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僕が世界を変える

作者: 志内炎

この小説は完全なフィクションです。

「僕が世界を変えるから」

 日が落ちてからは少し秋を感じるようになった塾の帰り道、私たちの家から少し高台の十一階建てのマンションへ向かう遊歩道で、健太にあった。ブレザーには泥をはらったあとがあり、脇のところは少し破けているようにも見えた。私は心配しながらも、健太の目を真っ直ぐにみることはできなかった。

 健太は笑いながら、私の心配を大丈夫だといった。最近ではみることがないほど、朗らかだった。

――どうして笑っていられるの?

 小さい頃、親や大人たちに隠れてあのマンションの屋上に入り込み、町並みを見下ろしたときのような、屈託のない笑顔。私の言葉は心の声のはずだったのに、健太は答えた。

「僕は大丈夫なんだよ。僕が世界を変えるから」

 心を見透かされたようで、怖いというのか、薄気味悪いというのか、なんといっても、健太の今の状況で笑っていられることが私には理解できなくて、小さくじゃあねといって家に向かった。一度も振り向かなかったから、その後健太がどうしたのかわからなかった。角を曲がってからちょっと後ろを見てみたけれど、健太が後からやってくる様子はなかった。今日もやつらにお金――たぶん健太のお母さんがやっている小料理屋の売上金をくすねたお金――を持っていくのかと、思っただけだった。

 夜中近く、けたたましくなった電話の後、それが健太の最後の言葉だと知った。健太は夢を語ったあの屋上の手すりにロープをかけ、空に溶けた。その顔は町並みを見下ろしていたという。溶けきることはできなくて、今年二百五人目のいじめによる自殺者という名前をもらった。


 教室の中は、いや学校中のどこにいても、戦々恐々とした気配が蔓延していた。翌日体育館で行われた全校集会で、顔を上げている生徒は誰一人としていなかった。健太が克明ないじめの記録を残していたということ、遺書もあったということが発表され、校長先生の、怒りといったほうがいい、涙混じりのような声を、私たちはじっと聞いていた。

「この後、教室に帰ってアンケートに協力してもらいます」

 体育館から教室に戻る間にも、口を開くものは誰もいなかった。アンケート用紙を後ろに配るとき、隣の男子が、その後ろの男子に、

「本当のこと、全部書くのかよ?」と聞いていた。

「書くしかないだろ。今、マスコミでも大注目の話題なんだし。あいつ、記録を残してたっていってたじゃないか。書かないほうがまずいって」

 この期に及んで、真実を書くことすら自分のため。健太はいったいいつから自殺を計画していたんだろう。私は何も見ないように、何も聞こえないようにアンケート用紙に没頭した。


 健太は小さい頃から緊張しやすい性格だった。小学校二年生のときに、健太のお父さんがなくなった。私たちは幼稚園から一緒の竹馬の友だったけれど、小学校は一緒のクラスにはなっていなかった。それでも、仲良くしていたお互いの親のお陰で、健太のお父さんのお葬式にいった。まだ幼稚園だった健太の妹のゆきちゃんと健太が遊んでいるところに一緒にいた。

「お父さんはどこにいったの?」

 ゆきちゃんの問いに、健太は、

「て、天国にいったから、帰ってこられ、ないんだって」と緊張したとき特有の言葉のつまりを起こしながら答えていた。

「じゃあ、ゆきとお兄ちゃんが会いにいけばいいんだね」少し発育に遅れのあるゆきちゃんは屈託なくそういった。私と健太は顔を見合わせて困った。困ってはいたけれど、私たち二人にも、天国がどこで、そこにいって帰ってこられないということが、人間の死というものがどういうことなのか、わかっていたとは思えなかった。

