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迷走開始

第三章

 部屋の中には彼女の母親がいたが、晶を招き入れると、入れ違いに花瓶の水を替えに部屋を出ていってしまった。外見はとても若い人で、中々の美人。童顔なので、制服を着せ、髪型を揃えると二葉と見間違えそうなほどに幼い顔立ちをしていた。来たことをわずかに後悔したが、もうこの状況では逃げられない。気まずいが、適当に挨拶をして帰ることにしよう。そう決めながら、ベッドで寝ている彼女に近づく。

 腕には点滴の針が刺さり、不健康そうな色の薬剤を投入されつづけている。いくつもある注射の痕が、痛々しい。

「しかし、お前は、何を見たんだ?」

 少し白みがかった顔色に、触れる。

「……早く、目を覚まして、犯人殴ろうや……?」

 いきなり視界が狭まる。彼女の顔以外の物が白みがかって見えなくなる。

「う? く……」

 倒れそうになる体を、とっさに壁に手をついて抑えた。何も見えない。

 白い、白い、しろい。視界の全てが白く染まっていく。

 何も、見えない。目の前でストロボをたき続けられるような不快感があった。

 どれくらい時間がたったのか、気がつくと晶は壁に背をつけて座りこんでいた。目の前には二葉の母の心配そうな顔がある。

「あ……れ?」

「良かった、気がついた? 大丈夫? お医者さんを呼ぼうかと思った」

「い、いえ、たぶん二葉さんが無事なので安心したんだと思います。大丈夫です」

「そう……顔、洗ってきた方がいいよ。洗面所はあっちにあるから」

 ハンカチを手に、微妙そうな、奇妙そうな表情で忠告する二葉の母。

「え、……あ、はい」

 もともと長居するつもりは無かったが、母親にも聞くことは聞いていかないといかない。

 言われた通りトイレで鏡を見た晶は、自分の目から涙がぼろぼろと流れているのに気付きギョッとした。

「な、なんだ、これ……?」

 泣いていたことよりも、それにまったく気付かなかったことに驚く。

「……だせえ……」

 帰ってきたら高校生が地べたに座りこんで泣いてるんだ。それは驚いただろう。

(……しかし何故だ? 貧血、なのか?)

 風呂場以外で立ちくらみなど起こしたのは始めてだが、最近食事を良く抜いているし、ありえないことではないように思えた。涙は説明しきれないが、乾燥した空気に刺激されて流れたものかもしれない。

 釈然としないが、一応納得して病室に戻る。正直このまま帰りたかったが、そういうわけにもいかない。

「……あ、大丈夫だった?」

 心配そうな表情で再度晶に問い掛ける彼女。

「ええ、倒れた拍子にコンタクトがずれたみたいで」

 視力は両目共に1,4。コンタクトはしていないが、二葉の母を安心させる為にそう答えた。

「へえ、そうなの。痛かった?」

 おっとりとした女性的な話し方。二葉の性格は母から受け継いだものなのだろうか。

「いえ、良くあるんです。最近貧血気味で。……それはそうと、聞きたいことがあるんですけど。良いですか?」

「いいけど、何?」

「ええ、二葉さんは……」

「あ」

 と、質問を発そうとした晶を片手を上げて制し、

「二葉の話ならどこか別のところでしましょう。……外の喫茶店はどう?」

 ちらり、と寝ている二葉を見る。

「あ、そうですね。……今、大丈夫ですか」

「ええ。どうせこの子の目が覚めるまで、ここに座って本読んでいるだけだもの」

 指し示した先、スツールの上には数冊のハードカバー。日本の物ではない。

 その証拠に、表紙には一文字たりとも日本語が無かった。そして、晶も見たことが無い作者の名前。

「こ、これって?」

「ええ。洋書」

「まさか、原文ですか?」

「そうよ。少し見てみる?」

 下の方に積んであった一冊の本を差し出す。

 作者は……晶には綴りが読めなかった。手触りは粗く、あまり良い紙を使っていないように思えた。表紙には氷山の周りで吹雪が踊っているという絵が描かれていたが、それもかなり適当で、どういう小説なのか掴めない。駄目元でぱらぱらとめくってみたが、意味のある言葉が見つけられない。一見アルファベットのような文字が並んでいるのだが、И、やЛといった不明な文字が随所に踊り、内容どころか目次の意味すら分からない。かろうじて分かったのが、

「ロシアの本ですか?」

「うん、少しだけ正解。これはソ連時代の無名の作家の本なの」

「え、……え?」

「じゃ、行こうか」

「ちょっ、と説明はしてくれないんですか」

「紅茶でも飲みながら話そう? お腹空いちゃった」

 そう言って、椅子に置いたバックを掴み、先に病室から出ていってしまった。

「……流されてるなあ」

「ほら、早く行きましょう?」

 先に行ったと思ったが、ドアの前で待っているらしい。

「はい。……お前よりも遥かに押しが強いじゃないか、あの人」

 後半は未だ起きない二葉に向かって呟きながら、晶はドアに手をかけた。 


「じゃ、先に私から質問してもいい?」

 強引に車(黒いRX―7。一児の母にしては珍しい趣味だ)に入れられた晶は、二葉の母に『カフェット』までそのまま連れてこられてしまった。カフェットは、市内限定でチェーンを展開している軽食喫茶で、多彩なメニューと値段の安さで中高生を中心にかなりの人気を保っている。

 繁華街にあるこの店は、市内にある中で最も席数が多く、デートスポットなどによく使われる場所だった。

「いいですけど、まず名前、聞いても良いですか?」

「あれ、言ってなかったっけ? じゃあ改めて。二葉の母の中西楼木といいます。よろしく、晶君」

「高菜晶です、こちらこ、そ……?」

 桜木。聞き覚えのある名前だった。それに先ほどの洋書類。ロシア語。無名の作家。

 いくつかの単語が、一つの想像を導き出す。

「……よろしく。……失礼ですが、たった今とても気になる疑問が出来たんですけど」

「なに?」

「ご職業は何を?」

「あら、当ててみて? 多分思っているとおりよ」

 にこにこと、恵比寿サンと張り合えるような笑顔を浮かべながら、聞き返す桜木。

「翻訳家の、鍵町桜木さんじゃないですか」

 鍵町桜木。A県出身の翻訳家。十年ほど前からぽつぽつとその名は出てくる。始まりは一冊の本。題名は『竜と悪人のお話』。市立図書館で見つけた新刊の中に一冊だけ紛れ込んでいた翻訳済み洋書。冒頭の書き出しから最後まで、読み終えるまで一瞬たりとも目を離さず、一時間で読み終えた。四百ページ程のハードカバーだった。

