第三十一話
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ヌエはひときわ大きな声で咆哮した、超音波と思しき波がすべての人間の自由を奪う。だが、向かってくる侍は歩みを止めなかった。それどころか背中にあった槍を手に持ち替え、ヌエめがけて一直線に走り出した。
考えられない速さであった、200m近くあった距離を一瞬で縮めたとしかおもえない。まさに疾風、侍はヌエに向けて一撃を放っていた。
だが、ヌエもその一撃を受け止めていた。仁王立ちになると前足の爪を器用に使い、槍の穂先をかわした。
ヌエは侍を見ると再び咆哮した、今度はヌエの攻撃であった。尾先にある蛇が毒液を飛ばす。毒液が飛び散った地面には穴が開き、黒煙が上がった。侍は軽やかな足さばきで毒液を避けると渾身の一撃を見舞った。ヌエは再び前足の爪を使って槍の攻撃を受けた。
『なんという、一撃』
モリタは震えた。ヌエと侍の見せる攻防はこの世のものではなかった。
一撃を受けたヌエの表情が一瞬変わる、受けた爪に亀裂が入ったのだ。
『あの侍、まさか同じ個所を狙って一撃を……」
ヌエは危険を察知したのだろう。体を入れ替え、いなそうとした……だが、それより速く爪が折れた。侍はその機会を逃さない、神速の突きはヌエの腹を貫いていた。
ヌエはドゥッとたおれた。侍は距離を詰めると、とどめの一撃を見舞うべく、槍を逆手に持ち替えた。そして小さく振りかぶるとヌエの顔面めがけて振り下ろそうとした。
誰しもが思った、
『これで妖魔が倒され、平穏な暮らしが戻ると』
だが槍はヌエの顔面を貫くことはなかった。
*
ヌエは侍の動きを察知すると持てる力を振り絞りその場から離れた。あれだけの傷にもかかわらず、あっという間に姿を消した。
侍は槍をしまうと何事もなかったかのようにその場を去ろうとした。その時であった、満身創痍のモリタが侍に詰め寄った。
「なぜ、とどめを刺さなかった? 人の命を奪った妖魔だぞ!!」
振り返った侍の顔を見てモリタは震え上がり、その場に尻もちをついた。侍の顔は人とは思えぬものであった。
侍はモリタを見えると一言発した。
「妖魔ではない、あれは人だ。」
そのときシゲはわかった
『このお侍は……槍の研磨を依頼をした人だ』
侍の持つ槍は親方が研磨した槍に相違なかった。黒光りするその光は独特で忘れようがない。
シゲは夕日を浴びる侍をつぶさに見た。意外に肩幅は狭くモリタと体格は変わらない、だが土気色の肌と落ち窪んだ眼窩は常人と思えなかった。
「人の起こしたことは人でけじめをつけるのが筋だ」
侍はそう言うと夕日にむかって歩き出した。
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討伐隊の詰所ではアカシとモリタがヌエ対策について話し合っていた。
「明朝、日の出とともに追い込みをかける。人足がすでにヌエの痕跡を辿り、大まかな場所はつかんだ。狩人も新たに招集してある。明日の午後にはヌエを始末できるだろう。」
「すまんな、この怪我では……」
モリタは意気消沈していた。
「気にするな、しかし、よく助かったな」
アカシは感心していた。
「ああ、あの侍がいなければ、死んでいただろう。運が良かったとしか言いようがない。」
二人は人足の集めた情報から明日の作戦を練り上げた。
「ところで研究所のほうはどうするんだ?」
「実験に関する証拠がなければ訴追しても研究所の連中はしらを切りとおすだろ
う、あの上級研究者もシラスの場では手のひらを返すだろうし……」
「そうだろうな、俺たちよりも頭の出来はいいからな。」
アカシは頭をかいた。
「このままだと研究所の実験失敗の結果、狩人も含めて15人近くが犠牲になり、その咎めを受けず逃げ切るようなことになるな。」
「青の貴族が出てくれば俺たちじゃ手が出ない。」
二人とも沈黙した。
「サヨ師範はどうなってるんだ?」
「3人目の研究者を探している。」
「そうか……ところで、ヌエが妖魔じゃないって言ったんだろその侍?」
モリタは頷いた。
「どういう意味だ?」
「さあな、『人』だと言ったな……真意はよくわからん。いづれにせよ手負いのヌエを追い込むのが俺たちの仕事だ」
「ああ、明日は勝負だ」
二人はそう言うと早朝に向けての準備を始めた。