 健太の家は、昔ながらの二世帯住宅のようになっていて、二階部分が独立していた。健太のお母さんは、健太のお父さんが仕事に使っていたその部屋を大学生に貸すことにした。健太のお父さんがいなくなってから、私はよく健太の家に遊びにいくように、私の両親からいわれ、ゆきちゃんの顔をみにちょくちょく健太の家を訪問した。二階の大学生もよくゆきちゃんと遊んでいて、遭遇することもあった。遠縁なのか、身元がしっかりしているのか忘れてしまったけれど、とても紳士的で清潔感のある男の人だなと思った。あのマンションの屋上に健太と入り込んでいたのも、その頃だと思う。

 ゆきちゃんが、ちょっと遠い小学校に通うことになったころ、健太のお母さんが料理屋を始める話がでたころと同じ位のとき、両親に大学生のことを聞かれた。

「あのお兄さんは、いつもゆきちゃんと何をして遊んでいるの?」

 いつも庭のスペースに、その辺りに落ちている枝で絵を描いていた。

「次は、にゃんこを描いて」ゆきちゃんのリクエストに大学生が答えているような様子だった。そのことを両親に話すと、

「ゆきちゃんを抱っこしているところとか、みたことない?」と聞かれた。大学生の膝の上で抱えられるように地面をみていたことは何度かあったけれど、「抱っこする」というのとは、違うような気がしたので、

「そんなところはみたことがない」と両親に話した。

「そうか」神妙な顔つきをした両親との話はそれで終わったけれど、いくらもしないうちに、大学生は姿を消し、おばあさんというにはちょっと若いおばさんが変わりにその部屋に住み始めた。


 中学に入って、一年のときは同じクラスになった。小学校では三四年生のときに同じクラスになっただけだったし、ゆきちゃんも遠い小学校の友達と遊ぶようになっていたし、親は健太のお母さんがやっている料理屋に顔を出すようになっていて、私と健太の接点はなくなっていた。幼馴染だからといって、仲良くするにも気恥ずかしいと思っていた。仲良くするどころか、お互いに避けていたような気がする。

 健太も私も成績も運動もとくに良いわけでも悪いわけでもなく、特に目立つほうでもなかった。テストの前には勉強に四苦八苦し、部活動では先輩の目を気にして、前髪の長さや、校則に違反しないぎりぎりの制服の着崩し方を考えるのに忙しいといったような、どこにでもいる生徒の一人に過ぎなかった。

 夏休みを過ぎると、クラスの中に茶髪の人数が増えてきた。私も健太もそのグループとは一線を引いていた。仲良くすることもせず、かといって無視するわけでもない。けれど、茶色い髪の毛は、少しずつ大声を発するようになっていき、教室の空気を張り詰めさせていった。

 ある朝、茶色い髪の毛が、健太の真似をした。昨日、国語の時間の朗読に健太があてられたのだ。それまでだって、何度も健太が朗読をする機会はあったのに、誰も真似なんてしなかった。

「の、野山にま、じりて、た、竹を取りつつつ……」

 げらげらと笑う茶色い髪を健太は無視した。健太だけではない。クラス中が無視をした。私も、何もいわなかった。

 三学期になると、妙なうわさが立ち始めた。昔、健太の家に間借りしていた大学生が幼児へのいたずらでつかまったという。部屋には児童ポルノがたくさんあってその中には、自分で撮影したようなものもあったというのだ。

「あれ、お前の親戚なんだろ」

 茶髪に聞かれた健太は、

「違うよ」と薄笑いで返した。

「お前の妹のビデオもあるんじゃないのか?」

 私は凍りついた。

 昔両親に聞かれた、ゆきちゃんが抱っこされているのをみたことがないかという言葉が蘇った。同時に、ゆきちゃんのことを侮辱した茶髪に掴みかかってやりたい気持ちになった。健太がそうするのではないかと思った。

 現実は。

 私は少し、眉間に皺を寄せただけだった。

 健太は。

 怒り狂うどころか、曖昧に笑っただけだった。それが合図だったかのように、健太が茶髪に囲まれているところをよく見かけるようになった。健太のブレザーには、泥の後が増え、通学かばんは、やたらと膨れ上がっているか、ありえないほどぺったんこになっているかのどちらかであることが増えた。

