第九章
結局、あの医者は死んだ。
どうやら原因は多量出血らしく、近くに散乱していた鋭い刃物類。あれが容赦なく医者の全身を深く切りつけていたせいらしい。
あんな事故が起きた原因は、どうやら手術用のナイフやらを台に乗せて、急いで走っていたナースと衝突し、その勢いで台に乗っていたナイフが飛び散り、そのまま医者の体を目掛けて勢い良く飛んで行った、という事だった。
ナースと医者が衝突した場所は、以前から誰が来てるのか分かりづらいと苦情の跳んできていた、直角に曲がる四つ角だった。天井には鏡のようなものも無く、もしもゆったりと歩いているお年寄りの方でも居たらどうするつもりだろう。ほぼ確実に、遅かれ早かれ事故が起きたはずだ。今回のこの事件のように。
病院側も、今回の事を期に、何か対応をするだろう。そうでなくては困る。
――そんな事を言いながら、秀雄はベッドの横にあった、見舞い客のために置いてある椅子を引っ張り出し、ぎっと音を立てて座った。丁度健介と会話するのに、丁度良い角度に。
健介は健介で、ベッドにじっと座り込んだ状態で、病室の小さな窓から見る事のできる、限られた風景をじっと。……正確には冷たい瞳で、意識が朦朧としているような状況。
秀雄は自分の頭を掻いた後、自分の両手を膝の上辺りに拳を握り、手を置いた。たった今から改まってお話をします、とわざわざ説明するような感じだった。
それでも健介は変化無し。ただじっと外を見る健介の姿をじっと眺め、一度顔を下に俯けた。しかし、首を横に振って、再び健介を見る。
「しょ、正直に言おう。君は一体、何者なんだ?」
秀雄は医者が患者に対して言うのはおかしい言葉を発した。それはそうだ。患者にあなたは何者ですか、なんて失礼な言葉を言うなんて、常識では考えられない。
でも今は、そんな事に構っていられない。そんな思いすら感じさせる鋭く、真剣な眼光が秀雄からは伺える。
――そんな真剣な思いを踏みにじるかのごとく、健介は不気味で冷めた笑い声をあげる。それは病室全体に響き渡るような笑い声で、秀雄の頭を強烈に刺激される。少し秀雄は頭に来たのか、熱の篭った声で健介に問う。
「一体、何がおかしい――」
「それはこっちが知りたいさ!」
秀雄がそこまで話すと、健介は秀雄の声を振り払うような声で叫んだ。突如放たれた声は、秀雄の予想を越える思いを感じさせた。必死に、泣きそうなのを堪えて、鋭い目付きで秀雄を睨みつける。そんな健介に、秀雄は圧倒され、思わず言葉を失った。
「いつものように! いつものように綾香は俺の家まで来た! 満面の笑顔でな。いつものように馬鹿とか言い合いながら! そうさ。いつも通りだったんだよ。別に俺もそれ以上も、それ以下も望んでなかったんだよ。それが……それがっ!」
健介の熱の篭ったその声は、やがて悲痛の声となって秀雄の耳に届く。思わず秀雄は冷や汗を頬にかきながら、背筋をピンと伸ばす。
「それが……最後だったんだ。ただ通学路を一緒に歩いて、学校まで行ってただけなんだ。なのに……なのに……!」
段々と健介の言葉は擦れていくような声のせいで、小さく何かを言っている程度にしか聞こえない程度になっていた。
そんな彼を見ているのが悔しく、悲しくなったのか。秀雄は健介に近付いた。
彼の肩に自分の手をポンと置き、健介を見つめる。
「健介君、辛いのは分かった。だから、もうそれいじょ……」
「あんたなんかに何が分かんだよ!」
また健介は悲痛の叫びを上げた。今にも秀雄に襲い付いてしまいそうなその瞳は、先程までの冷たい瞳と違っていて、温かさを感じさせるようだった。そして秀雄は、初めて健介の「人間」の瞳を見た気がした。今までの、人形同然のような冷たい瞳。その瞳に、人間らしい感情が宿った彼の瞳を、秀雄は初めて見た。
「――あんたも……あいつらと所詮同じなんだよ」
健介はそう言って頭にあの光景を思い出す。健介の周りに突っ立っていて、かわいそうに。何で交通事故になんか。彼相当ショックだろうね。現実逃避しても仕方ないだろ。
そう永遠と同じような哀れみの声を発していた奴ら。それと同じ。健介はそう感じていた。
「あんたもあいつらと一緒なんだよ! 人が大切なものを失う場面がそんなに楽しいか? 慰めてやって、同情してやって、感謝してもらいたいのかよ! 私は良い人だって、思わせたいのかよ? 何一つ失った事が無いくせに、適当な事言いまわんじゃねぇ!」
――――ぱぁん!
そんな軽快な音がすると同時に、秀雄の手は健介の頬を勢い良く過ぎていった。健介の頬は少しずつ赤く染まり、火照ったようになった。
秀雄はただ真剣な瞳で健介を見る。そんな秀雄が頭に来たのか、今すぐにでも飛びつきそうな勢いである。
「何だ? 患者に怒鳴られたからって、暴力ふるうのか。最低な医者だな、あんた」
「…………」
「まぁなんだ。図星だったから頭に来たのか。あんた、ふざけんじゃ……」
「ふざけてるのはお前だろ!」
秀雄が突如放った叫びで、その場の空気はしんと静まった。ほんの少しの間、静寂が続く。
医者が患者に取るのはおかしな態度を、秀雄は連続で取っている。健介がその気になって病院側に訴えれば、秀雄はとんでもない目にあうに違いない。間違いなく、患者に暴力行為などと新聞に撮り上げられ、仕事を確実にクビになるだろう。
――しかし、健介はそんな気はサラサラ無かった。
むしろ、この瞬間が秀雄に対する態度が変化する原因だったのだろう。
「な、何だよ……」
健介は少し怒鳴られて、驚いた様子で問い掛ける。すると秀雄は先程と、何かが違う雰囲気を漂わせて、呟いた。
「自分だけが不幸な奴だと思うな。俺だって……人が死ぬ光景を何度も見てるんだ。それも目の前でな。人の命を、人生を背負って生きている。……それが医者なんだよ」
その言葉が、健介が秀雄に対する思いを大きく変えた。
そして、秀雄は静かに語りだした。
――――窓から差し込む夕日は、二人をただ明るく照らした。
そしてこの時点から、悲劇の歯車は更に加速し始める。