第二章
第二章「スペックダウン」
朝のホームルームは八時半から。家を出てから学校に到着するまでは十五分、今回は雪で路面状況が悪いことを考慮して二十分とする。身支度を整えるのに十分確保。朝ごはんを食べるのに十五分。その調理には二十分。眠気を振り払って布団から出るのに要するのは二十分。
という事で、完璧な時間管理に基づいて、本日は七時五分に目覚まし時計をセットしておいた。だがそれより一時間以上も前、六時に僕は目を覚ますことになる。
何故なら――
『小童ああああ! 起きろおおおお!』
ベッドの脇で充電していたケータイから、とんでもない音量で喚き散らす声が響いてきたからだ。
「ぬぉぉぉわああああああああ、うるせえええぇぇっぇぇぇぇぇ!」
僕は寝起きの機嫌の悪さには自信がある。安眠を妨げられた怒りをそのまま怒鳴り声にして返してやった。
『もう朝じゃ! 起きるのじゃ!』
「まだ六時じゃねーか! あと一時間は寝られるわ!」
『早起きは三文の得じゃぞ?』
「朝方における一時間の睡眠は一万円払ったって得られない貴きものなんだよ! それと引き換えに、たった三文なんか誰がいるか!」
『……だらけておる。いいから起きろ!』
そこで湧月は肉体を具現化すると、ベッドの上に乗ってぴょんぴょんと跳ね始めた。スプリングが上下し、僕の身体も激しく浮き沈みする。これでは無視して二度寝することも出来ない。
「この野郎、いい加減にしやがれ!」
僕は嬉々として跳ねまわっている少女に向けて、起き上がりから渾身のタックルをかました。
「きゃっ」
僕の行動が予想外だったのか、湧月はまともにそれを喰らいベッドから転げ落ちた。そして、あっさりと僕に組み伏せられる。
「わわ、離せ!」
「やかましい! 僕の睡眠時間を返せ!」
ここまで興奮すれば眠気も飛んでしまう。彼女は取り返しのつかないことをしてくれた。
「あーあ。もう二度寝も出来ないよ……」
それにしても、僕が彼女を床に組み伏せられたのは意外であった。てっきり、あっさりと返り討ちにされるものだと思ったが。――もしかして湧月の具現化している肉体自体は、それこそ八歳女児と変わらない筋力しか持っていないのではないか?
「図に乗るなよ! 小童が!」
とか思っていたら、髪の毛が伸びてきて僕は無理やり引き剥がされた。その力強さはその気になれば僕の腕など簡単にへし折ってしまえそうなほどだ。
だが、これが証拠となる。彼女は髪の毛を操って人外の力を行使できるが、その肉体自体は普通の人間と同じなのだ。まぁ、それが分かったところで僕には何の得もないけど。
「……それで? 早起きさせてまで、僕に何の用事なんだ?」
胴体に髪の毛を巻きつけられ、宙吊りにされたままで僕は問う。
「うーん、そうじゃなあ」
「なるほど。特に考えていなかったと」
我が脳内の憤怒メーターが上がっていくのを感じ取ったのか、湧月は慌てて修正する。
「いやいや! おぬしにやってもらいたい事は山ほどあるのじゃ! 例えば……そう、儂の髪の毛を切って欲しい」
「髪の毛ぇ?」
確かに湧月の髪の毛は、昨日の逃走の際に伸ばしたまま。百人一首の札に描かれている女性のように長くなっている。
「しかし、湧月。君は自由自在に髪の毛を操っていただろ? 自分の好みに合わせて好きなようにすればいいじゃないか?」
「それが出来たら苦労はせぬ。儂の〝たまな〟はそれほど便利に出来てはおらんのじゃ。髪の毛を伸ばし、変質させ、操ることは確かに出来るが……。縮めたりは出来ぬ」
なんと不便な。じゃあ戦いが終わる度に、伸ばした髪の毛を切らなくちゃいけないのか。
「……まぁ、命を助けてもらったんだし。そのくらいはやってあげるよ」
「本当か!」
「だけど僕は美容師じゃない、ただの男子高校生。本当に切るだけしか出来ないよ」
「それで十分じゃ。このあたりまでの長さにしてもらえれば、それで良い」
湧月は髪の毛で矢印を形作ると、自分の腰あたりを指した。なんと便利な。髪の毛だけで何でも出来そうじゃないか。
そのうち手足が退化して頭部だけの人間になるのでは? と湧月の姿を想像したら、古典的宇宙人みたいになって、ちょっと面白かった。
「さて、それじゃあ準備するか」
寝巻きから部屋着に着替えた僕は、さっさと朝食の下準備を一通り終える。
それから散髪の準備だ。まず床に新聞紙を広げ、その上に置いた椅子に湧月を座らせた。散髪用のハサミなんて持っていないから、紙を切るための一般的なハサミを手に取る。
「ふぅ。朝っぱらから人の髪の毛を切るなんて、生まれて初めてだよ」
「光栄に思うのじゃな。儂の美しい髪の毛に触れることを許されたのじゃ」
また彼女の高慢な言いぐさ、とも言い切れない。
確かに湧月の髪の毛は信じられないほどに純粋な黒で、妖しいほどに艶やかだ。手を触れるのに僕は思わず生唾を呑む。
「さ、触るよ?」
「なんじゃあ。いちいち許可なぞ取らなくても良いぞ」
「では……。うっ」
想像以上だ。
触れた感触は絹のよう。思わずうめき声をあげるほどにさわり心地が良い。一本一本を掬い上げれば見えなくなってしまいそうになるほど細く、それでいて、ちょっとやそっとじゃ切れないくらいに芯が強い。別に香水などつけていないのだろうが、何故か甘くて心地よい香りが漂ってくる。思わずその髪の毛に顔をうずめたくなる衝動に駆られる。
そんな、いつまでも触っていたくなる髪の毛だ。
「……どうした? 早く切るのじゃ」
これを切るなんて、とんでもない。まるで完成された名画にペンキをぶっかけるようなものじゃないか。
だが、この芸術品はいくらでも増やせる。本人の意志一つで無尽蔵に伸びるのだ。――そう考えることによって、僕はようやく彼女の髪の毛にハサミを入れることが出来た。
「じゃあ、切るぞ」
「ん、どうぞ」
息を呑み、ざっくりと切断する。はらりと落ちていく髪の毛が新聞紙の上に広がるさまは、もはや背徳的であるようにすら感じた。
そして言われた通りの長さへと切り揃え、仕上げに切り口をまっすぐに整えていく。
「綺麗な髪の毛だな」
「……そうか。褒めてもらえると、嬉しいぞ」
意外にも素直な言葉を返され、僕は動揺してしまう。
「あっ!」
そのせいで手元がぶれて、わずかに髪の毛を短く切り過ぎてしまった。はらり、と余計に切った髪の毛が宙を舞う。――咄嗟に謝ろうとした瞬間。
「ば、馬鹿者!」
僕のみぞおちに髪の毛のパンチが決まった。
「がっ、ぐふぅ……。寝起きにこれは、キツイ……」
「ああー! 短く切りおったな! 儂の髪の毛を、よくも!」
謝ろうとしていた僕も、ぶん殴られたことでその気をなくした。僕は善意で髪の毛を切ってあげていたのに、何故殴られなければいけないのだ。
そもそも髪の毛を切り過ぎたって、不思議な力ですぐに伸ばせるじゃないか!
