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ツンデレ令嬢はモフモフの犬にしか本音が言えない。実はその犬は、私のことを嫌いな婚約者でした!?

作者: 滝里シエル
掲載日:2026/09/02

「グレン様っ」


 私が声をかけると、婚約者のグレン・ミューケルトは面倒くさそうに私を見る。


 今日は夜会にグレン様と参加していたが、姿が見えなくなって、探していたところだった。

 彼は主催者の娘である侯爵令嬢と、親密な様子で何か話していた。


「また、他のご令嬢と親しげにお話なさっていたのですか?」

 私が問い詰めると、まるでうんざりしたかのように大きく息を吐いた。


「エレノア、ただ挨拶をしていただけだろ」


「そ、それにしては、距離が近いのではありませんこと?」


「……俺を疑っているのか?」

 グレン様の冷ややかな視線がこちらに突き刺さる。


「そうは申しておりませんわ。……それとも、何か心当たりがおありですの?」


「……君とは話にならないな」


 彼はこちらを見ることなく身を翻し、この場から遠ざかっていく。


 私たちはいつもこう。顔を合わせれば、皮肉ばかり言い合っている。

 それは婚約が決まった二年前、十六歳の頃から変わっていない。


(どうして、いつもこうなっちゃうんですの……っ)

 彼の後ろ姿を見つめながら、唇を噛みしめる。



 私はグレン様に初めて会った時から、惹かれていた。

 彼の金色に輝く髪も、エメラルドのような澄んだ瞳も、その落ち着いた話し方も、全て一瞬で私の心を捉えた。


(でも、グレン様は私のことが嫌いなんですわ……)


 彼から注がれる視線や言葉は、いつも冷たい。だから、私も素直になれずに憎まれ口ばかり叩いてしまう。

 私だって、他のご令嬢たちのように笑いかけてもらいたいのに。



「エレノア様っ」

 一人残されてポツンと立っていると、声をかけられる。


「セリーナ様!」

 彼女は王立魔術研究所に勤めている伯爵令嬢で、魔術や薬学を研究している。

 少々変わり者で有名だが、裏表もなく、とても付き合いやすい。


「あらあら、ミューケルト様はまた行ってしまったの? エレノア様はまた余計なことを言ったのかしら?」

 セリーナ様の容赦ない言葉が、胸に突き刺さる。


「うっ、セリーナ様……」

「ふふっ、図星?」

 彼女は私の思いも、素直になれないことも知っている。


「他の令嬢とは話さないで、って可愛くお願いすれば、ミューケルト様も聞いてくれるのではなくて?」


「なっ……? 可愛くお願い……!? そ、そん……そんな恥ずかしいことできるわけありませんわ! ……それに、彼は、私を嫌っているのですよ……」


 自分で言って、ズキッと胸が痛む。そう、どんなにお願いしようとも、私のことなど端から眼中にないのだ。


「ふっ、ふっ、ふっ。そんな迷える子羊ちゃんの為に、これを持ってきましたわ!」


 セリーナ様は突然どこからか小瓶を取り出し、目の前に差し出す。中には透明な液体が入っていた。


「これは、なんですの?」


「これは、“相手の気持ちがわかる薬”ですわ!」


「相手の気持ちがわかる……?」


「そう! これを飲ませれば、彼が思いの丈を吐露するのですわよ。どう? 気にならない?」


(グレン様が思いの丈を吐露……。それってつまり……)


「い、嫌ですわ。本人から、嫌いだなんて……、聞きたくありませんわっ」

 私は慌てて顔を横に思いっきり振る。


 彼が“嫌いだ”と私に言う姿が容易に想像できて、涙が出そうになった。


「……はぁ、何で嫌いが前提なのかしら……」

 セリーナ様が呆れたようにボソッと呟く。


「じゃあ、エレノア様、これはいらないんですね? 本当に本心を聞かなくてもいいんですね?」

 セリーナ様に念を押されると、心が揺れる。


(……怖い、でも、気になる……。彼は本当に私のことが嫌いですの……? それとも、……少しでも……気になってくれていますの……?)

