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あやかしかるもの  作者: 越河圭士
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プロローグ~第一章

4,5年前にコンテストに投稿し3次審査で落ちた作品です。

 黒き旋風が戦場を駆け巡る。数多の異形なる化け物は肉片と化し、それの通る跡には草木の一片も残らない。

 焦土と化した地を往くのは三人の〝狩人〟。痩躯の貧相な男、鎧兜を身に纏いし美男子、そして――人形を抱えた、見目麗しい黒髪の少女。

「占部、状況は如何に?」

 美男子の問いに対し、痩躯の男は手の中に抱える水晶玉を覗いた。

「綱公と金治はきちんと後続を抑えてまさぁ。一方で敵さんはと言えば、……茨姫の奴が行方知れずで」

「ならば……あとは本丸じゃな」

 少女の言葉に男二人は頷き、そして目の前に聳える山――敵の本拠地へと攻め入る。

 地面から湧き上がってくる魑魅魍魎どもをなぎ倒しながら、三人は山の頂を目指し千の石段を駆け上がった。攻め入れば攻め入るほどに敵の攻撃は苛烈になっていく。

 ついには無数の亡霊に取り囲まれ、前に進めなくなる。

「先にゆけっ!」

 二人の仲間がその場を受け持ち、少女を一人先に進ませる。

 そして、ついに少女は敵地の最奥にたどり着く。

そこには彼らの宿敵であり、この戦いの元凶でもある者が待っていた。

「……朱天!」

 言葉はいらない。山頂に一人佇む〝鬼〟と目が合うや否や、少女は斬りかかった。

 黒き刃が亜音速で四方八方から敵を狙う。が、それは易々と鬼が振るう太刀で受け止められた。鍔迫り合いをする刃の向こうで、朱天と呼ばれた男は笑みを浮かべる。

「待っていましたよ。我が好敵手」

「おぬしは……儂が、狩る!」

 荒れ狂う黒き刃と、妖しく光る太刀。二つの力がぶつかり合い、うねり、それは天変地異と化す。地面は抉れ、風は吹き荒れ、山は形を変える。その激しい戦いは時間にすれば、ほんの数分足らずで決着した。

 そして戦いが終わり、静まり返った戦場跡に立っているのは少女のみ。

「……占部、状況は……如何に?」

「へぇ、鬼の軍勢は壊滅……残党は方々に散りやした。そして、あぁ。綱公も金治もやられちまいやがった。ってぇことは……こっちも、人間側も……全滅ってこったな」

 地面に伏しながら、己の血で濡れた水晶玉を掴む痩躯の男。その横では腹から血と臓物を流す美男子が地に膝をつき空を見上げていた。

――最強の人間と称された狩人たちも、少女と鬼の戦いにはついてこれなかった。

「すまぬ……。儂に、もっと力があれば。儂が一人で奴を倒せるだけの、力を持っていれば」

 一人、無傷の少女が彼らに頭を下げる。

 だが男たちはその謝罪を受け入れない。

「馬鹿を言うな。十分だ。朱天をついに、討てただけで」

 そう。彼らは成し遂げた。長きに亘る悪しき妖怪との戦いに終止符を打ったのだ。敵の総大将を討ち果たし、彼らは勝利したのだ。

「……あとの事は心配するでないぞ。皆、ゆっくりと休んでくれ」

 その言葉を聞いて、二人の狩人は静かに息を引き取った。これで人間が妖怪に怯えることはなくなったのだと、安堵に顔を綻ばせて。

「ありがとう……。そして、すまぬ」

 だから、散り逝く仲間たちには告げることは出来なかったのだ。

 あの鬼は生きている。まだ戦いは終わっていない。仕留める寸前で逃げおおせたという事実。それらを少女は伏せたまま、仲間を見送った。

「……儂は、必ず奴を討つ」

 全てを失った戦場で、少女は一人誓っていた。


 一章「新規契約」


 蔵の中は、薄暗い。扉から差し込む陽の光だけが頼りである。入った瞬間、独特の埃臭さが鼻腔を刺激した。長年その場に閉じ込められていた空気が漂わす、気持ち良くはないが不思議と懐かしい臭いだ。

 後から入ってきた友人が電源スイッチを入れると、梁に設置されている蛍光灯が点灯し蔵の全貌が明らかになる。

「うわ……これは」

 僕は思わず口に手を当てて後ずさりをしてしまった。だがそんな反応を気にすることもない様子で、彼は自慢げに胸を張る。

「どうだ? 俺のコレクションは。――といっても、このほとんどは我が家に代々受け継がれてきたもので、俺が集めたわけじゃないんだがな」

 僕の数少ない友人、御霊屋寛おたまや ひろしはそういう正々堂々と正直な奴であった。この蔵を所有する亞麻矢神社の跡取りであり、僕の同級生であり、我が校の生徒会役員。彼のパーソナルをざっと説明するならこんなものだろう。

 学校では優等生で通っている彼が〝人形収集〟なんて趣味を持っているとは、生徒も先生も誰ひとりとして想像すら出来ないことだろう。知っているのは僕だけだ。

「しかし、こうたくさんあると何か不思議な迫力があるな」

 棚にびっしりと並んだ人形たちを眺めながら、慎重に蔵の中を歩く。

 市販されているような玩具の人形、随分と年季の入った日本人形、立派な雛人形が雛壇ごと安置されているのも見えた。本当に様々な種類の人形が揃っている。

「まぁ、うちが集めたというより、商売上勝手に集まってくるのだがね」

 つまり、それはお祓いを頼まれたということだろうか。人形にはよく魂が宿るというし、神社にはそういったものが集まると聞く。

 一通り目につく人形を見終わると、御霊屋が肩を叩いてきた。

「お前の趣味にはうってつけの場所だろう? いつか連れて来ようと思っていたのだ」

「だ、だけどさ。大丈夫かな? そんな曰くつきの人形を撮ったりして」

「何を言っている。心霊写真を撮ろうという男が、呪いの人形を恐れてどうするのだ」

「……興味があっても怖いものは怖い。というか怖いから興味があるんだ」

 そう。僕がここに案内された理由は、御霊屋が自分のコレクションを自慢したいのが半分。もう半分は、僕の趣味である心霊写真撮影のためである。

 心霊写真。――この世とあの世を繋ぐ、非日常の代物。それが僕の求めるものだ。

「安心しろ、福室ふくむろ。実際には本当に呪われている人形など……。ここにあるモノの中では一割くらいしかない」

「一割はあるのかよ!」

「はっはっは。心配ご無用。福室、お前が呪われたら俺が祓ってやろう。こう見えても厄払いは得意だ。それに俺とお前の仲だからな、一回五千円で良い」

「金も取るのかよ!」

「福室よ、お前は誰かに突っ込んでいる時が、一番輝いているな。はっはっは!」

 快活に笑うその姿には、頼もしさと胡散臭さが同居している。

 この男、常識というものは持ち合わせているのだが、どうにも浮世離れしている。普段着が白袴というのからして、ちょっと頭がおかしい。

 まぁ、そんな彼と気が合っている僕も決して普通ではないのかもしれない。心霊写真を撮るという趣味も、あまり一般的ではないと自覚はしている。

「それじゃあ、本当に撮影してもいいんだな?」

「ああ、お好きなようにどうぞ」

 僕はお言葉に甘えてケータイ電話を取り出し、カメラ撮影モードに切り替えた。

 折りたたみ式の古臭いケータイ。閉じた姿は文鎮のようにボッテリとしていて、ディスプレイは小さくて性能が悪い。長年使い込んだせいで、外装にはいくつもの小さな傷がついている。

 なにせ僕のケータイは購入してから八年間も使い続けている愛用品なのだ。このガラパゴス級の化石ケータイを見た人が、必ずと言って良いほど「買い換えたら?」と勧めてくるくらいの古さだ。