「……やれやれ。ちょっと伸ばすかの」
僕が突っ込む前に彼女は自分で髪の毛の長さを調節した。もう怒る気も失せる。
だが呆れる僕に向けて、湧月はこれまた意外な行動に出た。しゅんと落ち込んだような表情を見せ、ぺこりと頭を下げたのだ。
「……すまぬ。やり過ぎた」
「へ?」
そして意外な謝罪の言葉。本当に申し訳なさそうに謝る湧月を前にして、僕はどうしたら良いか分からずに黙ってしまった。
「髪型のことになると、儂はカッとなってしまうのじゃ」
「……いや、今回に限らず湧月って結構短気だと思うけど」
「ことさら、じゃ! 髪の毛の事になると、ことさら儂は……。な、殴ったりして、すまぬ」
そこまで言われたら許さざるを得ない。確かにミスをしたのは僕だし、湧月だから取り返しがついたものの、女性の髪を台無しにしてしまうところだったのは事実だ。
「なぁ、でも……。どうしてその長さにこだわっていたんだ? ほんの少し短くしただけで分かるなんて、よっぽど気を使っているんだな」
さっきのカウンターパンチは、まるで条件反射のような速さだった。
「うむ。本体と同じ髪型の方が落ち着く、という奴じゃな。それに実際、この髪型だと一番戦い易い。長すぎれば普段邪魔だし、短いといざ伸ばすまでの僅かな時間が命取りになる」
「ふーん。……っていうかさ、昨日から気になっていたんだけど〝本体〟って何?」
昨日の会話でも『本体にいたころは』とか何とか言っていた。本体と同じ髪型、という言い回しも引っかかる。
すると湧月は「よくぞ訊いてくれました」とばかりに自慢げな表情になる。
「本体というのはの、儂の元々の入れ物の話じゃ。儂は数百年もの間、その入れ物ごと封印されておった。じゃが、どういうわけかその入れ物からおぬしのケータイに封印を移された――というのは昨日説明したの」
「入れ物っていうと、何か箱みたいなものなの?」
「いやいや。人形じゃよ。そも儂の具現化しておるこの肉体は、本体を〝もちーふ〟にしておるのじゃ。それはもう美しい人形じゃ」
「…………えっ」
ものすごい衝撃が走った。真実を覆い隠していた深い霧が、一気に晴れ渡ったかのようだ。――そうか、そういう事だったのか。
その驚きは自然と声になって放たれる。
「ああああああっ!」
「な、なんじゃ? どうした? 気でも触れたか?」
「湧月! お前の本体って……もしかして、これじゃないのか?」
僕はケータイの画像フォルダを表示し、そこに映ったものを彼女へと見せる。
すると湧月の大きな目が、驚きと歓喜でさらに大きく見開かれた。
「おぉ! これじゃ、これじゃ! なんだ、おぬし知っておったのか!」
「今、分かったんだよ!」
僕が彼女に見せたのは、そう。先週の土曜日、御霊屋に案内された蔵で撮影した、あの日本人形であった。湧月というどこかで聞いたことのある名も、あの人形のケースに貼ってあった名札に書いてあったものだ。
そうなると……。彼女の電子化と封印について、僕にも全く心当たりがない、というのは嘘になってしまう。
「湧月が僕のケータイに封印されたのって、いつごろ?」
「うん? 昨日か一昨日じゃったかのう。なにせ封印明けは頭が働かなくての、よく覚えてはおらぬ」
僕がこの写真を撮影したのは二日前の土曜日。
「……だとすると。湧月が封印から解かれたのは、僕のケータイで撮影されたせいなのか……?」
こうも状況が揃えば、湧月が電子妖怪になったのは僕のケータイによる撮影が原因。そう考えざるを得ない。
ただ……『写真に撮るだけで被写体の魂を引っ張り込んできてデータ化する』なんて機能は、僕のケータイに搭載されているはずはないのだが。
「のう、小童よ。儂の本体は、これ何処にあるのじゃ?」
ディスプレイに映る人形を見て、目を輝かせながら尋ねてくる。
「近所にある亞麻矢神社の蔵だよ。僕の友達がその神社の息子でね、人形のコレクションを見せてくれるって案内されたんだ」
「あ、亞麻矢神社……。すると、ああ、そうか」
一瞬だけ深刻そうな顔を見せてから、また嬉しそうな表情に戻る。良く顔の筋肉の動く奴だ。
そして湧月は僕の腕をひしっと両手で掴むと、まるでおねだりをする子供のような甘えた声を出してきた。
「なぁ、儂を本体の元へ連れいってもらえぬかのう?」
「もしかして、ここに行けば本体に戻れるのか?」
「やってみなければ分からぬがの。ただ、やってみる価値はある。本体に戻って本来の力を取り戻せば、奴らなどイチコロじゃ」
「奴ら?」
「あ、き、昨日の暴漢たちのような類のことじゃ。……それで! 儂はここに行くことが可能なのかどうか、聞いておるのじゃが?」
それは簡単だ。今日、学校で御霊屋に頼めば良い。
またお前の素晴らしいコレクションを見たくなった。とでも言えば一発だろう。あいつは意外と褒め言葉に弱いからな。
「本当か! よ、よし! さっそくおぬしの学校に行こう!」
「待て待て。今行っても誰もいないし校門すら開いてない。御霊屋の奴は生徒会の仕事があるから早めに登校してるはずだけど」
僕の説明を聞いても湧月は我慢がならないようで、身体を揺すりながら急かすように言ってくる。
「なら、御霊屋とやらが来る時間に合わせて行こう!」
僕としても湧月がケータイに憑りついたままじゃ困るし。彼女だって勝手にケータイに封印されて大変らしいし。早く本体に帰るのが、お互いにとって最も良い結末だろう。
どちらにせよ、蔵に行くのは放課後になるだろうが。
「じゃあ早めに朝食をとって、僕らしからぬ時間に登校するとしようか。誰かさんのおかげで眠気はすっかりなくなったしな」
「いやー、はっはっは。やっぱり早起きは三文の得じゃなぁ!」
それはお前にとってだけだったがな。――と突っ込みたいのは抑える。
せっかくご機嫌になっている彼女を怒らせたくはないので、僕は大人しく朝食を作り始めることにした。
母親の海外出張が増えてから、僕はいつも一人でご飯を食べていた。おかげで自炊は上手くなったのだが、やはり一人ぼっちで黙々と食事をするのは寂しいものなのだ。
それを思い出させてくれたのは、湧月だった。
朝食は白米に納豆、卵焼き、味噌汁と質素なものだったが、彼女は喜んでそれを食べてくれた。一人用の小さなテーブルに二人分の食器を並べ、そして何故かソファの側に湧月が座り、家主であるはずの僕が床に座布団を敷き、顔を突き合わせて。
そのご飯のおいしいこと。決して僕の料理スキルが一晩で急上昇したわけではないだろう。
ただ、早ければ今日の放課後、湧月は本体に戻ってしまう。一人の食事が寂しいことだけを思い出させ、そして去ってしまうというのなら、湧月はヒドい奴だ。
「のう、まだかぁ?」
ソファの上でゴロゴロと寝転がりながら、皿洗いをしている僕を急かす彼女。
……これが本当にあの美しい人形に宿っていた魂だというのだろうか?
鬼と戦っていた強力な妖怪、というのも想像がつかない。今の彼女はただの我儘なお姫さまという感じだ。
そんな事を考えつつも僕の手はテキパキと動き、後片付けを数分で完了させた。
「さて、そろそろ学校に行こうと思うんだけど」
「うむ! 行こう!」
ソファの上から飛び降り、嬉々として駆け寄ってくる湧月。
「……ついてくるのか?」
僕は当然、それを訊かなければいけない。まさか和服を着た幼女と仲良く並んで登校というわけにはいかないだろう。
「安心するが良い。人目のあるところではケータイの中で大人しくしておる。というより、おぬしの身に危険が及ばぬ限り具現化はせぬ。バッテリーが勿体ないからのう」
しかし、学校というのは校舎内で七時間は拘束される場所である。まだ一日だけの付き合いだが、湧月があの退屈な閉鎖空間で大人しくしていられる性格とは思えないのだ。
「なんだか信用ならないんだよなぁ。不思議と、お前のことが周りにバレるってオチが目に見えるようだよ。……ここでお留守じゃダメ?」
「駄目じゃ。儂はおぬしの護衛を請け負っておるのじゃぞ? お留守番をしてどうする。昨日みたいな事が起きたら大変じゃ」
昨日の……というと女性の集団に襲われたことか。
あれは本当になんだったんだ? 湧月が警察に保護を求めても無駄だというから通報はしなかったものの、明らかに殺人未遂という犯罪だし、何より彼女たちは異常であった。
湧月は事情を知っているようだけど教えてくれないし……気になる。
「でも、二日連続であんなことが起きるかなぁ」
「……きっと起きると思う」
「ん? なんだよ、その知っている風な言い方」
意地悪く突っ込んでみるも、やはり彼女は決してあの襲撃者たちについては話してくれないようだ。堂々とシカトされた。
「とにかく、儂はついていく。それにケータイから離れすぎるとバッテリーの供給が受け取れなくなるからのう。儂自身の安全のためにも、おぬしのケータイからは離れられぬぞ。――ちゃんと距離は覚えておるか?」
「ああ、えと……十メートルだったか?」
