第25話
急使が来たのは、二月の冷えた朝だった。
エリナが執務室で書類を整理していると、フィンが険しい顔で入ってきた。
「閣下、ヴァロア王国から外交急使が届きました」
アレクがペンを置いた。使者が通され、文書が手渡された。アレクは立ったまま読んだ。エリナは手元の書類を持ったまま、その場で待った。
アレクが読み終えて文書を机に置いた。
「ヴァロアが調停を求めてきた」
端的に言ってから、エリナに向かった。
「隣接するタル小国との国境紛争が激化している。農地と水源の帰属問題が発端で、すでに小規模な衝突も起きているらしい。それに加えて、ヴァロアの外交的孤立が進んでおり、経済制裁に近い状態になりつつある。ランドールに調停役を求めてきた」
エリナはその言葉を聞きながら、胸の中に何かが引っかかるのを感じた。
ヴァロア。
意識していなかったつもりが、その名を聞いた瞬間に、身体の奥で何かが動いた。
「詳しい状況を分析する必要がある。フィン、地図と関連文書を出してくれ」
アレクが指示を出しながら、ふとエリナを見た。
エリナは書類を持ったまま、少し固まっていた。
「エリナ」
アレクが静かに呼んだ。
「行かなくていい」
エリナは顔を上げた。
「ヴァロアには、私が行く。お前は王都に残れ」
アレクの声は事務的だったが、その言葉の意味はわかった。気遣いだった。ヴァロアがエリナにとってどういう場所かを、考えた上での言葉だった。
エリナは少しの間、考えた。
逃げてもいい、という選択肢は確かにあった。
あの国に戻る必要はない。調停はアレクとフィンだけでもできる。エリナがいなくても、仕事は回る。
でも。
「行きます」
エリナははっきりと言った。
「あの国のことを一番知っているのは私です。宮廷の構造も、貴族たちの関係も、ヴァロアとタルの間の歴史的な経緯も。それはどんな資料よりも、実際にあの場所にいた人間の知識に勝ります」
「それはそうだが」
「感情的になるとおっしゃるなら、それは否定しません。怖くないとも言いません。でも怖いからという理由で役に立てることを断るのは、私には向いていない」
アレクがエリナを見た。
長い沈黙があった。
エリナも視線を外さなかった。この人と目を合わせて話せるようになったのは、いつごろからだろう、とどこかで思いながら。
「……わかった」
アレクが短く言った。
「では、一緒に行く」
フィンが地図を広げながら、ちらりとこちらを見た。ほっとしたような顔だった。
出発は一週間後に決まった。
その間、エリナはヴァロア関連の資料を可能な限り集めた。タルとの国境紛争の経緯。経済制裁に至った外交上の失策。宮廷内の派閥の動き。クロードの現在の立場。王妃ソフィアの影響力の変化。
読みながら、少しずつ実感が戻ってきた。
ヴァロアは、遠い場所ではない。ついこの前まで自分がいた場所だ。それでも今は、別の国の話として資料を読んでいる。その感覚が、少し奇妙だった。
三日目の夜、執務室でアレクと二人になった。
「準備はどうか」
「おそらく問題ありません。ただ一つ確認したいことがあります」
「何だ」
「調停に入る場合、私はランドール側の一員として動く、ということでよいですか。ヴォルフォード家の娘として、あるいはヴァロアと縁のある人間として扱われることは、調停の公正性を損なう可能性があります」
アレクが少し目を細めた。
「当然だ。お前はランドールの婚約者として、ランドールの利益を代表する立場で動く」
「わかりました」
それを聞いて、何かがすとんと落ちた。
私はランドールの人間だ。ヴァロアに帰るのではなく、ランドールの立場でヴァロアに行く。
その違いは、思ったより大きかった。
出発前夜、エリナは自室で荷物を確認した。
このランドールでの旅支度は、あのヴォルフォード邸を発った日とは違った。あのときは何もわからないまま、恐る恐る荷物を選んだ。今夜は迷わなかった。何が必要で、何が必要でないか、すでにわかっていた。
資料を何冊かと、筆記道具。交渉に使えそうな参考文書。あとは身の回りのものだけ。荷物はまたあのころより少なかった。
窓の外は冬の星空だった。
ヴァロアの夜空も、きっと同じ星が出ているだろう。でも見る場所が変われば、空も少し違って見える。
エリナは荷物を閉め、机の前に少しだけ座った。
ヴァロアへ戻ることが怖くないかといえば、嘘になる。あの場所には、まだ残っているものがある。記憶も、顔見知りも、過去の自分の影も。それと向き合わなければならない瞬間が、きっと来る。
でも今の自分には、アレクがいる。
その一事実が、思った以上に大きかった。一人で乗り込むのではない。ランドールの人間として、あの国に行く。それだけで、足が地についている感じがした。
エリナは明かりを消した。
明日から、また始まる。




