11
心の中をどす黒い感情が渦巻いている。
どうして私がこんな目に……憎い、憎い、憎い。
それはこちらに来た当初、最も強く彼女の心を支配した感情だった。
帰りたい。もとの世界に。私がいるべき場所に、家族のいる場所に戻りたい。
瞳を開く度、ミハヤはこの世界の中に故郷を探した。
空に浮かぶ太陽、オレンジ色に染まる夕焼け、波打つ広い海、生茂る木々から降り注ぐ緑の木漏れ日。
帰りたい、帰りたい。お母さん、お父さん。誰か、助けて――
「ああ、巫女様。よくぞ来て下さいました、よくぞ……」
けれど、時を経るにつれて、変わっていく感情があった。
涙を流し、ミハヤの手に縋りつく老婆。
神々の声を聞く為、国内の神殿を巡る途中、出会う人たち皆がミハヤの訪れを歓迎する。ミハヤを救世主と疑わない、その眼差し。ここに来てくれて、ありがとう。これで救われる、と人々は心の底から感謝し涙を流すのだ。
止めてくれと思った。
自分たちの国なのだから、自分たちでどうにかすればいい。
けれど、
「巫女様、巫女様、本当にありがとう。この国を救ってくれて、本当にありがとう……」
人々と対面するたび、心の中のなにかが解れていくのを感じる。
憎い、恨めしいと渦を巻いていた気持ちが、白い何かで覆われ浄化されていくのだ。
いつしか、ミハヤは自分から故郷を振り返ることを止めた。
それでもふとした瞬間に郷愁が胸を突いたが。
しかし、いつからかそれは故郷への固執から懐かしさへと変わり、人々の優しさに自分も何かを返したいと思うようになった。
やわらかに解けていく感情。
この世界の人達を救ってあげたい。
――だが、その一方、やはり心のどこかで「まだ許せない」と囁く声も確かに在るのだ。
許してはいけない、忘れては駄目。
彼らは“私”を殺したのだ。地球で“生きていた”私の“生”を奪ったのだ。
彼らのエゴを、決して許すことは出来ない。
白と黒とがせめぎあう。
苦しい。
みんなが慕ってくれる巫女の私は、本当はこんなにも汚く穢れているのです。
※※※
「王妃になってはいただけませんか? ミハヤ様」
青天の霹靂、とはまさしくこういうことを言うのだろうとミハヤは思った。
同じようなことはこの国に来て一番初めのときにも思ったが、しかしまさか二度目があるとは思っても見なかった。
「……ええと、貴方は?」
宵闇の神殿、祈りの間。
神殿巡りを終え、ようやく最初の地である深影の神殿に戻ってきたミハヤは、突然彼女を訪ねてきた身なりのいい男に首を傾げた。
白髪交じりの薄茶の髪に、人好きのする柔らかい笑み。どこかで見たことがあるような気がするが、それがどこだったのか上手く思い出せなかった。
「クラウス、と申します。ミハヤ様とお会いするのはこれで二度目となりますが、三年ぶりのことなので覚えてはいらっしゃらないでしょう。ちなみに、一度目は王宮で」
「王宮?」
「ええ、この国で宰相を勤めさせていただいております」
「さい……っ!?」
宰相?!