 だが僕は聞く耳持たずにそれを使い続けている。八年もの間、僕はこのケータイを使って心霊写真を撮り続けているのだ。

 まぁ、本物の心霊写真はまだ一枚も撮れていないのだが。

「こっちの棚なんかどうだ? かなり呪われているのが置いてあるぞ」

「これはもう……見た目からしてヤバそうだな」

 御霊屋が何故か嬉々として指をさした棚。そこには、所狭しと御札が貼り付けてあった。

 そこに並んでいる人形もこれまた強者ぞろい。今にも動き出しそうなほど生き生きとした瞳を持つフランス人形。何やら黒い染みが衣服にべっとりとついたアニメキャラクターの人形。どうしてこんな事になったのか、ミイラのように干からびた人形。

 背筋が寒くなり、僕は思わず胸から提げている魔よけの御守りに手をやった。

「こいつは、すげぇコレクションだ」

 そして、もう少し近くで見ようかと身を乗り出した瞬間、御霊屋が警告する。

「くれぐれも手を触れるなよ。写真撮影だけに留めておけ」

「おいおい、ガチでヤバいってことかよ。そりゃ頼まれたって手は触れないけどさ……」

 恐る恐る棚を見渡し、どれを写真に収めようかと品定めをする。

 どうせなら、分かりやすい心霊写真が撮れるのが一番だ。とびきり呪われてそうな奴を選びたい。

「あ」

 そして、僕は見つける。

 心臓が大きく跳ねたあとに、ぴたりと止まったかと思うほどの緊張。そしてじんわりと冷や汗が背中を濡らし、息が自然と早くなり、再び動き始めた心臓は早鐘を打つ。

「これ、は……?」

 異質。それが第一印象であった。

 周りに並ぶおどろおどろしい人形たちとは一線を画する存在。

 分類としては、日本人形といえば良いのだろうか。雪のように真っ白い肌に、腰の辺りまで伸びる真っ黒い髪。身に纏うのは綺麗に染め上げられた真っ赤な和服――袖と裾のあたりには金糸で菊の模様があしらってある。造形は至って普通であるにも関わらず、僕はその人形に目を奪われていた。

 どこに惹かれたのか、あえて一つだけ挙げるとすれば、それは恐らくその人形が持つ黒い瞳にだ。まるで本当に生きているかのように、瑞々しく輝く美しい瞳。闇のように深く純粋な黒。僕はそれに見惚れていた。

「ほう、湧月ゆづきを選ぶとはお目が高い」

「湧月?」

「書いてあるだろう、ここに名前が」

 御霊屋がメガネの位置を直しながら、ある場所を指さす。

 なるほど。その人形が仕舞ってあるガラスケースに〝湧月〟と墨字で書かれた札が貼られている。ご丁寧にも読み仮名付きだ。

「それは俺も特に気に入っている。とても美しい人形だろう?」

「ああ。これなら心霊写真にならなくとも、写真に収める価値があるくらいだ。よし、じゃあこいつを撮影させてもらうよ」

 僕はケータイのカメラを人形に向けると、シャッターを切った。――この撮影が、僕の人生を劇的なものにしてくれる、そんなきっかけであるように祈りつつ。


 教室の窓から外を見る。ちらり、ちらりと雪が降っている。そうか、もうそんな季節か。僕の住む在尾羽町あおばちょうにも冬がやってきたのだ。

 窓の外では我が校の女子生徒が、ミニスカートで生足を晒したまま歩いている。この寒い中ご苦労なことである。寒さが苦手な僕にはとても考えられない格好だ。

 僕。市立富柄高校二年三組、出席番号十五番。福室慶輔ふくむろ けいすけ。どこのクラスにも一人はいるだろう、平々凡々とした男子学生である。いや、平凡よりも大分マイナス方面に傾いているタイプだろうか。

 アレである。休み時間では雑談に混ざろうともせず机に突っ伏していたり、授業中に窓の外を見てボーッとしていたり、何を考えているのか分からないと評されがちなキャラである。

 そんな僕は今、この月曜日から始まる五日間の学校生活をいかに何事もなく過ごそうかと思いめぐらせ、結局のところ何も考えずにぼんやりしていた。

 退屈。凡庸。平凡。ほとんどの人間、人生はそんなに劇的なものじゃない。分かってはいるものの、この多感な時期の少年なのだ。僕はその事実に、どうしようもなく無気力になっていた。――何か劇的な事が起こらないか。何か僕の人生を変えてくれるようなイベントが起きはしないか。毎日そう思って焦燥感だけを拗らせている。

「おい、福室」

「んっ?」

 ふと気づけば、僕の隣に御霊屋が立っていた。

 どういう事だろう。彼は二組の生徒、つまり隣のクラスだ。その彼が何故ここに?

「御霊屋。今は授業中だろ、何をしてんだよ」

「お前こそ何を言っている。もう授業は全て終わってホームルームも終了。帰宅の時間だぞ」

「え?」

 言われてみれば周りの生徒たちは鞄に教科書を詰め、あるいは学友と雑談に興じている。真面目な部活少年たちはもう練習をしに行っているようだ。

 どうやらあまりにもボーっとしていたせいで、授業が終わったのにも気付かなかったらしい。

「おいおい、呆けるのも大概にした方が良いぞ。俺が来なかったらお前のことだ、夜までここに座っていたかもしれん」

「そりゃ良いな。そのまま一夜を明かしたら絶対に遅刻しないじゃないか」

「はぁ……」

 僕の冗談に頭を抱えて、御霊屋は深い溜息を吐く。

おや? いつものノリなら更に冗談で返してくると思ったので、ちょっと拍子抜けだ。

「それで御霊屋、なんか用事か? もう生徒会に出なきゃいけない時間だろ」

 彼は帰宅部の僕と違い、生徒会と剣道部を掛け持ちする多忙の身だ。こんなところで油を売っている暇はないはずなのだが。

「いやなに。そういえば一昨日に撮ったアレは、どうだったのかと気になってな」

「ああ、心霊写真? ……やっぱりダメだったよ」

 僕はケータイを操作し、画像フォルダから例の写真を選択する。画面に映ったのは、あの妙な魅力がある日本人形。ただし特に変なものが映り込んだりはしていなかった。

 御霊屋はケータイの画面をしばらく凝視してから、納得したように一回頷いた。

「ふむ、そうか……。ならば、これは違う……」

 眉間にしわを寄せ、顎に手を当てて何かを呟いている。

 良く分からないが、御霊屋はあの写真が〝普通〟であったことを残念がっているようだ。

「どうした。そんなに期待していたのか? 御霊屋も心霊写真に興味があったとは知らなかったぜ」

「別に心霊写真に興味はないのだがな。ただ……。うむ、いや結構だ。時間を取らせてすまなかったな」

「いやいや、こちらこそ。それじゃ、部活動と生徒会、頑張れよ」

「うむ。お前も早く帰るようにな。あんな事件も起きている事だし」

 ん? あんな事件……? って何かあったっけ?

 よほど呆けた面をしていたのだろう。僕の心情を察して御霊屋が教えてくれる。

「なんだ、知らないのか。二日前から在尾羽近郊で、女性の失踪事件が多発しているのだぞ。ニュースを見ろ、新聞を読め」

「ニュースは見ているんだけどなぁ。主に今日の天気と占いコーナーを。――でも女性の集団失踪なら男の僕には関係ないな」

「男性もいつ巻き込まれるか分かったことではない。とにかく、寄り道せずに帰るのだぞ」

「寄り道って……僕は小学生かよ。でも心配してくれて、ありがとう」

「福室よ。素直に礼が言えるのは、お前の良いところだ。それでは、また明日な」

 言うと彼は踵を返して、静かに教室から出ていく。

 珍しい。いつもの御霊屋なら僕と別れる時は「それでは!」と右手を挙げながら無駄に颯爽と去っていくのだが。今みたいに何か悩み事でもあるような、キレの悪い退場の仕方をするなんてらしくない。

