05
名前を呼ぶ、優しい声。ゆるくウェーブのかかった髪は艶やかなプラチナブロンドで、彼を見下ろす瞳は深い海の色をしている。そっと抱き寄せられる腕は温かく、細く頼りなげなそれにまるで守られているかのような錯覚を覚えた。
――アルヴィフリート
美しい人。美しくも儚い、可哀想な人。
彼女はいつも優しげな笑みを浮かべて彼を見つめていたけれど、振り返ってみれば、それらは悲しみを堪え、泣くのを堪えているような表情だったようにも思う。
――アル、アルヴィフリート、大丈夫、大丈夫よ。なにも怖がることなんかないから
一瞬前まで彼の身体を愛おしそうに抱きしめていた彼女の腕は、いつのまにか彼の首に回され、驚くほどの力でそれを絞めていた。
――大丈夫、なにも心配いらないわ。私も、私もすぐに一緒にいくからね
大丈夫、大丈夫よ。幼子に言い聞かせるように言う彼女の声を聞きながら、徐々に霞んでいく視界に映ったのは、この世でなによりも恐ろしい“女”の顔だった。
※※※
白い陽光がカーテンの隙間から差し込み、薄暗い部屋の中を仄かに照らし出す、朝。チチ、という小鳥のさえずりとともに微かな羽音が聞こえてきて、アルヴィフリートは目を覚ました。
身体を起こせば、視界に入ってくるのは見慣れない寝室の風景だ。白とベージュで統一された室内は、シンプルで落ち着いた雰囲気を纏い、静かにそこに佇んでいる。
「……」
はっきりしない頭で二度、三度と視界を巡らせた後、
――はぁぁ……
アルヴィフリートは長い、長いため息を吐いて髪をかき上げた。
考えるまでもなくミハヤの寝室。昨夜散々逃げ回ったあげく、結局押し倒されて体調を崩した史上最悪の初夜の記憶は、一夜明けた今も嫌になるぐらい鮮明に彼の頭に焼き付いていた。できることなら式の記憶とともに、全てをなかったことにして忘れてしまいたいけれど、事情が事情なだけにそうもいかない。
全く、とんでもない女を妻にしてしまったものだ。
そうして再びため息を吐いた時――
「ん……」
どこからか聞こえてきたくぐもった声にアルヴィフリートはびくりと身を震わせた。
聞こえたのは一瞬でそれもごくごく小さな声だったが、女嫌いの彼なら分かる。あれは彼の天敵、この世で一番恐ろしい悪魔の声であった。
恐る恐るベッドから下りて室内を見回せば、長椅子にうずくまる小さな影が目に入った。ゆったりとした長椅子に、これでもかと身を縮め横たわるミハヤの姿。人一人余裕で寝ころべる大きさだというのに、どうしてこんなにも窮屈な体勢で寝入っているのか。そも、なぜ寝台に寝ていないのか? 勿論、そのようなことがあればアルヴィフリートは即あの世逝きだが。
猫のように身体を丸め、時折もぞもぞ、と動く彼女に怯えながら、アルヴィフリートはとりあえず近くにあったクッションを手にとった。いつ悪魔が目覚めてもいいように、なにか身を守るものが欲しかったのだ。それが例え、彼の大きな図体どころか顔さえも隠せないような、小さな飾り用のクッションであっても。
「ん、う、あれ?」
しばらくしてミハヤはぼんやりとした様子で目を覚ます。どうやら、もぞもぞごそごそ、忙しなく身じろぎを繰り返していたのは、眠りから醒め現実へと戻ってくる前兆だったらしい。焦点の定まらない瞳が右往左往して、クッションに隠れ切れていないアルヴィフリートを見つけると、突然ごにょごにょと独り言を言い始めた。
「おかあさん……いや、おかあさんはこんな髪じゃない。お父さん、でもなくて……ええと」
寝ぼけているのか、半分夢に浸かった状態でああでもない、こうでもないと繰り返すミハヤは、「あ、そうか、陛下!?」その後突如勢いよく顔を上げた。
「――っ!?」
不意打ちのように名前を呼ばれたアルヴィフリートは、驚きのあまりズサササッと後ずさりする。反対側にあった長椅子につまずいて尻餅をつくように倒れ込み、また一つアルヴィフリートの中に抹消したい記憶が増えた。
「お、おはようございます陛下……っていうか、大丈夫ですか?」
「平気だ」
投げやりに言葉を紡げば、向かい側でミハヤが笑う気配がして。アルヴィフリートはますます情けなさが募るのを感じた。
「笑うな!」
八つ当たりのように怒鳴りつけると、ミハヤは驚いた様子で首を振り、謝罪の言葉を口にする。
「す、すみません。でも別に陛下を馬鹿にしたわけでは。……その、随分お元気になられたので安心したと言いますか」
――嫌味か。
ムッとして、顔を上げると、しかし彼女は心底安堵したような表情でアルヴィフリートを見ていた。
「気分はいかがですか、陛下」
――最悪だ。
答えようとして、アルヴィフリートは、ふとミハヤが自分をからかっているのではなく、昨夜のことを言っているのだと気づいた。
「……別に、大丈夫だ」
口ごもりながら、呟きを落とすようにぽつりと答える。
「どこか、痛いところはありませんか? 吐き気がしたり、頭痛がしたりすることは」
「ない」
まるで侍医のように事細かに聞いてくるミハヤにきっぱりと否定して返せば、「よかった」とまた彼女は安堵するように顔を綻ばせた。
「……お前、」
一体なにを考えているんだ?