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その頃、サヨは3人目の研究者を見つけるべく生徒の自宅に向かっていた。すでに学長には話を通してある、心置きなく『面談』、いや『尋問』ができる。サヨは門の外から声を張り上げた。
「開門を願う!!」
サヨがそう言うと下女が出てきた。
「何のご用件で?」
「ゲンタクに会いたい。」
「少々お待ちください。」
下女はそう言うとサヨを離れに通した。程なくゲンタクが現れた。
「師範、どうされたのですか?」
ゲンタクは尋ねた
「お前の兄について聞きたい。」
「兄は出張しておりここ1週間帰られておりません。」
ゲンタクは兄の事を聞かれるや否や即答した、サヨは瞬時に嘘と見抜いた。
「お前の兄が研究所で務めていたのはわかっている、実験にかかわっていたこともだ。おまえもうすうす兄の事には気づいているんだろ?」
サヨは説き伏せるように話した。ゲンタクは黙っている。
「見廻り組を抜けるように言ったのはお前の兄だろ?」
ゲンタクは唇をかんでいた。
「実験に参加していれば危険な妖魔が市中に出たことを知っていたはずだ。」
サヨはさらにゲンタクを詰めた。
「実験に参加していた研究員4人のうち2人はすでに死んでいる、お前の兄も危険な状態ではないのか?」
ゲンタクは真っ青な顔をした。
「最後にもう一度、尋ねる。お前の兄はどこだ?」
*
ゲンタクが案内したのは掃除道具の入った戸棚であった。内側の棚を押すと回転扉のように表裏が入れ替わった。
「こっちです」
そこには地下に続く階段があった。ゲンタクはろうそくに火をつけるとサヨを案内した。
「兄さん」
「ゲンタクか?」
「はい、お客さんを連れてきました。」
「客? 何を言ってるんだお前、客なんて俺にはいないぞ!!」
「お前がトウハクか?」
ゲンタクの兄、トウハクはおびえた表情を見せた。その顔は青白く憔悴しきっていた。
「実験、生標本の事、詳しく聞かせてもらうぞ」
トウハクはサヨに睨まれると崩れ落ちた。
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トウハクの吐露は陰惨な事実を明るみにした。
「そうです、ヌエの生標本を用いて実験をしていました。実験の内容はヌエの組織をほかの生き物に移植するというものでした。最初はうまくいっていました。妖魔の持つ再生能力で傷んだ皮膚が修復したり、やけど跡が治ったりと……ですが、死にかけていた牛にヌエの組織を移植するや否や……」
トウハクは涙ぐんだ。
「急激な変化だったんです、それまではうまくいっていたのに……」
「泣いていてもわからない、話してくれ」
サヨは優しく話しかけた。
「妖魔へと変化したのです。わずか20分でした、何とかしようとしたんですが、研究員の1人が襲われ死んでいました……骨と皮だけになって」
「その遺体どうしたのだ?」
「実験の失敗を隠すために後になって河原に捨てに行きました、土手の近くです。」
サヨはアカシの見つけた地点と符合すると思った。
「ほかの2人は?」
「一人は研究記録を持って逃げ、もう一人は生標本を処理するために別の部屋に行きました。」
「お前はどうした?」
「上級研究員のホズミ様に報告に行きました。」
「ホズミ殿はどうされた?」
「たぶん、所長に報告したかと」
トウハクの顔は涙と恐怖で引きつっていた。
「研究記録を持った研究員が自殺したのは知っているな」
「あれは自殺じゃない……私は彼と緑符で連絡し合っていました。彼は事故を隠ぺいするなら告発すると言っていました、そのことで上と掛け合うとも言っていました。その後です、彼が滝つぼで見つかったのは……」
サヨは『さもありなん』という表情を見せた。
「僕は死にたくありません、助けてください。」
トウハクはすがるような表情を見せていた。
「それには表に出るしかない、お前の証言が必要だ。それをここで誓えるなら手を回すことができる。こう見えても人付き合いはいいほうだ。力になってくれる人間もいる。」
「本当ですか?」
トウハクの顔が輝いた。
「実験を命じたのは誰だ?」
サヨが尋ねた、だがトウハクは急に押し黙った。
「それは言えません、それにシラスに出て証言するのは……」
トウハクは煮え切らない態度を見せ始めた。
「わかった、気が変われば緑符で連絡してくれ、それまではここで隠れていろ」
サヨはそう言うと緑符を渡しトウハクの家を後にした。