表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

事件開始

多分、長くなります。二日に一度くらいの割合で定期的に載せていくので、まとめて見たいという方は十日後くらいにご覧ください。

       プロローグ


〈私はあなたの犯罪の証拠を握っている

 同封した写真を見て納得して欲しい

 警察に教えるつもりは無い

 私の目的はただ、ある家を次の標的に選んでもらいたいだけなのだ

 日時はこの手紙の消印から三日後二十時

 場所は写真の裏の地図の通りだ〉



 一人の男が、空気の淀んだ裏路地を疾走していた。

「くそっくそっ!、……なんなんだどういう事だこれはっ!」

 全力で走りながらも、その男は喋りつづけていた。

 月の無い暗い夜に、黒いロングコートと薄手の手袋が溶けこませる。その片手に大ぶりのナイフを持ちながら、彼は走る。

 訳がわからない。

 何が悪かったのか。何故失敗したのか。

 やはりあれは何かの罠だったのだろうか。男は恐怖と疲労から、体中ががくがくと震えてくるのを感じた。林道にさしかかったところで息が続かなくなり、木の陰に座りこみ、男は頭を抱えた。

 今まで走ってきた道を恐れと共に振りかえり、誰もいないことに少しばかり安心し、大きく息を吐く。

 ぐちゃぐちゃと混乱した頭で、何故だ、と彼は考える。

 単純に考えるなら、あの手紙を出した主が画策したのだろうということだ。

 彼の犯罪の証拠と共に送られてきた一枚の依頼。いや、あれは脅迫と言っていいいだろう。

 あの手紙は何を目的としていたんだろう? 書いてある通りにあの家を狙って欲しかったんだとすれば、あんなことにはならなかった。

 所詮、偶然だ。

 ただ、運が悪かったのだ。

 タイミング悪くあの場にいた彼女も、その彼女に見つかってしまった自分も、お互いに運が悪かったのだ。そもそも自分を捕まえることなど出来はしないのだから。

(……帰るか。明日も仕事だ。手紙のことは……まあいい。問題があればまたくるだろう)

 自らを慰めるように、そう結論付け、彼は立ち上がり、早足で歩き出した。

 音も無く背後から近づく人影に気付かぬままに。

 特殊な靴でも履いているのか、足音を消したその女性は、するり、と男の背後に張りつき、忍ばせていたナイフでポケットを切り裂き、財布、次に携帯をすってまた音も無く離れていった。

 そのことに男が気付くのは数時間後だったが、結局、手紙の主の目的には気付かぬままだった。



    第一章


 高菜晶の歴史は、ある空港から始まった。

 A空港のロビーに置き去りにしていた乳児。それが晶だ。非道な両親(もしくは父母のどちらか)が育児に耐えきれなくなって捨てた、というのが一般的な見解だろう。乳児の手にあった紙片には、晶、とただそれだけが書かれており、親を探す手がかりは皆無だった。A市近辺では、行方がわからない新生児は発見できず、したがって、半ば自動的に彼は孤児となった。高菜、というのは今の養父母の名字であり、彼らは晶が六歳の時に養子として引き取った。

 晶の人生は、戦いの連続だった。

 幸運にも同年代の少年の中で晶は運動神経に恵まれた方であり、そしてそれを使うのに躊躇するようなことはなかった。

 殴り、蹴り。殴られ投げられ。

 しかし中学に上がる頃にはもう、晶は暴力を使うことはなくなっていた。

 その頃になると、力よりも知能で生徒を従わせる方が効率的だということに気付いていた。中学生ともなれば、必ず数人は暴力団、それに暴走族に関わっている人間がいる。彼ら相手に力を使っていては危険度も高かったし、将来のビジョンの設計もあった。

 とにかく、何を差し置いても、彼は優秀でなければならなかった。

 養父母には感謝していたが、いつまでも調子にのって彼らの庇護下にいてはならないという一種、強迫観念じみたものも感じていたし、いい加減なガキ大将気分で彼らを悲しませたくはなかった。

 だからこそ暴力を抑え、敵を論破し、それでも殴りかかってくる敵からは逃げた。逃げて、周囲の人脈を使ったり、大人しく殴られて諦めさせた。

 一年目は雌伏の時。二年目の二学期の選挙を終えた瞬間からの一年と半年間、生徒会長となった晶は、表裏ともに学内を手中に収めていた。

 そして高校入試。学力、生活態度、共に優秀だった晶は、県下に名高い蜂田商工高校を志望校に上げた。学生寮があり、授業料の免除や奨学金の制度が整っていた上に、学校平均の偏差値は64。卒業後の進路は、大学も就職も選り取りみどり。とにかく早く自分の力で生活していきたいと考える晶にとって、その高校は最高の環境だった。