僕は昨日、寝る前に「ケータイから電気がどこまで届くか」なんて良く分からない実験に付き合わされた。ちなみに結果は十メートルまで。それ以上離れると電気が届かなくなるので、戦いの際には気をつけろと言われた。……何をどう気をつけりゃいいのか分からないが。
「はぁ。まったく。なんで儂が電気なんぞに依存しなきゃいけないのか」
「……電気の供給がもらえなくなったら、具現化は維持できなくなるのか?」
「供給が切れた状態でも一日くらいは肉体を維持できるじゃろう。ただし激しい運動や魂の消費などを一切せず、じっとしていれば、じゃ。――つまり戦闘は不可能だという事じゃの」
なるほど。つまり僕、というよりケータイと離れ離れになった湧月は、無力な八歳女児になってしまうという事か。
それじゃあ、お留守番すらも任せられないな。学校に行っている間にこいつが強盗にでも襲われたら大変だ。
「分かった。じゃあ外出中はずっとケータイの中で大人しくしていること。この条件を飲むのなら学校に来てもいいよ」
「うむ、心得た。儂はおぬしが妖怪に襲われない限りは、具現化しないと誓おう。……それではさっそく中に入っておこうかの」
言うなり湧月の姿にノイズが掛かり、ほんの一瞬でその場から消失する。彼女は現在の本体、僕のケータイの中に引っ込んだのだ。
『よし。それでは行こう』
「先に言っておくが、学校で不良に絡まれた程度で出てこないでくれよ。カツアゲされるよりも後々厄介なことになりそうだ」
『ならば、その時はおぬしが自力で窮地を切り抜けるのじゃな』
「……手に負えそうになかったら、やっぱり頼みます」
少女の憑りついたケータイをポケットに入れると、僕は部屋を出発しマンションの廊下に出た。
――眩しい。一瞬目を瞑り、開いた瞳に映った光景。
「おぉ、すげぇ!」
僕は思わず歓声を上げる。
なにせ外に出ると辺り一面、銀世界になっていたのだ。昨日の雪が程よく降り積もり、さらに寝ている間にもう一降りしたようだ。家々の屋根やアスファルトが真っ白にコーティングされている。
『ほう……。雪か……。のう、ちょっと雪で遊んでも来ても良いか?』
「って、おい! なに家を出て一歩目で具現化しようとしてんだ! ケータイの中にいる約束はどうした!?」
思わず僕は突っ込みを入れていた。対してケータイからは「ケチじゃのう」と憎まれ口が返ってくる。
「……それに雪なんてこの辺じゃ珍しくもないだろ? 夜にでも一人でこっそり遊べばいいじゃないか」
『儂は南の方の生まれでのう。雪は随分と久しぶりに見たのじゃ』
「へぇ。元々ここの妖怪ではないんだ?」
言いながら僕はマンションの玄関を出て、通学路を歩き始める。歩くのに多少は余計な体力を使うものの、雪を踏みしめる感触を楽しめる程度の浅い積もり方だ。
『うむ。この地に来たのは一回きり、鬼どもを退治する為だったしのう。まさか、ここに封印されておったとは意外じゃったが』
ここに封印されていたのが意外? という事は……湧月は自分が封印されている間、その周りの状況を知ることが出来なかったのだろうか。
すると僕のケータイに封印を移されてから二日ばかりで、インターネットを介して現代の言葉遣いなどもマスターしたという事になるが……。もしかして湧月って、実は頭いいのか?
「なぁ、封印……されている間って……どんなだった?」
されていた側からすれば封印の思い出など答えたくないかもしれない。しかし僕にとってはあまりに想像がつかないことだ。無性に気になったので、髪の毛で殴られるのを覚悟して試しに尋ねてみた。
『……ぅむ』
すると、しばらくの無言。
いつもの不遜な物言いではなく、見た目相応の明るく姦しい声でもなく、深い憂いを抱えた語り口で彼女は語ってくれた。
『……真っ暗な闇の中での。一人でいるのじゃ。別に身体を拘束されていたり、痛みがあったりするわけではない。ただ、一人。光も音もない世界で数百年……おったのじゃ。誰も助けに来てはくれぬ。そして儂も助けを求めてはおらなんだ。……ただの空虚な数百年じゃった』
「そう、なんだ……」
本当に想像が出来ない。
そんな状況、人間であればきっと発狂してしまうだろう。それに湧月は耐え抜いてきたのだ。いや、本当に耐えることが出来たのだろうか。
『じゃから……。小童よ。実際のところ儂は悪い気はしておらぬ。電子妖怪という不便な身体になったとはいえ。再び陽の光のもとで自由になり、こうして他人と話せることに悪い気はしない。――きっと、おぬしのおかげじゃろう』
「……僕はそんなことをした覚えはない。だけど、確かにそれは良かったと思う。……おめでとう」
『ふふ。こんな身体にした張本人に祝われると、それはそれで……なんだか腹が立つのう』
彼女らしい明るい口調で悪態をつかれた僕は、苦笑いをしつつ抗議のつもりでケータイを軽く小突く。ただ、そのやり取りは不快ではなく、むしろ心地よかった。
そこから五分ほど、周りに学生も多くなってきたので僕たちはしばらく無言で歩き続ける。
校門が開くのは七時半。御霊屋はいつもその時間くらいに学校へやってきていると聞いたことがある。いつも刻限の八時半ギリギリに登校している僕からしたら狂気の沙汰だ。
それを今日は自分がやっているのだから、人生何がどうなるか分からない。
『む、あれが門番かの』
校門に着いた時、ちょうど事務員さんがやってきて開錠をする。待機していた真面目な生徒たちは、待っていましたと言わんばかりに校舎内へと入っていった。
僕はその流れの中で一人だけ立ち止まり、友人の姿を探してキョロキョロと周りを見渡す。
「……あれぇ? 御霊屋の奴、見当たらないな」
『もう少し待ってみてはどうか?』
「ああ。今日は雪のせいで時間が掛かっているのかもしれないしな」
亞麻矢神社は小高い山の上にあって、彼は毎日地上と境内を結ぶ長い階段を上り下りしている。雪で滑りやすくなっていれば、あそこの突破だけでも一苦労だろう。登校が遅れても不思議ではない。
だが、それから十分が過ぎ、二十分が過ぎ。大半の生徒が登校してくる八時になっても御霊屋は現れなかった。
「なんだ、あいつ七時半に登校しているってのは嘘だったのか? いや、でも奴に限ってそんな見栄を張るはずはないしな」
『風邪でも引いて休みなのかのう? そうしたら神社にお見舞いに行こう。そして蔵を見せてもらおうではないか』
「いや、奴に限って風邪を引くなんて考えられないな。冬休みにあいつの家に泊まりに行った時、朝の五時に一人で何をやっていたと思う? 雪の積もった庭で乾布摩擦だぜ」
とにかく御霊屋が来ないのではしょうがない。僕自身も遅刻しては敵わないので、そろそろ教室に向かう事にした。
そして校門を通ろうとした時――
「やぁ、福室」
僕の後ろから聞きなれた声がした。聞き間違いようがない。というより僕に声を掛けてくる友人は、この学校に一人しかいない。
「御霊屋! 待ってたぜ!」
言いながら振り返った僕は、思わず絶句する。
そこに居たのは確かに御霊屋寛であった。そのメガネキャラっぽい見た目の通りに真面目で成績優秀、しかも生徒会役員。さらに剣道部最強と言われるほど武術に長けているという一面も持つ。そんな奴はこの世に一人。そう、彼はまぎれもなく、僕の数少ない友人の御霊屋寛である。
だがいつもの彼ならば学ランの前を開いて着崩したりはしないし、こんなギリギリの時間に息も絶え絶えでやってこない。なにより、そんなにやつれた顔は今まで見たこともなかった。頬がこけて目の下には大きな隈が刻まれ、まるで飢えた餓鬼のような相貌である。
「ど、どうしたんだ? 何があった?」
「はは、いや……ちょっと。夜通しで探し物をしてな。夜更かしの弊害だ」
目の下の隈を指して言っているが、そこだけの話ではない。顔全体に死相が出ているのだ。
「そんなレベルじゃねぇだろ! 具合悪いのか? お前、早退した方が……」
「心配ご無用。さぁ、遅刻してしまうぞ。くわばらくわばら」
言いながらよろよろと校舎の中に入っていく。そんな有様の友人に「蔵を見せてくれ」なんて話を持ちかけられるはずもなかった。
何もできずに去っていく背中を見つめていると、ケータイからぼそりと声が流れる。
『流石の儂も、本体の話をしなかったことに文句は言わぬぞ。――あの少年、一体どうしたのじゃ? 普段からあんな餓鬼のような風貌なのではないんじゃろう?』
「……分からないが、心配だ。今日はあいつの面倒を見させてもらっても良いか?」
『ふっ。数百年封印されていた儂じゃ。今更、一日二日の辛抱は苦でもない』
僕は湧月に感謝しつつ、遅刻しないよう教室へと走った。開門と同時に登校していたのに遅刻したのでは、間抜けもいいところだ。
朝のホームルームは過去最高に上の空だった。出席をとる担任の声なんて聞こえず、危うく欠席扱いになるところだった。
さて。一時間目の授業が始まるまでに、わずかな猶予時間がある。その隙を逃さず僕は隣のクラスへ向かうことにした。
いつもなら他のクラスに突入なんて真似は、人見知りの僕にはとてもじゃないが出来ない。しかし友人があんな状態になったとあれば、そんな事も言っていられない。