なんだってそんな人が、こんなところに。
言っては何だが、神殿など庶民が祈りを捧げに来るところであり、それこそ宰相の地位についているような人が来るような所ではない。お金があり、身分の高い人達は自分たちで独自の神殿を持っていたり、王宮内にも神に祈りを捧げる場というのが用意されているという。
宵闇の神殿は、距離で言えば王都からそれほど離れてはいないが、身分のある人達が訪れたことなど、見たことがなかった。
「神官長様! すごい人がいらっしゃったんですがっ」
「神官長には既に話を通してあります」
慌てて、神殿の主を呼びに行こうとするミハヤを止めて、クラウスは「どうぞ、おかまいなく」とにこりと笑った。
いや、そう言われても……。
こちらにきてまだ三年とはいえ、この国の各所を歩き回り、色々な人に触れ、これでもこの国の人達にとって地位や身分というものが元の世界に比べどれほど重要なものか理解しているつもりだ。
そも、宰相といえば総理大臣と同じではないか。こんなところで護衛もつけずフラフラしていていいものなのか。
けれど、当の本人は気にした様子もなく、近くにあった参拝客用の長椅子に腰掛けた。
「……」
「どうされました? いつまでもそのようなところにいらっしゃらず、どうぞお座り下さい」
「は、はあ……」
戸惑いながらも腰を下ろしたミハヤに、クラウスは柔らかく微笑んで自身の用件を告げた。
曰く、ミハヤが神殿巡りをし、神々に祈りを捧げてくれたおかげで、神の怒りは解け加護が戻ってきた。衰退へ歩み続けていた王国はなんとか踏みとどまり、今は復興の道に向かいつつある。ひいては、此度のミハヤの功績を称え、王直々に褒美を与えたがっている。どうか王宮に足を運んでもらえないだろうか、とのことである。
「それは、なんというか……光栄なお話ですね」
言うミハヤに、クラウスはついと片眉を上げる。
「お言葉のわりに、あまり嬉しそうではありませんね」
「そ、ですか……?」
指摘され、ミハヤは複雑な心持で顔を俯かせた。
褒美を与える? 強引に役目を押し付けておいてなにを言うのか。
「私、別にご褒美が欲しくて神殿を巡ったわけじゃありません」
不意に湧きあがる不快感に、ミハヤはそう口にしていた。
「私――」
ついで渦巻く感情を口にしようとするが、うまい言葉が見当たらない。
「とにかく、お引取りください」
踵を返しその場を去ろうとするミハヤに、クラウスがそっと問いかける。
「気分を害されましたか?」
「そういうわけじゃ……」
「申し訳ありませんでした」
別に、謝って欲しいわけじゃない。
こんなものは、ただの癇癪だ。
思い通りにいかず、駄々をこねる子供と同じ。
帰りたい、帰れない。
国中の人達が幸せになって、物語はめでたしめでたしので終わるはずなのに、自分だけが押し付けられた理不尽な現実にいまだ納得が出来ずにいる。
この国を知ってこの国の人を好きになって、助けてあげたい、なにか役に立ちたいと、確かに感じたはずなのに。
役目を終えた今、心を満たすのは最初の頃のあの感情だ。
いや、役目を終えたからこそ、尚更今後について考えてしまうのかもしれない。
巫女ではなくなり、ただ人となった自分はこれからどうなるのか。
褒美をくれるというのなら、私を故郷に返してよ。
私の人生を、返して。
「……」
黙してその場に立ち続けるミハヤに、クラウスは考え事でもするようについと視線を上へめぐらせ、そしてしばらく後また彼女の瞳へと焦点を合わせる。
「貴方を招き、この国を救ってくれと願ったのは私たちです。貴方が感じている憤りも、不満も――理解することはできませんが、想像するくらいならばできます。そして、それをさせているのは他でもない私たちだということも、存じております」
「え?」
言って、クラウスは立ち上がり深々と頭を下げる。
「ですが、その上で……無理を承知で、もう一つだけ我々の願いを聞いていただけませんか」
「願い?」
「勝手だとお怒りでしょう。ですが今貴方のご様子、ご葛藤を目にし、勝手ながら心を決めました。貴方しかいない。いや、貴方でなければならない。貴方様がこの国を少なからず愛し、そして最後まで巫女としてこの国を守り通してくださったことを見込んで、お頼みしたいことがあります。それを叶えていただけるのなら、私は私にできうる全てを貴方に捧げましょう」
――結局自分は本当に甘い人間なんだな、とミハヤは呆れ半分で思う。
もしくは、この国の人間が人の心に取り入ることが上手すぎるのだ。
ひしひしと伝わってくる痛切なまでの男の願いに、ミハヤは嫌だと首を横に振ることができないでいた。人々が彼女を巫女だ、聖女だなどと崇めるからいつのまにかすっかりその気になってしまったのかもしれない。
たっぷり数秒迷った後、長い溜息を落とし、ミハヤはクラウスに顔を上げるように告げた。
「とりあえず、お話しだけでもお聞きしましょう」
言うと、クラウスはパッと顔を上げ満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます、ミハヤ様」
「まだご依頼をお受けするとは言っていませんよ」
すかさず言うも、クラウスはそれでも嬉々とした表情を崩さずにコクンコクンと頷いた。
「ええ、ええ、充分ですとも。まずは聞いていただけるだけでも上々」
「……」
あまりに喜ばれ、やはり止めておけばよかったと早くも悔やむ。が、時間を巻き戻すことは不可能だ。
「それで、頼みたいことって?」
渋々先を促すと、クラウスは自身の足の上に両手を重ねて口を開いた。
「はい。王妃になってはいただけませんか? ミハヤ様」
「……はい?」
その一瞬、ミハヤは間抜けのように口を開いて固まった。
――私が、王妃?
