第四章
綾香のその一言で、その空気は変わった。
一瞬で空気は冷たく、張り詰めたものへとなった。先ほどまで明るかった笑顔が、急に絶える。
「あ、あはは。まぁ子供の言う事だからね。そんなに信じないでよー。ほら、暗い顔なんてしないでってば」
そう言って綾香は場の空気を変えようとする。彼女の気遣う言葉と苦笑が、粕かに場の空気を和ませる。先ほどまでの空気が軽くなる。
「そう……だよね。ははは。あたし何信じ込んでんだろ」
「そうだ。そんな事あるわけない。……なぁ健介」
そう言って、時雨は話を健介へと振る。
「え? ごめん聞いてなかったんだ。何だって?」
健介は腹を痛そうに押さえながら、床から立ち上がる。先程まで、智子の強烈なエルボーで撃沈していたというのに。
そしてその時。健介は少しぐらついた。健介は再び倒れてしまいそうになる。しかし健介は机に手をつき、何とか体勢を整えた。
「――ふぅ。危ない危ない」
そう言って健介は汗を拭う仕草をする。安堵の表情を浮かべ、少し微笑む。
その時。その机に置いてあった一枚のプリントが、健介が手をついた衝撃で揺り動く。そしてそのプリントは、窓から流れ込む風に乗る。
「あ、私のプリントが!」
綾香は驚いて、自身の手を伸ばしてプリントを掴み取ろうとする。だがしかし、僅かにその手は届かず、プリントはそのまま風に乗り、逆側の窓から外へと飛んでいった。
プリントは華麗に宙を舞い、校舎の外の世界を優雅な様子で流れる。
「むぅー。飛んでっちゃった……」
綾香は頬を膨らませ、残念そうな視線でプリントを眺める。それと同時に、一斉に皆の視線が一点へと集中する。
「俺のせい……だよなぁ」
「ああ。お前意外に誰がいる」
時雨は容赦なく、健介へと詰めたい言葉を放つ。レンズを通して見える瞳は、非常に澄んでいて、冷たい。
「……ごめん綾香。ちょっと待っててくれ。今すぐ取ってくるからさ」
健介は綾香に軽く謝ると途端に、教室から飛び出そうとする。しかし彼の制服の裾が、小さな手で握られ、思わず彼は静止する。
「健介待って。私も行くよ。だって、あれ私のプリントだし」
「でも……。うん、分かった。一緒に行こう」
健介は仕方がないな、とぼやく。すると綾香はいいからいいから、と言って健介の裾を引っ張って行った。
校舎を出たと同時に、凄まじい太陽光線が二人を射る。鮮やかな蒼色の空に悠々と浮かぶ雲。その隙間から差し込む光景は、何とも言えない不思議な光景だ。
「ほら健介。早く行こうよ。早くしないと授業始まっちゃうし、プリントが遠くへ行っちゃうよ」
綾香が健介を急かす。その表情が、何とも言えないもので、なんだか見ていると和んでしまうようなものだ。
「はいはい。分かったから走るなって。転ぶぞー」
綾香は大丈夫ー、と言うや否や、再び走り出した。その度に、彼女の腰まである長い黒髪が大きく靡いている。
健介はそんな綾香を見て思わず微笑んだ。
彼女の笑顔が愛しい。それ以前に、綾香自体が愛しい。それが、健介の隠す事の出来ない本当の気持ちだった。その気持ちが、彼の表情からも露となっている。
誰もいないグラウンドを、二人は横断する。一刻も早くプリントを見つけないと。その気持ちが、二人の気持ちを急かす。
そして、グラウンドに無い事を確認すると、二人は校門を飛び出した。
それと同時に、健介は足を踏み入れてしまった。後戻りできない、運命の扉へと。