03
潤んだ夜色の瞳がアルヴィフリートを見上げている。瞳と同じ漆黒の髪は白い輪郭を縁取り、彼女の色白な肌を一層際立たせる。
美人、というほどではないが愛嬌はある。幼く見えるが一応成人しており、二十七歳のアルヴィフリートより五つ下の二十二歳だという。身分的にも年齢的にも申し分のない、今日より自分の妻となった女、ミハヤ=サトウ。
異世界より召喚され、この国の危機を救った伝説の姫巫女でもある彼女にアルヴィフリートが思うことはただ一つ。
――キモチワルイ。
男を包み込むための柔らかく丸みを帯びた体も、ふっくらと艶めく赤い唇も、誘うような甘い匂いも甲高い声も、全て。目に入れた瞬間逃げ出したい衝動に駆られるほど、キモチワルイ。
妻の腰にそっとまわした左手は震えていた。照れや恥じらいからではない、恐怖心からだ。全身に脂汗が滲み、心臓が激しく警戒音を鳴らしていた。国民の前であるというのと、約束を守るという義務感からなんとか笑みを作り国民に手を振るが、内心極限状態にあった。
しかし、そんなアルヴィフリートを年下の新妻は奈落の底へと突き落とした。
細くたおやかな腕が彼の身体を引き寄せる。広場のざわめきが一層増し、薄紅色の妻の唇がそっと近づいてきた。
『さあ陛下、口づけを』
――その瞬間、妻の顔が別のものへと変わった。
「――っ!」
アルヴィフリートは声にならない声を上げてガバリと身を起こした。
弾む呼吸を整えながら周囲に目を配れば、絹でできた寝具と、天鵞絨の天蓋が視界に入る。アルヴィフリート以外には誰もいない。シンと静まり返った室内で、落ち着いた色合いで統一された家具たちだけが整然とこの部屋の主を見守っている。いつもの、見慣れた自身の寝室だった。
「ゆ、夢か……」
ふう、と息をついたとき、隣接する部屋から二人の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「陛下! なにかございましたか」
慌てて部屋に入ってきたのは国王付き侍従のエレンと、昼間のお披露目の時にも付き添っていた宰相クラウスだ。
「エレン、クラウス……」
「陛下、大丈夫ですか」
「あ、ああ。悪い夢を見ていたようだ」
言いながら、未だに悪夢の余韻が消えないのか、アルヴィフリートは乱暴に口元を拭った。嫌な夢だ。いや、口づけ事態は夢でなく現実なのだが、己の平静を保つためアルヴィフリートは記憶を抹消することに決めたらしい。
(私は大丈夫、私は大丈夫、私は大丈夫……)
「陛下……よく我慢なさいましたね」
ぶつぶつと自分に言い聞かせるよう繰り返す主に、エレンは水差しの水を杯に注ぎ手渡した。
「ああ、死ぬかと思ったがな」
杯を受取り、アルヴィフリートは苦い笑みを浮かべて水を口に含む。
「ご気分はいかがですか、陛下?」
今度はクラウスが聞いた。
「良くない。が、昼間に比べればマシだ」
「そうですか、それは良かった」
「なにがいいのです、クラウス様」
ほっと胸を撫で下ろしたクラウスに、しかし何故かエレンがすかさず噛み付いた。
「陛下はお倒れになったのですよ!? しかも、運ばれた後も酷くうなされ……。幼い頃から苦手としている“女”と結婚をさせられた挙句、長時間至近距離で過ごし、挙句の果てには公衆の面前で口づけを迫られたなんて……酷い、酷すぎる。拷問にも等しい経験をなされたのです。それをご気分がマシになられたからと『それは良かった』で済まそうとするだなんて……!」
この、薄情者! と罵られ、クラウスは米神に手を当てて憐れな青年を見やった。
「……あー、エレン。目覚めたばかりの陛下に、此度の恐怖体験を改めて述べるお前の方が、私はどうかと思うが?」
「――っ!」
ハッと主に視線を移せば、知らない間にダメージを受けたアルヴィフリートがまた寝台に身を沈めている。
「わー! 陛下、申し訳ありません!」
「私は大丈夫、私は大丈夫、私は大丈夫……」
「わ、私はただ、此度の結婚は間違いだったと申し上げたく――」
「うぅっ……!」
アルヴィフリートに百のダメージ!
