第十一章
「うーん。……どうしようかな」
悩ましげな表情を浮かべ、腕を組んだ健介がそこにいた。そこ、というのはある病室の前だった。「咲野華綾」と書かれたプレートが、病室とこの廊下を繋ぐ扉に貼られていた。名前から察するに、当然女の子のようで、この向こうに自分と同い年ぐらいの女の子がいる、と思うと健介は少し恥ずかしい気がしたらしい。頬を薄っすらと朱に染め、頭を掻いた。
そしてその度に、目の前にある扉を見ては目を逸らし、の繰り返しだった。
全ては今から三十分程前に遡る。
健介は入院し、徐々に慣れつつある病室で奈落と話を済ました後、息抜きのつもりで読書をしていた。別に読書が好きなわけでは無い。それにどちらかといえば、健介は読書が嫌いだった。彼は体を動かす方が好きらしく、彼にとっては高校にある「朝の読書時間」というのが苦痛でたまらなかった。
朝の読書週間というのは、校長が自分の趣味に合わせて設けた時間らしい。自分は読書が好きだから生徒にも好きになってもらいたい、などという身勝手な考えで出来たようだ。
健介からすれば、それは本当に苦痛の時間に違い無かった。
同クラスの綾香や遼も自分の本を持ってきて、楽しそうに読書を時間を満喫していたが、健介はそうは行かない。毎日続くその時間は、大嫌いの一言では片付けられないものとなっている。
そんな訳もあり、自ら進んで読書などするような健介ではなかったが、時間が有り余っているその時は、仕方がない事だった。見舞いに来た母も既に帰っている。テレビを見ようにも、この時間は別に見たい番組も無い。暇つぶしにはなるかもしれないが、わざわざ見たい番組も無いのに、テレビがある一階のロビーまで行くのは面倒すぎる。
よって、退屈な彼の心を埋めるものは、読書しかなかったのだ。
健介は仕方ないか、などと呟いた後、健介は母が置いていった雑誌に手を伸ばす。せめて漫画ぐらいあれば良いや。そんな事を考えながら、健介は雑誌のページを捲ろうとする。
――そんな時に、それは聞こえた。
まるで黒板を鋭い爪で引掻いたかのような高く、耳障りな音。それが聞こえるだけで、彼の全身に寒気が走った。半袖のパジャマから覗かせる、決して筋肉質とは言えない腕に、一瞬にして鳥肌が立った。
「な、何だよこれ!」
それが彼の第一声だった。両手で両耳を抑え、最低限の被害に押さえようとする。しかし、微かな隙間からもそれは攻め込んでくる。耳を通じて、脳内に音が走り刺激を与える。たった一度の音ならまだしも、それは何度も何度も聞こえてくる。そしてそれは不思議な旋律を奏でていた。
たまらなくなった健介はナースコールへと手を伸ばす。看護婦に言おう。そして看護婦に助けてもらおう。健介の表情は凄まじい悲痛を物語っている。さらに目は微かに潤んでいた。
後少しでナースコールに届く。そんな時に、扉が開いた。そしてそこから看護婦がやって来た。これぞまさに白衣の天使だ、と感激しながら、健介は看護婦に話し掛ける。
「看護婦さん。これ何なんですか? この高い音。すごく耳障りなんですが……」
「これ? これはね、バイオリンの音よ」
白衣の天使の名に相応しい優しい声が返ってきた。全く予想外の返答で。
健介の全身から、一気に気が抜けた。バイオリン……。これがあのバイオリン?
バイオリンを健介は思い浮かべてみた。透き通った、大らかに響き渡る美しい音色だったはず。そう彼の記憶に刻まれていたはずだった。
だからこそ、看護婦の返答には驚くしかなかった。恐らく自分の顔は今、ものすごく引きつっているであろうと思った。健介は驚きながらも、看護婦に再び問う。
「バイオリンですか。でも……なんでこんな音何ですか?」
「何でこんな音なのか、というのは答え難いけど、これは華綾ちゃんが演奏してるものよ。……あ、華綾ちゃんは健介君と同い年くらいの患者だよー」
優しくて甘い声が健介に詳しく説明する。華綾。どうやらその女の子が、この悪魔の音色を奏でさせている張本人らしい。しかも、自分と同い年ぐらい。
それを聞いた直後、彼の意思は一つに定まった。
そして時は今に戻る。
自分がこの張本人のところへ行って注意しなければ。それが健介の意思だった。
何故看護婦に注意してもらう、という発想が出なかったのかは理解できないが、既に健介は実行に移ろうとしていた。だが、いざその部屋の前に来てみると、緊張する所じゃなかった。忙しく彼の脈は拍動する。心拍数上昇。体温上昇。そんな異常が彼に襲い掛かる。
――最近やっとお前らしい表情するになった。健介のお見舞いに来る人は、必ずそう健介に告げて帰ってゆく。もっと他に言うことは無いのか、と健介はいつも考えながらも、健介はお見舞いに来てくれた人を、手を振って丁寧に見送っている。
やっと少し、「人間」らしい表情を取り戻した健介。そんな彼を、また違う意味で厄介な悪夢が、彼を度々襲っている。
そして健介は、再び顔を顰めた。はぁ、とため息を付いて壁にもたれかかる。
「また、かよぉ……」
健介は非常に悔しそうな声で呟く。小さく吼えながら、自分の頭を掻き回す。とても精神的に疲れた様子が、彼の姿を見ていると伺える。
病室とこの廊下を繋ぐ一つの木製の扉。その扉を通じて、室内から旋律が聞こえてくる。丁度三十分程前に健介の耳へと襲い掛かったあの音だった。本来のあの音がどうなればこうなるのか、健介は華綾というその少女に問い掛けたかった。
「くわぁぁ! もう駄目だ! 無理。この音絶対無理!」
健介は両耳を防いでいたが、それでも僅かな隙間から入り込む濁音が、健介の耳を、鼓膜を強く刺激する。再び彼の腕には鳥肌が立っている。健介は、何で周りの患者は注意とかしないんだ? どうして気にせずにいられるんだ? と平気で辺りを歩く患者や看護婦に叫びたくて仕方がない様子。
「くそっ。ホント、どうしたもんだろう。いきなり病室に乗り込んで、耳障りだからやめろ! だなんて言える義理、俺には無いし。っていうかそんな事言った途端、ナースコールされて俺、何か言われちゃうよな」
不安がどんどんと健介の心に降り積もる。健介の心の中では恐らく今頃、大雪注意報でも発令されている頃に違いない。「不安」という雪がどんどん、健介の意識を氷結させてゆく。どうしよう。看護婦に言うか? いやいや。それは言っちゃ駄目……ってあれ? 看護婦に言うのって、駄目なのか? ……駄目だっけ?
