。ちょっと交換してきます。お時間をください」
言いながら店員は裏の方に引っ込んでいった。途中、同僚にコソコソと話をしながら。
特に興味があるわけでもなかったが、自然とその会話が耳に入ってくる。
「……おかしいわね。新品のはずなのにアプリが入っているのよ」
「へぇ、どんな?」
「ほら、見て。画面になんか女の子のキャラが……」
「あら。……可愛いお人形さんね」
最後の一言が耳に入った瞬間、僕の身体は勝手に動いていた。
「それ! そのケータイ! 見せてください!」
死んだような顔をしていた男が突如としてカウンターに身を乗り出したせいで、店員たちは大いに驚いた。
そして、その勢いに押されたのか手に持っていたケータイを僕へと差し出す。
「どど、どうしたのだ、福室!」
心配して肩をゆする御霊屋の声は、もはや届いてはいない。
「……店員さん。これで、いいんです。僕はこのケータイでいいんです」
画面が滲んで良く見えない。
でも間違いない。間違いようがない。
最新式ケータイの綺麗で大きな画面。その中央に憮然とした顔で佇むのは、赤い着物を身に纏いし黒髪の少女。
その美しい姿を、僕が見間違えるはずはない。
『馬鹿者が。……迎えに来るのが、遅すぎるわ』
小さな声で、彼女は言った。
どういう理屈かは分からない。龍脈に流された魂が、どんなルートでこのケータイにたどり着いたのか。そして、どうして僕がそのケータイをこの手に取ることが出来ているのか。
「どうして……」
『言われんでも、助けてやる――と言ったじゃろ』
単なる偶然。魂の繋がり。絆が手繰り寄せた奇跡。考えれば色々と説は出てきそうだが、そんな事はどうだって良いのだ。
僕はこの生意気で憎たらしくて老獪な、どうしようもなく愛らしい呪いの人形と一緒に、もうしばらく舞台に上がらなくてはならないらしい。――それだけが分かれば十分だった。
あぁ、これから始まる日常が、僕はとても楽しみだ。
ここまで読んでくださった方に最大の感謝を。