「まっ、いっか」

 あいつが何かに悩んでいるとしても、それを僕が解決できるワケはない。優秀な御霊屋に解決できないことを、凡人である僕が解決できる道理はないのだ。

 さぁ、雪が強くなる前に帰ろう。そして暖房を効かせた部屋でのんびりゲームでもして遊ぼう。それが帰宅部たる僕の部活動だ。

などと理由をつけつつ、僕はさっさと帰り支度を始めた。


 朝のニュースで天気予報を見ていたおかげだ。周りの学生たちが全身を白くして慌てている中で、僕は傘を差して悠々と歩いている。

 学校から徒歩十五分というご近所な僕としては、雪が降ったくらいどうという事はない。いざという時には走ってしまえば、ほとんど濡れずに帰れる。

 ただ僕は走るのが嫌いであるし、何より寄り道したい場所があったから傘を用意したのだ。

 通学路からほんの少し外れて、雑木林へと入っていく。このあたりは住宅街であるにも関わらず、そのど真ん中に立派な林があるのだ。そして、そこには土地の神様を祀る祠がある。僕のお目当てはその祠だ。

「相変わらず……いい雰囲気だぜ」

 この林の中を歩いている最中、突如として異世界に召喚されたりしないかと何度思ったことか。僕のような思春期の少年にありがちな妄想を増長させる空気を、この林は持っているのだ。

 そして僕は祠に辿り着く。今にも壊れてしまいそうな程に古くて、ただ歩いているだけでは見落としてしまいそうなほど小さな祠。僕は早速ポケットからケータイを取り出し、カメラモードに切り替え、それへとレンズを向ける。

「明日こそは、何か劇的なことが起きますように」

 この退屈で空虚な青春を変えてくれる〝何か〟の到来を祈りつつボタンを押す。そして、チープな電子音で作られたシャッター音が木々の合間に響いた。

 僕が心霊写真以外の目的で写真を撮るのは、この祠へのお参りの際だけである。ここはオカルト好きだった父親が、僕を連れて毎日のように参拝していた場所。それが習慣となって、今でも僕は可能な限りここにやってきているのだ。

 撮れた写真を保存し、僕はケータイを閉じようとした。――その時。

「う、わ!?」

 驚きのあまりケータイを落としそうになってしまった。

なにせ急にケータイが震えだしたのだ。

「こ、これは……バイブレーション機能!」

 そう、八年前のボロにもバイブ機能くらいある。つまり、これはメールを着信したというだけのことだ。久しぶりだからびっくりしたが、一体誰からのメールだろうか?

 この僕がメールを受信するなんて、海外出張中の母親がたまに安否確認をしてくるか、ケータイ会社から宣伝メールが送られてくる時くらいのもの。御霊屋は筆不精だからメールよりも電話をしてくるはずだし。――ならば一体誰がメールを送ってきたのだろうか?

 とりあえずメールボックスを開いてみる。普段メールなんて使わないせいで操作に大分手間取ったが、なんとか新着メールを確認できた。

 差出人は〝不明〟。――おかしい。メールアドレスが表示されていない。空欄である。

 そして題名には何も表示されていない。

 なんだか不気味だ。こんなメールは初めて受け取った。

 ……開いた途端にグロい画像が表示されるイタズラとかだったら嫌だな。でも、もしかしたらアドレスを変えた母親からのメールかもしれないし……。

 意を決してメールの本文を開いてみる。

 そこには――

『8889999933222』

 謎めいた数字の羅列。

 ぞくり、と背筋が凍った。

 なんだ、これは? たちの悪い悪戯だろうか?

 そうだ。適当なメールアドレスに向けて無差別に発信されたものに違いない。迷惑メールという奴だ。

 やれやれ。世の中には意味のないことをする奴もいるものだ。

 そう思って全く気にしない風を装った。だが身体は正直で、足が地面に張り付いたかのように動かなくなっていたし、ケータイを握る手先は凍え以外の原因で震えている。――心のどこかで分かっている。このメールはただの悪戯ではない。

そうか、これが本能という奴か。

 僕は察知している。このメールに込められた何らかの意志を感じ取っている。誰かが僕に向けて何かを伝えようとしているのだと、このメールから読み取ってしまった。

「う……」

 ぶるり。震えたのは僕の身体ではない。

 掌の中にあるケータイが、さらに振動を始めたのだ。

 このタイミングで、更に……? どう考えてもさきほどの怪メールと関連したものだ。

 恐る恐る、視線を手元に落とす。

 画面に映されたのは『着信中』という文字。

 表示されるべき相手の電話番号は何故か――

『※※※※※※※※※』

 塗りつぶされている。

 ど。

 どうする。この電話、出るか、出ないか。

 この選択を誤った瞬間、僕の人生は変わる気がする。いや、変わるとかじゃない、終わる気がする。

 どうする? どうする⁉

 ひ、人をシカトするのは良くないよな。

 あ、いや、相手が人だという保証はどこにもないのだけれど。むしろ、そうじゃない確率の方が高すぎて泣けてくる。

「ううっ」

 あわわ。なんだかバイブの振動が、一秒ごとに強くなってきているように感じる。これは錯覚だろうか?