 少なくともこれで、養父母に迷惑をかける事も無くなる……。

 県内で最も難関と言われる高校に合格し、晶の抱いた感想は、ただそれだけだった。

 晶の通った中学校からの合格者はわずかに二名。高菜晶。そして生徒会で書記をしていた中西二葉だった。



 秀才達の集う高校に入学して、二年が過ぎた。

 目が覚めた時、晶は一人でどこかの教室にいた。

「なんでこんなところに……?」

 コートを羽織ったまま椅子に座り、そのまま眠っていたらしいが。

 少し、茶色がかった髪を手櫛で整えながら壁の時計を見ると、四時を指していた。夕方の暗さではない。校内の雰囲気からして、早朝なのだろう。

 コートの下に着ているのは制服で、このまま授業に出ても問題ないことを確認して、ポケットから煙草を取り出す。片手で火をつけ、からり、と窓を開け、薄闇の残る校舎を見ながら外に灰を落とす。

 ゆっくりと煙草をふかしながら、晶は昨日からの記憶を掘り返して、何故こんな状況にいるのか納得しようとした。


 そう。図書館に行くのが面倒で、教室でレポートを書いていたのだ。

 放課後から一人で書きつづけて、結局九時頃に完成したのだが……。

 完成すると同時にそのまま眠ってしまったようだ。

 不安になり、机の中を漁ると、しっかりとまとめてある用紙の束があった。

「警備員は何をやってたんだろう?」

 職務怠慢だ。そう呟きながら携帯を取り出すと、未読のメールがあった。

 午後七時四十分。差し出し人は進一。集中していたのと、サイレントにしていたので気付かなかったのだろう。他にも不在着信が三回残っていた。全て進一からのものだ。

『起きたら急いで病院に来てくれ』

「……さ、て?」

 これはどういうことだろう?

 考えられるのは、進一が事故にでもあったということか。

 いや、様々なパターンが脳裏に浮かび、とても予測しきれない。イタズラという可能性もまだまだ捨てられないのだ。

 焦る手つきを抑えながら、進一電話をしてみるが、コールが鳴り響くばかりで、出る気配が無い。

 何にせよ、電話が通じなければ話が進まない。どこの病院かもわからないのだ。

 まあ、電源が切られていない以上、進一がどうにかなったということはないのだろう。

 そう結論付けた晶は少し安心し、煙草を投げ捨てながらも、しばらく考えつづけていた。


 一時間ほど教室で暇をつぶしてから晶は寮に向かった。学校から歩いて三十分ほどのところにあるその寮には、約三百人の生徒が住んでいる。蜂田商工高校には、県外からの生徒も多く、自宅からの通学が面倒なのと、寝食を共にする友人を作るために大抵の人間は寮住まいの生徒、寮生となる。

 早起きの他の寮生に挨拶しながらぺたぺたと歩いて行くと、顔を洗っている友人に気付いた。

「よお、進一」「ん? 起きたか?」

 進一こと、伊木進一は水道の栓を締め晶に振り向いた。この学校に起きるほとんどの悪戯の犯人だが、未だ学生科には知られていない。知っているのは晶と進一本人くらいだろう。

 何故か晶を気に入っているこの男は、わずか十七才の高校生の身で、既に数億円の資産を持っている。高校入学から一ヶ月もしないうちに両親が交通事故で死に、その保険金を全て、持っていた株(それも両親の遺産の一つだった)を買い増しした。半年でその株が急騰し、三千万を数億単位の金にまで増やした進一は、全て現金化した後手元に数千万円の現金を残し、会社をいくつか買いとってしまった。それが一年前の話。今進一の資産がいくらに増えているのか、想像すらできない。

 先見の明があったのは両親か、進一か。

 どちらにしても進一は、今この高校で最も金を持っている人間だろう。

 話に聞いた限りでは、卒業したら正式に探偵社の社長として就職するらしい。

 何故探偵なのか、聞いてみたところ、現在において非日常な世界が拝めるのは探偵の世界しかない。という答えが返ってきた。晶にとっては信じがたい話だったが、進一は本心からそう思っているようだった。