 私は健太の異変に気がつきながら何をするでもなく、異変にすら気がついていないふりを続けた。そして私たちは二年生になり、クラスもはなれた。不幸にも茶髪の親玉と健太は、また同じクラスだった。


「美奈は健太がいじめられていたことに、気がついていたのか?」

 食卓に向かい合っての父の言葉は、冷たく響いた。母は台所でいつもと変わらず食器を洗いながら、しかし耳をそばだてていた。

「なんとなく、そうなのかもと思ったことはある」

 私は、テーブルにのせられた父の握った拳を見つめながらそういった。拳にぐっと力が入るのがわかって、肩甲骨の辺りが緊張した。殴られるかもと思ったけれど、父の手はテーブルから離れることはなく、これまで聞いたことのないほど低い声で、

「今後、できることを考えよう」とだけいった。

 

 健太が残した遺書と、克明ないじめの記録から、学校は早々にいじめの実態を認め、それでも学校側には十分に伝わっていなかったことを発表した。それは多分本当のことだと思う。健太はお母さんに心配をかけないように、相談などしなかっただろう。

 葬式のとき、健太のお母さんは泣いていなかった。体のすべてに深い影を作っていたけれど、ただ、目の前の空中を見つめて、声をかける人に挨拶を返すだけだった。

 その隣でゆきちゃんは、行儀よく座っていた。白い頬には健康的な赤みが差していた。お焼香の順番が回ってきて、私が健太のお母さんに頭を下げると、健太のお母さんも頭を下げた。何の言葉もかけられなかった。かわりにそろそろ退屈し始めていたゆきちゃんが、

「美奈ちゃん、後で一緒にお寿司食べようね」と小さい声で、それでも楽しげにいった。


 健太の家には毎日のように、学校の関係者や、自殺者遺族の会の人たちやらと訪問者があるようで、うちの母も、健太の家に足しげく通っていた。

 その一方で学校からは茶髪の集団が消えた。

 日を追うごとに、自責の念という空気が校内に漂い始めた。

「私、体育館の裏に健太が連れ込まれるの見たんだよね」

 それでも、止めることも、先生に通報することもしなかったと、涙交じりで後悔をもらす同級生たちを私は覚めた気持ちでみていた。

 もしも健太が、いじめの事実を記録していなかったら。

 もしもまだ茶髪の集団が学校に来ていたら。

 同じ空気があったのだろうか。

「美奈は、健太と幼馴染なんだってね」

 ずっと隠してきた事実。

 はじめは隠してきたというわけではなかったけれど、健太が茶髪の集団に囲まれるようになってからは、健太を避けていた。火の粉がこちらに飛んでこないように。

 健太は優しい性格だった。

 もしも、ゆきちゃんのことを侮辱された一年生の二学期、私が茶髪の集団に食ってかかっていたら、健太はきっと助けてくれたに違いない。

 もしも、匿名でも構わないから、先生にいじめの話をしていたら、健太はいじめの記録をとって死のうなんて思わなかったかもしれない。

 もしも、最期にあったとき、どんなふうにして世界を変えるのか聞いていたら、事の重大さに気がつけたかもしれない。

 もしも、もしも、もしも。

「今後、できることを考えよう」

 父はそういった。

 今後できること。

 誰のために? 健太はもういないのだ。


 二週間たって、私はあのマンションへいった。マンションには献花台が設けられていた。私は献花もせず、ただ屋上を見上げた。

 マンションの管理人室からでてきたおじいさんが、私をみていった。

「あの子とよく屋上に入り込んでいたお嬢さんかね」私が頷くと、おじいさんは黙って手招きをし、エレベーターに乗った。私もついていった。新しく作りつけられた鍵を開けて、屋上に入れた貰った。