 い、いや、マジだ。今や手が痛くなるくらいに、がくがくと震えている。

 ヤバい。これは無視したらヤバいパターンな気がする。

「く、くそっ! やってやる!」

 僕は清水の舞台から飛び降りるくらいの気持ちで、あるいは自暴自棄とも言えるノリで腹をくくった。恐る恐る、ケータイを耳に当て、応答ボタンに指をかけ――

 押す。

「も、もしもし」

 数秒間の沈黙。

 いや、耳元で何か小さな溜息のようなものが聞こえた、気がする。

 そして――

『阿呆! とるのが遅いわ!』

 怒鳴り声。

 耳にキーンと響く、幼い女の子の怒鳴り声。

 そして追撃してくるように受話器の向こう、少女は言葉を続けてきた。

『めーる、とかいうのを使ってみたが、全く使いものにならん! 手っ取り早く電話で話そう。これなら喋るだけで済むから楽じゃ』

「あ、え、あの……」

『説明は手短にしよう。儂の名は湧月。小童、おぬしのケータイ電話に憑りつくことになったので、以後よろしく頼む!』

 ゆづき、という単語に聞き覚えはあった。だが、それを思い出そうと頭を働かせるほど今の僕は正常ではない。

「はぁ、あのあの」

『なんじゃあ。しゃきっとせんな。言いたいことがあればハッキリと言わぬか』

 変に古臭い口調の少女が喋る内容の、一割も頭に入ってこない。

 だから、お言葉に甘えてこう返すしかない。

「間違い電話です」

 電源ボタンを押し、ぱたむ、とケータイを折りたたんだ。

 はぁ、やれやれ。驚かせやがって。

 子供のイタズラ電話か、本当に間違い電話だったのか。知る由もないが。

とにかくこれで――

『おい。もっと丁寧に閉じぬか』

「えっ」

 閉じられたケータイの本体から、あの声が聞こえてくる。

 そこで僕は気付いてしまった。この子供の声は受話器の向こうから喋っているのではなく

〝ケータイそのものが喋っている〟のだという事に。

『それは儂の本体なのじゃ。万が一壊れでもしたら――』

「なんじゃお前はぁぁぁっぁぁああああ!?」

 絶叫と共に僕は全速力で駆けだした。このケータイが父親の形見でもあるという思い入れのある品でなかったら、迷わずブン投げてしまっていたところだ。

 逃げてどうにかなるかなど知らない。ただ僕は、自分の身を襲った不可解な現象について理解ができず、混乱のあまりにとりあえず走っているのだ。

 だが、さっき言った通り僕は走るのが好きではない。それは、走るという行為が得意でないことが原因なのである。

「はぁ……はぁ……」

 つまり僕は何分も全力疾走できるような体力の持ち主ではない。故に当然の如く、すぐに息が切れて自然と足は止まった。

 心臓が破裂しそうな勢いで脈打ち、喉が切り裂かれたかのように痛む。呼吸は荒々しく、肺が身体に酸素を取り込もうと必死に働いている。

 どのくらい走ったのだろうか。周りを見渡せば辺りは閑静な住宅街。遠くに見える我が富柄高校の校舎と現在位置の関係を考えると、家とは真逆の方向に来てしまったようだ。

 とりあえず落ち着こう。こんな時には、そう、深呼吸だ。乱れた呼吸を直すため、大きく吸って、ゆっくりと吐く。すると次第に頭の中もクリアになってきた。

「……お、落ち着こう。とりあえず、落ち着いて、と」

 自分に言い聞かせながら、右手に握りしめたケータイへと視線を落とす。

 外見上は何も問題ない、僕の長年愛用してきたケータイ。だが、恐る恐る待ち受け画面を開こうとすると――

『おい。いきなりどうしたのじゃ。急に走り出したりし――』

「はい」

『ってェ!?』

 ばちこーん! とケータイを閉じる。

 スピーカーからは抗議するような少女の声が聞こえるけど、無視、無視。そんな機能は僕のケータイには存在しない。つまり、これは空耳である。

『おい。聞いとるのか。無視するでない。小童、こら』

「あー、あー、聞こえない。僕は何も見てない、知らない」

 ケータイをポケットに突っ込み、帰宅ルートへと戻るべく歩き出した。

 幸いにして周りに人がいないから、スピーカーから漏れる声を不審がられることもない。いや、そもそもこれは空耳なのだから僕にしか聞こえていない音のはずである。

 よし、一旦帰ったらショップに行って、新しいケータイに買い替えよう。親父には悪いが、もう八年も使えば故障もする。あーあ、変な幼女の声がケータイから聞こえるようになったら、こりゃ故障に違いない。残念だなぁ。

『おーい、現実逃避をするでない。そろそろ儂の話を聞かぬか』

「いやぁ、参ったな。流石に八年も使っていると勝手に音声が流れるようにもなるか」

 無視、無視、無視。見てない、聞いてない、知らない。

 そうだ。僕は知らないぞ。そんなことあり得るワケがない。ケータイに少女が取り憑いたなんてオカルト話、僕は聞いたこともない。

『おーい』

 あ、そういえば走り出す時に傘を放り投げてしまったのだった。早く帰らないと雪で濡れてしまうな。それは困る。よし、走ろう。

『おい小童、いい加減にしろ! 儂の話を聞け!』

「うわああああああ、あーあー聞こえなああああい!」

 僕は耳を塞いで首をぶんぶん振り回しながら、再び全力疾走を開始した。

 人通りのない道路をひたすらに駆ける。家のある大体の方角に向けて、無我夢中でダッシュする。右に曲がり、しばらく真っ直ぐ、次のT字路は左。そして道の向こうに見えてきた十字路、あれには見覚えがある。あそこを左折すればもう僕の家の近くに出るはずだ。

 と、その十字路を曲がったところで僕の身体に衝撃が走った。

「あいっ、って!」

 しまった。誰かとぶつかってしまったらしい。

一瞬視界がぶれ、気付いたら自分は尻もちをついていた。衝突の痛みが消えると、おしりに雪のひんやりとした冷たさが染み入ってくる。どうやら、かなりの勢いで衝突したようだ。

「あいたた……」

 おしりをさすりながら立ち上がる。すると目に入ってきたのは、ベージュ色のコートを着たお姉さんが仰向けで倒れている姿だった。

「う、うわ! す、すす、すみません!」

なんて事をしてしまったのだ! 僕は幻聴に惑わされて、女性に強烈なタックルを喰らわせてしまったようだ。

 慌てて駆け寄り、お姉さんへと頭を下げる。すると彼女は倒れたまま、僕の顔をじっと見つめてきた。

「ほんと、すみません。お怪我はありませんか?」

「……」

 無言のままでお姉さんは僕を見つめ続ける。怪我はないのだろうか? それともまだ倒れた衝撃で意識が朦朧と……?

 どうしよう、救急車を呼んだ方が良いのかもしれない。

 悩みつつケータイに手を伸ばした時、お姉さんが仰向けのままで手を伸ばしてきた。それは立ち上がらせてくれ、というジェスチャーに見える。

「あの、本当に大丈夫ですか?」

 言いながらその手を握り、僕はお姉さんを起き上がらせる。

すると勢い良く上体が跳ね上がり、そのまま彼女は、空いていた方の手で僕の首を掴んできた!

 僕は人間だ。そして人間は首を絞められると、息が出来なくなる。

「が、ぐぐ……!」

お姉さんは無表情のままで僕の首を締め上げ、すっと顔を近づけてきた。

 なんだ、そこまで怒っていたのか?

 いや、確かに奇声を上げながら走っていた僕に全面的な非はあるのだけれど、いきなり首絞めというのは、ちょっとなぁ。――なんて思っている場合じゃない。

「……う」

 ま、まずい。いくら僕が悪いとはいえ、この力はちょっと強すぎる。本当に窒息してしまう。というか女性とは思えないほどの握力だ。なんだ、この人……。

「か……は……」

 え? こ、このままだと……僕、死ぬぞ!?

「が、ぐああ!」

 命の危険を感じては、こちらが悪いとか相手が女だとか言っていられない。

「は、なせ!」

 僕は足をばたつかせてお姉さんの向こう脛を蹴りつける。脛は大の男でも、武蔵坊でさえも悶絶させられる人類共通の急所だ。

 だがお姉さんはぞっとするほど無表情のまま、しかし痛みだけを感じたように身体をくの字に曲げた。その怯んだ隙に首を締め上げている腕を引っ剥がす。

「が、っは……はぁ……何をするんですか!」

 喉を抑えながらお姉さんへと叫ぶ。あと少し遅れていたら首が握りつぶされていた。

 しかし相手は脛を思い切り蹴られたというのに、やはり痛がる素振りも見せずに能面のような顔のまま。抗議も怒りも怯えもせず、ただ僕の方をじっと見つめていた。

 その姿に僕は確信に至る。――この人、正常ではない。

 これ以上関わってはならない。本能でそう察知した僕は、その場から逃げようと踵を返した。

「……な?」

 そして、僕はそこで気付いてしまう。――自分がすでに逃げられない状況にあるということに。

 十字路の四方向全てから、ぞろぞろと人が集まってくる。一方向につき二十人ほど、四方向すべて合わせて八十人近く。そんな大勢の人間が、この静かな住宅街の一角に集合している。まず、その状況自体が異様である。

 さらに奇妙な点がある。それは集まってきた人々が全員、女性だということだ。制服を着た女子高生から、仕事中なのかスーツの女性、エプロン姿の主婦。中には老婆までいる。とにかく全員が女性なのだ。

 ここで「ついに僕にもハーレム展開が!」なんて間抜けなことを思わなかったのは、彼女たちの手には各々、金属バットや小型ナイフ、はたまた鉈のような物騒極まりないものが握られていたからだ。――加えるなら、全員の目が首絞めお姉さんと同じように、虚ろである異常。

「あっ! っぐ……」

 そして、油断していた。

首絞めお姉さんが、今度は後ろから僕を羽交い絞めにしてきたのだ。自分の骨が折れるのさえ厭わないような、無茶苦茶な馬鹿力での捕獲。僕は完全に身動きが取れなくなる。

「わ、うわわ……!」

 じたばたしてみても、その拘束が緩むことはない。きっと向こう脛を蹴るどころか、足をへし折っても彼女は僕を逃がさないだろう。そんな強い意志が感じられた。

 続いて僕の視線は周りに向けられる。

 女性の大群は手に持った武器をゆっくりと構えながら、静かにこちらへ近づいてくる。明らかに僕を狙っているのだろうが、しかし駆けてくるワケでもなく、一切声を上げることもなく、ただ虚ろな表情のままでじわじわと歩み寄ってくるのだ。

 このままではどうなるのか。その想像が出来ないほど僕は馬鹿じゃない。――殺される。

 彼女たちが手にした物騒な武器で、切られ殴られ打たれ擦り潰され、凄惨なリンチの末に僕は絶命する。

「ひィ」

 地面に積もりつつある真っ白い雪に、赤い液体が降り注ぐイメージ。脳内で再生されたそれは数秒後には現実のものとなる。

 死ぬ、このままでは、死ぬ。

 何故だ? 何故僕が殺されなくちゃいけない?

