第十章
「――それじゃあ」
夕日の光で赤く染まる静かな病室に、秀雄の声が静かに響く。白衣を着た秀雄を見ると、やっぱり医者に違いは無いのだが、もう既に健介が持つ医者の想像図と秀雄とでは、恐ろしいほどかけ離れていた。
「……健介君、本当にすまない。私は医者という立場で、君は患者だというのに……。患者にとるにはおかしい態度ばかり……本当にすまなかった」
秀雄は申し訳無さそうな表情で、健介に謝罪する。
しかし、秀雄は健介と目をあわさず、そう言った後にノブに手を伸ばし、静かに病室を後にした。
そしてしばらくして、扉の閉まる音が病室に響いた。
「……はぁー……」
健介は、今までどのくらい重苦しい雰囲気に耐えていたんだ? と思うほど大きくて、長いため息を付いた。そして白く、膨張したように見えるベッドに倒れた。ぼふっ、と音をたて、布団が健介の傷ついた心や体を優しく包み込んだ。
健介は、秀雄の言った言葉。そして自分の頬に走った衝撃を思い出していた。
――――ふざけてるのはお前だろ!
「……ははっ。何だか……綾香がいるみたいだ」
性別も存在的にも綾香とは全く違う。ただ、健介は秀雄のおせっかいなあの性格が、綾香にそっくりだと感じていた。ほっといておけばいいのに、気になって仕方がない彼女の性格に。
健介は嬉しくもないのに微笑する。そして秀雄にしばかれた頬を摩る。
時波秀雄。あいつは、他の奴らとは違うかもしれない。哀れみばかりを口にする、奴らとは。
「――やぁ、久しぶり。元気かな?」
突然静かだった病室に声が響く。何度も聞いた、あの幼い声。
「……奈落なのか?」
健介が誰もいない病室で、一人そう喋ると、そのとーり、と甲高く、元気な声が聞こえてくる。そしてそれと同時に、空気中から突然奈落は姿を現した。
まるで今まで透明だったのか、とでも思ってしまうほど、一瞬で音もなく彼は姿を現した。そしてにこやかに健介を見る。
「もう僕の名前、覚えてくれたんだね。光栄だなぁ。……どう? 僕の名前。いかにも、ってカンジでしょー?」
そう言ってケタケタと笑い出す。何も知らない人から見れば、服装と髪の色。そして名前が少し変わっているだけの、普通の子供にしか見えないだろう。事実、健介にも奈落はただの子供と変わりないように見えた。何も言わなければ。
「さて、健介君。……あの医者。信じちゃ駄目だよ?」
彼が放った言葉の後半部分から、重苦しい威圧感が降りかかる。それは健介の心臓を一気に圧迫する。いつになく真剣な表情を見せる奈落。健介はただ。
「あ、ああ……」
としか言えなかった。何故秀雄を信じてはいけないのか。元から信じる気も、心を許した気も無いが、それは健介の心残りだった。
「……知りたい?」
その直後。ドクン、と健介の心は大きく揺れた。何故俺の考えが? まさか考えが読まれたのか? そんな思いが交差する中、健介の前に突っ立っている奈落を、ただただ見つめていた。
「だって君、分かりやすいんだもん。気になってるって、顔に書いてるよ」
そう言ってまたケラケラと笑う。一瞬、陽気な奈落を見ていると、健介は奈落という存在が分からなくなる。どれが本当の奈落の姿なのか、と。
あれは、悲劇をもたらした張本人であり、憎むべき相手。心を許してはいけない。
――そう心では意識しているのに、無邪気な子供らしい一面を見ていると、健介の意識は一瞬で鈍ってしまう。
たった今でも、奈落は子供らしい姿を見せている。
健介が倒れているベッドの横に位置する机。そこには皿の上にりんごがある。彼の母親の見舞い品で、りんごを持ってきて切ってくれていた。
そして偶然それを発見した奈落は、目を見違えるほど輝かせていた。
「お兄さん、これ貰うよー」
うんとも言っていないのに、奈落はそう言うと一口サイズにカットされたりんごを口に運ぶ。子供らしい声で、おいしいと素直に感想を述べた。
何が普通の子供と違うんだ? と思ってしまったら、そこで負けだ。後から奈落の威圧感に耐える事が出来なくなってしまう。
そして健介は一瞬奈落から目を逸らす。奈落に問い掛ける。
「奈落……何で、信じちゃ……駄目なんだ?」
こんな短い言葉を発するだけなのに、健介の足や腕は小刻みに震えていた。なんて情けないんだ。そんな考えが浮かぶ中、奈落はうーん、と唸っていた。
「何で……ねぇ。あいつ、僕が君にあげた死生の魔眼の事について、若干気付いてるんだよ」
その言葉を聞いて、健介は当たり前だろ、と言いたそうな顔をする。すると奈落は健介の顔を見て、健介の考えを読む。
「俺がそれらしいことを言ってるから気付かれて当たり前だって? いいや。そんなはずは無いよ。何故なら、君は医者が死ぬことを予言したけれど、魔眼については一言も喋っていない。奴はもう既に、君のその両目の違和感に気付いている。ほんの一瞬、レントゲン写真に写っちゃったからね。……魔眼に潜むモノが」
所々意味の不明な言葉を発する奈落をただ、呆然と眺めるしか健介には出来なかった。
――そしてそんな時、この病室に耳障りな旋律が流れてきた。
夕暮れ。そして耳障りな旋律。この旋律をきっかけに、二人は出合う事になる。
そして悲劇という戯曲は、更に激しい音を奏で始める。
長いこと更新できず、すみませんでした。テストが近いなどの関係で、少し遅れてしまいました。
これからも数日の間遅れてしまう可能性がありますが、よろしくお願いします。