「わーっ!」
「エレン、もういいから少し外に出ていなさい」
「ですがっ……」
クラウスの指示に、納得がいかず食い下がろうとするが、しかし現に自分は陛下にダメージしか与えていない。がっくりとうな垂れ、エレンは「……頭を冷やしてきます」ととぼとぼ退室したのだった。
「全く、困った子ですね」
「そういうな、あれはあれで私のことを色々と考えてくれているのだ」
クラウスが溜息を吐くと、アルヴィフリートは苦笑混じりにエレンのフォローをする。
侍従であると同時に幼い頃から乳兄弟としてともに育ってきたエレンは、アルヴィフリートにとって弟のようなもの。若く、まだまだ至らないところの多い彼をそれでもアルヴィフリートは可愛がり、侍従として傍に置く。
「……陛下がそのようだから、色々と誤解を生むのですがね」
「誤解?」
「いえ、なんでもありません。それより、陛下。貴方様もエレンと同じように此度の結婚をなかったことにしたいとお思いですか?」
「……突然何を言う」
唐突な問いかけにアルヴィフリートはいぶかしげに眉を寄せる。
「想定外だったとはいえ、国主として発言したことだ。巫女が私との結婚を望んだのならば、私はそれを叶えるのみ」
「――で、本音は?」
「後悔しているに決まっているだろう! 久々に女に触れたが、キモチワルイの一言だ!」
ガタガタと身を震わせる主に、クラウスは「はあ……」と頭を抱えた。
「初日からこれでは、この先が思いやられます」
「やかましい。お前も宰相ならばどうにかして巫女に触れず、近寄らず結婚生活が送れるかを考えろ」
「……残念ながら、そのような妙案私には到底思い浮かびません」
私の頭は政治仕様となっているのです。
「さて、陛下」
そこで、クラウスは一度言葉を切り改めてアルヴィフリートに向き直った。
「お目覚めになったばかりで申し訳ありませんが、そろそろお支度をしていただかなくてはなりません」
「支度? こんな時間に一体何の支度をしろというのだ?」
アルヴィフリートは眉を顰めて窓の外に目をやる。
明るかった昼間とは一転、外は既に薄暗く夜の気配がする。
強い倦怠感はないため、眠りに落ちて――正確には気絶して――からそれほど時間は経っていないのだろうと推測できた。挙式の日ぐらいのんびり過ごせと言っていたのは臣下達だったが、何か急な案件でも生じたのだろうか?
そこまで思い至り、アルヴィフリートはすぐに身を起こし執務室へ向かおうとする。
だが――
「どこへ行かれます。仕事熱心なのも結構ですが、陛下が今向かうべき場所は執務室以外にもあるではないですか?」
そちらではないとクラウスが手を挙げ制した。
「は?」
では、どこへ行けという。
きょとんとして見返せば、空色の瞳はにこりと細められ、その口元には笑みが浮かんでいる。
「あー本日、陛下はミハヤ様と婚姻を結ばれましたわけですが」
「……ああ、」
絶賛後悔中だがな! 不服に思いながらもとりあえず頷く。
「式を挙げたばかりの、いわば新婚でいらっしゃる二人が式を挙げた夜にすることといえば、何か思い浮かぶことはございませんか?」
「……何を言うつもりだ、クラウス」
嫌な予感がして一歩下がる。
心臓が早鐘を打ち、続く言葉がよからぬものだと五月蝿いくらいに報せていた。この感じ、ぞっと背筋が冷たくなる感覚を、遠くはない昔味わった気がする。
……ああ、そうだ。今日、巫女と一緒に国民の前に立ったときの感覚とひどく似ているのだ。
「新婚初夜でございます、陛下。すでに寝室にて奥方様がお待ちですよ」
その日、二人目の悪魔がそこにいた。