「……お邪魔します」
ドアをそっと開いて、まるでコソ泥のように素早く身を滑り込ませる。
授業の準備や雑談で賑わう二組の教室。その中から机に突っ伏している御霊屋を見つけると、周りからの視線を振り払うように、キリッと前を向いて大股で歩み寄っていった。
「なぁ、どうしたんだよ。御霊屋ー」
「委員長、具合でも悪いの?」
彼の周りでは何人かの生徒が心配そうに声をかけている。僕と違って御霊屋は人気があるのだ。僕がああいう状態になっても、うちのクラスメートは誰一人として声を掛けてはくれないだろう。
「おい、御霊屋」
よそのクラスの人間に対する独特の冷たい視線を周りから感じつつ、いつものようにぶっきらぼうに話しかける。すると御霊屋の首がゆっくりと持ち上がり、少し呆けたように視線を彷徨わせたあと僕の顔を捉えた。
「ん、ああ。福室か。恥ずかしいところを見られたな」
いつもきっちりと整っている髪の毛は、だらしのない寝癖のように乱れている。それは彼が髪の毛を何度も掻きむしったせいだろう。
「一体、どうしたっていうんだよ。何があったんだ?」
問うと彼は首を横に振る。
「いやな。大切なものをなくしてしまって、困っているんだ。それで昨日は夜通し探したのだが……見つからなかった」
「水臭いじゃないか。僕に言ってくれたら協力するぜ」
普段の僕だったら、御霊屋に解決できないことを僕が解決できるわけはないと助力を申し出ることはなかっただろう。だが、ここまで衰弱した友人を見て手を差し伸べないのは、嘘だ。
「ありがたい。だが気持ちだけで十分だ。俺にしか見つけられないものだからな。俺が頑張るしかない」
その責任感の強さは流石。どうにも事情も話したくないようだし、無理に「手助けをさせろ」というのも図々しい気がした。
「……あまり張り詰めるなよ。もう今のお前は限界ギリギリに見える」
「ふっ。情けない話だ。この御霊屋寛、一生の不覚だ」
「何を大袈裟な……」
「すまないが、もう少し休む」
それきり、彼は机に突っ伏して動かなくなってしまった。
こうなったら蔵も糞もない。僕は一旦教室から退却した。
『困ったのう』
二時間目の数学の授業。たまには真面目にノートを取っているところに湧月が話しかけてくる。
「……おい。喋るなよ」
掌の中にケータイを収め、そこに向けて出来る限りの小声で叱った。先生が大きな声で数式の説明をしていたから良いものの、周りの生徒にバレたらどうするつもりなのだ。
『安心するが良い。今、儂は骨振動を利用しておぬしだけに聞こえるように話しておる』
確かに湧月の声は僕の脳内だけに反響しているようで、周りには全く聞こえていないようだ。
「骨振動? なんだそりゃ。おいおい、変な方法じゃないだろうな」
『問題ない。ただ儂の髪の毛を一本、おぬしの頭蓋骨に刺しているだけじゃ。そこを通じて声を振動として鼓膜に直接送っているわけじゃな』
思わず手で額を抑えると蜘蛛の糸のようなものが触れた。よくよく見ればケータイから極細い黒色の糸が伸び、僕の額のど真ん中に繋がっている。というよりも刺さっている。
「っておい! 問題大アリじゃねぇか!」
だが彼女の髪の毛は一本くらい肌に突き刺さったところで、痛みを感じないくらいに細いらしい。説明されると眉間のあたりがムズムズしてくるが、実際痛いとか血が出ているなんて事はない。
気持ちの良いものではないが、確かに便利ではある。とりあえずは我慢してやろう。
「それで? 困った、ってなんだよ?」
『うむ。儂は今、二つの問題を抱えているのじゃ』
「……なんだよ。弁当ならちゃんと二人分作ったぞ」
『一つは本体の件。メガネ君があの調子では流石の儂も、やれ蔵に連れていけと頼むことは出来ぬ。あの男には休息が必要じゃ』
どうやら湧月は、僕以外の人間には優しいらしい。
きっと僕が今の御霊屋ほどボロボロの状態になっても、今朝のように早起きさせ、髪を切らせ、飯を作らせることだろう。なんとなく、そう確信できる。
『こうなったら蔵までおぬしに案内してもらい、扉をぶっ壊して侵入するしかなくなるのう』
「やめろ。僕と御霊屋の友好関係までぶっ壊れる」
『前科一犯。おぬしの社会的地位もぶっ壊れるのう』
けたけた、と実に楽しそうに湧月は笑う。
……なんだろう。この授業中に僕しか知らない相手とこそこそと喋る感じ。僕が待ち望んでいた非日常って感じがして、すごく良い。
気分が高揚してきた僕は口も滑らかになる。
「うるせぇ。その時には機種変更しちまうぞ。……で、困ったことの二つ目は?」
『ふむ。それがのう……』
そこで湧月の言葉が一旦途切れ、こちらの様子を窺うような沈黙が流れた。ただ、それは一瞬のことだった。
『おぬし、命を狙われておるぞ』
湧月の放った言葉の意味を理解するのに、しばらく時間が掛かった。
「……はあ?」
『わざとらしい殺気じゃ。恐らく儂の存在を知っておる奴が、儂を挑発しているつもりなのじゃろう。……ふむ、この学校の中で仕掛けてくる腹なのかもしれぬ』
「な、何を言っているんだ? ここは富柄高校だぜ。バトルロワイヤルの会場じゃないんだぜ?」
いきなり学校の中で命を狙うだの、仕掛けるだの。そんなのは漫画やアニメの中だけの話であり、現実にそんな展開は発生しない。
ただ、そこまで考えて僕は自分の言っていることの矛盾に気付く。
お前の握っているケータイから流れている声は誰のものだ?
電子妖怪などという得体の知れない存在と関わり合いになった時点で、僕はすでにそちら側の世界の住人なのだ。学校の中で命の一つや二つ、狙われても不思議はないのかもしれない。
『儂はおぬしとの約束を守らねばならぬ。よって白昼堂々と乱闘をするつもりはない。そこで小童よ、この授業が終わったら一人で人気のない場所に向かえ。相手も襲撃の好機とみて、誘いに乗ってやってくるかもしれん。そうしたら、そこで迎え撃つ』
まるで熟練した傭兵のように、すらすらと冷静に状況を説明する湧月。それでようやく僕も彼女の言っていることの意味が分かった。
行動を間違えれば、死ぬのだ。いつの間にか僕はそんな戦場に放り込まれた。いや、学校が戦場になっていたのだ。
「一体……どこのどいつが……? 学校の中にいるってことは、生徒? それとも先生?」
『さぁな。もしくはそれに化けた妖怪かもしれん。というかそれが本命じゃ』
「……ぼ、僕はどうすれば良いんだ?」
妖怪との戦いなんて想像もつかないが、巻き込まれたら即死する自信はある。少なくとも湧月がいなければ、僕は昨日の女性たちに殺されていた。それほどに無力なのだ。
『大丈夫じゃ。おぬしは見ているだけで良い。人気のないところへの誘導さえしてくれれば、あとは儂がやる。……おぬしは儂が守る。戦いは、儂に任せよ』
心配するな。なにせ最初っから戦いは湧月に任せるつもりだ。何にせよ僕は彼女の言うことを聞くしかないしな。
「分かった。信頼する」
そこから授業が終わるまでの五十分ほどは、まるで生きた心地がしなかった。チャイムが鳴ったらどのように行動するか、その脳内シミュレーションで頭が一杯だ。
『おびき出す算段はついたかの?』
「……なんとか」
僕が悩み抜いた末に考えついた作戦は「弁当箱を持って屋上へ行く」であった。
うちの屋上は今時珍しく学生に解放されている。夏場なんかはカップルのイチャつく僕にとっては魔界と化すのだが、この寒い季節には閑散としているはずだ。しかも校舎の脇にくっついている非常階段から向かえば、人目にもつきにくいから襲撃する側からしても好都合だろう。――どうぞ狙ってくださいというルートだ。
『あまりに狙われていることを意識し過ぎれば、敵は罠だと気付き誘導に引っかからない。あくまでも自然に人気のないところに行かなければならないのじゃ』
湧月は簡単に言ってくれたが、素人の僕にそんな事を言われても困る。こんなの、小学生にセンター試験を受けさせるようなものじゃないか。無謀なぶっつけ本番チャレンジだ。
そして、いよいよ授業終了のチャイムが鳴り、先生が教室から出て行った。
「……行くぞ」
『頑張るのじゃ』
教室が授業からの解放に沸き始めた中、僕はさっさと鞄から弁当箱を二つ取り出し、足早に教室を出る。そして廊下の端にある非常階段へと続く扉を開き、外に出た。
「うっ、ぐ……。さむぅ~」
暖房の効いた室内から冬の北国に放り込まれ、寒さのあまり全身に鳥肌が立つ。しかし狙われていることへの緊張で身体が固くなるのを、寒さのせいだと敵に誤認させられるので却って好都合かもしれない。
僕は凍えに耐えながらゆっくりと非常階段を上っていく。
かん、かん。
僕が鉄製のステップを踏む音が、赤塗りの非常階段全体に響く。
一つの踊り場を通り過ぎ、逆方向に上っていく。そして、さらにもう一つの踊り場を過ぎた。
――その時。
かん、かん。かん、かん。
「…………!」
階段を上る足音が増えた。僕の足音に重なるように、下の階からもう一人分の足音が追ってくる。――本当に、僕を狙う刺客がやってきたのか!?