 初めて晶が泣いた本だった。

 今でも読み返すと目元が潤んでくる。

 おそらく、小学生時代の、力に明け暮れていた晶を変えた一因がこの本だろう。

 原文で読みたくて中学生の晶は英語を勉強した。英検準一級に合格し。受験を控えた冬に挑戦して、分かった。

 その本、『Dragonns & Ather Peoples』という原題だったが、英語の表現の貧困さに幻滅するほどつまらなかった。

 原作者が凄かったわけではない。この翻訳家は天才だったのだ。自由にアレンジし、文字の世界に引きずり込む。何度と無く読み返しているうち、文字数、ページをめくる仕草まで計算して訳しているかのようで、晶は戦慄した。初めてリアルに恐ろしいと感じた人だった。

 古書店を中心に探し回り、今は全ての訳書を持っている。妙に思ったのは、いくら探しても自筆の作品が一冊も世に出ていないことだった。同人の世界すらも進一に探してもらったが、作品は皆無だった。

 フランス、アメリカ、イギリス、韓国、ドイツ。どれも民俗に深く関わり合う本ばかり訳してきた桜木。日本の伝説を題材に小説を書かないのが不思議でしかたがなかった。

 憧れの人が目の前にいる。

 この状況に、何故二葉は教えてくれなかったのか、という疑問も吹き飛び、晶は一気に緊張した。

「うん、あったりー。二葉がほめるだけあるね。どうして分かったのかな?」

「いえ、……好きなんです」

「あ、あらあら照れるじゃない。やーねー」

 ぱたぱたと手を振り、アップルティーを口に含む桜木。

「あ、本が」

「あそう。……本当に言ったとうりね」

 突然冷めたような表情を浮かべる桜木に、晶はため息を一つつき、質問した。

「本好き、本狂い……ってところじゃないですか? 彼女が言っていたっていうのは」

「え。ええ。そう、あなたは本に恋しているって」

「……まあ、間違っちゃいませんがね。少し恥ずかしい表現ですけど。あ、あの。今度サインしてください。桜木さんの本持ってきますから」

「へえ、ありがとう。あ、そうそう質問があるんだけど」

 本当に嬉しそうな表情を浮かべ、彼女は。

「ええどうぞ何なりと」

「あなた二葉のどこが好きなの?」

 冷静になろう。レモンティーに手を伸ばし、一口。シナモンパイを小さく切り分け。

「ええ。やはり性格ですかね」

「具体的にどうぞ」

 にこにこと、晶を眺める桜木。

(観察している、のか?)

 時間をかせごうと、パイをゆっくりと味わう。

「何事にも同じないというか、平穏無事というか。彼女のポリシーですか?」

「ふうん?」

「あとは、まあ容姿ですね」

「じゃあねぇ、もしも二葉が本が嫌いになったらあなたはどうする? それでも、好きなのかな?」

 もう一切れパイを口に含み。

 晶は少しの時間硬直した。店員さんもういちまい。手を上げ、二枚目のパイを注文し、

「……それは……」

「ん? それは?」

「その時考えます。二葉が本嫌いになるなんて、まあ全くありえない話ではありませんが、いちいち将来の仮定までしていたら想像力と時間の無駄というものです。可能性の低い話ならば尚更です。それは、彼女に他に好きな人ができたらどうするのかといった話とそう変わりません。少なくとも今現在僕は彼女が好きです」

 晶は、この数日で『好き』という言葉を何度使ったのだろうか、と内心自嘲しながら答えた。

「……ま、いいけど。うん大体満足。六分目ってところかなー。晶君、質問があったんでしょう?」

 やっと本題に入れる。晶は安堵のため息をつき。

「いえ、些細な事です。二葉さんは……」

「うん。あ、そういえば。あなた、犯人が憎い?」

 唐突に笑みを消し。質問をさえぎり、あっさりと出た、桜木のその言葉に。

 晶は、再度硬直した。

「…………え? あ」

 ほうけた声しか出せない自分に苛立つ。

(何か、何か早く答えろ。早く)

「……ええ、もちろんですよ」

「そう。分かったわ」

「い、いえ。何を」

「気にしないで。もう私は満腹。どうぞ、質問を」

 晶の数秒の逡巡から何を読み取ったか、再び笑みを浮かべ、チーズケーキを切り分けながら話を促す桜木。

「何を」

「ええ、大体分かったからもう良いわ。どうぞ質問は?」

 もう、その笑みも、恵比寿のそれにはかぶらない。上っ面の良い閻魔大王と話しているような気分。落ち着かない。ひどく落ち着かない。

「……じゃあ、まず」

 いくつか。二葉の様子に最近変わったことはないか。誰かに脅されている様子は無かったか。夜中に出かけるようなことは無かったか。

 全てにNOと答え。桜木は伝票を持って席を立った。

「送る?」

「……いえ、まだ、やることがありますから」

「そう? じゃあ、またね晶君。ここは奢るわ」

「あ、いえ」

「いいのいいの、読者サマに対するサービスだから」

「す、すいません」

「気にしないで。サインだったらいつでもいいからまた来てね」

「はい」

「……あ、そう言えば。二葉が高校に合格した日。えらく喜んでたみたいねあの子。ベットの上で飛び跳ねて、気でも狂ったかと思ったのよ」

 それは、晶が合格した日でもあり。

 それは、お互いに『おめでとう』と。そう言葉を交わした日。

「……そうですか。ありがとうございます」

「うん、じゃね」

 颯爽と、満足気に立ち去る桜木を眺め、店を出たのを見届けて、横のガラス窓に頭を預ける。

 残ったのは疲労。それに虚脱感。

(進一といい。桜木サンといい。何故僕の周りにはこんなにも一筋縄ではいかない、奇矯な奴らが集まるんだ)

 ことり、と晶一人になったテーブルにシナモンパイが置かれた。

「類は友をよぶ、か」

 店員が立ち去ってからゆっくり呟く。

 考えることが楽しくてたまらない。

 二葉の事件をきっかけに、晶の中の止まっていた時間、物事を楽しむという時間が動き出したような気がした。



 中西二葉は、手に何かが触れるのを感じて目が覚めた。

 が、すぐに奇妙なことに気付く。

 目を開いているはずなのに何も見えない。自分が寝ている体勢にあることに気づき、起き上がろうとするが、体が動かない。暗闇。いや、何も見えないだけで、本当に暗いのかどうかすらわからない。視神経が断絶したらこんな感じになるのだろうか。

 酷く混乱する。いったい何が自分に起こったのだろうか、と。

 こうなるまでの記憶を掘り返そうとする。

 黒いコートの誰かに押し倒された事を思い出して、ゾクリと、体が冷える。ぶつ切りになった記憶が、二葉の不安をあおる。

〈私、死んじゃった?)

