10
それ以来、アルヴィフリートは執務の合間を見てはミハヤのもとへと訪れるようになった。
朝はともに食事をとり、昼は時折中庭でお茶を楽しむミハヤのところへと顔を出す。
「そなたの言う『家族』というものを、私は知らない」
アルヴィフリートは言った。
「父には決して他人に心を許さず、常に公正公平であれ、王に相応しい器となるのだと言われ続けてきた。――母であった人は、私を愛してくれたが、だが今思えばそれも跡継ぎとして見ていたからのようにも思う。異母兄弟たちは競争相手でしかなく、そなたの妹君のようにともに出掛けたり、笑い合うことなど終ぞなかった」
――家族とはなんだ?
ミハヤは『お互いを愛し、信頼し合える仲』のことを『家族』というのだと語った。
「信頼といえば、臣下たちとの仲のようなことを言うのか?」
「うーん、近いけれど少し違うかな」
彼女が『家族』について語るとき、いつも照れているような、それでいてどこか誇らしげな表情でそれを語る。
「『家族』とは、切れぬ絆だと私は考えています。時に喧嘩をし、反発しあうこともありますが。けれど最後にはやはり『家族』のもとへと帰るのです。風邪を引けばお互いを心配し、うれしいことがあれば分かち合う。悲しい時は慰めあい……『家族』というのは、そうした心の拠り所なのではないでしょうか」
何気ない言葉の中に溢れるのは親しみと、懐かしさと、そしてこの上ない愛情だ。
「……そのような家族になれると思うか?」
「さあ? どうでしょう」
何事も努力次第だと思いますよ。
言ってミハヤは苦笑を浮かべて肩を聳やかす。
その日も、いつものようにミハヤと夕食をともにし、部屋に戻ったアルヴィフリートは不意に身体が傾ぐのを感じ、壁に手をついた。
「陛下!?」
すかさず傍らに控えていたエレンが血相を変えて駆け寄ってくる。
「どうなさいました? 顔色が随分お悪いようですが……」
「大丈夫だ、エレン。心配ない――」
言いながら、しかし力が抜けていくのを感じる。
おそらく、連日連夜、女
ミハヤ
と接触したせいだろう。
彼の女性嫌いはもはや病気と同じ。女性が彼の側にいるだけで、彼の心は蝕まれ身体は異常を訴える。
それでも、ここ数日彼はミハヤの要求――彼女の家族となること――に応ようと、あえて時をともにしてきた。
興味が湧いたのだ。
彼女の語る『家族』に。
そして、己と『家族』になりたいという彼女に。
女性が苦手なのは相変わらずだったが、しかし彼女の言う『家族』にならばなれるような気がしたのだ。
だが、毒は日々確実に蓄積されてきた。
「――っ」
視界の内に現れたプラチナブロンドの女の幻影に、アルヴィフリートは無意識に首元に手を当て、爪を立てた。
――アルヴィフリート
次第に、幻聴まで聞こえ始め、呼吸が速くなる。
「くそっ」
息をしているのに、息苦しい。焦って更に呼吸が速く、そして浅くなる。
アルヴィフリートは苦しさを誤魔化すように更に己の首に爪を立てて引っかき、傷を作った。
「陛下!」
「大丈夫だ。心配するな、エレン。少し休めばすぐ良くなるだろう。もう今日は下がって良いぞ」
フラリと寝台に向かう主に、エレンはギュッと眉根を寄せた。
※※※
彼の中にある最初の“女性”についての記憶は、いがみ合っている後宮の女達の姿だった。
彼の父である先代の王はこの上ない女好きで、後宮に何百もの女達を囲い、先々代の時代から傾きつつあった自国の政の憂さを、それにより癒していた。
だが、女たちを囲うには金がかかる。
何百人といる妃達は莫大な額の国庫をあっという間に食いつぶし、王宮の外では重税に不満を持つ民達により反乱が発生した。また、後宮内でも後継争いが勃発。内でも外でも、血で血を洗う争いが繰り返されたのだった。
勿論、王の息子の一人であったアルヴィフリートも、後継争いの対象であった。
だが、幸か不幸か母親が権力欲のない女性であったため、表向き、妃達の諍いに巻き込まれていないように見えた。
しかし、彼は気づかなかっただけなのだ。
彼の知らぬ場所で彼の母親は他の妃達から想像もつかぬ嫌がらせを受けていた。十数人と王の子どもたちがいた中で、生まれた王子はたった四人。そのうち、一人は早くに流行り病でなくなり、他の王子たちも次々と原因不明の病で命を落としていった。
――その結果、後継者となることを望む、望まぬとに関わらず、アルヴィフリートは否応なく後継者争いに巻き込まれていった。
ある者は、彼ら親子に媚びを売り、ある者は彼ら親子に冷たくあたり、ある者は彼ら親子の死を望む。
母親は、それでも気丈にふるまい、アルヴィフリートに気づかせないよう優しい母親を演じ続けたが、しかし少しずつ何かが狂っていった。
「アルヴィフリート」
優しい声に呼ばれ、彼は振り返った。
王宮の渡り廊下。
王となるための講義を受け、部屋に戻ろうとしていた彼は、最愛の母の姿を目にし、喜んで母に駆け寄った。
当時、十歳にも満たない年頃であった彼は、まだまだ母が恋しかったのであろう。
「アルヴィフリート、今日は何のお勉強をしたの?」
駆け寄ってくる息子を抱き寄せ、彼女は優しくその頭を撫でる。ゆるくウェーブのかかった艶やかなプラチナブロンド、彼を見下ろす深い海色の瞳が、彼は大好きだった。
「母上、今日はご気分がよろしいのですか?」
「ええ、とても。そうだわ、アルヴィフリート。折角だからお庭を散歩しましょう。今日は少し暑いから、噴水を見に行きたいわ」
美しく微笑み、彼女は幼子のそっと手を引く。
「ねえ、アルヴィフリート?」
「なんですか、母上」
言って母の顔を見上げたアルヴィフリートは、ふと奇妙な違和感に捉われた。
「あなたは、私の愛しい子よ。ずっと一緒よ、ずっと、ずっと。ずっと一緒にいましょうね?」
おかしい、今まで母に恐怖など感じたことはないのに。どうしてこんなにも母を怖いと感じるのだろう。
ゾクリと背筋を這う何かに気づかない振りをして、彼は母の手を握り引かれるままに歩き続けた。
そして――
バシャン!