 

 不安と期待で、胸がドキドキと高鳴る。


(……よし、決めましたわ……っ)


 私は覚悟を決め、震える手で小瓶を受け取った。


 

◇ ◇ ◇


 本日はグレン様と、我が家のガーデンテラスで定例のお茶会をしている。

 向かいに座るグレン様は、先ほどから少しも表情を崩すことはない。


(本当に、つまらなそう……ですわね……)

 私は痛む胸を押さえ、小さく息を吐いた。

 

 セリーナ様からいただいた例の薬は、しっかりとグレン様のカップへ入れてある。

 そんなこととは気づかない彼は、カップに口を付けた。


 私は彼の様子を窺っていたが、特に変化は見られない。

(……あれ? 何も話しませんわ……)

 

「……あの、何か、私におっしゃりたいことはありませんか?」


「……は?」

 グレン様が怪訝そうな視線をこちらに向ける。


 セリーナ様は、思いの丈を吐露するって言っていたはずだが、彼は一向に何か言うような気配は見せなかった。


 彼は黙って紅茶を飲み干し、時間が来るといつも通り帰っていった。


 

「おかしいですわね、失敗したのかしら?」

 セリーナ様の薬でも、失敗することもあるのか。


 ふと窓の外を覗くと、庭園に見慣れない物体を発見した。

 日差しを浴びて、毛並みが金色に輝いているモフモフの――。


「え? 犬!?」


 どこからか庭園に迷い込んでしまったらしい。

 私は慌てて、犬の元へ急いだ。


  

 犬は花壇の隙間で、丸くなっていた。 


「ワンちゃん?」

 私が声をかけると、犬は驚いたように身体を震わせる。

 犬は大型で、耳は垂れ、長い毛並みをしていた。


「あ……、大丈夫よ、怖くないですわ」


 私は警戒しているその子を怖がらせないように、優しく声をかけた。

 犬は逃げずにじっとその場を動かず、こちらを窺っている。


 手を出してみるが、おとなしくしていたので、私は首の下をそっと撫でた。

 一瞬、ビクッと身体を震わせたが、特に嫌がる素振りはしなかった。


「……ふふっ、いい子ね……。どこから来たの? って聞いても分からないですわよね……」


 金色に近い薄茶色の毛並はとても綺麗で、手入れされているように見える。


「飼い犬のようですけれど……」

 首輪もないし、飼い主が分かるものは何も見当たらない。


 私はとりあえず、部屋に連れて行くことにした。




 犬を誰にも見つからないように、こっそりと部屋に入れる。


 実は私は犬が大好きなのだが、母が苦手なために家では飼うことができなかった。


 部屋に入るとワンちゃんは、戸惑ったように室内を見回している。


「ふふっ、可愛いですわ〜。あ、喉が渇いてるかもしれませんわね? ワンちゃん、ちょっと待っててね!」


 私は調理場へ行き、お皿にお水を入れて部屋に戻った。ワンちゃんの前の床に置くが、首を振って飲もうとしなかった。


「あれ? 喉は渇いてないですの?」


 ワンちゃんはさっきからソワソワと、落ち着きのない様子だ。

(どうしたらいいのかしら?)


 犬を飼ったことのない私には、どう接したらいいのか分からない。

 お父様が帰ってきたら、早く飼い主探しをお願いしたほうがいいだろう。


(飼い主が心配しているかもしれないわ。だけど、今だけは、まだ私が相手をしてもいいですわよね)


 実は私は、一度やってみたかったことがあった。

 深呼吸して、はやる気持ちを落ち着かせる。



「えっと、ワンちゃん、おすわりできる? おすわり!」

 私はワンちゃんに号令をかける。


 ワンちゃんの緑色の瞳がまっすぐこちらを見て、ふっと逸らされる。


 やっぱり私の言うことは聞かないのか、と思った瞬間――、スッと座った。


「わぁ、ワンちゃん、凄い! いい子ね!」


 私は嬉しくて、ワンちゃんの頭を撫で回す。ワンちゃんの表情もどことなく嬉しそうだった。


 気をよくした私は、座っているワンちゃんの前に手のひらを差し出す。


「じゃあ、今度はお手ですわよ? お手!」

 