 そんな考えに至り、悲しいような、悔しいような、妙な気分になるのを感じた。人の死を表現した本はよくあるが、二葉は、本当に三途の川や天国があるなんて思っていなかった。人は死んだら何も無くなる。と思っていたのだが。

 声も出せず。何も見えず。何も聞こえない。かろうじて触感は残っている様だが。焼かれてしまったらどうなるのか。想像したくなかった。それとも、もう焼かれてしまって、ただの灰になってしまったのだろうか。

(いや)

 確か、隣りにも誰かがいた憶えがある。

(あれって……? 鈴乃はどうなったんだろう……)

 そこまで思い出して、ひどい頭痛に襲われた二葉は考えることをやめた。動かせない体の癖に痛みだけは伝えてくるのか。神経がささくれ立ってくるのがわかり、意識的に落ち着こうと努力した。

 覚醒してから、どれくらいの時間が過ぎたか。いろんな人が近くにきて、二葉の手を握ったり腕に針を刺したりして、消えていった。

 どうやらまだ生きているようだが、安心はできない。

 意識は覚醒しているのに〈しかも、こんなにはっきりと!〉体が動かないなんてことがあるのだろうか?

(鈴乃は? それに……)

 そこまで考えて。二葉はひどく不安になるのを感じた。記憶が無いというのがこんなに恐ろしい事だったなんて。いったい、どうなってしまったのだろう。目がさめても、ちゃんと晶に向き合える体なのだろうか。

 突然。

 頬に触れる手を感じて、二葉は驚いた。

 その手は、何かが違った。特に暖かくも冷たくも無い、普通の手のようだが、何かが違った。

 そして、声が聞こえた。

「……早く、目を覚まして、犯人殴ろうや……?」

 晶の声が。

 この状況になってから初めて聞こえた声に、二葉は驚喜した。

 頬に触れている手を掴み、それを頼りに起きあがろうとする。

 何故起きあがれたか、そんな疑問もわかず、ただすがりつく。

 そして、暗かった世界は全てが白く、塗り替えられた。


『あきひとくん』

 夜。布団に入って目を瞑り、さあ寝るぞ、というところで、晶は何かとてつもない違和感を感じて目を開いた。起き上がって蛍光灯をつけ、部屋を見渡す。異常は無い。ドアの鍵はかかっている。窓も。六畳一間の狭い部屋だ。晶以外の何者も存在していないはずだ。念のため押し入れの中も見てみたが、本棚と数少ない衣服以外には何も無かった。

(…………なら、さっき僕の名を呼んだのは、いったい、誰だったんだ?)

 時刻は二時半。中西桜木の本を読み返して興奮して、聞こえるはずの無い声が聞こえた……。普段ならありえないが、まあ、昼間の件もあるし。と無理矢理納得して、部屋を闇に戻し、もう一度布団にもぐりこむ。目を瞑り……。

『……晶くん……』

 目を開いた。

(ありえない。気のせいじゃない。今の声は……)

 じわり、と晶の体中が冷や汗で湿ってきた。

「……二葉?」

(ありえない。ありえない)

 晶の心の冷静な部分が意見を述べる。

 自分の頭が突然狂わないという保証があるかい?

「僕は、正常な、はずだ」

 ゆっくりと呟き。

 混乱する。誰かの悪戯だろうか?

 相当な悪趣味だが、ありえないわけでもない。むしろ悪戯であって欲しかった。もちろん仕掛けた犯人は私刑にするが。

 部屋のドアに飛びつき、一気に開ける。左右を見渡すが廊下には誰もいない。

 念のため両隣りの部屋も覗いてみるが、明かりはついていない。眠っているようだ。明日も学校だ、晶みたいな似非優等生以外は皆眠りに就く時間だ。

 部屋に戻って布団に座りこみ、目を瞑り、考える。

『……晶くん……』

 ……三度、聞こえる。

(ふん……これは難問だ。埒外に難しい話ですよ。仮に解いたとしても、事が起こっているのが自分の脳ミソである限り証明が出来ない。つまり、仮説が立ったとしても、それが正解かどうかわからない。安心できない? いや、自力で解決するしかないってことじゃないか)

 そこまで数秒で思い至り、晶は脱力感に体が支配されるのを感じた。

 これで三回声が聞こえた。共通しているのは内容と…………目を、瞑る。

(目を閉じたら、どうなるんだよ)

 好奇心と虚勢から、後ろ向きに布団に倒れこみ、晶は目を、瞑った。

『……晶くん……』

 壁越しのテレビから聞こえるような儚い声が響く。目を閉じたまま、大きく息をつく晶。

「二葉なのか?」

『……うん』

「質問する。……君は、死んだのか?」

 容態が急変した二葉を囲み、医師が慌てふためいて電気ショックか何かをしている場面の想像が浮かんだが、慌ててふりはらう。

『……わかんない。たぶんまだ生きてると思う』

 自信無さげな二葉の声。

「なら、今、君はどこにいる?」

『……晶くんの中』

(なんだって……?)

「……どこにいるって?」

『……晶くんの中』

 繰り返される二葉の言葉。

「えーと、脳ですか?」

『違う。……と思う』

「そうかい。……じゃあ、なんで僕に……とりつこうと?」

『……聞こえたから』

「何が」

『……声。それに』

 途切れ途切れに、ゆっくりと話す。

『……他の人には無かった空白。……晶君にだけ、入れるだけの空白があった』

「……」

『だから、晶君の中に入れた』

「……お前、本当に二葉か?」

 感情を込めない話し方。淡々としすぎて、そして、ちぐはぐ。まるで、舌足らずの小学生のような。晶はそんな印象を受けた。

『……わかんない。でも、私、二葉。だと思う』

「……俺にも、よくわからない」

『……うん』

「ただ、夜は静かに眠らせてくれよ」

 とにかくもう寝たかった。話ながら眠ってしまいそうだった。頭がうまく働かないことが煩わしい。

『……静かにする……』

(……受け入れたくないなあ)