 分からない。ただ、このままでは殺されるという事実だけが目の前にある。

 虚ろな目をしながら武器を持ち、迫ってくる女性たち。背後には尋常ではない力で僕を羽交い絞めするお姉さん。首が締まるのを防ごうと抵抗するので精いっぱい、もちろん助けを呼ぼうと大声を出すことも出来ない。

「ぁ……か、は……」

 確かに僕は、退屈な日常が何らかの劇的な要素によって変わることを夢見ていた。その為に心霊写真撮影をしたり、あの林に足を運んだりしていた。だが僕が望んでいたのは、こんな非日常ではない。

 これじゃ、物語の冒頭で殺される犠牲者その一じゃないか。いや、所詮僕はその程度の役柄しかもらえないのか。

 違う。そんな事はどうでも良いのだ。とにかく僕は、死にたくない。そんな人間として当然の想い。

「助けて」

その想いが生み出した、微かに喉からこぼれ出た音。

だが、それに応えてくれる人は何処にもいない。いない――はずであった。

『仕方がないのう……』

 ポケットの中から、そんな声が聞こえてきた。

 空耳? いや、違う。

 スピーカーを通じて鼓膜に響いてくる、ノイズ混じりの可愛らしい女の子の声。

 あれほど不気味に思った声も、今の状況で聞くならば、とても頼りがいのあるものに感じられる。

 溺れるものは、藁をも掴む。僕は生まれて初めて生命の危機に直面し、その言葉の意味を体験することになる。――確かに人間、いざとなれば何にでも頼るようだ。

「頼む。た、助けてくれ」

 なんと情けないのだろうか。

 ケータイから聞こえてくる少女の声に、である。実体が今どこにいるかも分からない少女に、である。そしてあれほど恐れて無視し続けた彼女に、僕は助けを求めた。命を助けてくれと乞うた。

 なんと情けないのだろうか。

仮に僕が物語の主人公だったとしたら、その称号は即座に剥奪されてもおかしくない小物ぶりだ。――だが、その判断だけは間違いではなかった。

『言われなくとも、助けてやる』

 ジジッ――

 テレビの砂嵐を一瞬だけ切り取ったような、あるいは強烈な静電気に見舞われた時のような、そんな音が耳に届いた。

 驚いてビクリと肩を震わせた僕の目の前に、ソレは発生する。道路の真ん中、ちょうど女たちと僕のいる場所を結んだ線の中間地点あたり。

 そこに砂嵐のような、あるいはバーコードのような、よく見れば0と1の集まりの、そんな映像が浮かび上がった。張りぼてのように厚さのないソレは、人間のシルエットを形作っている。

「これは……」

 次に目を瞬いた時には――完了していた。

「あー、あー。やはり肉声は気持ちが良いのう」

 その声はまぎれもなく、先ほどまで僕のケータイから聞こえていた謎の少女のものであった。ただしノイズ混じりの、無線機の向こう側から聞こえてくるようなものではなく、現実に今そこで発せられた綺麗な生声だ。

「儂に助けを求めよ。そうすれば、おぬしは儂に助けられる」

 見た目は小学校低学年、年齢でいえば八歳くらいだろうか。

作り物のように真っ黒で艶のある髪の毛を腰のあたりまで伸ばし、顔には黒瑪瑙をはめ込んだような綺麗で丸い漆黒の瞳。ぷっくりとした小さな唇は精巧な彫像のように形が良い。肌は雪よりも白く、その肢体を包み隠す赤い着物には菊の花模様が金の刺繍であしらわれている。――そんな美しい少女が、そこには立っていた。

 僕は彼女をどこかで見たことがある。

 だが、そんな些細な記憶の引っかかりはどうでも良かった。僕はその美しさに、武器を手にした女たちに囲まれている事実など忘れて、ただ感動に放心していたのだから。

「うぅむ。……魂と電気は相性が良いとは聞いておったが……。やはり伝導率は物足りぬのう」

「あ、あの、えっと」

 美しさへの感動が終わると、次に僕を襲うのは混乱だ。超常現象を目の当たりにしている驚きと、この窮地を彼女が救ってくれるのかもという期待と、あらゆる感情がごちゃ混ぜになっている。

 そんな僕とは対照的に、少女はあくまでも冷静に戦況を分析し始めた。

「ふむふむ。八十と二人か。この身体で戦うのは骨が折れるかのぅ」

 そして彼女は、僕を拘束しているお姉さんと、武器を振り上げてゆっくりと近づいてくる集団とを見比べると、一つ頷いた。

「逃げるしかないかの」

 ざわ。

 まるで木の葉が風に揺られるような音がした。

 それが少女の髪の毛が〝伸びる音〟だと分かったのは、いつの間にか少女の髪の毛が地面に、まるで水たまりのように広がっているのに気付いてからだった。

「小童、動くなよ」

 言われなくても、一歩だって動くことは出来ない。僕はお姉さんに拘束されたまま、少女に全てを任せようとじっとしている。

「そこだな」

 ぽつり、少女が呟いた。

 と思った時には〝攻撃〟が終わっていた。

 とてつもない長さに伸びた少女の髪の毛が寄り集まって、一つの黒い柱となったのだ。いや、柱というよりは棍棒といった方が適切かもしれない。

 それが動いた、と思ってから一秒もしないうちに、僕のわき腹の横を凄まじい速さで突き抜けていったのである。それは恐らくプロ野球選手の投げる剛速球に匹敵するスピードだったと思う。

 そんな髪の毛の刺突は僕のわき腹を掠めた後ろ、つまりはお姉さんの腹に直撃していた。

 目にも留まらない速さはつまり、それなりの威力を持っている。それで悶絶しない人間はいない。

「うぐ……」

 苦しそうなうめき声が耳の後ろから聞こえてきたのと同時に、羽交い絞めが緩くなった。

「よし! ……はな、せぇ!」

 僕は慌ててその拘束を振りほどく。勢い余ってお姉さんは地面に倒れたが、自分を殺そうとしていた人に同情するほど優しいつもりはない。

 それにまだ周りを大勢の敵が取り囲んでいるのだ。安心するには早い。僕はすぐに身構えた。

「まだ繋がりが悪いのう。〝たまな〟もキレが悪いわ」

 少女が良く分からない事を呟きながら、こちらへと歩み寄ってくるのが視界に入る。

 そして、彼女はにっこりと笑った。

可愛い。人形のような整った顔立ちによる笑みは、完全に反則レベルの可愛さだ。

顔が熱い、僕は場違いにも赤面していたに違いない。

「おぬしが肥満体型でなかったのが、命拾いじゃったな」

 くつくつと笑う、突如として現れた謎の少女。これまでの会話やさっきの行動からして、僕の味方だというのは理解できる。だがそれ以外のことは全く理解できない。

「あの、あなたは……」

「すまぬが、ゆっくりと話すのはもう少し後からじゃ」

 この言葉の意味はすぐに理解できた。

 今まで緩慢な動きでこちらに近づいてきていた女たちが、まるでスタートの合図を出されたように一斉に走り出したのだ。総勢八十名に刃物を振りかざされる恐怖は尋常ではない。僕は思わず腰を抜かした。

「座っておる場合ではない。さぁ、行くぞ」

「……えっ、うわ、なんだこれ!」

 気付いた時には、僕の身体は黒い縄でぐるぐる巻きにされていた。羽交い絞めの次は簀巻きである。どうやら今日の僕は拘束に縁があるらしい。

 ただ、その縄が少女の頭部と繋がっている――つまり彼女の髪の毛によって作り上げられた縄であると分かり、ひとまず安心する。さっきのとは違い、この拘束は僕を救おうとする意図のものだ。

「ちょっと、こっちに来ておれ」

 彼女が言うのと同時に、僕の身体は宙に浮かび上がった。

「うわ、うわ!」

「いちいち、うるさいのぅ。どーんと構えよ。すべて儂に任せれば良いのじゃ」

 冗談ではない。僕の身体に巻きついている髪の毛が、どういう原理か体重五十キロ以上の僕を持ち上げ、少女の頭上へと掲げているのだ。驚かない方がおかしい。

「跳ぶぞ」

 そして僕を持ち上げるのに使っている以外の髪が、まるでツインテールのように二束に別れた。そして、まるで蛇が獲物を狙って鎌首をもたげるように、静かに髪の毛の束が持ち上がる。