『まだじゃ。もう少し引きつけよ。儂の言うタイミングで振り向くのじゃ』
僕と湧月の作戦はこうだ。追っ手が僕の背中を捉えた瞬間に、僕が突然振り返る。それで敵の目は僕に釘付けになる。同時に湧月は敵の背後に具現化する。
彼女の具現化する位置は、電気の届く範囲なら多少離れていても問題がない。五メートル以内なら遮蔽物を挟んでいても影響がないのも昨夜、家で実験済み。
そして背後からの不意打ちで一気に片を付けるのだ。
「…………」
『焦るなよ。歩調を変えるな、動揺は敵に伝わる。敵も、罠かも……と疑ってはおるじゃろうが、それを確信に変えさせてはならぬぞ』
まだ引きつけが足りないのか。
踊り場を通過し、もう一階分、階段を上る。既に四階部分にあたる、つまりは最上階の階段だ。
あと少しで屋上に着いてしまう。相手からしても僕を襲えるタイミングはここだけのはずだ。
――そう思った瞬間。
かん、かん、かかん。
追っ手の足音が急に早くなった。追跡が露見することを隠さない、つまりは仕掛けてきたということだ。
『今じゃ!』
足音が背後に、すぐそこにやってきた。僕はちょうど足場の広い踊り場にいたので、素早く振り返ることが出来る。
軽く跳び上がりながら、思い切って身体を回す!
相手は不意を打たれたように動きを止め、僕と相対した。
「な、に……?」
そこに居たのは、我が校の女子生徒だった。目に入った上履きの色を見る限り上級生、つまり三年生だろう。セミロングの赤みがかった髪の毛が目立つ、そして快活そうな印象の顔立ちは整っており、なかなかの美人。健康的な日焼けからして運動部だろう。少し肉付きの良い身体であるが、それは僕の好み……は関係ないか。何度か廊下ですれ違った覚えのある人だ。
そいつが僕に襲いかかろうとしているのは一目瞭然だった。なんたって、その右手には包丁が握られているのだから。
「……ちッ」
彼女が立ち止まったのは一瞬だけ。彼女はすぐに、僕が襲撃を予期してここに誘導したこと、つまりこれが罠であることを理解したのだろう。舌打ちと共に、その整った顔立ちが殺意に染まる。
あと数段駆けあがったら僕にその刃が届く。いや、相手は人間ではないのだから、もしかしたら一瞬で僕の心臓はあの刃に貫かれてしまうのかもしれない。僕にそれを防ぐ手立てはない。
だが恐れはしない。恐れる必要などない。
その上級生の背後で空間にノイズが走り、湧月が具現化したのだから。恐れることはない!
「させぬ!」
気合の言葉と共に、髪の毛の束が上級生を襲う。
一本は包丁を、一本はみぞおちを、一本は足元を狙った。僕の動体視力ではとても見切れないほど高速で繰り出された髪の毛の連携攻撃。
正確無比で強烈な刺突は、上級生を捉えて無力化する。――はずであった。
だが、しかし、躱された。
「なっ!?」
今度は湧月の目が驚愕に見開かれる。
上級生は不安定な足場で舞いを踊るように身体をくねらせ、湧月の放った攻撃をきわどく避けたのだ。そして回避動作からの流れるような動きで包丁を投擲した。
「くっ!」
とても女子の手から放たれたとは思えないほど見事な一投。それを髪の毛がかろうじて弾く。と同時に上級生は湧月へ跳びかかった。防御で反応が遅れた湧月は、懐へ飛び込まれる形になる。
髪の毛は全て攻撃と防御のために伸び切り、湧月と上級生の間には遮るものが何も存在しない。
「まずい!」
叫ぶ僕の目の前で、上級生は左足を軸にして右足を大きく振りかぶった。その動きがスローモーションのように見える。
「死ね、湧月っ!」
そして放たれた前蹴りが、湧月の腹部にめり込んだ。
「がぁっ!? ぐっ……は」
その小さな体躯が吹き飛び、手すりにぶつかって跳ねる。着物の色のせいで、まるで赤い蹴鞠のように見えた。
更に上級生は追撃のために肉薄する。湧月は手すりにもたれかかり、何とか立位を保っている状態だ。
「がっ、ぐぇ、ぐっ、はっ」
一撃、二撃、さらに肉弾は叩き込まれる。湧月は全く防御出来ていない。サンドバック状態だ。
「くっ」
なんとか力を振り絞って、湧月は顔面へのパンチを一発躱した。すると、その当てそこなった拳は背後の手すりに命中し――めり込む。
「……な」
絶句した。上級生の拳は鉄で造られた手すりをへこませたのだ。素手で、鉄を曲げる。そんな馬鹿げた威力が、あの女子生徒の拳に込められている……?
そして僕が昨日知った事実が思い起こされる。――湧月の肉体自体は、普通の八歳女児と変わらない。
そんな子供があのような攻撃を喰らって、無事であるはずがない。
「くっくっく……あははははは! あの湧月が……呪いの人形が! この有様とはねぇ」
高笑いをしながら上級生が湧月の首を締め上げる。壁に張り付けられたような形になり、宙に浮いた湧月の短い脚がばたばたと揺れる。
なんと無力なのだろう。絞め殺される直前の鶏のようだ。
「湧月……! 一旦、ケータイに戻っ――」
そこで僕は気付いた。彼女は逃げたくても逃げられないのだ。
僕のせいで。
湧月がケータイに戻ったとして、再度肉体を具現化するまでに僅かなタイムラグがある。あの敵の動きであれば、その隙に僕を殺してケータイも破壊できるだろう。――僕に彼女の数秒を稼げるだけの力があれば……。
だが湧月は足手まといでしかない僕を責めるでもなく、あくまでも闘争心は敵に向け続ける。
「が、ぐ……き、さま……この魂の臭い……茨姫か! 肉体を替えたのか!?」
口から血と涎を垂らしながら、かろうじて湧月が声を出す。それを聞いた上級生――いや、茨姫とやらは満足げに笑った。
「覚えてくれていたとは光栄だわ。湧月……。どう?? 良い肉体でしょう? 私の肉体に恥じぬよう鍛え抜いているから当然だけどねぇ……。でも忘れてはいないわよ。……あの美しい肉体を捨ててまで逃げざるを得なかった、お前らに与えられた屈辱の大戦を……!」
「っが……! ぐぇ」
「しっかし……。私の黄金律を有する完璧な肉体に比べ……。お前のは使い捨てとはいえ、相変わらず、とんだ不良品ねぇ! ……この若作り野郎がっ!」
その手に込められた力が強くなる。そして湧月の眼球が天を向いた。
まずい。湧月が殺される。
手足も髪の毛も力無く垂れ下がり、舌が僅かでも酸素を求めるように口の中から飛び出している。ここからの形勢逆転はどう考えてもあり得ない。
「それにしても哀れねぇ。あれほど私たちを苦しめたあなたが、今はこれだけの力しか出せないなんて。ようやくその憎たらしい顔を苦痛に歪ませられて嬉しいわ」
「……ぁ、ぁ」
潰されたカエルの声みたいな、絞り出すような声で湧月は何かを言おうとしている。茨姫もそれに気付いた。
「……何? 遺言? 朱天様に伝えてあげようかしら。あの方も残念がるでしょうね。復活した矢先に、己の力の回復よりも、あなたとの再戦を望んでいたほどなのに……それが、このザマとは……っああ!」
言いながら茨姫は涙を流し始める。
その様子を階段の上で眺めていた僕は、ただ何も出来ずに立ち尽くすのみ。異形の力を繰り出す茨姫を見て恐怖するだけだ。
そして僕の為に戦い瀕死となっている湧月に再び目をやり、その視線が重なる。
そう。湧月は己の首を掴む敵には目もくれず、僕の方を見ていた。――何故?