 また、ため息をつき。ふと目を開き、時計を見ると、既に四時を過ぎていた。


 目を覚ますと、時刻は既に九時を少しすぎたところだった。白い日差しがブラインドの隙間から入りこんでくる。どうやら進一は起こしにこなかったようだ。

「またサボりか」

 昨日は異常なことが起こったし、連続して休むのも悪くない提案に思えた。

 布団に座りこみ、晶は目を閉じた。

「二葉?」

『……はお、晶君』

 夢ではなかったかという希望をほのかに抱いていたが、あっさりと壊れる。自然に元の体に戻ってくれるかも、とも思っていたがそんな様子もない。しかし、源氏物語じゃあるまいし、とり殺されるということも無いだろう。そのことだけは安心し。

「……さて。じゃあ、まず今日は君の様子を見に行く為に病院に行こうと思う」

『……うん』

「無事に目覚めていることを切に願うよ」

『……うん』

 準備をして。歩いて、病院に向かう。

 病室にはやはり眠っている二葉が一人。二葉の母はいなかった。そう毎日これるものではないからだろう。いなくて助かったという感情も心の片隅に確かに存在していたが。

 花瓶に生けられている花は、昨日進一が買ってきたものに変えられていた。

 椅子を持ち出してきて、ベットの隣りに腰掛けて、晶は目を瞑った。二葉の手を握り閉めながら話しかける。

「どうだ?」

『なんかさっきよりすっきりする』

「ふん? 気分の問題じゃないのか」

『ううん、すごく楽』

 確かに昨夜よりも口調が滑らかで、淀みなく話せている。目を閉じていることもあって晶は、本当に二葉と話しているかのような錯覚もおぼえた。違うのは、聞こえてくるのが存在感のあるささやき声、というところだけだ。

「ああ、そうかい。今僕は二葉の体に触れているわけだ」

『うん。たぶんそのお陰』

「戻る気はないのか?」

『ええ?』

「できれば戻ってほしいんだけれど」

『そ、そんな……ひどいよ晶君』

 勝手に人にとりついておいて何を言うかと思った晶だが、口には出さない。

「僕の好きな言葉の一つに、独立独歩ってのがあってな。生の二葉と話したいんだが」

『ううーん。……でも、私治るのかな?』

「貧血みたいなものだろう? 体はすぐに治るね。むしろもう治っているとも言える。怪我も無いしね」

 晶は、とりあえず断言した。病は気からとも言うし、一刻も早くこんな不可解な状況から抜け出したかったのだ。

『……』

「……」

 沈黙が続く。晶にしてみれば相手の姿が見れないので表情も窺うことが出来ない。想像してみようと努力してみるが今一つうまく像が結べない。

『……なんか、だめみたい』

「なにが?」

 数十秒程たってから聞こえてきた二葉の声には、わずかな疲労と、隠しきれない不安が含まれていた。

『もどれない』

「……」

『なんだかうまくいかない。できるイメージが浮かんでこない』

 失望を隠し、

「わかった。今日は終わりだ」

『うん。またね』

 目を開く。晶の目の前には相変わらず青白い顔の二葉。端正な顔立ちも、この顔色でくすんでしまっていて、逆に病的な雰囲気を際立たせている。握っていた二葉の手を毛布に戻し、ため息をついた。

「……ほんと、なんなんだよ?」

 丸二日間、眠りつづける二葉も心配だったが、それ以上に、晶は自分の頭の方が気になっていた。

 いつの間に僕の脳は二役を演じきれるようになったのだろう。かなりの役者だ。しかし、しかし。もしもコレがホンモノの二葉だったならば。その疑惑が残っている限り。晶は、彼女を否定できない。

 本心を言えば。晶は彼女を否定したくなかった。いいじゃないか。おもしろい。霊魂? 生霊? 実際にあるならば死後の世界も大歓迎だ。だが、理性がそれを押しとどめる。落ち着け、と。そんなものを信じてしまって良いのか? と。脳内麻薬をフルに駆使して、中西二葉という人格をつくりあげたと言う可能性も捨てきれない。つまり。妄想。それはそれですごいことなんだろうけれど。

(信じるか、切り捨てるか。いずれ、決めなきゃな……)

 立ち上がり、二葉の顔を見ながら、ふと、晶はそう思った。



 教官の部屋の扉の前で、水緋鈴乃は自分が少し緊張していることを悟っていた。

 程々ならば緊張していた方が良い、油断するよりマシだ。と考えながら、後ろ手に持ったスプレイ缶を握り締める。

 今から鈴乃が会うのは、放火の犯人かもしれない相手だった。念のために痴漢撃退用のスプレイを持ってきていたが、やはり不安はぬぐいきれない。

(大丈夫。ただ、確認するだけだから。襲われたら殴ればいいしね)

「よし!」

 真昼であり、人通りも少なくない廊下を見回し気合を入れ、ドアのノブを掴み、ひねる。

 動かなかった。

「ふう。留守か」

 ドアにかかっている表には〈在室〉と書いてあるが、どうやら書き直し忘れたらしい。

(どうしようかな)

 わざわざここまで来たのだ、何かをしておきたかった。

 ふと、思いつき、持っていた鞄からノートを 取り出し、一ページ破り取る。

『今日の放課後、四時に校舎の裏庭で待ってます。絶対来てくださいね』

 ボールペンで、できるだけ女文字に見えるようにして書く。それを折りたたんでドアの前の質問箱に入れる。

 晶か進一も連れて会ってみたら良いのだ。そう判断しての事だった。

(間違ってたらただのイタズラでしたって言えば良いしねー)

 ふらふらと、冬にしては暖かい陽気の下、呑気に考えながら彼女は教室に向かい歩いていった。

 彼女が去るのを待ち、箱を開けて先ほどの紙片を取り出し、仔細に眺めだした学生も見ずに。



 一度は帰って眠ろうかとも思った晶だが、とても眠れる状況では無かった。腰を据えて二葉と語らなければならない。流されてしまっているこの状況を打破する為にも。

 二葉のことは外からは観測出来ないわけだし、カウンセリングなど受けてもたかが妄想と判断される可能性が高い。

 二葉に自発的に戻ってもらうのが一番手っ取り早い解決法なのだが、それもあっさりと失敗した以上、解答を保留している暇は無い。二葉に対する自分のスタンスを早めに決めておきたかった。

 寂れた公園に途中で寄り、ベンチに腰掛け、携帯を耳にあてる。これなら万一誰かに見られても異常者とは思われないだろうと見越してのことだったが、なんでこんな気遣いをしなければいけないのか、晶は一瞬、厭世観にとらわれた。

