第三章
――間一髪。
この言葉が、今の彼らにはお似合いの言葉だった。
「はぁ……はぁー……」
長く深いため息が、丁度教室の真ん中から聞こえる。そこの席には、教科書で顔を扇ぐ健介が座っていた。彼の頬を一粒の汗が流れる。
そして健介は一息ついた後、鋭い視線を隣へと向けた。するとそこには健介と同じように、教科書で仰いでいる少女の姿が。
「おい綾香! お前のせいで遅刻するところだったじゃないか!」
「だ、だからごめんってばー」
健介の怒声が少女――綾香の耳元で放たれる。その怒声に綾香は耐えて、ただ謝るしかしなかった。
――お前のせいだ。だからごめんってばー。
そんな凄まじい口論が交わされ続けていると、それを仲裁する声が入る。
「いやいやー。喧嘩するほど仲がいいとはこの事ですなぁー」
「ああ。だがこの場合は、俺は健介が咲野をいじめているようにしか見えんのだが」
「うっわ。浅野、サイテーだね」
そんな弾んだ声の騒がしい会話が、健介と綾香の耳に留まる。そして二人は驚いた表情でその声が聞こえる方を見る。
「遼! 時雨! それに智子!」
そう健介は叫ぶ。そしてその直後に、遼と呼ばれる少年は口を開く。
「もー。健介君ってば。朝からいちゃつき放題ですねー」
そう言った直後、遼は健介の肩に手をするっと伸ばす。その直後健介の背に寒気が走る。ひいっ、と健介は粕かに悲鳴を上げる。
「羨ましすぎるんだってー。このこのー!」
そう言いながら健介の脇をこそばかす。悪気は無い、ただじゃれ合っているような光景が、教室の真ん中で繰り広げられている。
「このっ! この野郎! こんちくしょー!」
「痛い! 痛いってば。お前、なんか本気で怒ってない?」
次第に遼の言葉は荒々しさが表れ始め、とうとう健介の体を殴り始める。
刈り上げた黒髪。真っ直ぐな瞳。そして整った顔つき。黙っていれば、二枚目な小手川遼。悩みといえば、女のようなその名前ぐらいだろう。
しかし。彼が口を開いたら最後。彼の本性は露となる。下品な喋り方な上、調子乗りな奴。それが小手川遼の本性である。
「やめなよ、気色悪いなぁ! ちょっとは大人しく出来ないの?」
そう言って、智子と呼ばれる彼女は、遼の頭に自慢の唸る鉄拳を喰らわす。鉄拳を喰らった遼は、その場にひれ伏した。
丁度肩辺りまでの茶髪のショートカット。少しパーマがかかったその髪は、非常に似合っている。澄んだ瞳も、非常に綺麗な石崎智子。綾香の親友で、何処にでもいるような女子高生だ。少しばかり、男勝りなその性格が悩ましいが。
「無駄だ石崎。こいつは単細胞で無鉄砲な猿だぞ。そんな高レベルな事、出来るわけないだろう」
その光景を冷静に見定め、適切な。または不適切な言葉を放つ。ほぼ罵倒や暴言に近いそれは、凄まじい勢いで遼の心を射抜く。
「な……。ひ、酷いよ時雨。俺たち、友達だろ!」
「ええい! 抱きつくな、気色悪い!」
涙目で抱きついてくる遼を、時雨と呼ばれる少年は引き離そうと抵抗する。
右目を覆い隠すように流れた、黒い前髪。そして知的な雰囲気を漂わせる、長方形のレンズをした眼鏡をかけている。吊りあがった鋭い眼光を持つ亮也時雨。冷静というか冷酷というか。何にせよ、一味違った雰囲気を持つ奴だ。
「――で、ちょっと。話を戻していいかな?」
「え? うん。智子何が聞きたいの?」
「何って。……ほら。あんたたちが遅刻寸前に、学校に着いたわけ」
智子は少し呆れた様子で綾香に問い掛ける。
すると綾香はえへへ、と頭を掻きながら恥ずかしそうな表情で説明する。
「えっとねー。私、通学中に凄い可愛い子を見つけたんだ。だから思わず駆け寄って、抱きついちゃったんだ。それで時間が遅れて……」
綾香は軽々とそう言ってのけた。そして、全員の視線が綾香に向けられる。
「咲野……それはお前、不審者と同じだぞ?」
「そうだよ! あんた、見知らぬ子に抱きつくだなんて……。そんなの続けてたら、あんた本当に捕まるよ?」
「良いなー。その子、羨ましすぎるぜ」
遼は羨ましい、と何度も呟いた。
――次の瞬間、彼に凄まじいローキックが炸裂したのは言うまでも無い。
「た、確かに分かってるよー。でも、体が反射的というか……。それに、その子本当に可愛いんだよ? 緑色の髪をした、小学生くらいなの」
綾香は必死に弁解する。しかし、時雨と智子はため息をつくばかりだった。
「そうなの? 浅野」
「いや、悪いけど俺は知らない。俺、その時コンビニで立ち読みして……」
次の瞬間、健介の腹部に強烈なエルボーがめり込む。そして健介は遼と同じように、教室の床に倒れ込んだ。
「綾香をほっといて何してんのよ!」
智子は倒れた健介に怒声を放つ。しかし、その声は聞こえるわけも無かった。
「で、その子に抱きついて。お前は何もなかったのか? 通報とか、通報とか……」
「ううん。何にも無かったよ。ただ……」
「――ただ?」
智子と時雨の声が一致する。それだけ、二人とも気になっているのだろう。変質行為を綾香が犯したのに通報されなかった。ならば、一体何を?
時間が過ぎる毎に、二人の期待は高まった。
――お姉さん。死生の魔眼で見えた運命は覆せないんだよ。かわいそうだけどね。
――だからね、お兄さんに気持ち。早いとこ伝えた方がいいよ。
――バイバイ。……永遠にね。
「……って言われちゃった。えへへ……」
綾香は微笑するも、周りの空気は冷たかった。
そして、健介と綾香が家を出て、四十分が経過しようとしていた。
もう既に、悲劇は始まっていたのかもしれない。
血で染まる、あの悲劇の毎日が――。
すみません。非常に長くなってしまいました。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。