「い、一体何の冗談です?」
ははは、と笑ってみせるがクラウスは「おや、冗談ではありませんよ」と同じく笑ってそれを一蹴してしまう。
「実は我が主であるアルヴィフリート陛下は幼い頃から大の女嫌いでいらっしゃいまして」
「……はあ」
寸の間、ふざけているのかとも思ったが、クラウスは至って真面目な様子で話を進めていくので、とりあえずミハヤは話半分に耳を傾けることにした。
「二十七という男盛りというのに、今の今までお妃の一人もいらっしゃらない。それが、私たち臣下の長年の悩みの種なのです」
……はあ。
「それで、私になにをしろと?」
まさか、王妃になって国王を襲えとでも言うのか。
訊ねると、クラウスは目を見開いて両手を振ってみせた。
「いやいやいや、そこまでは期待しておりません。ミハヤ様にはただ、陛下のお側にいていただきたいのです」
「側に?」
「ええ、私どもとしましては、少しでも陛下に女性に慣れていただき、一刻も早い世継ぎの誕生をと望んでいるのです。……が、あまりの女性嫌いのため、陛下は今まで妃はおろか側仕えですら女性を寄せ付けない徹底ぶり。その上、慣れるどころか、男色の気があるのではないかと噂までされる始末でして」
「ふうん……ちなみに、噂の真相は?」
「至って普通でいらっしゃいます。女性嫌いではありますが、男が好きなわけではありません」
あ、そう。
「ミハヤ様には王妃として陛下のお側にあり、徐々に女性に慣らしていっていただきたいのです」
「そ、それ……なにも私じゃなくても良いんじゃない?」
ごく当然の問いを返すと、クラウスは逆に何を言っているんだと切り返してくる。
「並の令嬢では、簡単に縁談を断られてしまいます。ミハヤ様におかれましては、先ほども申し上げたとおり陛下直々に王宮へいらっしゃるようお声がかかっておいでです」
「はあ。それとこれと、一体なんの繋がりが?」
「それが大有りなのですよ、ミハヤ様。おそらく、陛下はその場にてこうおっしゃるでしょう『此度のこと、心より感謝の意を表したい。ついては、巫女になにか褒美を与えたいと思う……巫女の望むものは何か。例えどのようなことであっても、私に可能な限りそれを叶えよう』、と」
クラウスは恐らく陛下とやらの口調を真似して言っているのだろうが、三年前に一度顔を合わせただけのミハヤにそれが似ているかどうかなど判ずることも出来ない。
その後、クラウスはミハヤに向かってパチリと片目を瞑ってみせる。
「そこで、ミハヤ様には是非ともそこでこう返していただきたいのです――」
『それでは陛下、私は貴方様との結婚を所望いたします』
――数日後、ミハヤはクラウスの言葉通り王宮に足を運び、男の言葉を一言一句違わず口にする陛下に対し、同じく一言一句違わずクラウスの言葉を口にしてみせたのだった。