「せぇのっ!」

 振り下ろされた二束の髪の毛は、積もりかけの雪を吹き飛ばしながら、激しく地面に打ち付けられた。

 その反動で彼女の小さな体躯は空高く舞い上がる。そして、髪の毛で繋がっている僕も引っ張りあげられるようにして跳び上がった。

「うぎゃああああああ!」

 命綱なしの逆バンジー。救済措置なしの人間大砲。僕が味わった恐怖を喩えるには、こう言えば良いのだろうか。

「なんじゃあ、高所恐怖症だったか?」

 こちらを見上げながらあきれ果てたように言う少女に、僕はもはや心酔などしていなかった。

「ふざけんな! 高所恐怖症じゃなくたって、お前、こんな――」

「着地する。舌を噛むぞ、黙っとれ」

「えっ、おわ……ひぃぃぃィィィあああああああ!」

 さきほどはジャンプのために役割を果たした二束分の髪の毛が、今度は着地のためのクッションとなる。眼下に見える一軒家の屋根へ向けて、二束の髪の毛はまるで、お茶を立てる道具――茶筅のような形になった。

 それで衝撃は和らげられて、僕と少女は無事に着地する。いや、僕はまだ髪の毛で簀巻きにされたまま、少女の頭上で荒い息を吐いている。とても着地したとは言えない。

「ひ、ひィ……。死ぬかと思った」

「おぬしは死なぬ。儂と一緒にいる限りはの」

 お前の行動のせいで死にかけたんだよ、とは言わないでおいた。

「……そ、そういや追っ手は」

ここはどうやら、先ほどの道路から通り一つ分ほど離れた家の屋根のようだ。まだ眼下に人の姿はないが、さっきの女性たちが僕らを追ってくるのは間違いないだろう。

心配する僕をよそに、少女は髪の毛についた雪を払っている。

「さて、奴らの身体能力は普通の人間と同じ。故に一足飛びで屋根に飛び移っては来れぬだろう。とりあえずは一息つけるということじゃ」

「……はぁ……はぁ……そう、ですか」

 絶叫マシンは命の安全が保障されているから楽しめるのであって、こんな下手したら死ぬような欠陥アトラクションは心臓に悪いだけだ。僕はいち早くこの宙吊り状態から逃れたかった。

「では新しい追っ手に捕捉される前に帰るか。小童、家まで案内せい」

「よ、良かった。じゃあ、とりあえず降ろしてください」

 僕の至極真っ当なお願いを聞いて、少女はきょとんとした表情で首を捻る。

「何を言っておるのじゃ? 下に降りたらまた囲まれてしまうかもしれん。このまま屋根の上を飛び移って家までいくのじゃ」

「……は?」

「それにな。儂は雪で濡れたくない。おぬしは傘代わりといったところじゃな」

「はあああああああ?」

 次の瞬間には、僕の身体は再び雪舞う空へと飛び立っていた。

 抗議をする機会さえ与えられず、少女の頭の上に掲げられたまま、僕は二度目の空中散歩を強制されたのであった。


 僕の自宅は2LDKのマンションである。

 高校生で一人暮らしというのは自分でも珍しいと思う。特に僕は遠方から引っ越してきたわけでもなく、生まれてから十七年間ずっと在尾羽町に住んでいるのだから。

 その理由は単純に、母親が海外出張でほとんど日本にいないから。高校生になってからは、もう一年に一回帰ってくるかこないか、くらいの疎遠っぷりだ。

 ということで、この部屋には僕しか住んでいない。ただし今はリビングに一人の客がいた。僕の淹れた緑茶を啜り、ソファの上でまったりとくつろいでいる少女。――僕の命を救ってくれた、人形のように美しいあの少女である。

 少女の髪の毛はその身長の三倍ほどにまで伸びており、大人三人が悠々と座れる大きな白いソファも、今はその黒い繊維に全てを覆われていた。

「それで、まず……あなたは何者なんですか?」

 一息ついたところで僕は基本的かつ最大の疑問を投げかけた。少女は「ふーむ」と何やら悩むように視線を泳がせたあと、こくんと頷く。

「まずは名前からじゃの。儂は湧月。姓はない。って、本当は教えたはずなのじゃが」

 今にして思えば確かに、少女は自分のことを湧月と名乗っていた気がする。僕が奇声を上げながら走っている間に忘れてしまっていたが。

申し訳ない気持ちになりながら、自己紹介を返す。

「え、と。僕は福室慶輔です。しがない高校生をやっています。歳は十七、趣味も特技も……特になし」

 まさか初対面の人に心霊写真撮影が趣味、とは言えない程度の恥じらいは僕にもある。かといって他に特筆すべき趣味や特技もないから困った。だから僕は自己紹介が苦手なのだ。

「うむ。よろしくじゃ、福室慶輔よ。……随分と、おめでたい名前じゃなぁ」

「はぁ……」

 なんだか、すごい馬鹿にされた気がする。……気を取り直して彼女の話に耳を傾けよう。

「それで儂が何者かという話じゃが……なんと言ったら良いのかのう。これは難しい問題なのじゃ。実は儂自身、自分が何者なのかまだ分からんのじゃ」

「えっ、記憶喪失……?」

「いや、そういう訳ではなく……。うーむ。なんと言ったら良いかのぅ」

 別に隠そうとしているわけではなく、湧月は本当に自分が何者なのか説明するのに窮しているようだった。助け船を出すつもりではないが、僕が何となく感じた印象を伝える。

「湧月さんは……そのー、幽霊、とか妖怪……みたいなものなんですかね?」

 その言葉に彼女の眉がぴくりと動いた。

「ふむ。鋭いではないか。確かに儂は妖怪ともいえる」

「妖怪……ですか」

 日本人なら誰でもその存在は知っているだろう。おとぎ話や昔話での悪役。人を襲ったり人を騙したりする、人ならざるものたちだ。

目の前にいる湧月はまさしく、そんな非現実的存在である。……ケータイに憑りついている妖怪、なんてのは聞いたことがないけど。

「そう、妖怪じゃ。現代人は架空の存在とか抜かしおるらしいが、儂ら妖怪は実在する。どうやら現代の妖怪はその正体が明らかにならぬように、ひっそりと生きておるようじゃがの。

……昔は堂々と暮らしておったものじゃが。堂々過ぎるほどに」

「っていう事は、やっぱり湧月さんは妖怪、って事でいいんですよね?」

「うむ……ただのぅ、現状はそう名乗って良いものか……。自分で名付けるならば、今の儂はさしずめ〝電子妖怪〟といったとこかのう」

 電子、妖怪? その聞きなれない単語に僕は首を傾げる。

「順を追って説明した方が良さそうじゃのう。……まず、儂は超すごい妖怪じゃ!」

 えへん、と胸を張って彼女は言い切った。

 いやいや説明の頭でいきなり自慢話をされても困る。ていうか初対面の人間に対してここまで自信満々に自画自賛するか? 普通。

 と、突っ込みたいのもやまやまなのだが、彼女は僕にとって命の恩人であるのも事実。ここは素直に彼女の力を賞賛しておこう。

「いやぁ、すごいんですね。湧月さん」

 言うと彼女は水を得た魚、いや、火に油を注いだかのように鼻を高くした。

「そりゃもう! 妖怪といっても儂は人間の味方じゃからな。かつては悪い鬼をばったばったとなぎ倒し、この国を救ったといっても過言ではないくらいの活躍をしたものじゃ! 今の世があるのも儂のおかげ。思う存分に感謝せよ」

 鬼を倒す、だなんて。まるでおとぎ話の主人公、何とか太郎さんたちみたいな宣伝文句だ。それをこの小さな体躯の少女がやってのけたと? 正直、眉唾である。

 大体にして、鬼というのが実在するのか? という疑問もある。いや、目の前にいる少女からして非現実的な存在なのだから、鬼が本当にいたっておかしくはないのか?