「昨日のメールはなんだったんだ?」

「ああ。中西がよ。帰る途中で何者かに襲われたらしいな」

 中西二葉は、中学時代から何故か晶とうまが合う女子だった。この高校に入ってからも何かと一緒にいることが多く、それなりに親しい。書記としての仕事もそつなくこなし、もしこの高校でも生徒会に入るならば再び一緒にやってほしいと考えてもいた。

 読む本の趣味が合い、ビリヤードの腕も同じレベルで、晶にとっては貴重な友人の一人なのだが。襲われたというのはどういうことなのだろうか。

 最悪を予想し、全身に鳥肌が立つ。

「は? お、い。それに病院って……具合はどうなんだ?」

「ふん。お前が思ってるようなことじゃあない。まあ飯でも食いながら話そう。まだだろう?」

 痩せた狐のように細い目をさらに細めながらのこの台詞。ちゃんと見えているのか不安になるが、不思議なことに大して問題無いらしい。背は低く、力も弱いが、脳髄だけは一級品らしく、それなりの成績を築いている。

 顔を拭き終えた進一に引っ張られながらも食堂に向かい、空いていた隅のテーブルを占拠する。

「で、どうなんだよ。話を聞かせてくれるんだろ?」

「まあ、待てよ。まずは飯を持ってこよう」

 今日の朝飯はトーストに牛乳、そして適当に切って盛り付けたサラダ。

「で?」「まずは食おう」

「食いながら話せ」「……まあいいけどな」

「で、どうしたんだよ」

 黒こげ寸前のトーストにバターを塗りながら進一を睨む。

「うん。大したことじゃない。今は眠ってるだけだ」

「眠ってる? 最初から、具体的に話せ」

「昨日、中西とは図書館で一緒だったんだよ。六時過ぎくらいかな? 帰るって言い出してな」

「……」

「一人取り残された俺はネットで遊んでたんだけどよ、いきなり電話がきたんだよ。鈴乃から」

 水緋鈴乃……二葉の友達か。

「つまり、二葉は鈴乃と一緒に帰ってたのか」

「ああ。良くわかんねーからとりあえず走って寮にもどってバイクでその、現場に行ってみたんだけどさ。なんでもなかった」

 どういうことか、とパンを食べながら無言で促した。

「ただ眠ってるだけなんだわ。服も綺麗なままだし、脈も通常。鈴乃を落ち着かせて話を聞くとさ、知らないうちに倒れてたって言うのさ」

「知らない内? 一緒に帰ってたんじゃないのか?」

「うーん? 鈴乃は少し前を歩いてたらしくて、何があったのかよくわからなかったって言ってた。物音に気づいて振り返った時には倒れてる中西の姿と、逃げていく足音が聞こえただけだと」

「二葉は殴られてたのか?」

「いやいや、その誰かは、二葉に飛びかかって地面に押し倒した後ですぐ逃げたらしいんだ。時間的にも」

「それだけなわけが無いだろう。腹とか頭とか殴って気絶させたとかじゃないのか」

「だから病院に連れてったんだろうが。……結果は何でも無い。ただ眠ってただ、け、さ。よくわからんね」

「ああ、そうかい」

 ほっとする自分を感じ、晶は大きくため息をついた。

「ま、見舞いに行ってもいいんじゃない? 放課後くらいになりゃ目も覚めてるだろうさ」

「そうだな……。どこの病院だ? 竹田病院か?」

「ああ。何号室だったかな? まあいい。受け付けで聞けばわかるだろ」

「ふん、まあいいや。……ああ、そういやこの話は伏せといた方がいいよな」

 噂の操作が趣味と公言する進一だが、このことに関しては静観してもらいたかった。

「わかってるって」

 にやにやと笑っている進一。何が目的で学校に通っているのかは分からないが、確実なのは校内で進一に手に入らない情報はない、ということ。決して公表はしないが、春の身体測定やテストの結果等も全て手のうちにあるらしい。全ては退屈凌ぎと趣味だと言っていたが、不健康、兼悪趣味極まりない。

 それならばついでにテストの問題用紙も盗めば良いようなものだが、「それはフェアじゃない」などと言って否定していた。

 雑談を続けているうちに、少しずつ食堂にも人が入ってきたので、二人は残っているコンソメスープの消化にとりかかった。

 食事を終え、「じゃ、ガッコ行くか」

「一服してから行こうぜい? まだ行くには早いしねー」

 口元に手を持っていき、煙草を吸うジェスチャーを示す進一。

 高校の寮だけあって、部屋での喫煙、飲酒には厳しい。たまに教師が部屋をチェックするので、煙草を吸うなら屋上で、と数年前からの慣習があるらしい。これは教師も黙認しているらしく、掃除さえしっかりとしていれば関わってこない。最も、下手に見つけてしまっては生徒の半分ほどの停学者が出てしまい、高校自体の評判を落としてしまう、という考えからだろうが。

