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Bittet, so wird euch gegeben;
suchet, so werdet ihr finden;
klopfet an, so wird euch aufgetan.
Denn wer da bittet,
der empfängt; und wer da sucht, der findet;
und wer da anklopft, dem wird aufgetan.
(「聖書」マタイの福音書7章 より)
「……求めよ、さらば与えられん、………か。大嘘つきのペテン師め」
聖書をテーブルの上に投げて、エーリは煙草の煙を吐き出した。
求めても、信じても神は何も与えてくれなかった。自分自身が行動したところで、結局何も残らなかった。
彼女と言葉を交わす間も与えてくれなかった。
そして、彼女を殺した連中を憎む気持ちすら残してくれなかった。
何もかもどうでもいい。
復讐したいと思う気持ちもまるでなかった。
エーリはちらりと作業テーブルを見る。直したばかりの拳銃が転がっている。弾丸はない。だが、作ろうと思えば作れるタイプだ。
「あいつ、泣くかな」
自分が後から追っていったら彼女は泣くだろうか。
「……泣くの、見たくねぇな」
怒られるのはいい。
彼女が怒るのはいつものことだ。
でも、泣かれるのは辛い。
そもそも自分が同じ場所にたどり着けるとは思えなかった。何より、死んだらどこに行くかなんて誰も知らないことだ。あの世、黄泉の国、天国、地獄、楽園、それとも輪廻。
色々な宗教が色々なことを言っている。そんなのはどれもまがい物のように思えた。結局どこに行ったとしても自分は彼女には会えない。
出来るのはこの陰鬱とした感情から抜け出すことだけ。
でも、万が一、この世ではない世界で彼女に会ったなら、彼女は泣くのだろう。
それは見たくなかった。
「一緒にいるって言ったくせに」
嘘つき。
初めて会った時から嘘を付いていた。男だと偽って自分に気に入られようとしてきた。あの時だって傷つけられて痛いのに、痛くないと笑った。
いつだって彼女は嘘を付く。
それは全部いつも、エーリの為に。
「少佐、いるか?」
ラリーの声が聞こえ、エーリはソファの上から手を振る。
声を出すのも億劫だった。
年の離れた親友は少しホッとしたように息を吐いた。
まだ二十歳にもなっていない自分と四十代の彼が親友というのは他から見て奇異に映るだろう。だが、エーリと彼は十年以上前から親友なのだ。
エーリのことを理解している親友は、一瞬でも銃弾のことを考えたことを理解しているのだろう。
そしてこの世に留まっていたことに安堵したのだ。
「……顔色が悪いなエリック、大丈夫か?」
「問題ない。……頼まれていたものなら全部修復終わっているぞ」
「ああ、助かる。……本当に顔色が悪い。ちゃんとものを食べているのか?」
「いや、食欲がないんだ」
食べる気がしない。
ここへ来て数日。
ほんの少し口の中に何か入れてはいたが、食事をしているという程ではない。嘘を付いたところで彼には見抜かれる。
正直に言うと彼は困ったように首を振った。
「無理してでも食べた方が良い。何か作ろうか?」
「オッサン作れるのかよ」
「今し方、会社の日本人に和食を教わってきたんだ‘おじや’って言うらしい。あとは切って出すだけだ」
彼が材料らしき袋を上げる。
「おじや……ああ、知ってる。どろどろぐちゃぐちゃしたやつ。オートミールより旨かったな」
「そうか……ん、寝てていいぞ」
「俺がやる。オッサンの手料理なんか食えるかよ。酒でも用意してろ。持ってきてるんだろう?」
「はは、少佐は鼻が利く」
彼が出してきたワインを見てエーリは口笛を吹いた。
赤と白、どちらも結構な年代物のワインだ。
「気張ったな。……これにおじやなんてどういう趣味してんだよ」
「ん? 甘いモノが良かったか?」
「………」
エーリはげんなりして彼を見る。
どうも彼は味に対して鈍感だ。
何を出しても旨い旨い言うだろうが、自分も楽しめるようなものの方がいいとエーリは彼が買ってきた食品や余っていた食材でつまみになるようなものを作る。
手の込んだものは時間が掛かるために簡単なものになったが、テーブルの上には久しぶりに見る鮮やかな色の食べ物が並んだ。
「豪勢だ」
並んだ料理を見て彼が感想を漏らす。
「……オッサンに作らせたら茶色一色だっただろうな」
「失礼な。黒も混じるぞ」
「そりゃ焦げただけだろ」
やはり作らせないで正解だったなと思いながら、ワイングラスを傾けた。
かちん、とグラスが高い音を奏でる。
ワインを飲みながらエーリは何となく戸口を見た。まだ慣れないドア、そのドアから彼女が顔を覗かせて頬をふくらまして怒る姿が幻のように映る。
こんなところにいた、二人でなにやってんのさ、あやしー。
そんなんじゃない、とこちらが怒れば彼女はにこにこしながら近づいてきて自分の横に座る。
そしてヒヨコみたいな顔で口を大きく開けて騒ぎ出す。
二人ばっかずるい。ボクにもちょうだいよ。
そういう子供っぽい口調で甘えた事を言う。
食べさせてやると、今度は味付けが甘いとか辛いとか文句を言い始めるのだ。嫌なら食べるなと言ったところで彼女は聞かない。文句を言いながらも食べ始める。
そして最後には美味しかったと満面の笑顔で言う。
これじゃあどっちが年上だか分からない。
何度そう思っただろうか。
事ある事に「ボクの方がお姉さんなんだから」と言っていたくせに、どうしようもないくらいに子供。
彼女はどこにいる?
いまどこにいる?
思い出せない。
彼女は一体どこへ行っているのか。
「少佐?」
「ラリー、エドはどこに行くって言っていた?」
「……」
「思い出せないんだ」
彼が驚愕したような顔で自分を見返している。
何故ラリーがそんな顔をしているのか、エーリには理解できなかった。それよりも彼女はこの場所を知らないはずだ。早く店に戻らないと、彼女が店の方に戻ったなら心配するだろう。
「………?」
違和感を覚えてエーリは頭を押さえる。
何かがおかしい。
それが何かも分からない。
息の仕方が分からない。
今までどうやって息をしていた?
どうやって息を吸っていた?
何も、わからない。
「……ラリー、俺、どうしたんだっけ? エドと買い出しに行って……それから、俺、どうやって家に戻った? ……いや、違う、俺は戻ってないんだ………あれから、一度も」
「エーリ!」
呼吸が苦しい。
彼女がどうなったのかを思い出す。
痛い。
胸の奥が掻きむしられるようだ。
「ああ……そうだ、彼女は死んだんだ………もう戻らないんだ。もう、どこにもいない……そうだ、どこにも……」
「エーリッヒ!」
ばちん、と頬に衝撃が走った。
生々しい痛み。
とたん呼吸の仕方を思い出した。
急に空気が肺に送られて逆に苦しくなる。
エーリはそのままむせて飲んだワインをはき出した。
親友の大きな手が自分の顔を挟み込んでいる。冷たくて妙に汗ばんでいた。真剣な眼差しで覗き込んでくる親友を見てようやく冷静さを取り戻す。
口に付いたワインを拭ってエーリは静かに言った。
「……悪い、大丈夫だ」
「そんな顔をしていないよ」
「本当に大丈夫だ。思い出した。彼女はもう戻らない」
「少佐……」
「事実だ。取り繕ったところで変わらない」
そう、彼女がいない事実は変わらない。