――ああ、駄目なのか。うん。そうだ。駄目だよな。
勝手に健介の思考内から、看護婦に言って忠告してもらう、という発想は除外される。それが一番良い発想だというのに、健介の中では、それはどうやらしてはいけない事になってしまった様子。
「ううーどうしよう……ん?」
そんな時に、健介は背中に向けられる鋭い視線を感じ取った。変な目で見る患者。ひそひそと会話をする看護婦。ああそうか。どうやら俺を変な奴だと勘違いしてるようだ。
あはは、と軽く健介は考える。しかしそれが重要な事に今頃気がつく。
病室の前に、かれこれ二十分以上突っ立っている自分。周りから見れば、変質者にも見えかねない。そう思われても仕方の無い行動を、先ほどから十二分にしている。突然喚いたり、一人で勝手に納得したり。変質者に思われて当然の行動だ。
「――やばい。このままこの場所を逃走したら、逆に煽ってしまう気が……」
そうだ。ここで逃げたら、周りからの視線が気になり、実行に移せなかった変質者。……的な俺の人物像が出来上がってしまう。
しかしそれは断じて否。俺にそんなやらしい考えなど微塵も無い。
健介はそれを証明するため、勇気を振り絞ってノブに手を掛ける。そしてそんな時、更なる考えが頭に浮かぶ。
――待てよ。ここで俺が部屋に入っても、逆に変な目で見られるんじゃないのか? 遂に行動を起こしてしてしまった変質者、の人物像が出来ちゃうんじゃ……。
しかしその考えも意味無く、健介の体はもう既に実行に移っていた。ノブを回し、扉を前に押し開ける。そして、健介はミスを犯した。
ノックもせず、無断で室内へと突撃してしまったのだ。
音を立てて突然開いた扉。それに、中にいた人物は驚いて小さい悲鳴を上げる。
「だ、誰ですか?」
酷く驚いたトーンの高いその声は、健介へと矛先が向けられている。そしてそれと同時にあの音色は止んだ。健介は氷結したような状態で、部屋の中へと入ってしまう。
「す、すみません。ちょっと倒れ掛かって……」
健介は、倒れ掛かってしまって、扉を開けてしまった、などと嘘を言って、とりあえずこの場を脱出しようとする。
しかし、部屋を開けた時に健介の目に、赤い閃光の様なものが直撃する。夕日の光である。あいにくカーテンが閉まってなかったようで、激しく燃えているような夕日の不意打ちを受け、健介の視界は、眩し過ぎて何も見えなくなった。
「うわっ! 眩しっ……」
健介は情けない声を上げると、その場をフラフラと歩き出す。
そして、健介は情けない末路を辿る事となる。
視界を失った健介は、足元にあるそれを発見する事が出来なかった。漫画やアニメでよくありそうな瞬間が今、現実になった。
――つるっ!
軽快な音が、室内に響く。そしてそんな悲しい場面で、ついに健介は視界を取り戻す。
不思議な感覚が健介を包み込む。宙を浮いてるようなその感覚を楽しめるほど、健介は平気な状況ではなかった。
自分の足の方面を見ると、そこには黄色い物体があった。あれ? あれ良く俺知ってるよ。猿が食ってるあれだろ。うわー。何であんなもんがあるんだろ。見舞い品? へえー……。じゃあさ。俺はあの見舞い品もって来た奴、俺は一生恨むよ。心に誓うよ。うん。
健介は微笑みながら、心の中でそう思った。
そして次の瞬間、健介の表情は激変した。
「ふざけるなぁー! この馬鹿っ……!」
健介の言葉も意識も途中で途切れた。何もかも、あの黄色い物体の前には無意味と化していた。健介は後頭部をその場に強く頭を打ち付け、静かに倒れ込んでいた。
そんな情けない様子を、夕日は嘲笑っているかのようだった。