 ワンちゃんはしばらく私の手を見つめていたが、ゆっくりと手を載せた。

 ぽんと手のひらに、少し硬いワンちゃんの肉球が当たる。


「わ、わ、いい子ですわ! なんていい子なんでしょう! ふふっ、可愛い〜っ!」


 再びモフモフの頭を撫で回すと、後ろに投げ出された尻尾がブンブンと揺れていた。


「そうですわ! 今度はブラッシングしましょうね!」


 私はドレッサーから自分のブラシを持ってきた。

 ブラシを通すとふわふわとした金色の毛が、一層輝き始める。


「本当、綺麗な毛並みですわね。ちゃんと手入れされてますのね」


 こんなにおとなしくて、しつけされている。どこかの貴族の飼い犬で間違いないだろう。


 私が優しく背中をブラッシングをしていると、ワンちゃんは澄んだ瞳でまっすぐに私を見つめていた。


「どう? 気持ちいい?」

 

 綺麗な金色で、澄んだ緑の瞳……。ワンちゃんを見つめていたら、ふと、グレン様を思い出した。


 彼も、金髪で綺麗な緑色の瞳をしている。だけど、私を見つめる視線はいつも冷たい。眉間に皺を寄せ、表情はいつも険しかった。


 さっきも上手く話せなかった。彼の視線が怖くて、私はいつも思ってもいないことを言ってしまう。

 ……本当はグレン様と、笑い合いたいのに。


 ワンちゃんがうっとりした表情を見せたので、私は微笑む。


 しばらくブラッシングをしていた私は、ワンちゃんに愚痴をこぼし始める。


「私の婚約者も、ワンちゃんみたいに金色の髪に、緑色の瞳なんですわよ。でも、私のことなんて見てくれないのですわ。……目が合っても、いつも冷たく睨まれてしまって……」


 そう言うとワンちゃんの身体が、ビクッと震えた。


「ん? どうしたの?」


 ワンちゃんは慌てたように、首を振った。

 私は優しくブラッシングを再開する。


「それなのに、他の令嬢には微笑みかけているのですわよ! 信じられます? 私には笑ってもくれないのに!」

「――キャン!」


 突然ワンちゃんが小さく悲鳴を上げる。

 ブラシを持つ手に力が入り、ブラシで毛を引っ張ってしまったようだ。


「あ、わ、ごめんね、ワンちゃん! 大丈夫?」

 引っ張ってしまった箇所を慌ててさする。



「……でもね、ワンちゃん。……本当は、分かっているのですわ、……私が原因なことくらい。私が素直じゃなくて、可愛げがないから、グレン様が愛想つかすのも当然なのですわ……」


 自分の言葉が胸を突き刺す。


 本当は一緒にいたい。一緒に笑い合いたい。他の令嬢になんて、笑いかけないでほしいのに。


「本当は他の令嬢たちみたいに、甘えてみたいのに、そんな恥ずかしいことできなくて……」


 グレン様を前にすると、言いたいことが何も言えなくなってしまう。


「……ねぇ、ワンちゃん。今からでも、間に合うのかしら? 私が素直に……『好き』と伝えたら、グレン様は私を見てくれる? 私を好きに……なってくれると思う……?」


(もう……遅い……? 私の言葉なんて、信じてくれないかもしれないわ……)


 グレン様の冷ややかな顔を思い出して、涙が滲む。



「わ、私ったら、ワンちゃんに何を話してるのかしらね! ごめんね、ブラッシングの続きを――」


 その時、ワンちゃんの顔が近づき、ペロッと私の頬を舐めた。


「え? ワンちゃん!?」


 私は驚いて声を上げるが、私の涙を拭うようにペロペロと顔を舐めている。

 

(私が泣いていたから、慰めてくれたの?)


「ふふっ、く、くすぐったいですわよ〜。でも、ありがとう」


 私はぎゅっとワンちゃんを抱きしめて、モフモフに顔をうずめた。


「ワンちゃん……、あったかい……」

 その温もりに癒される。


 ――すると、突然、ワンちゃんの身体が白く光り始める。


(……え?)