 見慣れていたはずの屋上は、私の記憶よりも随分狭かった。町並みを見るのに邪魔になっていた鉄の手すりも、顎よりも下にあった。その隙間から、私たちは、

「あれが小学校、あれがパン屋さんの通り」と手を伸ばして指差しながら話していた。

「きっとあの中学校にいくんだ」

「高校はあそこかな?」

「うんと勉強しないとあの高校にはいけないみたいだよ」

「そうなんだ。大学はどこかな?」

「わからないけれど、勉強はあんまりしたくないな」

 健太はそういいながらも、

「でも、大人になったら、体の不自由な人も普通の人も一緒に働けるような場所を作りたいから、そのためにはいっぱい勉強しなくちゃいけないんだって」と笑っていた。

 果てしなく続くように見えていた町並みは、小さな山と高速道路に区切られていた。あの頃の私たちの世界は、ほんの何百メートル以内だった。今、すべての世界であると思っている学校だって、あと一年と少しで過去のものになる。

 たった。

 たった三年間を過ごす世界が、すべてではないと頭ではわかっているのに。

 たしかに、中学の中は一変した。健太以外にも、茶髪の集団に目をつけられていた何人かを救うことはできただろう。

 これから、自殺者が出たことは語り継がれ、しばらくの間、学校は平穏な日々を送るだろう。

 でもそのあとは?

 実際にその事実を目の当たりにした一年生も、二年立てば卒業していく。

 いったいいつまで健太の自殺は風化しないで居られる?

 いったい人生のいつ使うのかわからないような勉強に明け暮れ、普通に生きていくための通過儀礼と割り切って、それでもその中で小さな恋や、もしかしたら一生モノになるかもしれない友情なんていうものにもふれ、理不尽な大人の言い分も受け流して、毎朝同じ時間に登校する。たまに意見の食い違いや、気に入らないことや、逆にちょっと嬉しくなってしまうようなこともあって、毎日何かしらが動いているけれど、あっという間に中間テストから期末テストがやってくる。

 めまぐるしく過ぎていく三年間。

 それが世界のすべてだと錯覚してしまうほどの三年間に、健太の爪あとはどれくらいのスピードで溶け込んでいくのだろうか。

 目的を持って空に溶けることで世界が変わるのならば、あんなにたくさんの人間が散っていった戦争で、すべてが変わっているのではないだろうか。


 秋の風が、どこからか金木犀の香りを運んでいた。東の空は、薄っすらと茜色を帯びてきている。

 たぶん、その向こうの高速道路を越えた先も、これからの私の世界になる。

 それでも、どれほど大きな世界を私は知ることになるのだろうか。

 健太が生きていたら、どれくらい大きな世界を知ることになったのだろうか。

 私たちは。

 同じ職場で切磋琢磨するとか、同じこどもの親になるとか、そんなことはなかったと思う。

 でも、たぶん、お互いの結婚式には出席しただろうし、お互いの親の葬式にも参列したと思う。

 私は、なにもしなかった。

 勝手だけれど、ひどいけれど、結局はそんなに広がらないであろうちっぽけな世界を、健太と一緒にみたいと思っていたような気がする。みるものだと、確信していたような気がする。


 背中に管理人さんの温かい眼差しを感じていた。それでも涙など出なかった。傍観者でしかなかった私に、涙を流す資格などないと思った。

 見慣れたはずの町並みが、ひどく小さくくすんで見える。健太のいないこの町は、これからもずっと、こうやってくすんで私の目に映るのだろう。健太が最期にみた景色は、明るい未来に彩られていたのだろうか。

 今後できることなんて、考えられない。

「僕が世界を変えるから」

 健太は覚悟を持って、中学校というちっぽけな世界を変えた。

 そして、私というちっぽけな世界も、確実に変えた。


 健太、これで満足ですか?


無責任なことはいえません。

ただ、もう誰も死なないでほしい。

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[一言] 「僕が世界を変えるから」 という言葉を残して命を絶った健太に何があったのか。 幼なじみの私にその経過を語らせることで,リアリティーが増してきます。 そこには作者の入念な取材があったに違いあり…
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