「二葉? 大丈夫か?」

『……うん』

「よし。これから僕は、君がホンモノだと仮定して話す事にする。そうでもしなければ、何も進まないからな」

『……うん』

「オーケイ。じゃあ、まず質問する。君は犯人を捕まえたいのか?」

 まず仮定その一。二葉が犯人を捕まえたい一心で晶にとりついた場合。

 その二。ただ僕といたいだけ。

 どちらの場合も、とっとと目を覚ませと言いたいところだが、二葉が自分でしばらく目覚めることが出来ないと思いこんでいる可能性もある。

 番外その三に事故というのがあるが、この場合解決法が思いつかない。

『……うん。少し』

 三度目のイエス。

 どちらにしろ今晶に解決できるのは仮説一の場合のみ。警察に先だって犯人をボコボコにすれば問題無いのだ。まずできることからやっていこう、という考えで、仮定その一で進めていく。

「じゃあ、君を襲ったのはどんな奴だ?」

『……男の人かも』

「ふむ。どんな?」

『……黒いコート着てた』

 黒いコート。これは鈴乃から聞いた情報なので、二葉を信じる理由にも、犯人特定の手がかりにもならない。さらに晶は質問を重ねる。

「知ってる野郎か?」

『……顔は覚えてない。マスクとサングラスしてた』

「そうか……。あと、何か憶えてることは無いか? 髪型とか」

『……短かったような気がする』

「他には?」

『…………』

 沈黙。

「じゃあ男は君を襲った後逃げ出したってわけか? 他にはなにもされなかったんだな?」

『……たぶん。すごく寒かった。後は、あ。誰かが助けにきてくれたみたい』

「ふん。たぶんそれ鈴乃だ」

 大して役に立たないが、思ったより協力的だった事に驚く晶。もっと支離滅裂なことを言ってくるかと思ったが。

『……そうなの。あと、その人最初、しゃがんで何かしてた』

「……何? しゃがんで?」

『……うん。たしか、それを見て、なんだろうって気になって。玄関の近く』

 しゃがんで何かしていた。しかし、何を?

「そいつ、一体何してたんだ?」

『……憶えてない』

「そうか。それはどこだ? ……いや、現場の近くか」

『……うん。私が倒れたところから少し離れたところ』

「了解」

 目を開けて、立ちあがる。まず、この現象を信じなければ何も始まらない。現場に行ってみよう。それからだ。

 信号も無く、十五分ほどで到着する。何も残っていない。事件すらおこらなかったかのような味気なさだった。

 あたりを窺い、通行人がいないことを確認する。目を瞑り、携帯を取り出す。

「……おい?」

 反応が無い。

「二葉?」

 再度呼びかける晶。

『……ごめん、思い出してた』

「そうか。……なんていうか、すまん」

『……ううん、いいよ。えっと、もっと先に進んだところ』

「そうか。……? 二葉、わかるのか?」

『……え? うん』

「なんで……? 僕は、目を瞑っているんたぞ? 君は僕の中にいるんじゃないのか?」

『……目を、閉じて? でも、私、見えるけど』

「ふうん?」

 ならば。

「じゃあちょっとナビしてくれよ。もう近いんだろ?」

 そう言って、歩き始める。

『……うん、もう少し。……あ。電柱に気をつけてね』

 確かに見えているようだ。右手を前に出しながら歩いていると、確かに冷たいコンクリートの感触にあたり、慎重に避ける。この時点で晶の二葉への信頼は大幅に高まっていた。

「じゃあ、普段は、どんな感じなんだ? 僕が、目を開いている時」

『……いっつも真っ暗で、何も見えない。少しだけ周りの音は聞こえる』

「ふむ? じゃあ、今は?」

『……歩いてるのが分かる。なんだか私の体が勝手に動いてるような感じ』

「そ、そうなのか」

『……あ、もう、すぐそこ。次の、大きな車が停まってる家の玄関』

「オーケイ。また、後でな」

 目を開き、振り向くと、先ほどの場所から、百五十メートル程しか離れていない。

 奴はしゃがんでいた状態から二葉に気付き、立ちあがり、いきなり襲いかかる。少しはイメージが湧いてきたが、果たして鈴乃に気付かないという事があるのだろうか。

 上を見渡すと、まばらに街灯が設置されているだけで大した明るさは得られないようだが、それでも、一人の人間に気付かないというのは随分なことに思えた。

 思考を止め、晶は目の前にあるその家を観察し出した。ごく普通の一軒家で、強いて言えば、大きな車庫に黒いワンボックスが停まっているのが特徴といえば特徴だ。庭もあり、狭いが小奇麗にしてあるようで、住人のセンスを感じさせた。肝心の玄関に目を向けると、ドアに取り付けられたカウベル、庭の脇に寄せてある雑誌類……。

 そこまで観察して、晶はわずかに違和感を感じた。

 何故あんなところに雑誌が?

 しかもずいぶんと汚い。色褪せ、ぼろぼろになった少年誌が数冊積み重なっていたが、数週間は外に放り出しておかなければあの様な状態にはならない。しかも大きな木の下、茂みの中に隠すかのように置かれていた。

 少し考え。

 晶は道路に面した表札の下にあるチャイムを押した。

『……はいはい、少しまってくださいねぇ』

 すぐに女性の声が聞こえ、言われた通りにその場で待つ。

 一分ほどして、ドアが開き。一人の老女が出てきた。六十歳前後の温和そうな雰囲気をまとっている女性だった。

 晶の前まで歩いてきた彼女は、

「はいはい、どなたですか?」

 歳に合わない無邪気な笑顔を浮かべながら、ゆっくりとした調子で聞いてきた。

「あ、すみません。少し気になったことがありまして」

「はい? ……なんでしょうか?」

「ええ。あれ、どうしたんですか?」

 そう言って、先ほど見つけた雑誌の束を指差す。

「あら? なんでしょう」

 玄関脇にトタトタと戻っていく彼女。

 晶も後に続き、老女の後ろから、雑誌を覗きこむ。

「少し、良いですか?」

 断って、手触りも確かめ、納得する。バリバリに硬くなった表紙。全体的に薄く変色したその表紙には、今週月曜日に発売の週刊誌だったことが示されていた。

 発売日は、二葉が襲われる前日。

 尋常な劣化のしかたではない。二日や三日ではあれほどの変化はしない事は晶にも分かる。まして最近は雨も雪も降っていない、からりとした日々が続いているのだから。

 きっと、灯油か、シンナー、ベンゼン系の揮発性燃料だろう。

 ならば目的は、一つ。

「ええと、これ、どうしたんですか? いつの間にこんな……あ、もしかして息子かしら? でもこんな所に置くなんて……」

 深刻に考えこみ始める老女。

「ああ、やっぱりこの家の物じゃなかったんですか。いえ、三日ほど前に通った時には無かったもので。何かおかしいな、と思いまして」

「あ、あらあらご親切に。ありがとうございます」

 晶のほうが恐縮するような丁寧なお辞儀をされ、少し慌ててしまう。ただ確認したかっただけで、礼を言われることではないのだ。

「あ、いえ、気になるなら、警察に連絡するのが良いでしょう。じゃあ、僕はこれで」

 老婆の家が見えなくなるまで歩いてから、なんとも言えない喜びがわきあがってきて。

「……放火しようとしてたんだな……ははっ」

 誰もいない路地で笑う晶を誰も見ていなかったのは、彼にとって幸いだった。



 授業が終わり、すぐに鈴乃は裏庭に向かった。進一に話して一緒に来てもらおうとしたが、彼は昼から早退したようで、見つけることができなかった。晶でさえ今日も朝からサボっていて、仕方なく一人で来たわけである。

