第十三章
あれから健介は、彼女――咲野華綾と駄弁りまわっていた。お互い初対面で、お互いの事を何も知らないというのに、二人は昔からの知り合いであるかのように、笑顔を絶やさず話していた。話題が尽きる事など、絶対にありはしなかった。
しかし実際のところ、彼女の人懐っこい性格だったからありえた話だった。
そう健介は、彼女の性格に心底感謝していた。そうでなければ、今頃俺はナースコールされて……、と考えるのが健介にとって非常に恐ろしい事だった。そして、それだけじゃない。華綾の雰囲気が綾香と全く同じだったからこそ、健介は違和感も無く、彼女と話できたに過ぎない。
健介は華綾の事を、この会話を通じてたくさん知る事が出来た。
華綾の好きな食べ物。好きなヴォーカル。好きな色、などなど色々な事が分かった。そして、何故彼女がこの病院に入院しているのかも。
彼女も、誰か大切な人を失い、精神的苦痛を味わった事がある、健介と同じ境遇の持ち主だった。誰が死んでしまったのかは、流石に健介も聞きはしなかったけれど。
それだけでも、健介は親近感を沸かずにはいられなかった。
そして、それだけじゃなかった。華綾も健介と同様で、体の何処にも異変らしい異変は見つからなかったというのに、秀雄に入院するよう診察されたらしい。彼女の親も、秀雄のその意味不明な診断に頭を悩ましたが、已む無く彼女を入院させたと言う。
どうやら、華綾に本当にもしもの事があったら困るから、という彼女の父親の娘を思いやる気持ちの表れのようだ。
そういう事で彼女は健介と全く同じ境遇を持ち、意味不明の診断をされて入院し、そして綾香と同じ雰囲気を持つ。
健介には、もう華綾はあかの他人とは思えない存在となっていた。
「はぁ……華綾ちゃん……かぁ」
そんな頃、健介は自室のベッドで意味も無くため息をつき、彼女の名前を発していた。よほど彼には大きな影響を与えたようで、今の彼の脳内は華綾の事ばかりで満ち溢れていた。
「彼女、綾香と本当にそっくりだったよな」
何度も何度も頭に浮かぶ、彼女の持つ雰囲気。綾香と限りなく近いその雰囲気のせいで、まるで再び自分の前に綾香がやって来たのかと思うほど、健介の感覚は鈍らされていた。
綾香は死んでなんかいない。今だって、俺の近くで生きている。
そんな思いが再び段々と強くなってゆき、その度に健介の心を強く締め付ける。
「――やぁ。彼女に逢った様だね」
再び、健介の病室に声が響く。もうこの感覚には慣れた、とばかりに健介は表情一つ変えずベッドから起き上がり、よぉ奈落。どうしたんだ、などとほざく。
「……君、もう僕の事何とも思ってないようだね」
少しばかり奈落は呆れた様子で、自分の毛をくしゃっと掻く。もう少し面白い反応を期待していた奈落は、期待を裏切られて面白く無さそうだ。
「ああ。そろそろ慣れてきたよ。それに、何だか気が少し楽になったような気がするんだ」
「……彼女の雰囲気が綾香さんにそっくりだから?」
奈落は、少しにやりと不気味な笑みを浮かべて、低い声でそう呟いた。その言葉に健介は反応せざるを得なかった。自分の死角を的確に射抜いてくる奈落。一瞬にして見抜かれた。しかし、それもそろそろ当たり前のように健介は感じていた。
そして、しばらくの間静寂が続いた。この張り詰めた空気にも、そろそろ健介は慣れ始めてきていた。
しかし、その空気は更なる重みを増して健介に襲い掛かった。
「あーあ。たった一人失ったくらいで、立ち直るのにこんなに時間かかるなんてね。そんなんじゃ、君は人を殺す恐ろしさに絶対耐えらんないよ」
その一言が、健介の心を強く揺り動かす。
健介のあの陽気な表情は、いつの間にか張り詰めた表情へと変貌しており、冷徹さに満ち溢れた奈落の瞳を見る。そこには初めて会ったあの日の奈落がいた。人の命を道具のようにしか見ていない、あの頃の奈落に。
「ど、どういう事だよ……奈落。人を殺す恐ろしさに……耐えられないって」
「え? そのまんまの意味だけど。逆に、君は人を失うのに慣れちゃうと思うけどね」
奈落は表情一つ変えないまま、幼稚な声でそう答えた。しかし、幼稚な声で放たれたその声には、尋常では無い重みがあった。
「君にはさ。殺してもらわなきゃいけない人がいるんだよね。……その死生の魔眼を使ってさ」
次の瞬間健介の背筋に悪寒が走る。奈落の瞳からは、光が感じられず、冷徹なその瞳が健介の姿を捉えている。しかし、奈落の瞳には健介の姿は映っていない。
再び、あの場面が蘇る。すべての始まりを告げられた、あのおぞましい場面。嫌な予感がする。あの時と同じように、俺の心の何かが奪い取られてしまうような気がする。
「な、奈落っ! 一体何だって……」
――そんな時、驚愕の表情を浮かべた健介。周りの音が入ってこない。
しかし、彼の瞳が、奈落の姿を。口の動きをしっかりと捉えていた。普通なら伝わらない事が、感情の激流で研ぎ澄まされたのか、健介の視線と神経は、奈落の口の動きを見るだけで、奈落が何を言っているのかが伝わった。
そしてその奈落の言葉に、健介は言葉を失った。そして、そこで意識を失ったかのように、健介は座り込んでいた。
「じゃあ。頼んだよ。健介君」
そう言って、悪戯っぽい瞳で健介の前から姿を消した。空気に溶けるように、彼の姿は一瞬で消え失せた。音も無く、ただ静かに。
全てが失われるようなこの空気には、何度も出くわしはしていたが、慣れる事は到底無理だ。
先程まで声で満ち溢れていた病室も、一瞬で静かになった。
静か過ぎるせいで、他の病室で騒ぐ音なんかが、健介の耳に鬱陶しいくらい入り込む。しかし、そんな事を気に止められぬくらい、彼は落ち着いてなんかいなかった。
「は、ははは。何だよ……それ?」
健介は狂いきったように、笑い出した。そして自分の両手で顔を覆い隠す。心の中は言葉にならない叫びでいっぱいになる。
「どうして……俺がこんな目に逢わなきゃならないんだ……?」
健介はただそう呟き続ける。彼の震える両腕は、とても弱々しくて、見ていられないくらいだった。しかし、彼を支えるものは何も無い。
「どうして、俺が……っ」
「――――咲野華綾を殺して。その魔眼の力でね」
奈落が最後に告げた言葉。それが今、彼の脳内に蘇った。
「――ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁ!」
健介の思いは、とうとう爆発するように弾き飛び、悲痛が彼の全身を締め付ける。哀しみか苦しみか。何とも言えないそれは、一気に叫び声となって放出された。取り戻せるかと思っていた日常が、再び遠のいて行くのが健介には理解できていた。
――彼の部屋の閉め忘れたカーテンの隙間から、外の景色は一発で分かった。
もう既に闇に染まった空には、煌びやかに輝く星が点々とあった。
まるで、繰り返される悲劇の訪れを歓迎するかのように。