「ああ、まだ時間あるな」

「そそ。んじゃ、先に屋上行ってるから」

 返事も待たず階段を駆け上がって行ってしまった。

「やれやれだよ」

 首をふり、一度部屋に戻って着替え、屋上に向かう。

「よお」「おう」

 既に同じ寮生の何人かが喫煙タイムに入っていて、軽く手を上げて挨拶をする。進一は端の方で、フェンスによりかかって吸っていた。

「先に行くなよ」

「ヘビーなもんでね。我慢できねえわけさ」

 そう言いながらも顔をしかめ、不味そうに煙を吐き出し、進一。高校生の癖にハイライトなんてキツイ煙草を好む彼だが、喫煙暦は一年にも満たない。

「適度に抑えろよ」

「お前だって吸ってるじゃんか」

「ほんの、気分転換にね」

 懐の箱から一本取り出し、それに進一が火を着ける。大きく息を吸い、煙を肺に入れる。

 しばし、無言が続く。

「わからんなー。なんで、中西なんだ?」

「ん?」

 独り言かと思ったが、後半が問い掛けるような感じだったので、煙草を口にくわえながら、晶は振り向いた。

「なんでだ?」

「何で二葉が狙われたかってことか? そうだなー。背が低くて襲いやすかったとか」

 進一の聞きたいことは何となくわかっていたが、突っ込まれたくない部分なので、晶は話題を変えようとした。

「違う。アイツのことさ、好きなんじゃないのか」

「……知るかよ」

 中学生じゃああるまいし、なんでそんなことを話さなければならないのか。所詮友達だというのに。

 さらに絡んでくる進一。

「いいや、いいや。お前は、あいつが好きなんだよ」

 断定口調で言う進一に、気圧される。それは、確かに真実の一端を突いていたが。それは、一般的な『好き』という感情とは違う。

「…………さあな」

「でも、おまえは人を好きになれるのか?」

「だから、知らねえっつってんだろ」

 晶は荒くなる言葉を抑えきれず、

「好きも嫌いもねーんだよ、ただ気に入ってっから一緒にいるじゃあ駄目なのかよ!」

 無意識に大きくなっていた声に気付き、赤面して黙り込んだ。周囲の目が痛い。遠巻きに見ている奴らを睨みつけ、ごまかす。

「……ははは。つまりそれが好きってことだろ」

 いつもどうりの細目で、進一は、晶の苦々しげな顔を見て、笑った。



 火曜日の一時間目は化学。担当は金枝宗平。夏も冬も白衣を着ている変人。寝巻き用の白衣があるという噂まである。神経質で、チャイムから一秒でも出席に遅れると欠席扱いになる。彼を一言で表すならば、研究狂。

 ホームルームから机に突っ伏して眠りつづけていた晶だったが、進一に肩をゆすられ、軽く伸びをした。

「ん。終わったか」

 浅い眠りから覚め、あたりを見渡す晶。誰も居ないことに少し驚いた様子を見せる。

「いつまで寝てる気だよ、一時間目は化学実験だぞ?」 

「ああ、……なるほどね」

 鞄を手に取り、実験室に向かう。

「よく机で寝れるな?」

「ん? 慣れだよ慣れ。学生生活も十年越えると、なんかの特技を身につけるってことじゃないかな。昨日なんて机で一夜を明かしたよ」

「ああ? だから部屋に居なかったのかよ。ったく、教室なんかで寝る奴がいるか」

「しょうがねえだろ。眠かったんだから」

「眠り病じゃねえのか? クスリなら調達するぞ?」

 いらねえよ。言いながら晶が準備室の扉を開け、奥の方の席に並んで座る。

 一学期に決めた班組みで、晶と進一は組になって実験するようになっていた。

「あー、皆さん。おはよう」

 寝ぼけた声を出しながら、相変わらず薬品で染みだらけの白衣を着た金枝が実験室に入ってきた。これから昼までの三時間は実験に忙殺される。手早く終わらせるため、晶は渡されたプリントを集中して読み始めた。