「ところがじゃのう。儂は〝色々〟あって封印されたのじゃ」

 そこ、随分と端折りましたね。

「色々……って何ですか?」

 鬼退治をした英雄が、なんで封印されるのか。そこは実に気になったが、突っ込むと同時に湧月がじろり、と上目使いで睨んできたのでこれ以上は追及しないことにした。

「それで封印されてから何百年か経ち、今に至るのじゃが――」

「なっ、何百年?」

 そうなると……この八歳児にしか見えない美少女は、実は御年数百歳だというのか?

いやそれにしても、いきなりスケールのデカい話になったなオイ。何百年て……。

 話に置いてけぼりの僕に構わず、彼女は更に説明を続ける。

「ある日、ふと気付いたら、おぬしのケータイの中に閉じ込められておった」

「……はい?」

 あまりの飛躍っぷりに、頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされる。

「まぁ、おぬしがそのような阿呆面になるのも仕方あるまい。儂だって困惑しておるのじゃから。だが事実として儂は封印を解かれ――いや、ケータイ電話の中に封印場所を移されてしまったのじゃ」

 僕は手元にある自分のケータイを見る。このボロボロで化石レベルの骨董品なケータイに、目の前の美少女が封印された?

 いつ? どうやって? 僕は肌身離さずこのケータイを持っているというのに。そんな事があったなんて、まるで気が付かなかった。何かの間違いじゃないのか?

「しかも、魂を無理やり虚と実に置き換えられた。ええと、儂が調べたところ――つまり、データ化されてしまった、という事らしいのじゃ。全く、とんでもない事をしてくれた」

 魂のデータ化? 訳が分からない。まるで身に覚えがないぞ。

「そ、そんな事……した覚え……ない……です」

「おぬしがせんだったら、他に誰がやってくれたのじゃ! ああ、この責任どうとるつもりじゃ。儂の美しくて強い気高き魂が、このよーな複雑怪奇で意味の分からぬ機械の中に閉じ込められてしまったのじゃぞ!」

 瞳に涙なんて浮かべながら、年端もいかぬ美少女に捲し立てられてしまった。

 なんだろう。童貞なのに見知らぬ女性から「責任をとれ」と結婚を迫られているような理不尽感だ。そんなの知ったこっちゃないぞ。

「まぁ、ケータイに移ったから、封印中よりは自由になれたのじゃが。それに〝いんたーねっと〟とかいうオモイカネも真っ青の情報源泉のおかげで現代の知識もある程度は得られたしの」

 え。僕のケータイの中でインターネット使ってたの? パケット代は大丈夫かな……?

「それでも、己の存在を根本から改ざんされるのは、気持ちの良いものではないぞ、小童」

 彼女はハナから僕のせいで『電子妖怪』になってしまったと決めつけているようだ。そこのところの誤解は解かなくては。

「いやでも、本当に身に覚えがないんです。封印だの妖怪だの意味が分からないし」

 無実の罪を着せられた怒り、というよりは意味が分からないという困惑の方が大きい。それが彼女にも伝わったのか、その表情が怒りから懐疑に変わる。

「やはり、違うのか? 状況を考えれば、おぬしが何かしたとしか考えられぬのじゃが……」

 そこで湧月は僕の身体をじろじろと眺め、ふん、と鼻息を漏らした。

「いや、やはり……あり得ぬか。小童は魂も脆弱だし、特に陰陽道に通じているわけでもない。儂の封印を解く力があるようには思えぬな。何か隠された才能でもある、というのなら別じゃが……」

「なんか謂れのない罪を着せられかけた上に、すごい罵倒をされた気がする……」

「まぁ、おぬしに身に覚えがないのであれば、これ以上は追及してもしょうがあるまい」

 このくらいにしてやろう、とでも言いたげに嘆息をもらし、彼女は本題に入る。

「問題はその後よ。儂の魂はデータ化された上、ケータイの中に封印され外に出られなくなった」

「……今、思いっきり外に出てらっしゃいますけれども」

 ソファの上でお茶を啜りつつ、勝手に煎餅まで齧り始めているのは何処のどいつだ?

「そう急かすな。以前の儂は魂を〝本体〟に封じ込められておった。そして必要に応じて魂で肉体を具現化し、今のような人間の姿を形作ることで活動する妖怪じゃった」

「すみません。日本語でお願いします。意味が分かりません」

「頭が悪いのう……」

 溜息交じりで言われイラッとしたが、そこはぐっと堪えて教えを乞う。

「とりあえず魂ってなんですか? 大体の意味は分かりますけど」

「おぬしにも分かりやすく言えば……そうじゃのう。生き物が持つ生命力や精神力の融合体みたいなもんじゃな。肉体以外の、目に見えない強さの事じゃ」

 うーん。ゲームとか漫画に出てくる魔法使いの魔力……みたいなもんか?

「これが強ければ強いほど人間も妖怪も、より強い〝力〟を使うことが出来る。ちなみに儂の魂は千年に一人の逸材と言われるほどに強かった」

 えへん、と胸を張る。どんな説明の合間でも自分を褒めることは決して忘れない、その高慢な精神は是非とも見習いたいものだ。

「そうなると、あの髪の毛を伸ばして操ってらしたのも、魂の力ってことですかね?」

「そういう事じゃ。儂はあのような使い方をしておるが、その妖怪によって魂で出来ることは色々と違ってくる。儂も髪の毛を操るのが芸だけではない」

 なるほど。大体のイメージは掴めた。魔法とか念力とか、そういう目に見えない力のことだな。すると、さっきの意味不明だった説明もなんとなく理解できる。

「つまり今のその姿は、魂……とやらで作ったものってことですか?」

「その通り! と、言いたいところじゃが……」

 そこで彼女は溜息を一つ挟む。

「それは本体にいた頃の話じゃ。ケータイに封じられてからは、どうやら魂を外に放出する効率が著しく悪くなったようでの。上手く具現化は出来そうになかった」

 髪の毛をいじりながら、バツが悪そうな顔をする。まるでテストの点数が振るわなかったのを母親に告白する小学生みたいだ。

「ということは、今は何か別の方法を見つけたと?」

「なんじゃ、鋭いではないか。――そう。儂は昔、こんな話を知り合いの陰陽師から訊いたのを思い出したのじゃ――魂と雷は性質が似ている、とな。さらに、このケータイという奴に電気が内蔵されているのに目をつけたのじゃ」

 ケータイに電気が内蔵って……。それは、バッテリーの事だろうか。

「それで電気に魂を混ぜて外に放出してみた。すると効率が大分マシになって、なんとか具現化も出来るようになったというわけじゃ」

 僕の目は自然とケータイの画面、右上にあるバッテリーの残量表示に向かった。そういえば、今日は大して使ったわけでもないのに電池のマークが満タンの三つから、バッテリー切れギリギリの一つに減っている。

「もしかして、湧月さんが具現化している間は、僕のケータイのバッテリーが消費され続けるってことですか?」

「まぁ、そういう事じゃな。火を焚くための薪みたいなものじゃ。初めてで効率が悪いのと、逃げる際に少し動いたから消費が激しくなってしまったのじゃろう。儂が具現化に慣れ、普通に過ごしている分には……おそらく三日は持つ。――そういうわけじゃ、暇があったら充電しておいてくれ」

 ふむ。彼女がこうして肉体を維持するには僕のケータイのバッテリーが必要だと。

 そこで湧月はちょうどお茶を飲み干し、大きく欠伸をした。

「これにて儂の取扱説明は終わりじゃ。まぁ、これで当面は問題ないかのう」

 結局、僕が分かったのは以下の四点。

彼女が湧月という名の妖怪であること。

 そして、すごい妖怪であり、かつては鬼とかを倒していたけど、なんやかんやで封印されたということ。

 最近になって何故か僕のケータイに封印が移され、おまけに電子化されたせいでバッテリーがなければ肉体も維持できないくらい弱くなったらしいこと。

 ついでに彼女が自信家で、傲岸不遜な奴ということだ。

「では……。あとは質問などあるか?」

 質問はあるか、と言われると困る。なにせ質問があり過ぎて何から訊いたら良いのか……。

 とりあえず湧月本人に関しての疑問は置いておこう。それよりも僕には明日からの生活すら脅かす大問題があるからだ。この問題について対策を打たなければ、安心して明日を迎えることも出来ない。