「さて、それじゃあ、ちょっとだけ喋らせてあげるわ。あなたの最期の言葉になるのだから良く考えて喚きなさい」
茨姫の手から僅かに力が抜けた。湧月の喉が空気の通り道を確保され、言葉を発することを許された。
そして、彼女は言葉を紡いだ。
「すまぬ……」
それだけだった。最後に誰かに伝えるべき言葉。それが、その一言だった。
すぐさま、茨姫の手に再び力が込められる。さっきよりも力が増している。恐らくは、怒りのせいで。
「はぁ? それは朱天様に逆らったことに対する千年越しの謝罪かしら? 命乞いなのかしら? そんな言葉で許されるわけがないでしょう。あの方を……殺した、お前がぁぁぁ!」
茨姫はその顔を燃え盛る炎のように真っ赤に紅潮させ、目を吊り上げて激昂した。
湧月の喉が握り潰される。今度こそ終わりだ。茨姫とかいうワケの分からない女に、湧月は殺されてしまう。
そして、僕はまだ立ち尽くしている。――湧月が理解できなくて。
「……どうして?」
あいつは、湧月は、謝っていた。
すまぬ。と。
殺される寸前で喉を握りつぶされながら、謝った。
誰にだ?
僕にだ。
あいつは僕に謝った。この、何の役にも立たず、湧月が殺されるのをこうして傍観している情けない男に対して謝った。何も出来ない僕を責めることもなく、自分が悪いと謝った。
きっと、僕を守れなかったことに対して。
「なんだよ、それ」
謝るのは僕の方じゃないか。
どうにも自覚はないのだけれど、あいつの事をこのケータイに封印し、力を奪ったのは僕なんだろう? 昨日、謎の女たちに襲われたのを助けてくれたのは、湧月だったろう?
この襲撃だって、湧月が教えてくれなかったら僕は隙を突かれて、あっけなく殺されていたに違いない。
そして、こうして彼女は戦ってくれた。なのに、敗れた彼女が殺されるのを黙って見ているのは僕だ。
こんなのおかしいじゃないか。そんなのは許されない。
「ぅ、あ……ゆ、湧月ッ……! ぼ、僕は……」
そうだ。福室慶輔。お前は、何故、ここで何もせずに突っ立っている?
――絶好のチャンスじゃないか。
そうだ。さぁ、見ろよ。お前が待ち望んだ非日常が目の前に広がっている。お前が祈り続けた劇的な展開が目の前で繰り広げられている。片足だけ突っ込んだ未知の世界へ。ならば、ならば――飛び込めよ!
「ふ、ふざけるなぁぁぁぁあァァァァァァ!」
僕は絶叫しながら、飛んだ。
一階分の高さからダイブした僕は、まっすぐに茨姫へと落ちていく。跳びかかるというよりは上から転落する、といった方が適切な攻撃だ。いや、攻撃というより、もはや事故。
「なっ……」
敵は僕の事をよっぽどの雑魚と見ていたのだろう。というか、存在すら認識されていなかったのかもしれない。
それは事実だ。正解だ。
確かに自分でもこの行動は信じられない。僕の能力を正確に見抜いていた敵は、僕がこの場面で邪魔をしてくるとは微塵にも思っていなかったのだ。――だからこそ、これは湧月以上の不意打ちになる。
「くっ」
流石に茨姫とやらは戦い慣れているらしい。不意を打たれても、咄嗟に腕で頭を守ってきた。
その反応を見るに、恐らく真正面からの攻撃、あるいは想定内の攻撃であったのなら僕はあっさり返り討ちになっていたのだろう。
「湧月を、離せぇぇぇぇ!」
体重五十数キロの身体が、階段十段ほどの高さから思いっきり飛び降りた場合に発生するエネルギー。その全てが茨姫の身体に衝突したのだ。――防御したって完全にはダメージを防げない。
「こいつ……魂が……乗っている!?」
激突した瞬間。衝撃によってあまりに脳が揺れたせいだろうか、視界いっぱいに青白いスパークのようなものが発生する幻覚が見えた。それほどに落下の生み出す破壊は凄まじい。
「あっぅ、ぎっ!」
タックルされた茨姫はバランスを崩し転倒、階段の手すりに側頭部を強打する。そして魔手から逃れた湧月の身体は床に崩れ落ちた。
「いっ、てぇぇぇ!」
だが攻撃した僕にも衝撃と、耐え難い痛みが襲いくる。技術も何もなく、ただ度胸、というか衝動で突っ込んだ。まさに捨身の攻撃だったのだ。床でのた打ち回りながら、僕はその代償を全身で味わう。――だが痛みに悶えてばかりもいられない。
「ゆ……湧月! だい、じょうぶか……!」
あの湧月を上回る身体能力を持つ敵が、僕のタックル程度で倒せたとは思えない。だが、とりあえず首絞めをキャンセルさせるのには成功したのだ。この先は湧月の力を借りなければ。
「あ……こ、小童」
もはや意識を失っていたのだろう。朦朧とした様子で立ち上がる。
「おぬしが……助けて、くれたのか……」
「まだ敵は倒れちゃいない。なんとかしないと……!」
僕が茨姫の方を指さすのと同時に、奴も頭を抑えながら上体を起こしたところだった。強打した部分からは鮮血が流れ出ている。
「ちっ、魂が揺らぐ……。これだから人間の身体はっ……。外見だけ良くしても、肉体の持つ機能美って奴を無視した進化しやがって……!」
歯を食いしばりながら、、妄言を吐きつつ、ふらつく足取りで階段を降りようとしている。
「湧月、奴が逃げるぞ!」
「……あ、ああ。待て、茨姫……!」
湧月の髪の毛が刃の形を作る。今までの棒や鞭のような使い方ではなく、明らかに殺傷を目的とした形状だ。
「わ、私は、やられるわけにはいかない! 朱天様の為にも……、お前を殺さなければ……!」
今にも転びそうになりながら、茨姫は階段を降りていく。
……ここで逃がすのは、まずい!