 私は何が起こっているのか分からず、その状況を見つめていると、光の中からよく知る人物が現れた。


 それは――。


「ぐ、グレン様!?」

 

 さっきまで、ワンちゃんだったはずなのに、グレン様の姿に変わっている。


「グレン様、ど、どうしてここに!? 今、犬の姿で!? ま、まさか、そのような趣味がおありで!?」


 私がパニックになっていると、グレン様も真っ赤な顔で慌てふためいている。


「いや、違う! 趣味って、そんなわけあるか! お、俺は、気づいたらあの姿になっていたんだ!」


「え? 気づいたら……?」


 グレン様の言葉を聞いて、心当たりが一つあった。

 それは、“相手の気持ちがわかる薬”だ。あれしかない。


(あれは気持ちを吐露する薬じゃないんですの? もしかして、犬に変身する薬だったの……?)


 しかし、私はそれ以上に、とんでもないことを思い出した。


 それは、犬の姿のグレン様に、自分の気持ちを喋ってしまったことだ。

 今更ながら全身の熱が上がって、今にも倒れそうになる。


(ど、ど、どうしましょう……っ。グレン様に気持ちを喋ってしまいましたわっ)


 彼を見られなくて、顔を上げることができない。



「……エレノア」


 グレン様が低い声で、私の名前を呼んだ。私は思わず、ビクッと身体を震わせる。


「……さっき言ったことは……、本当か?」


 そう確認されて、私は思わず顔を横に振った。


「ち、違いますわ……、あれは、本当に違うんですの!」


「……本当に? そんなに真っ赤な顔で?」


 グレン様に指摘され、両手で頬を押さえた。たしかに、燃えるように熱い。


「ほ、ほんと……に……っ、私……っ」


 いたたまれなくて、早くこの場から逃げ出したい。

 恥ずかしすぎて、まだ涙が滲んでくる。

 


 でも、それじゃ、いつもと変わらない。ワンちゃんには言えても、当の本人には素直になれないなんて。 


(……怖い。だけど、……少しでも、変わりたいの……)


 震える手を握って、息を吸う。そして、私は半ばやけくそ気味に、グレン様に言い放った。


「そ、そうですわ! さっき言ったことは本当ですわよ! 私はグレン様に初めてお会いした時から、ずっとお慕いしてましたわ! でも、でも、分かってますわよ、あなたが私のことを嫌いってことは――っ」


 その瞬間、私は腕を引かれ、彼の胸に抱き寄せられた。

 ぎゅっときつく、背中に腕が回される。


「グレン様!?」


「俺もだ。俺も、初めて会った時から、君が好きだったんだ……っ」


 耳元に、グレン様からは聞いたことのないような、熱の籠もった声が聞こえる。


 私を好きだなんて、信じられない。都合の良い夢を見ているかのようだ。


「……そんな、嘘ですわ……。……いつも、私には冷たかったのに」 


「俺だって、ずっと君に嫌われていると思って、何も言えなかったんだ」


(……それって、私と同じ……? 二人して、勘違いをしていたってことですの……?)


 驚きと安堵で胸がいっぱいになり、嬉し涙が溢れる。


「……そうだったんですね……。……似た者同士ですね、私たち」

 思わず笑みがこぼれた。


 そっとグレン様の顔が近づき、頬に唇が触れる。


「へ!? ちょ、ちょっと!? いったい何をなさるの!?」


 びっくりして後ろへ仰け反るが、彼の手は私を離さない。


「何って、さっきみたいに、涙を拭いてあげただけだが?」

 私が焦っている前で、グレン様は悪ぶれずに答える。

 

「さっきって、あれはワンちゃんですし!」 

 

「エレノア。君はあんなに近づいて、俺を触りまくっていたというのに。犬の時と態度が違うんじゃないか?」


「え? それは犬だと思っていたから、当たり前ですわ!」


 離れようと抵抗するが、グレン様の長い指が私の頬に触れた。


「じゃあ、今度は、俺が君を思いっきり可愛がってあげるから、……覚悟して?」


 そう言って笑うグレン様の瞳は、私の姿を映している。

 ずっと、そうやって笑いかけてほしかった。……だけど。


(私はこれから、どうなっちゃうんですのー!?)