 読みながらも、実験に何の意味があるのか、と思う。

 少なくとも晶は製薬系の会社に勤める気はない。あるのは三年の任期を終えた先にある大学への進学だ。なんにしても実験という授業が必要とは思えなかった。

 予測と違った結果が出ても、大した問題にはしないくせに。

 ただ、そこに居て、実験をしたという証明さえあれば単位を渡す。

 実験中、金枝は隣りの準備室で昼寝。もしくは自分の研究を進める。

 教師さえやる気がないのだ。

 晶は、このだらけた制度が嫌いだった。

 嫌いだったが、進級の為、と頭を切り替える。この実験は必修科目だ。好き嫌いでわがままを言っている場合じゃない。 

 晶達の班に割り当てられたのは『銀鏡反応』。鏡を作る実験らしい。

 買ったほうが上等な物が手に入るのに、と考えながらも、ざっと必要なものを頭に叩き込んで、準備を始める。

 進一が役に立たないのは今までの経験で悟っていたので、準備だけはしっかりやる。

 実際に晶一人でやった方が早く終わってしまうので、一人で出来る実験なら、手持ち無沙汰な進一はその間、先にレポートを書くのが常だった。

 後に晶がそれを写して万事解決、という具合だ。

 ゆっくりとガラス板を溶液に浸し、晶はアンモニア臭くなった手を憎々しげににらみつけた。

 ガラス板を取ろうとした瞬間。肘に当たった試験管が割れ、晶は小さく舌打ちをする。

「実は老化だったとか?」

 レポートも書かずにからかう進一に蹴りを入れる。

「じゃあ中西が気になって……」

 突っ込むのも面倒になった晶は進一の鼻先に、わずかに残ったアンモニアをかけた。

 声も上げずに悶絶する進一を傍目に、手早くガラスの欠片を掃除した晶は、大きくため息をついた。



「つまりそう言うこと」

 鈴乃から顛末を聞いて、晶はようやくあんパンをかじることができた。人が話している最中は飯を食うな、と鈴乃が威圧するのだ。おいしく昼食をとる為には手早く説明を聞き終えるしかない。

 なにしろただでさえ短い昼休みだ。飯にかける時間はできる限り短縮したい。

「つまり、鈴乃がその男に気付いたのは二葉が地面に倒されてからってことなんだな?」

 こっくりと頷く鈴乃。

 何故気付くのに遅れたかというと、進一と携帯で話をしていたらしい。

 実質雪奈が襲われていた時間は十秒程度のものなのだろう。

 先ほどのアンモニアの後遺症が残っていたのか、不味い不味いと言いながら飯を食べる進一を見ながら、「ふうん、まあ大体はわかったけど」

「犯人がわかったのか!?」

 梅おにぎりを食べる手を止め、そう言って感心したように晶を見る進一。

「はえーよ。そんなんがわかるかアホウ……!」

 わかったのは事件の詳細だ。意外と鈴乃は観察眼に優れているらしく、細かなところまでチェックしていた。

 例えば、犯人の身長は進一と同じくらい(170前後)とか、黒いロングコートを着ていた(冬だから珍しくもない)とか、長髪ではなかった、等。

(大して役には立たないかな……?)

 失礼なことを考えながらも黙ってパンを食べていると、

「まあ、いきなり犯人なんてわかるわけないしね」

 と、鈴乃。

「そりゃあそうだ。現場を見たわけでもないし、そもそも犯人なんてどうでもいいんだ」

 これは晶の本音。実際、警察が何とかしてくれるだろうし、そもそも実害はほとんど無いのだ。あえてあげるとすれば今日二葉が授業に出れなかった、ということぐらいだろう。

「ええ? 犯人捕まえないの?」

「そうそう、復讐しようよ」

 簡単に勝手なことをホザく二人に頭が痛くなるのを感じながら晶は、

「お前らはアホか」

 一言で切り捨てた。


 昼休みを三十分ほど残しで昼食を終えた。

 時間が早いだけあって、校舎の隅にある男子ロッカー室には誰もいなかった。一年から三年まで合同で使っているこのロッカー室が無人になるのは珍しい。のんびりと油臭い作業着に着替えながら、晶は。

「なあ、付き合うって、どんな感じなんだ?」

 一足先に着替えを終え、鏡の前で髪を整えていた進一だが、自分の耳が心底信じられませんといった表情で振り向いた。

「はあ? 何言ってるの?」

「今一つ、よく分からないんだ」

「何がさ? っつーか何の話だ」

「なんか、さ。二葉のことさ。考えたんだ。……今の関係ってすごく危ういんじゃないかってな。お前がいなければ、二葉が襲われたってことも知らないままで、ただ今日一日を過ごしてたって思うと、なんか、嫌になる」