 夕暮れにはまだ間がある。

(襲われたらまずスプレイをかけて、正拳? いや、肘を顎に……で、投げて……)

 もし呼び出した相手が犯人だった時のことを考え、頭の中でシミュレートする。 

 八年間空手を習っていたので、例え素手でも負けることは無いと確信していたが、相手も凶器を持っていないとも限らないので、油断はしない。

 時計を見る。

 三時四十分。

(少し早かったかな)

 ぼんやりとそう考えながら、進一の番号に合わせ、通話ボタンを押す。

 予想通り圏外。

「電源切って、何やってるんだか」

 呟き、携帯をしまおうとしたところで。

 突然鈴乃は突然後ろから抱きすくめられ、濡れた布を口元に当てられた。不意を突かれ、思いっきり吸いこんでしまう。

「……!」

 口元の布から感じる刺激臭よりも、気配に気付かなかったという事に焦り、鈴乃の思考は数秒、停止した。

 我に返り、腕を振り払おうとするが、がっちりと抑えつけられ、離れる様子も無い。

 混乱する頭を叱咤して。

 かろうじて自由になる右手で、持っていたスプレイを、後ろの人物の顔のあたりに向けて噴射した。

「う、あああ!?」

 後ろの人物は叫び、よりいっそう強い力で締めつけられる。

 格闘技を習っていても、所詮十七歳の女の体である限り、どうしても弱さというものがある。

 骨がきしむ音を聞き、鈴乃は痛みから、大きく息を吸ってしまった。

 肘を後ろの人物の肋骨あたりに叩きこみ、体を離す。

「って、あんた、何で……」

 自分を襲った人物の顔を確認し、問い質そうとした鈴乃だが、体がゆらりとよろめくのを自覚した。

 今にも倒れこんでしまいそうなほどだ。

「さっき、のクスリ?」

 無言で近づいてくる彼。立っているのがやっとの鈴乃に、再び薬品を湿らせたハンカチを当ててくる。

(駄目……。ちからが……ねむ、い)

 抑えつけられて数分後、鈴乃は気を失った。


 晶は自室で寝転がって一冊の雑誌に目を通していた。

 寮に帰る途中、彼は本屋に寄って、いくつかの本を買い込んでいた。案の定馴染みの店員からは妙な目で見られたが、知ったことではない。

 『心霊現象百選―今年はここだ!―』『幽体離脱』『ESPの世界』

 以前までなら見向きもしなかった種類の本だが、他にも自分と同じような体験をした人物がいるかもしれない。という考えで買ってしまった。

 レジで値段を見た時には後悔したが、もう手遅れだった。

 半分ほど読み進んだところで、今まで読んでいた『心霊現象百選』を放り出す。 

 確かに心霊現象らしきものが書かれていたが、ほとんどが恐怖をあおるような書き方で、結局助かった人はいない、というオチなのだ。これではどうしようもない。

 次に、『幽体離脱』を手に取り、流し読みする。大した期待はしていなかったが、ある一文に目が止まる。

『……私が初めて幽体離脱を経験したのは、交通事故にあった直後のことでした。正面からものすごい勢いで近づいてくるトラックを見て、悲鳴をあげました。体中に衝撃が伝わり、私は近くにあった屋根の上まで吹き飛ばされたのです。しかし、どこにも怪我は無く、痛みも感じませんでした。どういうことだろうと思いながら、ふと、下を見ると、道路にはぼろぼろになった私の体が横たわっているのが見えました。……』

 続きを一気にすっ飛ばして、この人が体に戻れたきっかけを探す。

『……私の体が入院して一ヶ月がたちました。その日の朝も、私の意識は病室の椅子に座って、自らの寝顔を眺めていました。隣りではお医者様が私の体に話しかけています。「君の体はもう治っているんだ。安心して目を覚ましていいんだ」ずっと聞き流していたお医者様の話ですが、その言葉を聞いて、ひどく安心したのを憶えています。意識が遠くなり、気がついたら、私は、私の体に入ることができました……』

 他にもいくつかの事例を読み、そのきっかけと戻った時の部分だけを拾い、読んでいった。本を閉じて再び放り出す。

 なんとなく分かった気になる。

 幽体離脱とは、現実からの逃避。恐怖や衝撃によって意識が体外に追い出された状態を言うのだろう。だからこそ、体が治っているという言葉で、不安が取り除かれて、戻ることができたのだろう。

 さらに晶は考えを煮詰める。

 二葉の場合は少し違う。自由に動き回れるわけではなく、晶にとりついているのだ。これは本人が目覚めないというマイナス面もあるがメリットもある。意識の無いはずの二葉と晶で意思の疎通ができる、ということ。

 しかし、もしも二葉が自分の体に戻るよりも、晶にとりついている方が安心、と思いこんでしまったら厄介だ。そういうことになる前に、やれるべきことはやっておかないと……。

