第23話
フィンに呼び止められたのは、舞踏会から三日後の昼過ぎのことだった。
廊下でエリナが書庫から資料を持って戻るところで、フィンが「少しよろしいですか」と声をかけてきた。いつもは屈託なく話しかけてくるフィンにしては、少し改まった様子だった。
「庭でもいいですか。少し長い話になるかもしれないので」
エリナは頷いた。
冬の庭は人気がなかった。
噴水は止まっており、草花も枯れて細くなっていた。しかし空気は澄んでいて、遠くの山並みがはっきり見えた。二人は石のベンチに並んで座った。
フィンはしばらく前を向いていた。どこから話そうか迷っているようだった。
「エリナ様、閣下の執務室に入るとき、扉をどうされていますか」
唐突な問いだった。エリナは少し考えた。
「開けたまま入っています。閣下が開けておくので」
「そうですね」
フィンが頷いた。
「それが、ずっと普通だと思っていましたか」
「……そうでないんですか」
フィンが少しの間、空を見た。
「ジュリア様が亡くなってから、閣下はあの部屋に誰も入れなかったんです」
エリナは静かに聞いた。
「ジュリア様のご病気がわかってから、お二人はよく執務室で過ごされていました。ジュリア様が窓辺で読書をして、閣下が仕事をして。あの部屋には、お二人の時間がたくさん詰まっていたんだと思います」
フィンの声は穏やかだったが、何かを大切に扱うような慎重さがあった。
「ジュリア様が亡くなってから、閣下は執務室の扉を内側から閉めるようになりました。私も、もう長年の付き合いですが、ノックをして返事がなければ入れなかった。それは閣下の、あの部屋を守る方法だったんだと思います」
「それが……」
「エリナ様が来てから、扉が開いたままになりました」
エリナは少し息を止めた。
「最初は気づかなかったんです。当たり前のように開いていたから。でもある日、あ、と思って。閣下があの扉を開けたままにしているのは、エリナ様が入れるようにしているからだと」
フィンが膝の上で手を組んだ。
「閣下にとって、それがどれほど大きなことか。たぶん閣下自身も、気づいていないかもしれません。でも私は、長い間閣下を見てきたので」
フィンは少し間を置いた。
「エリナ様に知っておいてほしかった。閣下は口では何も言わないけど、扉を開けているということが、閣下なりの言葉なんだと思うので」
エリナは庭を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。
頭の中で、記憶を遡った。
最初に執務室に入った日。扉は開いていた。それから毎朝、扉は開いていた。エリナが入るたびに、アレクは顔を上げて短く頷いた。エリナが遅くまで残っている夜も、扉は開いたままだった。
それが当たり前だと思っていた。
でも当たり前ではなかった。
「……知らなかったです」
エリナはやっと言った。
「はい。閣下は言わないので」
「どうして今、私に」
フィンが少し笑った。
「舞踏会のとき、お二人を見ていて、そろそろ言ってもいい頃かなと思いまして。閣下が自分で言うとは思えないので、代わりに」
エリナはフィンを見た。この人はいつも、少し先を見ている。おどけた顔の裏で、ちゃんと見ている。
「ありがとうございます、フィンさん」
「いえ。ただ、あの人は大切な人を失って、長い間一人でいたので」
フィンの声が、少しだけ真剣になった。
「エリナ様がそばにいてくれることが、私にはとても、安心なんです」
その夜、エリナは夕食の後しばらく自室にいた。
フィンの話を、何度も頭の中で繰り返した。扉を開けたままにしている。それがアレクなりの言葉。
一つひとつ、思い返した。
仕事で行き詰まったとき、アレクが何も言わずに椅子を少し動かして資料を見やすくしてくれたこと。視察の帰りの馬車で、眠ってしまったエリナをそっとそのままにしていてくれたこと。市場の帰り道で歩幅を合わせてくれていたこと。深夜の執務室でジュリアのことを話してくれた夜。
全部が、声ではなかった。
でも全部、エリナに向いていた。
エリナは立ち上がった。
廊下に出ると、執務棟の方向に明かりが見えた。まだ仕事をしているのだろう。この人はいつもそうだ。
足音を立てないように歩いた。執務室の前に来ると、扉が少し開いていた。
灯りが漏れていた。ペンの音がした。
エリナは扉をそっとノックした。
音が止まった。
「はい」
「……少し、そばにいてもいいですか」
沈黙があった。
二秒か、三秒か。
椅子を引く音がした。
エリナが扉を開けると、アレクの机の隣に、もう一脚の椅子が引かれていた。
アレクは何も言わなかった。ただペンを持ち直して、書類に視線を戻した。
エリナは静かに入り、その椅子に座った。
手元に持ってきた本を開いた。ランプの光が二人の手元を照らした。
扉は、開いたままだった。