「いや、お前はここで狩る!」
湧月の髪の毛が驚異的な力で振るわれ、敵を背後から切り裂いた。紺色のブレザーが肩口から腰にかけて、後ろからばっさりと破られる。
そして奴の左腕が、宙に舞った。あまりのグロテスクさに、興奮状態の今でなければ吐き気を催す光景だ。
階段に飛び散る鮮血。悲鳴を上げる茨姫。
「やった!」
僕が歓喜の声を上げたその瞬間、茨姫の身体に変化が生じた。
「うっ」
僕は恐怖する。
普通の女子高生でしかなかった彼女の身体が、一回り大きくなった。いや、それは肉体が巨大化したのではない。彼女の発する強烈な気で、僕の目にはそう映ったのだ――これが魂の力というものなのか。
少しでも動いたら、首をへし折られる。そんな重圧すらするほどの禍々しさだ。
「私の肉体を傷つけたこと……後悔させてやる!」
背筋が凍るような恐ろしい目つきでこちらを睨んだあと、茨姫の身体が弾けるように階段から飛び出した。手すりを越え、四階相当の高さから身を投げたのだ。
そして空中からもう一度こちらを睨んだ奴は、紛れもなく――
「お、鬼……」
この高さから飛び降り着地してなお平然と跳ね、家々の屋根を飛び移っていく茨姫を見つめつつ、僕は呟いた。
敵の姿はやがて住宅街の中に消え、見えなくなる。
「……とりあえず、助かったのか」
いつも通りだったはずの学校の中に突如として訪れた命の危機。それをなんとか回避した僕は、今になって全身に押し寄せる疲労を感じた。立っているのもやっとなくらい、思わずふらりと後ずさりをする。
そんな背中を、小さな手が支えた。
「ああ、鬼じゃ」
僕の隣にはいつの間にか、湧月が立っている。こちらをまっすぐに見る、その瞳に込められた力強さに僕はたじろぐ。
「慶輔。おぬしに伝えておかねばならぬことがある。時間をくれぬか」
今までになく真剣な目つき。そして飾らない真実の言葉だ。
それに応えない選択肢はない。僕も力強く頷いた。
「ああ。僕も訊きたいことがある。話をしよう」
「うむ。では聞いてくれ。――儂が、鬼を殺した時の話を」
やはりこの寒い時期に屋上で昼飯を食べようという人はごく少数だ。さらに、高台にある日当たりの悪い給水塔の陰となれば尚更である。
だが、僕たちはあえてその不人気スポットで弁当を広げた。
「まずは謝りたい。昨日の女たちの襲撃も、今回の襲撃も、どちらも儂に原因があるのじゃ」
なんとなく分かっていた。だから今更驚くこともないし、責めたくなる気持ちも湧いてこない。ただ僕は事情を知りたかった。
「まずは儂の昔話を聞いて欲しい」
「うん、聞かせてくれ」
そこから、彼女の語りが始まる。――それは、平和な世に生まれ育った僕にとっては、おとぎ話としか思えない物語。
「数百年前、この国は鬼が率いる妖怪の軍勢に蹂躙されておった。そして陰陽師や人間側に立つ妖怪がそれに対抗し、血みどろの戦争になった。通称、人妖大戦。……儂はその時、人間の味方として活躍しておったのじゃ」
確かそんな話を昨日ちらりとしていた覚えがある。鬼を倒した、とかなんとか。あれは比喩や誇張ではなく、本当の事だったのか。
「そして妖怪の総大将は鬼の朱天という男。その右腕として儂と何度も刃を交えたのが……さっきの茨姫という鬼じゃ」
「さっきの、って? あの上級生が、何百年も前から生きている鬼ってこと?」
確かに人間離れした怪力だったけど、見た目は普通の女子高生にしか見えなかった。あれが鬼だというのか。
「そうじゃ。儂は死闘の末に鬼の軍団を倒し、総大将の朱天を討った。じゃが、あの茨姫はいち早く逃げ出しおってな。それから人間の身体を奪い取り、人間に成りすまして長年過ごしてきたのだろう。まさか、まだ生きておったとは思わなんだが。……しぶとい奴じゃ」
確かにさっきの逃げ足といい、引き際を心得ている奴のようだ。しかし、屋上近くから飛び降りても無事のような化け物が、普通に学生として一緒の町で生活していたなんて……。僕が想像しているよりも、ずっと多くの妖怪がこの世には潜んでいるのかもしれない。
「……それで、茨姫って奴はなんで襲ってきたんだ? 何百年も前に殺された仲間たちの仇をとるため?」
「それもあるじゃろう。あとは朱天が復活するのを助けるためじゃろうな」
「……復活って、しゅて……? えっと、誰が?」
「朱天。その鬼の総大将だった奴じゃ」
湧月は静かに頷くと、声のトーンを落とした。
「妖怪にはそれぞれ、その者の持つ魂に応じた力が備わる。それを〝魂銘〟と呼ぶ。――儂ならば髪の毛を操る力のことじゃ」
「たまな……。超能力みたいなものか」
「そう思ってくれて良い。そしてさっきの鬼――茨姫の魂銘は、女性を洗脳し傀儡と化すこと」
女性……を、操る?
「ま、まさか! 昨日のって」
湧月は申し訳なさそうに頷く。
「そういう事だったのか……」
傀儡。意志を持たない人形。操り人形。
そうか、そうだったのか。道理で昨日の女性たちは、まるで正気ではなかった。あれは操られていただけだったのか。
「おぬしが女子たちに襲われるのをケータイの中から見て、儂はすぐに分かった。茨姫がこの町にやってきていること、そして朱天が復活しようとしていること」
湧月は茨姫の能力を知っていた。だから女の人たちが操られているのを見て、その能力の使い手である茨姫が近くにいることも分かったのか。
「あの女の人たち、操られていただけだったんだな……。けどさ、それで茨姫がいることは分かっても、その総大将が復活するってことは分からないんじゃないの?」
茨姫がかつて仲間を見捨てて逃げ出したというのなら尚更、その仲間が復活したら顔を合わせにくいと思う。そんな事情の奴がなんでわざわざ在尾羽に戻って来たのか?
「いや、あの茨姫という奴は朱天に心酔しておる忠臣。あの時に逃げ出したのも恐らく、自分が生き残ることで朱天の復活を手助けできると踏んでのことだったのじゃ。儂はのう、奴の自己愛と朱天への忠誠心だけは買っておる。奴が動いたという事は、朱天が復活するとしか考えられぬのじゃ」
「でも、その総大将を殺したのが湧月なら、復讐のために来ているだけってことも考えられるんじゃないか?」
朱天本人が復活したと考えるのは、どうにも早計なように感じるのだが。
「うむ、実は……決定的な心当たりがあっての」
そこまで話に夢中だった湧月が、思い出したように弁当へと箸を伸ばす。それは少し間が取りたかったからの行動かもしれない。
僕もそれに付き合うように生姜焼きを口内に放ってから、会話を再開する。
「心当たりって?」
「儂が封印を解かれたことにより、朱天も同時に復活するかもしれぬのじゃ」
「それは……どういう事なの?」
そこで湧月は空中に目を泳がせて、少し考えてから口を開く。
「これを説明するには、朱天の力と奴の死に際についても説明しなければいけないの」
「時間ならたっぷりある。教えてくれ」
言うと、湧月は再び思考に時間を費やす。どうやら入り組んだ事情があるようだ。
「……朱天の魂銘は、死者の魂を従える力。それを使って奴は大戦の時、無限ともいえる兵力を従え、この国の半分を支配した」
「死者の魂……?」
「茨姫の女性を操る力も、人間の半分を自在に操れるという意味だから厄介じゃ。しかし死者の魂となると、さらに厄介。何せ今までこの地で死んだ生き物が、全て奴の配下となるのじゃ。今の儂のように魂を具現化させての」
今まで死んだ生き物が全て、湧月のような形で復活する。それって、もの凄い事じゃないか。
「朱天は……そいつが復活したとしたら……。どうなるんだ?」
そこで湧月は目を固く瞑る。彼女の瞼の向こうには、一体何が映っているのだろうか。
一瞬、歯を食いしばってから彼女は口を開いた。
「奴は己の目的を『生き物の魂を肉体から解放する』などとほざいておったが。要は……生きとし生けるもの、すべての抹殺じゃ」
「なっ」
おいおい。なんだそりゃ。どこのラスボスな魔王様だよ。いや、今時そんなベタな目的を持った魔王様なんてゲームにも漫画にも登場しない。とんでもない古典的魔王思考じゃないか。
「朱天って奴は、そんなに極悪な奴だったのか……」
「うむ、奴が全盛期だった時は凄まじかった。奴は自分の意見に賛同しないもの――つまり生きたいと思う全ての生き物を、手当たり次第に殺して回った。それを出来るだけの力を持っておった」
「最悪の悪党だな……。でも、それを湧月は倒したはずなんだろ?」
「うむ。儂も大勢の優秀な仲間を失いつつ、なんとか一対一に持ち込んで倒したのじゃ。
……だが奴は死に際に、己の能力を使用した」
死者を従える力を、死に際に……?