乱暴に水面に叩きつけられ、盛大な水しぶきが上がる。
「っ! 母上!?」
「アル、アルヴィフリート、大丈夫、大丈夫よ。なにも怖がることなどないの」
一瞬前まで彼の身体を愛おしそうに抱きしめていた彼女の腕は、いつのまにか彼の首に回され、驚くほどの力でそれを絞めていた。
アルヴィフリートは水に沈んだり浮かんだりを繰り返しながら、その合間に母の名を呼んだ。
「ははうえ、ははうえ! っ……げほ」
「大丈夫、なにも心配はいらないわ。私も、私もすぐに一緒にいくからね」
大丈夫、大丈夫よ。幼子に言い聞かせるように言う母親の声を聞きながら、徐々に霞んでいく視界に映ったのは、この世でなによりも恐ろしい“女”の顔だった。
その後、幸か不幸かアルヴィフリートは駆けつけた近衛たちによって一命を取り留める。
だが、目を覚ました彼が見たのは、真っ赤に染まる噴水の水と、そこに浮かぶ母だった人のこと切れた姿だった。
「――それが、陛下が『女嫌い』になった最初の理由です」
王妃の私室。
『夜分遅くにご夫人のお部屋をお訪ねするのは、大変失礼なことと存じておりますが、ですがどうしても聞いていただきたいことがあるのです』
そう言ってミハヤの部屋を訪れた少年は、悲痛な顔で主の過去を語り始めた。
「お母上を失った陛下はその後も後宮に残る妃達からの酷い嫌がらせを受け、その結果女性、特に女盛りの若い女たちを厭われるようになりました。そして今も、まだあの時のことを忘れられず苦しんでおいでなのです。それこそ、体調を崩し、倒れられるほどに」
そこでエレンは一度言葉をきり、正面に座すミハヤの顔を見つめた。
「ミハヤ様、私は今宵貴方にお願いがあってここに参りました」
「……お願い?」
「はい。ミハヤ様には、どうか陛下を解放していただきたいのです」
「え?」
解放?
遠まわしに言ってはいるが、つまりそれは「もう陛下に近づくな」と言うことだろうか。
ミハヤは寸の間目を瞬きエレンを見つめ返した。
近づくなと言われても、しかし、最初こそ酷くミハヤを拒んでいたアルヴィフリートだが、最近では彼の方から率先してミハヤの元を訪れるようになっている。
例えそれがミハヤの要望に応えようとしているからだとしても、嫌なら来るのを止めればいい。全ては彼の意思次第ではないのか?
けれどエレンは呆けるミハヤに構うことなく言葉を続けた。
「あの方が、貴方に罪悪感を持っていらっしゃるのはご存知でしょう?」
――え?
「自分の国を、異世界の人間である貴方に救ってもらった。陛下はそのことをいつまでも深く思い悩んでいらっしゃいます。貴方はそれを、いいように利用なさっているのでしょう」
「なにを言って……?」
「だから、私は反対だったのです。女性というだけで陛下のご負担になるのに、異世界の人間など得体の知れたものじゃない」
眉根を寄せるミハヤに、エレンは更に言い募る。見返した瞳は、いつのまにか嫌悪の色で満ちていた。
「民達に巫女だ聖女だと祀り上げられ、すっかり勘違いでもしましたか。国を救ったからといい気にでもなっているのですか? 陛下のお優しい心に付け入り振り回すのも大概にしていただきたいのです。王妃という何不自由のない地位につき、富も名誉も巫女という名声も全ては貴方の手の内、……もう充分に満足されたでしょう?」