 いたずらっぽく微笑む、グレン様の顔が近づいてくる。


「エレノア、好きだよ」


 そう囁かれ、顎を上げられた私は、その愛を受け入れるしかなかった。



 ――後日、セリーナ様から届いた手紙には、こう書かれていた。


『どう? うまくいったかしら? 私はエレノア様たちをずっと応援してますわ。追伸――薬、間違えちゃった〜、ごめ〜ん☆』


(……面白がっているわけじゃないですわよね? セリーナ様……)



◇ ◇ ◇


【番外編】モフモフside


「はぁ」

 エレノアとの定例の茶会を終えて、俺は子爵邸の庭園を歩きながら溜息をついた。


『……あの、何か、私におっしゃりたいことはありませんか?』


 珍しくエレノアが普通に話しかけてくれたというのに、急なことでテンパってしまい、上手く返せなかった。


「……何で俺はいつもこう……、上手く言えないんだ」


 毎度のことながら、自己嫌悪に陥る。

 次こそはしっかりと気の利いたセリフを言えるように、考えておこうと心に決めた。



 二年前、初めての顔合わせで、俺はエレノアに一目惚れした。しかし、彼女が俺を見る目はどこか冷たくて、俺は言葉を呑み込んだ。


 彼女は動物が好きなのだろうか。

 街に出掛けた時、犬を見て笑顔になった彼女から、目が離せなかった。


(もし俺が犬だったら、あんな風に笑いかけてくれるんだろうか……)


 なんて、馬鹿げたことを考えて自嘲した、その時――。


 突然、俺は白い光に包まれる。視線が低くなり、全身は金色の毛で覆われていた。


 自分の腕をまじまじと見つめる。手のひらには黒い肉球が……。


(……この手って、まさか……犬じゃ……? さっき俺が犬だったらなんて考えたから、犬になってしまったのか……?)


 俺は愕然とする。しかし、ここにいるのはまずいと思い、人に見つからないように花壇の間に身を隠した。

(これから、俺はどうすれば……?)



「ワンちゃん?」


 後ろから声を掛けられ、恐怖で身体が震える。


「あ……、大丈夫よ、怖くないですわ」


(エレノア……!?)


 一番見られたくなかった、だけど、一番会いたかった人だ。

 彼女は恐る恐る俺の首元を撫でる。


「……ふふっ、いい子ね……。どこから来たの? って聞いても分からないですわよね……」


 エレノアは俺に向かって優しく微笑む。


(……そうだ。俺は、この笑顔が見たかったんだ……)



 そして、俺はエレノアの部屋に連れて来られた。


(ま、待て。エレノアの部屋だと!? この香りは……っ)


 犬の嗅覚になった俺は、目一杯にエレノアの香りを感じて、クラクラしそうになる。


 まるで、エレノアの髪に触れて、その綺麗な髪に顔をうずめたかのような――。

 と、理性が飛びかけて、慌てて首を振り気を引き締める。


(……平常心、……平常心……)


 

 エレノアは水の入った皿を置いた後、俺の前に座ってこちらを覗き込む。

「えっと、ワンちゃん、おすわりできる? おすわり!」


(……は?)


 俺は思考が停止した。たしかに、犬は命令に従っている。

 やらないといけないのか。犬だったら、やるべきなのか。考えを巡らせる。


 ちらっとエレノアを見ると、彼女は期待するような純粋な瞳で、こちらを見つめていた。


(…………。仕方がない)

 スッと俺はその場に腰を下ろす。


「わぁ、ワンちゃん、凄い! いい子ね!」


 嬉しそうに笑うエレノアは、俺の頭を撫で回した。

 ちょっと、くすぐったいが、悪い気はしない。


「じゃあ、今度はお手ですわよ? お手!」


 俺は彼女の白く細い手のひらに、自分の手を乗せた。


「わ、わ、いい子ですわ! なんていい子なんでしょう! ふふっ、可愛い〜っ!」


 こんなことで、彼女がこんなにも喜んでくれるなんて、犬が羨ましくなった。


(フッ……、犬に嫉妬してるのか……? 俺は……)


 苦笑しながら、俺は笑顔の彼女を見つめていた。


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