 やれやれやれ、とゆっくり首を振りながら進一は、

「じゃあ、決めたのか? 中西と付き合うって。あっちは確実にOKすると思うぞ」

「……今まで通りの関係でいたかったんだ。でもさ、そんなの無理だろう? いつか二葉にも彼氏ができたら、そんな甘いことなんて言ってらんないしさ」

「そりゃ、そうだなあ」

「でもよ、分からないんだ。例えば本を読むだろ。恋愛小説だ。でも、そういう、恋っていう感情には共感できた事が無い。本当に、分からない」

 他に誰も聞いていない事を幸いに、珍しく暴走気味に語る。

「……ああつまらねえ。最悪の数歩手前。そもそもそんなやつが軽々しく付き合うなんて語るなよ。相手に失礼だ」

「そ、そうなのか?」

「ああ。中西の気持ちを考えな。例えば付き合うことになった。それなのに相手はなんだかそっけない。不安になるだろう? 本当は嫌々付き合ってるんじゃないか。本当に自分のことが好きなのか。ってさ」

 普段にも増して饒舌な進一。感情が高ぶっているのか、段々と晶に詰め寄ってくる。

「う、うん」

「ガキじゃねーんだ。とりあえずキスすりゃあ解決だ」「んなこと言っても」

「うるせえ。とりあえず暫く一緒にいろ。ホテルにでも泊まりに行って来い。いいとこ教えるからよ」

「ちょっと雑じゃないか?」

「そりゃそーだ。俺とお前は違うし」

「あ、そ。……まあ、僕なりにやるしかないのかねぇ」

「そおそお。……しかし女が絡むとホント弱いなお前って。中西のこと、可愛いとか思わないのか?」

「いや、そんなことはないんだがな。趣味も合うし、アタマ良いし」

「はっ。まあいいや。早くいくぞ? 鈴乃も待ってるだろうからよ」

 一方的に会話を切り上げ、進一は晶の尻を軽く蹴りあげた。


 教官が来るまで三十分程間があったので、晶は休んでいる二葉の作業を進めておくことにした。週に一度の工作実習は、休むと後に響いてしまう。進一と鈴乃は電算室でワークステーションを使って、プログラミング作業をするらしい。

 二葉は、旋盤という工業機械を使って、ピストンの部品を作る作業の途中だった。先週からの続きを今日やるはずだったらしい。

「少し、手伝っておくか」

 呟き、先週作ったらしい二葉の部品を確認してみたが酷い物だった。なにしろ肉眼でも歪みが見えるのだ。

 機械工作で1ミリを越える誤差のある材料は、スケールにもよるが、たいていゴミを意味する。たいてい誤差0,01ミリ程度。ギリギリで0,1ミリまで、というのが暗黙の了解だった。逆にどうやったらここまでずれるのかわからなかった。

 よく進級できたものだ。晶はため息をついた。

「図面は……これか」

 課題の図面をざっと眺める限り、難しそうなところは無い。そもそも旋盤で一番難しいのは、材料をセットする時だけなのだ。そこさえやってしまえば、と考え、材料を取りに行く。

 最も完成形に近い円柱の軟鉄を選び、トースカン、と呼ばれる工具で手際良くぶれを調べながらセットしていく。四つのつめを順番に締めつけ、再度ぶれをチェック。五分程度で終わったが、ここをしくじると全てが無意味になってしまう。実際に電源を入れ、機械を回転させて、問題無いことを確認して。ついでに刃物もセットする。

 がりごりと、白煙を立てる材料を削っていきながらも、晶は二葉のことを考えていた。

 こんな簡単な実習もこなせないような彼女が、何故この高校を選んだのか、と。

 中学時代、何かがあったのだろうか。あの時の二葉は、確実に文系で、人文科のある高校に進むものだと思っていた。そもそもこの高校の機械科に女子はほとんど入らない。四十人に二人から三人くらいの割合だ。何か、確固とした意思でもない限り入学しようとはしないはずだ。どうしても蜂田高校に魅力を感じているのならば物質科や建設科を選択する。あちらは女子がクラスに半数ほど在籍しており、逆に男子の方が肩身の狭い思いをしていると聞く。

 やはり、自分がこの高校に行く、と決めたからだろうか……?

(まさか)

 自意識過剰ほど格好悪いものはない。強く首を振ってその考えを打ち消す。何かがあったんだろう。晶の知り得ない、何かが。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