「まさか、それで自分自身を?」
「おぬしは時折、物分りが良いの。そう。奴は生と死の合間に己の魂を捕まえた。そして、その魂をその土地に縛りつけたのじゃ。いわゆる地縛霊という奴に近い」
「おいおい、そんな無茶苦茶な!」
死者の魂を使役する能力で、自分の魂をこの世に留めるなんて……。鶏が先か卵が先か、みたいな訳が分からない状態じゃないか。
「死んだ者は殺せぬ。おまけに魂のみの存在となった奴は〝龍脈〟に隠れてのう。以前の力強くて目立つ魂ならともかく、弱体化した奴の魂を儂らはついに見つけられなんだ」
「龍脈、って?」
「ん、知らぬか。龍脈とは、大地に巡る魂の通り道じゃ。龍脈は人体でいう血管のように、大地にとって必要不可欠なもの。そして死した者の魂はその強大な流れに誘い込まれ、地下に走る龍脈に還っていく。そんな、幾億もの魂が存在する場所じゃ」
つまり木を隠すには森、って事か。お化けがお化け屋敷に逃げ込んだようなもんだな。
「その後……陰陽師たちが朱天の魂の眠る地に、立派な社を建てて封印を施したというのは風の噂で聞いた。奴の魂が龍脈から出て来られぬよう、検問を設置したのじゃな――が、儂は分かっておった。奴は長い時間をかけて力を蓄え、その封印を解くであろうと」
「もしかして……その封印の為に建てられた社って……」
今までの話、そして湧月の本体があった場所を考えると、自ずと答えは導かれる。
「そう。亞麻矢神社じゃ」
その名前を聞いた時、僕は頭を棍棒で思いっきり殴られたような衝撃を受けた。
今までに何度も足を運んだ友人の家が、そんな化け物の封印されている場所だったなんて。
「あそこの地下には龍脈が走っておるからの。故に朱天は本拠地にしておったし、その龍脈のおかげで逃げおおせることができた。逆に陰陽師も強力な封印が施せたのじゃがの。それだけ龍脈というのは便利な〝ぱわーすぽっと〟ということじゃな」
「……まさか、御霊屋の家がそんな場所だったとは。すると、湧月が奉納されていたのにも理由があるのか?」
ついに話が本題へと戻ってきた。彼女の言う〝心当たり〟に。
「儂が奉納されていたのは、おそらく朱天を封じる蓋の役割……のつもりだったのじゃろう。かつて奴を殺した儂が封印の上におれば、奴も復活をし辛くなるじゃろうし、万が一に復活してもすぐに儂が狩れる。そんな意味で儂が封印されたあと、どこぞの陰陽師があそこに奉納したんじゃろうな」
「抑止力であった湧月がいなくなった事によって、朱天が復活する。――その予想は確かに理屈としては通ってるな」
「儂という蓋がなくなって、朱天はいよいよ復活する。だが、復活するまでには時間が掛かる。それまでに儂に見つかっては殺されてしまう。そこで茨姫は儂を殺そうとしているのじゃろう」
「その復活までは、どのくらいの時間が掛かるんだ?」
「さぁ、知らぬ。じゃが、先日まで封印されておった経験で語れば、封印明けはマトモに動けぬ。どうやら徐々に力が取り戻されていくもののようじゃ。儂も昨日よりは今日の方が、魂の流れも良いしの。まっ、儂に関しては電子妖怪という他に例がない存在だから参考にはならぬかもしれぬが」
「つまり……仮に復活したとしても、まだ時間に猶予はあると?」
「そういうことじゃ。もしかしたら復活自体は既にしているかもしれぬが、その時は完全復活までに狩ってしまえば良いのじゃ」
「そう……か……。っと!?」
その時、冬の冷たい風が僕たちの身体に吹き付けた。屋上に積もっていた雪が地吹雪となって視界を真っ白にする。それが会話を切り上げる合図となった。
「さぶっ!」
「うぅ、寒いのう。ご飯も食べ終わったし、そろそろ校舎に戻らぬか?」
言って湧月は全身にノイズを走らせる。僕のケータイへと帰る気のようだ。
だが、僕はそれに待ったをかけた。
「湧月、お前この先、どうするつもりなんだ?」
彼女の依り代の持ち主としては、今後の方針を訊いておかなければいけない。彼女が宿るケータイを持っていれば、この先もあの茨姫とかいう女に付け狙われてしまうのだから。
湧月はケータイに戻るのを止めると、こちらに背を向けて語る。
「……朱天が封印されている場所は分かった。あとは茨姫の攻撃を掻い潜りつつ、奴を今度こそ狩る。……亞麻矢神社に朱天がいるとなれば、先に本体を取り戻す事も出来ぬしのう」
やはり、そうか。
彼女は僕のケータイから離れることが出来ない。故に彼女が戦うというのなら、ケータイの持ち主である僕も覚悟を決めなければいけない。
「その過程には、なんていうか……僕も付き合うのか?」
特に深く考えず、ただ気になったから訊いた。――のだが、次の瞬間に彼女が見せた表情に僕は、その台詞の選択は誤りであったと悟る。
「構わぬ」
こちらに向けられるのは、どこか慈悲すら感じられる優しい笑顔。しかし、僕にはそれが儚いものに見えた。
「一般人のおぬしを巻き込むわけにはいかぬ。すまぬが、このケータイのことは諦めてくれ。そして今晩、充電だけ済ませてもらえれば良い。あとは儂一人で亞麻矢神社に乗り込む。自分でケータイを懐に入れてな。――儂は、独りでも戦えるからの」
ポン、とその小さな胸を叩いてみせる湧月。
違う。そういう意味で言ったんじゃない。かといって、僕に一緒に戦ってくれと言われても困る。
そうだ。僕は湧月と一緒に戦う理由なんてない。
劇的な非日常を待ち望んでいた? いや、それも違う。僕が憧れていたのは漫画やゲームのようなヒーローになることで、きっとこんな無力な脇役みたいな役回りは望んでいなかった。そして僕がヒーローになれるとも思えない。
ならば、何故こんなにも湧月に離別を告げられることが、心苦しいのだろう。
自分の気持ちが自分でも分からない。しかし、とにかく誤解を解かなければ。
「なぁ、さっきの茨姫って奴よりも、朱天の方が強いんだろ」
「当たり前じゃ。茨姫もなかなか高位な妖怪じゃが、朱天は格が違う」
「なら、茨姫にも負けた今のお前が、一人で朱天に立ち向かってどうなるんだよ」
不意打ちを防がれた上に、スピードもパワーも上回られて敗北。どう見たってあれは湧月の完敗であった。僕のやけくそタックルがなかったら確実に殺されていただろう。
「……痛いところをついてくれたの。どうやら儂は全盛期の十分の一の力も出せぬらしい。電子妖怪というのは不便なものじゃのぅ。正面切って戦い、あの茨姫に力負けするとは情けない」
小さな手のひらを呆然と見つめる湧月。その手の上には昔あったはずの、しかし今は失われた大切なものが見えているのだろうか。
「それは……やっぱり電子妖怪になったせいなのか?」
「恐らくはの。儂はケータイを依り代としている限り、電子妖怪という枠組みから逃れられぬ。本体にでも戻らぬ限りは、このような情けない力しか持てぬようになってしまった」
「なら、僕の責任だ」
「っ」
遮った言葉に、彼女はその大きな瞳をこちらに向け、何かを口にしようとする。それを許すまいと僕は畳みかけた。
「湧月を封印から解いて弱体化させたのは恐らく僕だ。ってことは朱天とやらの封印を解いてしまったのも結果的に言えば……僕だ。その責任は取らなければいけない。だから僕は湧月、君に協力する」
「な、何を言っておるのじゃ! そんな事は、おぬしの責任ではない……」
確かに湧月の封印に関しては全く身に覚えがない。だから、はっきりいって責任なんか感じていない。
そうだ。つまり、きっと、これはただの言い訳に過ぎないのだ。
僕はまだこの少女と共に、非日常を過ごしてみたい。退屈な日常に戻りたくはないだけなのだ。それは、ほとんど好奇心と言っても良いに違いない。
でもそれを、人類の敵と真剣に戦おうとしている相手に伝えるのは躊躇われる。もしかしたら嫌われてしまう、というか軽蔑されて当然の理由である。故の言い訳なのだ。
それに対し、湧月は首を縦には振らない。
「大体じゃな、おぬし、戦えるのか? 魂銘も〝れいき〟もないおぬしが、どうやって協力してくれるというのじゃ?」
「さっきの華麗なるタックルを見なかったのか? あれがなきゃ湧月は今頃死んでいた。それに充電一つにしたって湧月だけじゃ出来ないだろう」
「それは、そうじゃが……しかし……」
それに湧月だって分かっているはずだ。協力者がいるといないのでは違う。――それが例え僕のような非力な人間であっても。特にケータイを依り代としている彼女には、現代人である僕の存在が必要なはずだ。彼女一人では充電すらままならないのだから。
なのに渋っている。僕の協力を素直に受け入れられないのは――。
「僕を巻き込まないようにしてくれているんだろうけど。そんな気遣いは無用だ。もう十分に巻き込まれているしな」
「そっ、そんな事は考えておらぬ。ただこれは儂の問題であって、おぬしを巻き込むような事ではないと……」
「大体、僕はこういう展開を待ち望んでいたんだ。退屈な日常には飽きていたところさ」
「これは遊びではない。おぬし、死ぬかもしれぬのじゃぞ」
「それにな。このケータイ、今となっちゃ親父の形見なんだよ。お前に預けるわけにはいかない。このケータイ、湧月、そして僕は……運命共同体だ」
八年間、肌身離さず持っている〝相棒〟を握りしめ、僕はそう言い切った。
下からこちらを睨みつけてくる視線がしばらくあったが、やがて彼女は困ったように首を左右に振り、わざとらしく深い溜息をついた。
「……出来るだけの事はするが、命の保証は出来ぬぞ。元々、誰かを守るのに向いた魂銘ではない」
「構わないさ。大していい思い出もないけど、この町は僕が十七年間住んだ町なんだ。それを守ろうとしてくれている奴を放ってはおけない。これは僕の意志で選択したことなんだ。
……さぁ、昼休みが終わる。早くケータイに戻ってくれ」
「……礼は言わぬぞ」
湧月は僕と目を合わせないまま、ノイズとなりケータイの中へと戻ってきた。
いい加減、寒さにも耐えきれなくなっていたところだ。僕は小走りで校舎の中に戻って行った。