 目を閉じて、「二葉?」

『……なあに?』

「君は、今、どんな状況にあるんだ?」

『……今は晶君の部屋が見える』

「じゃ、じゃあ、警察に行く事はできるか?」

『……一人で?』

「? ああ」

『……だめ。晶君から離れられない』

「やり方が分からないということか?」

『……できないの』

「……そうか」

『……ごめんね役にたたなくて』

 弱々しい声が響く。なんともいえない罪悪感に襲われた晶は、

「いや、気にするな。僕は僕の為にやっているんだ。君はただ待っていてくれ。明日には市立図書館で過去の放火の記録を調べる。必ず犯人を…………」

『……?』

 そこで晶は言葉につまった。

 犯人をどうしたいのだろうか。

「そういえば桜木さんのこと、なんで教えてくれなかったんだ?」

 少し露骨だったか、と渋面を作りつつも二葉の反応を待つ。

『……え? お母さん?』

「ああ。あの鍵町桜木が君のお母さんだったって事」

『……自慢するみたいでやだったし』

「自慢って……。いや少なくとも自慢するだけの価値はあると思うぞ。僕の憧れの人だったからな」

 今日、会って、話をするまでは。

 今の晶にとってはもう、桜木は近くの一個人。晶にとって、追いつき、追い越す為の存在。

『……だって、そうしたら私より、お母さんの方を……』

 そこで、ドアがノックされる。少し驚き、二葉との会話を終える。心の中で二葉に詫びながら。

「開いてるよ」

 どこの誰かは知らないが、おそらく進一だろう、と予測してのことだった。晶の部屋にはこの時間帯、進一の他に訪れる奴はいない。いつの間に広まったか、寮内では天才の名と並行して、書痴としての悪名も鳴り響いている様で、滅多に顔を合わせない上級生までもが本を借りに来る。あまりに多いので、希望者は夜八時から九時以外に来てはいけないというルールをつくったのだ。

「ういーアキ」

 制服のまま部屋に上がりこむ進一。手に鞄を持っているところを見ると、自室に寄らずに直接晶の部屋に来たようだ。サングラスをかけていたが、バイクでも運転していたのだろう。

「おう、進一。お疲れだな。昨日は来なかったみたいだけど?」

「まあよ。俺にも色々やることが出来てさ……。あれ? なんかお前にしちゃあ珍しい本が転がってるじゃないの?」

 進一は、床に散らばる怪しい雑誌類に目を止めた。

「うーん? 珍しい珍しい。実に不思議だねえ晶クン?」

 晶は床の雑誌をまとめて奥に置きながら答える。

「そんなことはない。読まずに否定するのも愚かな話だと思ってね」

「……ずっと前、読む価値すら無いとか言ってなかったっけ?」

「いや、意見は変わるものさ。こういうのもありえるんじゃないかと、考え始めてね」

「ふーん」

 楽しげな目つきで晶を睨む進一。付き合いが長い分、そうそう疑いは晴れないようだ。

「お前ってけっこう人はぐらかすからな。無闇に感情出すバカよりはマシだけどさ」

「本当のことを言っても仕方が無いということだよ」

「……あーそーでっか」

 まあいい、と座布団を引っ張り出して腰を下ろす進一。横に鞄を置き。

「昨日昼間、鈴乃と話してな、お前が興味ありそうなことを聞いたんだ」

「僕の興味? 鍵町桜木の自費出版本でも見つけてくれたのか?」

「ちげーよ。そんなものは無いってば。しっかり調べたんだから。事件の噂だよ」

「……ふん。噂、ねえ」

「噂を馬鹿にするもんじゃないよ。最近この辺で放火が起こってる」

「ほ、放火だって?」

 突如目をむいた晶に驚いた進一だが、そのまま続ける。

「……一年で、えーと何回だったかな」

「全部同一人物なのか?」

「ああ、多分な。あとこれ鈴乃から」

 進一が鞄から出した地図を奪い取って、細かく眺め始める。

 ふむ、と呟いて考え始めた晶に向け、進一は慌てて言葉をつなげる。

「んでさ、今鈴乃がそいつ誰か調べてるってさ」

「は?」

「何か直接確認しに行くから、今日の放課後あたりには分かるってよ」

 晶は思わず手に持っていた地図を机に叩きつけて、

「バ、バカ! お前、お前……ヤバイだろう!」

「何が?」

 事態の意味がわかってない進一に腹が立ってくる。大きく息をつき、気分を落ち着かせる。

「何がじゃない。相手は放火魔なんだぞ。傷害の犯人かもしれない」

 薬品で気絶させるのは傷害に入るのだろうか、と口を動かしている脳とは別の部分で思いつつ。

「あ、ああ」

「もし、犯人に、鈴乃が自分のことを調べてるということが知れたらどうする?」

「え、えーと」

「確定したわけじゃないが、もし僕が犯人だったら、逃げるか口を封じる」

「……あ」

 ようやく危機感をあおられたか、目に見えて落ち着きがなくなった。

「分かるか? ましてや鈴乃は女だ。犯人がキレてる野郎だったらどうなるか……」

「……」

「お前、鈴乃の彼氏だろう」

「う、うん」

「早く電話しろ。今すぐやめるように言え!」

 あたふたと携帯を取り出してダイヤルし始める進一。

「で、電源切ってるみたい」

 落ち着き無くあたりを見まわす。

「行くぞ」

 立ちあがり、布団に投げ出していた上着を羽織る晶。

「ど、どこにだよ」

「学校だ。まだいるかもしれん。早くバイクの鍵とメットもって来い」

「わ、分かった」

 あわただしく部屋を出ていく進一。

「しかし、なんで鈴乃は犯人を絞れたんだ?」

 何か確たる情報が無ければ、そうそう犯人に迫れるはずもない。小さく呟いて、晶も階段を降りて行った。


 教室に数人残っていたクラスメイト達に話を聞いたが、鈴乃は既に帰ってしまったようだ。

「帰ったか」

「うん、授業終わるとパパーって教室出てったよ」

「そうか、じゃあ、またな」

「またね。明日はちゃんと授業出てねー、高菜くん」

 軽く手を上げて答えながら、晶は教室を出る。進一の向かった図書館の方へと向かい、階段を降りる。

 図書館に進一はいなかった。馴染みとなっている司書のお姉さんに聞いてみたが、入ってきてすぐに出ていったらしい。続けて鈴乃も知らないかと聞いたが、彼女は鈴乃を知らないらしく、何もわからなかった。