問いかけようとしたとき、タイミング悪くノックの音が響き、アルヴィフリートは決まり悪げに口を噤んだ。
「陛下、王妃様、ご起床の時間で御座います」
扉の向こうで響く高い声。ミハヤ付きの侍女たちが朝の訪れを告げにやってきたのだろう。
明るい空の色、先程よりも元気にさえずる鳥達声。城に仕える者たちはとっくに働き出し、今日もまたそれぞれの仕事をこなしていることだろう。
――ああ、夜が明けたのだな。
アルヴィフリートは感慨深く溜息を吐き、クッションを手放した。
どんなに情けなくとも、自分は無事に初夜をやりすごせたのだ。無様な姿も、みっともない振る舞いも、全部全部ミハヤには見られてしまったわけだが、もうそんなことどうでもいい。明けない夜はない。ああ、朝のなんと素晴らしい事か。
「あの、陛下……?」
「なんだ」
若干ハイになっていたアルヴィフリートを、ミハヤは窺うような声色で現実に引き戻した。折角安堵しているところ悪いのだが、彼は自身の危機に全くといっていいほど気づいていない。
「別に、そんなに怯えずとも、もうなにもしませんよ。それより侍女たちが世話をしにやってきたんですけど、陛下どうされますか?」
「どうって……」
なにが、と返しかけて彼はようやく重大な事実に気がついた。
侍女――それは王族や貴族などに仕え、雑用や身の回りの世話をする女。そう、つまり“女”なのである。
今あの扉の向こうには、幾人かは分からないが、ミハヤ付きの侍女たちが主夫婦の起床を手伝おうと、控えているわけで――
「帰る」
「え、はい?」
くるりと踵を返したアルヴィフリートに、ミハヤは首を傾げて聞き返した。
「帰ると言ったんだ。こんないつ何が出てくるか分からない恐ろしい場所、一秒たりともいられるか」
「妻の寝室を化け物屋敷みたいに言わないでくださいよ。……それに、帰るって、一体どこから?」
寝室の入り口には当然侍女たちが控えているだろう。
アルヴィフリートは入り口とは正反対の方向へと歩いていき、「窓から」言って窓を開けひょいと身を乗り出した。
「ちょっ、何をやっているんですか! 危ないですよ」
真っ青になってミハヤは彼の服の裾を掴んだ。
「触るな! 放せ」
一方のアルヴィフリートは慌てふためき彼女の手を振り払おうともがき暴れる。
「放したら落ちちゃうじゃないですか」
「落ちた方がマシだ!」
「馬鹿ですか!?」
暴れる夫に負けじとミハヤも怒鳴り返し、ますます力を入れて服の裾を握り締めた。いくら彼の運動神経がよかったとしても、ここは二階。それも各階の天井が高く造られている為、実際には三階ほどの高さがあるのだ。寝巻き一つで、履物もスリッパのような簡素なものしか身に着けていない彼が、無傷で地面に辿り着けるとは到底思えなかった。
「危ないですってば!」
半ばパニックになりながら身をよじり逃れようとする夫の服を必死で掴むが、昨夜も思ったように複雑なつくりのくせに脱がしやすい――訂正。脱げやすいこの衣装。
「放せ! 放せえぇぇ!」
アルヴィフリートが暴れる度にどんどんとはだけていき、
「ミハヤ様?」
騒ぐ二人を不審に思った侍女たちが顔を覗かせ、それに反応してますますアルヴィフリートが身を乗り出そうとするので、ミハヤは「入ってきちゃダメー!!」今までにないほど声を張り上げたのだった。