「じゃあ、質問」

「はい、小童。どうぞ」

「あの……さっき女の人たちが僕に襲いかかって来たのって、何か湧月さん、関係あるんですか?」

 【ぎくり】――そんな擬音がぴったりの反応というのは、なかなか現実では見る機会がない。そういう意味では非常に珍しいものを拝めてラッキーだ。

「あ、な、いやいやいや。あれはのー、なんだったのじゃろうなー。儂は知らんが、現代ではああいうのを……集団ひすてりー? とかいうのじゃろ? 怖いのー」

 指摘するのが哀れなほどの慌てっぷりであったが、そこは突っ込まざるを得ない。

「……。いや、知ってるんでしょ。湧月さん」

「し、知らぬ! 儂は知らぬぞ。傀儡の事なんぞ知らん!」

「傀儡……?」

「あ」

「……傀儡って何?」

「むぁぁぁぁー! 知らんと言っておるじゃろ! もう話すことはない。バッテリーも勿体ないし、儂は帰って休むぞ!」

 癇癪を起こしたように叫ぶと、湧月の姿が砂嵐のような音と共に掻き消えた。そして手元のケータイからノイズ混じりの声が聞こえてくる。

『良いか! 儂はこのケータイがないと生きていられない状態になった。だから持ち主であるおぬしの身に何かあると儂も困る! しかし、今日のようにおぬしが暴漢にいつ襲われるとも分からぬ。だから、しょうがないので明日から儂がおぬしを護衛してやろうという事じゃ!』

 早口で色々と言われてしまったが、彼女は僕を守ってくれる……という結論で良いのか?

「あ、いや、それはありがたいんだけど……」

『そういうわけで、明日からよろしくじゃ』

「う、うん」

 問答無用で会話を終わらされてしまった。

 僕が襲われたのは絶対、湧月に何らかの原因がある。だが、それを分かっていても、彼女に守ってもらわなければいけない事実に変わりはない。僕一人ではあんな事態は切り抜けられないのだから。

 だから彼女が護衛をしてくれるというのなら、それは僕としても助かる。

 でも、そうじゃない。何か引っかかるような……。もっと大きな問題があるよーな。

『あ、そうそう』

 何か言い忘れたことでもあったのか、再びケータイから声が流れてきた。

『これからの事についていくつか忠告しておきたいことがあるのじゃが……。まず一つ、儂が寝ている時は無暗にケータイを開かないこと』

「えっ、なんで?」

『……おぬし。女子おなごが寝ている部屋にひっそりと入ったりするのか?』

「女子の寝ている部屋……って……」

 僕の目線が手元のケータイへと移る。

すると、いつの間にか待ち受け画面に湧月の姿が映っていた。画面の中央にちょこんと体育座りし、こちらをじっと睨んでいる。

 待ち受け画面でキャラクターがうろちょろするアプリがあるとは知っていたが、僕のオンボロなケータイとは無縁の代物であるはずだった。

 それが今は、小さくて性能の悪いディスプレイに湧月というキャラクターが表示されている。異常にリアルな、最新ゲーム機よりもよっぽど精巧なグラフィックスで、だ。――ケータイに封印されている、というのはこういう事なのか?

『ふぅ。やれやれ。持ち主が脆弱なのは守りがいがあって良いが、〝でりかしー〟に欠けるのは困ったものじゃのう』

「わ、分かったよ! そうと分かればそれなりに気を遣うって!」

 それにしても、こうして小さい画面に映っているのを見ると、本当に見た目は可愛らしい奴だ。いや、具現化していても見た目だけは可愛いが、何しろ先ほど見せられた口の悪さと癇癪である。こうして一方的に鑑賞するだけなら良いのだが。

 彼女は待ち受け画面の中で立ち上がり、周りをきょろきょろと見渡し『にしても殺風景じゃのう』と難癖つけるような文句を言ってから、僕の方へと視線を移す。

『あとは……そうじゃな。いつでも儂が万全の態勢で戦えるよう、充電はたっぷりしておくように。出来るなら外出先でも充電ができると良いな』

「はぁ、了解です」

 それに関しては僕自身の身の安全にも関わってくる。大人しく従おう。

『あと朝ごはんはパン禁止じゃ。別に好き嫌いはないが朝ごはんは白米と決めておる』

「えぇ!? ご飯食べるの?」

『当たり前じゃ! 儂をなんだと思っておるのじゃ!』

「いや、電子妖怪でしょ? 電子妖怪って……お腹空くの?」

 ケータイのアプリに食費が掛かるなんて話、聞いたこともないぞ。まぁ、彼女はアプリではないけど。

『腹は減らぬじゃろう。が、儂のやる気がなくなると護衛に支障が出る。魂は精神状態に敏感じゃからな』

 いや、それは完全に我儘じゃないか……?

『それに肉体維持の為のエネルギーを食物で補うことが出来れば、バッテリーの消費量を節約出来るかもしれぬぞ』

消費電力については、必要な時以外はケータイの中にいれば良いだけなんじゃ……。

『それでは、これらを守って仲良くしようではないか』

 実に一方的な要求だけを通されて、仲良くも糞もない気がする。だが、何しろ彼女は僕の命を救ってくれた恩人。それに人外の力を持った妖怪。ここは下手に出ておこう。

「はあ……いえいえ、こちらこ、そ……よろし――?」

 言いかけて、自分の中の何かがストップを掛けた。

 さっきから薄々感じていた違和感の正体が分かった。

 そうだ。当然のように彼女は僕と一緒に暮らすようなことを言っているけど、それに関して僕は一切了解した覚えはないぞ。

「湧月さん。質問があります」

『ん、なんじゃあ?』

「もしかして湧月さん。これからずっと僕のケータイに住む気ですか?」

『ああ。それが嫌なら具現化したまま住むかのう?』

「いやいやいやいやいや! そういう問題じゃないでしょ! 困りますよ、急にそんな事言われたって!」

 僕にだって生活がある。

 普通の男子高校生として学校に通わなければいけないし、いきなり幼女と二人暮らしと言われても、そりゃ……金銭的にも世間的にも色々と困る。

『だって儂はこのケータイに封印されておるのじゃぞ? 儂とて出ていきたくても出ていけないのじゃ。そしてこのケータイの持ち主は?』

 そ、それは僕だけど……。

『何も悪いことばかりではない。そうだ。妖怪相手だけでなく、日常生活での護衛もやってやろうか?』

 普通、日本において日常生活に護衛が必要な高校生はいない。

『あとは新着メールの読み上げサービスとか、電話の取り次ぎとかもやってやろうかの? 最強の妖怪である儂が、おぬしの秘書になってやるというのだ。これはお得な契約じゃのう。ふふん』

 残念ながら僕にメールや電話は来ない。秘書を雇っても実質ニートになるだろう。

「というわけで、その話は飲めませんよ」

『ぬぅ。やれやれ……』

 なかなか納得しない僕に、湧月は「とっておきの切り札を出そう」と言いたげに不敵な笑みを浮かべた。

『小童よ、それにじゃ。……こんなにも美しい儂と一緒に暮らせるのじゃぞ? 男冥利に尽きるとは思わぬか?』

 ああ、現在ドヤ顔と呼称される表情は数百年前からあったのだな。と僕は思った。

 まぁ確かに、同い年くらいの美少女といきなり同居することになる、なんて展開だったら僕も歓喜していただろう。漫画やゲームにでもありそうな夢のようなお話だ。

 しかし――

「でも、湧月さん。確かに可愛いんだけど……」

 可愛い、という単語に彼女の顔が綻ぶ。

「でも八歳児じゃん」

 続く心の奥底からの本音に、湧月の顔が笑みのまま凍りつく。

 そして次の瞬間。ケータイから飛び出してきた髪の毛の束に、僕は思いっきり頬を引っ叩かれたのだった。

 こうして、僕が求めていた劇的な非日常は、あまり好ましくない形で幕を開けた。


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