「もうすぐ鍵町桜木の原作の本入荷するからね」

 背後に司書の声を聞きながら図書館を出て、携帯で進一を呼び出す。

『……はい、誰だ?』

 ひどく、暗鬱な声。いやな予感が背中を走ったがそれを無視して、

「ああ? 僕だ。今どこだ?」

『裏庭にいる! ……頼む、早くきてくれ』

「そうか、わかった」

 通話を切って裏庭に向かって駆け出す。階段を二歩で一息に飛び降りて。走り。下足箱を無視して外に出て、校舎をぐるりと迂回する。

 裏庭には、進一が壁に背を向けてうずくまっていた。

 晶のいやな予感は増幅していく。既に予感とは言えないほど。まさしく悪寒。時間がさかのぼり、二日前の夜を思い返す。

「お、おい。……進一?」

 晶のかけたその声に、ばっと、勢いよく首を起こす進一。しかし、硬く閉ざされたその目元からはぼろぼろと涙が流れていた。

「晶か!」

「ああ、いったいどうしたんだそれ? 痛いのか?」

 とりあえず進一が生きていることに安心し、そのありさまを妙に思う。

「あの野郎、いきなり催涙スプレーみたいなもんぶっかけてきやがった。目が痛えし、体がだるい……。また眠りそうだ」

 本当に辛そうなその声に、晶は同情にかけたが、それよりも情報を聞く方が先だ、と考え、質問を続けた。

「犯人は男か?」

「ああ。……いや、振り向いたところをいきなりだったから、分からなかった」

「そうか」

「そ、そうだ、鈴乃はいないか!?」

 あたりを見渡し、「見える範囲にはいないようだ」

「そ、そうか、じゃあ、たぶん、さらわれたかもしれない」

「悲鳴とかは聞こえなかったのか?」

「ああ、ありゃ痴漢用のスプレイだな。何も見えないからって、ちきしょう!」

「あれは痴漢以外に使うものじゃないだろう。……お前は痴漢か?」

「知るか! 犯人に言ってくれ。お前からの電話で気がついたんだ。目は痛くて開けられねえし。くそっ! 二度と体験したくないぞ」

「まず落ち着け。白昼堂々誘拐なんか出来るわけないだろう。何があったか、いやそれより水道だ、目、洗え」

 進一を引っ張って、校庭の脇にある水道に連れていく。

 何度も顔と目を水で洗い流し、ようやく落ち着いたか、とつとつと話しはじめる。

「最初はさ、図書室の窓から鈴乃が見えたんだよ。なんか歩いてたからさ。ほら、図書室の窓ってはめ殺しになってるだろ? 声もかけられないから、速攻で裏庭にきたわけよ。……あいつがどこに行くつもりかわかんなかったけど、とりあえず歩いて行った方に走ってったわけさ」

「ふん」

「んで、さっきの、俺がいたところかな? そこに鈴乃があっちの方向いて倒れてて、おいって、声かけたわけよ。そしたら、後ろから肩掴まれて、びっくりして後ろ向いたら、プシュっとやられちまった。ったく意味わかんねえよ」

「それは、また厄介な……」

 鈴乃がどうなったかわからない。

 晶は頭を抱えたくなった。

「問題増やしてくれたなあ」

「……すまん」

 殊勝な顔をして謝る進一だが、晶には謝られる筋合いはない。もともと自分の為に抱え込んだ問題なのだ。

「気にするな。こうなったら何とか助けるさ。僕は天才だぞ。気合入れればなんでもこなせる」

「言うねえ言うねえ。……じゃあ天才、俺はどうすりゃあいい? 俺にも奴をぶん殴る理由が出来ちゃったよこれで」

「まあ待て」

 晶はその場に座りこみ、考え始めた。

 まず、僕が犯人だったらどうする?

 鈴乃のせいで身元は割れただろう。一介の女子高生にまで知られたんだ。犯人は警察がやってくるのも時間の問題だと考える。ならば、逃走。逃走の為には? 時間稼ぎ。時間稼ぎをするために? 鈴乃を如何に使うか、だ。殺してしまうか? いや、犯人は催涙スプレイと、クロロホルムを持っていた。ならば、監禁? いや、それだけではなく、誘拐騒ぎも起こせばさらに時間は稼げる。

「誘拐だ」

「誘拐?」

「ああ、犯人は鈴乃をどっかに隠して逃げるつもりだ」

「それがなんで誘拐なんだ?」

「身代金でも要求すれば立派な誘拐だ。受け取らずに逃げるにしても、な。誘拐事件となったら、警察もマジになる。他の事件を後回しにするくらいに」

 殺人ではないが、捜査本部は立つのだろうか? 疑問を感じながら、さらに思いつく晶。

 そうだ、誘拐で一番危険なのは身代金の受け渡しだ。ならば、最初からそれを諦めて、鈴乃を殺してその死体を隠せば。そうしたら、誘拐事件から殺人事件になり、警察は事件にかかりっきりになる。

 毒も食らわば皿まで、という考えで行けば、十分ありえる推論に思えた。

 ただ、晶にはこの考えで、少し不安な部分もあった。

 犯人が今まで犯した罪は、放火と暴行未遂だ。しかも放火は、数が多いがほとんどがボヤ程度。その程度の罪を隠すために殺人まで犯すのか? と。

 ありえないことではないが。そこまでやるくらいならいっそ、

「……自首すりゃあいいのによ」

 奇しくも考えていたことを先に口に出され、進一を見る。

「あ、すまん。つい、ぽろっとでちまった」

 慌てたようなそぶりを見せる進一。思考の邪魔をしたとでも思ったのだろうか。

「いや、僕も同じ事を考えていた。……もう、後には引けないって考えなんじゃないかな。暴走した人の心理ってのは必ずしも理屈にのっとった行動を示さないもんだし。それに鈴乃がいないって時点でもう猶予は無い」

「はっ。自分勝手だな」

「犯罪者は誰しもそうだよ。……まず進一は警察に行って、さっきのことを説明するんだ」

「あ、ああ。分かった。お前は?」

「僕は、僕なりの方法で犯人を、追い詰める。鈴乃にできた事だ。僕に出来ないはずが、ない」

「……そうか。分かった。じゃあ、あとで」

「ああ。気をつけて行けよ。バイクに細工していないとも限らない。あと、これもってけ」

「お、おう?」

 山畑警部補の名刺を渡す。「この人が担当している事件だからな」

 そこで晶は思いつく。

「そうだ、お前、鈴乃に犯人の情報とか教えたのか?」

「は、犯人の? い、いや、俺だって知らないよそんなこと。鈴乃が独力で追い詰めたんだと思う」

 何故か少し慌てたふうの進一に向け、追い払う仕草を見せる。

「わかった。早く行ってこい」

 少しふらついていたが、走っていく進一を見送り、まず晶がしたことは、体育館の倉庫やステージの裏、部室棟などの見まわりだった。犯人が余裕ぶっている阿呆だったら、適当な所に閉じ込めるだけ、というのも十分ありうる可能性だったからだ。

 鍵のかかっている部屋は無理だったがとりあえず全てを見まわって、誰もいないことを確認してから、寮に帰った。




お疲れさまです。やっぱり携帯で読もうとすると、長いですね……。推奨パソコンからってところでしょうか。五話+エピローグという構成にする予定なんで、色々予想してみて下さい。

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